dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

山猫は死なず、ただ立ち去るのみ

 本当は11月のまとめにぶちこもうと思ったのですが、ちょっと個別にエントリーしたくなったので。

「山猫」

栄枯盛衰。その枯れ始め衰え、老いていくところから始まる映画。

すごく侘しくてやるせない。

バートランカスター演じるファブリツィオはの佇まいはほんの少し、北野武映画におけるたけしとかぶる。けれど、決定的に違う。武映画は画面全体から乾いているのに対して、こちらはむしろ豪奢で瀟洒な城内で世界を構築することで、より一層ファブリツィオの情感を強調しようとしているように見える。どちらも諦観のようなものを抱いているのは確かなのだけれど、おそらくは立場や環境の違いから生じる差異によって決定的な違い(断絶と言ってもいいかもしれない)が現れている。それこそ、たけしに比べればファブリツィオの抱いている諦念などはいい気なもんだと一笑に付すこともできてしまいかねない。

それでも、ファブリツィオがとても物悲しく見えるのは、彼自身はすでに足掻くことを放棄しているようにも見えるのに、なまじ彼が貴族としての振る舞い礼儀作法をマスターしてしまっているがために適応できてしまうところだろう。そして、その振る舞いが人を呼び寄せてしまう。本人の望まぬ才覚によって本人の望まぬ好機を引き寄せてしまう。本人は、むしろ貴族という重責を苦にしている節すらあるというのに。少なくとも今の彼は。

そしてまた、彼をそうさせている一つの要素としての老い(=衰え)も明確に描かれる。彼自身が「娘が恋をする年になって、老いを自覚する」というようなことを発言していることからもそれは明らかだ。

 何が言いたいかというと、自分の人生の中心から自分が排他されていく感覚、というと強すぎるきらいもあるのですが、主体性というか主役性の希薄化みたいなものが描かれているのではないか、ということ。

画面のレイアウトからも、そのような印象を受けるんですよね。特に後半の舞踏会場面。ファブリツィオの顔のアップやバストサイズの画面では、画面の中央に据えることなく絶妙に中心から逸らし空間的余剰を与えそこに背景としての人の往来や豪華な城内を映し出している。

そして、それが極に達するのが最後の2カット。アンジェリカたちを乗せた馬車が画面中央のトンネル(?)に吸い込まれていくのに対し、ファブリツィオはウェヌスへ祈ったあとに画面中央からややそれた薄暗い路地へとやや遠目のショットで消えていく。

もはや、彼の人生・彼の時代において中心は彼になくなってしまったのだろう。でも、彼にしてみればそれは何も不幸なことではないのかもしれない。その先には、ウェヌスとの永遠があるのだから。

それよりも、この世界で描かれるファブリツィオの栄枯盛衰は、彼にだけ言えることなのかという疑惑がある。実のところ、彼と同じ道をタンクレーディがたどるのではないかと暗示するように、やはり彼のバストサイズのショットのときに彼を中央に据えていなかったり、あるいはもっと彼の気質的なところで嫉妬深いといったところから、衰えを予感させる。美貌の妻アンジェリカを嫁にし、うまく立ち回り立身出世をし栄える盛るタンクレーディの姿は、若きファブリツィオの姿なのではないか? 逆説的にいえば、妻に対してああ言っていたファブリツィオが7人の子どもを成したのも、タンクレーディとアンジェリカのように燃えていたからではないか?

だとすると、山猫がそうだったように、ジャッカルや羊がいずれそうなるのかもしれないように、タンクレーディもいつかは告解を神父から求められる立場になるのかもしれない。

そうやってこの映画を見ると、メビウスの輪のように円環をなしているようにも見えてしまう。いや、円環というよりは無限の連続性といった方がニュアンスは近いかもしれない。

決して荒事があるわけでもないのに、すごく心を波立てられる傑作でした。