そういえばホームカミングや一作目のデッドプールでパロられていたなーというのを「フェリスはある朝突然に」を観ていて思ったのですが、ホームカミングは青春というか学生モノ映画として、デッドプールは第四の壁を壊す繋がりでってことなんでしょうかね。
ここ数年というか去年今年あたりから、どことなくジョン・ヒューズ作品を意識したものが多い気がする。それがどの作品とかだからどうとか書くつもりはまったくないんですけれど。
大人vs子供を面白おかしく描きつつ、モラトリアムを生きる少年を描いているのだけれど、面白いのは成長(大人の匂い)を物語的にはほとんど提示していないところなんですよね。
結婚をするという話にしたって、あれは大人になることというよりはむしろ子どもの妄言に半ば近く、そしてそれを本気で成そうとしている無謀さとそれでも「フェリスならばどうにかやりきってしまいそうだ」という青春期特有の有り余るエネルギーがこの映画を埋め尽くしている。
そこに対置されるようにあるキャメロンやジーニーら陰キャ的キャラクターすらも、フェリスに当てられていく。その絶対的な陽なエネルギー。馬鹿さと言ってもいい、それは、しかしどちらかというと今は(も)キャメロン寄りな自分からすると、キャメロン以上に陰っている今の自分からすると、そのバカさっぷりは羨ましくもありノスタルジックでもあり、何より疎ましいものであったりもするのだ。
ぶっちゃけ、あそこまでカリカチュアされていないにしても高校時代の自分もフェリス的な部分はありましたから、だからこそ余計にその陽気さ(決して無神経なわけではないというのがまた腹立たしい)に滅殺されてしまいそうになる自分がいる。
しかし、本来ならばフェリスに激おこプンプン丸なわたしは、しかし同時に彼に対して物悲しさを覚えてもいた。この映画は、そういう少し奇妙なバランスで成立しているのではないかと思うのです。
仮病=欺瞞・幼稚さに満ちたベッドからはじまり欺瞞に満ちたベッドに戻ってきて終わる。結局のところ、フェリスは大人への階段を上ったりなどはしない。彼にとって劇中での一日はそれまでの8日の仮病休暇と相違ないのだろう。何一つ、彼は成長しない。成長などしなくとも、うまく回ってしまうように世界があるのだ。フェリスの陽のエネルギーによるジーニーの成長すらも、結局のところは彼の成長を阻害するように働いてしまう。それはラスト近くで、ジーニーによってルーニー校長から守ってもらわれてしまうことからも明白だし、フェリスの働きかけによるキャメロンの行動にしたって、車のくだりからもわかるようにフェリスが反省しようとするとキャメロンの成長=父親への対峙の意思がそれを阻害する。
それは物語の間何一つフェリスへの対応が変わることのない良心も動揺だし、絆されてしまうスローンも同様だろう。
そう考えると、彼はむしろ悲しい存在なのかもしれない。
頭脳は子どものまま体は大人へと成長していく無常観。それを体現するのがマシュー・ブロデリックの顔と足だ。彼の顔にはうっすらとヒゲが生え始めているしすねにもうっすら毛が生えている。それがジョン・ヒューズの意図したところなのかはわからないけれど、自分が以前より考えていた大人/子どもの表現としての体毛の存在を見せつけてくれたような気がする。特にすね毛は、フェティシズム以上に実はメタファーとして機能しうると思うのですが、知ってか知らずかジョン・ヒューズはマシューの濡れ場を作ることで見せ付けてくれる。
特に顔は、やはりそのうすい髭が大人への成長をし始めていることを示している。なのに、彼の精神面は決して大人へと至ることがない。それどうしようもなくやるせないのだろう。
そういう意味では、フェリスはその存在がクルモンに近い。
これ、作劇的にはなにげにすごいことやっているような気がするんですが。