dadalizerの映画雑文

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マキシマムホモソーシャル

 長いのにほとんど集中して観れた、というだけで自分の中ではそれが面白い映画であったわけですが、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」もそうでしたよ。

 BSでやってたやつなんですがCMを抜いたら200分くらいだと思うのでおそらく劇場公開版でしょう。どうもほかに完全版・レストア版・エクステンデッド版というのがあるらしいのですが、一番長いレストア版で270分あるとか。劇場公開版でさえ贅沢な時間の使い方をしているのに、そこからさらに中編映画一本分くらい足されているとかどういうことなんでしょうか・・・。まあ長くなればいいというわけではないことはザック・スナイダーの一連のヒーロー映画を観ればわかることではありますが。

 禁酒法時代を描いた映画では「アンタッチャブル」もかなり面白い映画(あっちにもデニーロ出てたっけ)ですが、こっちもこっちで面白い。

 

 さて、完全に初見とはいえその名前は聞いたことのある名作のうちの一つである「ワンス~」でありますが、かなり情緒的な映画でありんす。その情感をたっぷりの間を使って、遠景やスローも使って大胆に演出していくんですが、構造として一番凝っているのはやはり時系列の入れ替え(タランティーノリメイクも、この辺の親和性があるので結構よさそう)。

冒頭で女性が殺されるシーンからファット・モーの店でヌードルス(デ・ニーロ演)の回想が始まるまで、いったい何がどうなっているのか全くわかりません。そこからは直線的に進んでいくと思いきや、ちょくちょくと現代のヌードルスが回想から戻ってくるので、過去と現在を行ったり来たりする。もっとも、現代のヌードルスに戻ってこないと逆にわかりにくくなるとは思います。

回想が始まるまでで30分(ここまで、観客は事態を呑み込めない。焼死体のことも殺された女性のことも)かけ、そこから大胆に子供時代のヌードルスたちを描いていく。たち、ということでようやく構造が見えてくるわけで、後からわかるのですが冒頭で殺された人たちは子供の時からつるんで悪さをしていた仲間たちだったんですね。悪さといっても、それは生き抜くためのことでもありました。

この映画はこの少年時代だけでもう十分なほど胸に来ます。長さからしても、少年時代編と分けることもできなくはないでしょう。しかし、入れ替えの構造にしたことで単体としての作品の質を高めることに貢献したこの映画は、今の時代では難しいでしょう(「IT」を睥睨しながら)。

少年時代のヌードルス一派の卑近な欲望のままの行動は、あまりにもいじらしい。性欲か食欲(ケーキ)のシーンの、葛藤の末にケーキに手を出してしまう。あと少し辛抱していれば、というほほえましい笑いと悲しさ。

少年たちのセックス=童貞卒業を巡る物語というのは、往々にして青春映画の、それこそクリシェ敵に用いられることもありますが、ことこの映画においては青春というよりももっと根源的な欲望同士の衝突として描かれているがために、そこにどうしようもないやるせなさを見出さずにはいられないのだ。

また、マックスとの出会いの粋っぷりは、ちょっと本当に見ていて顔がニヤニヤしてしまうくらいイイ。敵の敵は味方理論を同じ穴のムジナとして共鳴している二人だからこそ即興で息を合わせることができたあのシーン。そこから一気に仲良くなる掛け合いの妙は、ちょっと本気でゾクゾクしました。後のシーンで再会を果たした二人の「叔父さん」のセリフで私はもう濡れ濡れでした。

マックスと出会い、その邂逅の際に生じた警官との因縁を二人の童貞卒(いや童貞じゃないのかもしれないけど)と絡めてくるのもしゃれている。ペギーとグルになって汚職警官を嵌め、そこにおいてこそヌードルスがペギーをセックスをするシーンは、逆説的に清々しい青春のシーンとして観れるのではなかろうか。

この辺、石田衣良の「4TEEN」をちょっと思い起こさせますよね。

 

それから紆余曲折あり、マックスを仲間に加えたりファット・モーの妹のデボラとの色恋沙汰とか色々あって、トランクケースの誓い(勝手に命名)という最高にテンションの上がる(よく考えたらこれって死亡フラグだったのかも)からの仲間の一人が敵対勢力に殺される急転直下の展開。その場で敵を討つもかけつけた警官まで刺してしまうもんだから、ヌードルスは豚箱にぶち込まれてしまうんですが、この一連のシークエンスの引きのショットとスローがすごくいい。建物と建物の間から見える橋とか、ヌードルスがドナドナよろしく連れてかれるシーンでの仲間たちの背後にあるレンガの壁とか。

 

それで彼らの子供時代は終わってデニーロの出番になっていく。刑期を終えたヌードルスとマックスの再会は先に述べた通りで、仲間が全員揃っているうえにちゃんとペギーがいるというのもポイントが高い。まあペギーは子供時代の方が明らかに良かったですけど。それはともかくとして、マックスと再会したときのペギーのセリフなしで表情だけをうつす余韻のカットとかもいいんですよね、ここ。

で、またつるんで悪さをしていくわけですが、まあ色々あってマックスとヌードルスが対立(というと語弊があるかな)していって、それが現代にまで尾を引いていて最終的に死を偽装したマックスがヌードルスに自分を殺すようにもちかけて、それを拒否するヌードルス。あのごみ収集車の中にマックスがいるのか、正直そこはわからないけれどテールランプからのトランジッションといいおしゃれな演出が多い。

 

とまあ色々書いてきましたけれど、この映画の何が素晴らしいか(そして何が危険か)というと、要するにエントリーのタイトルにもあるようなすさまじいまでのホモソーシャルなのですよね。

それはマックスのキャロルに対する態度(ヌードルスとのホモソーシャルな関係に相対化されるためだけの存在として)やイヴの取ってつけた感、あるいはマックスのヌードルスの楔としての役割しか果たしていないデボラ(あんだけヌードルスとの出会いを時間をかけた割にすさまじくキャラが薄いのはそのせい)だったり、すべての女性キャラクター、どころかほかの男性メンバーでさえもマックスとヌードルスホモソーシャルに回収されていくのですから、それはもうすんごい濃厚ですよ。

なので、今の目線で観るとフェミニズム的に危ういものがあるのは否定的ない・・・が、それでもはやりこの二人の関係には萌えざるを得ない。