dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

こんな時期に試写会かよ

いや本当は試写会に行ってる場合じゃないんですけどね。マジで。

とはいえ当たったものは仕方ないので(何様だ)「盆唄」をユーロライブで観てきました。

 

 

本作を手掛けた中江裕司監督についてはほぼ真っ白な知識。
会場に着くまで知らなかったんですが監督と映画評論家の松崎健夫氏とのトークショーがあって、そこでの質問でほぼ沖縄を題材に撮り続けていたのが、今回初めて(?)福島を題材にしたことが判明。ファーストコンタクトがその作り手にとっては異質なもの、ということもあって監督について図りかねている部分が大いにあるのですが、とりあえず今までの試写会のトークショーの中では一番面白かった。まあ監督の人柄による部分が大きいのでしょうが(それと観客)。あとトークショーの司会進行の女性の方が吉岡里帆神木隆之介を足して一般人で割ったような顔をしていてお綺麗でございました。
まあでも、私のようなパンピーは知らないのも当然なのかな、とウィキペディアの「とりあえず作品一覧だけ作っておきました」感から伝わってきました。初期の2作以外は個別記事ないんですもの。

映画評論家の松崎氏に関しては寡聞にして知らなかったのですが、町山智弘とも面識があるようですしくだけた監督の所作に反して割ときっちりしていましたし、信頼のおける人なのでしょうか?

トークショーで監督や今回プロデューサーを務めた岩根愛さんの話で、映画の感想を書く上で直結する部分もあるので、本編について書きつつトークショーについても触れていこうと思います。


タイトルそのまま盆唄に関するドキュメンタリーってことなんですが、簡単に公式サイトからあらすじを抜粋。

2015年。東日本大震災から4年経過した後も、福島県双葉町の人々は散り散りに避難先での生活を送り、先祖代々守り続けていた伝統「盆唄」存続の危機にひそかに胸を痛めていた。そんな中、100年以上前に福島からハワイに移住した人々が伝えた盆踊りがフクシマオンドとなって、今も日系人に愛され熱狂的に踊られていることを知る。町一番の唄い手、太鼓の名手ら双葉町のメンバーは、ハワイ・マウイ島へと向かう。自分たちの伝統を絶やすことなく後世に伝えられるのではという、新たな希望と共に奮闘が始まった――。 映画は福島、ハワイ、そして富山へと舞台を移し、やがて故郷と共にあった盆唄が、故郷を離れて生きる人々のルーツを明らかにしていく。盆踊りとは、移民とは。そして唄とは何かを見つめ、暗闇の向こうにともるやぐらの灯りが、未来を照らす200年を超える物語。

で、本編を観終わってからこれを読んでいて思ったのは、すさまじくとってつけた感じがするということでしょうか。いや、間違いはないし実際に描かれているということではあるんだけれど、ほぼ前半部のことしか具体的には書いていないんですよね。というのも、これは映画の構成に問題(と書いていいのかしら)があるからなのですよね。

ここでトークショーの話題を出すのですが、面白かった理由の一つに観客の一人がドストレートな意見を監督にぶつけていたからなんですよね。そのドストレートな意見というのは「前半はすごい良かった。移民の問題について触れていたりとか。けど、後半は怠いアニメのあたりから本当に怠い。最後のやぐらの踊りも30分は長い。あそこをカットして90分くらいにまとめていたら良かった」と。まあ一字一句間違いなくとはいきまんしやや意訳は入っていますがおおむね同じようなことを言っていました。それに対して別の観客が「あれがなきゃ収まらない」といった擁護が飛んだり。

よくもまあ作った本人と評論家のいる前で言えるなぁ(皮肉とかではなくその胆力に素直に驚いている)と思いつつも、賛同する部分もあり、それが前述の構成の問題に繋がっている部分があるのかと。確かにこの映画134分もあるんですよ。ぶっちゃけわたしも途中で挿入されるアニメーション終わったあたりから少し寝てしまいました。

しかも監督自身がこの意見を受けて「私も常々、映画は90分に収めるべきだと言ってきたのですが、その当人がやってしまいました」というようなことを言っており、やはり今作は監督にとって例外的な作品でもあったようなのです。が、別に長いから怠いというわけではありません。

確かにドキュメンタリーで2時間越えというのはなかなかボリュームがありますが、別にそれ自体は問題ではないのです。この映画は、構造的に後半部の誘因というかモチベーションがかなり薄いんですよね。

なぜならこの映画にはメインとなる軸がないから。軸がない、というと語弊があるのですが、具体的な命題や問いかけたい問題が常に掲げられているわけではないからだと思います。

前半部では福島の盆踊りとハワイに移住した日系人の間で継承されている盆踊リストたちの交流を描き、その中でルーツが明らかになっていくのですが、ではその明らかになったルーツが後半になって有機的に絡んでくるかというとそういうわけではないのです。ハワイの日系人たちとの交流によって逆輸入されたボン・ダンスを踊るとかそういうことでもないし、かといってルーツを明らかにすることそのものを目的としているわけでもないからです(そも、それが目的なら前半部だけで完結しています)。しいて言えば交流そのものが目的だった、のでしょうか。

じゃあこの映画が描こうとしてるのは何か。それはもう監督自らがおっしゃっているように人の情や愛といったものだろう。監督の自論としては、映画は愛や情しか描けないし自分の関心としても人にしか向いていないということを言っていたし、それは私もそう思う。
確かに松崎さんが言うように、人を描くことでどうしようもなく社会問題が表出してくる、というのはある。実際、前半部のハワイの日系人たちとの交流を描こうとすれば真珠湾に絡めて日系人収容のことやそれこそ移民の問題というのはどうしようもなくたちあらわれてくる。けれど、それは裏を返せば社会問題そのものへの関心があるわけではないということの証左では。
真珠湾攻撃の映像をインサートしたのだって、それは戦争の問題に関心があるというよりも日系人たちに触れるにあたっての義務や礼節以上のものではないだろう。現に、映画の中でそれ以上の深堀がされるわけではない。もっとも、クライマックスの盆踊りのシークエンスで福島の町の商店街(?)のアーケードの入り口の「未来のクリーンなエネルギー 原子力」といった文言のアーチらしき写真を挿入していたり、福島原発への問題に対する皮肉だったりという視線はあるのだろうけれど。

だから前半分は観ていてわくわくするのだ。地域も言語も違う人と人が盆踊りを通して交流し、監督の「情」というフィルターを通すことでその共通性・同一性が映像表現として観ていても楽しかったし。
たとえば、福島とハワイの物理的な距離感のなさの演出。福島にいたのが次のカットではもうハワイの空港らしき場所にいたりするのは、やはり両者の心理的な距離の近さだったり監督が同一のものとしてとらえているからだろう。普通なら、飛行機に乗っている場面や空港から出発するシーンを残しておいてもよさそうなものなのに。

まあ、トークショーで監督は「バシバシカットするのが好き。大事なところからカットする(そうすることで浮かび上がることもあるから)」とおっしゃっていたので、そこまで意図していたのかは微妙ですが、少なくとも私にはそう感じられました。

が、しかし福島の双葉町とハワイのマウイ島を同一視しているのは間違いないでしょう。たとえば福島で海を撮り、墓を撮り、震災によってさびれてしまった家々を撮ったように、ハワイでも海の景色を、墓地を、閉鎖が決まったサトウキビ畑をカメラに収めたのだから。
だから、この前半部が特に観ていてわくわくするのは当然なのでせう。

が、後半。アニメーションによって過去が語られ始めたあたりから、どうも視点があやふやになっていくのは否めないんですな。要するに、前半部でほぼほぼまとまってしまっているがために後半部の導入あたりから「これどうやって終わるの?」という着地点の不明瞭さがそのままモチベーションの低下に直結してしまっているのです。
これは監督自身も認めていることなので、あえて言及するのも野暮でしょうが。

ただ、この映画を観て思った自分の思考の収穫としては結構大きいものがありました。それは、盆踊りひいては祭りごとの楽しみって何だろうか、ということ。

自分が近所の祭りの風景や盆踊りの太鼓の音に感じていたもの。それはたぶん、非日常的な空間がだらだらとそこにあり続けることだと思う。似て非なるものとして放課後の人気の少ない教室で友達とだべっている時間・講義が終わった後に部室で無為に時間を過ごすアレ。もっとも、祭りが非日常の空間であるのに対し後者たちは日常の延長としてのだらだらなのでへだたりもあるのですが。
思うに、祭りだとか盆踊りだとか、そういう慣習的な伝統の文化というやつはダラダラと在り続けてしまった産物なのではないだろうか。だって、別に必要なものではないんだもの。特に、この資本主義社会にあっては、それは非合理ですらある。

だからこそ必要なのだろう、と思う。徹底的に合理化を求め、それゆえに人が摩耗するこの現代において、このダラダラとした、延々と繰り返される太鼓の音は、永遠と在り続けてほしいその空間こそが必要なのではないか。

や、もちろんほぼ逆機能でしかない珍妙なマナーだとかああいう搾取のためだけの糞の役にも立たないどころか害悪ですらある価値観は無用ですが。
だらだらと続くもの。それが盆踊り=伝統芸能的価値物であるとするのなら、終わりどころが見えなくなるのも至極当然のことだろう。
だからこの映画の内報するだらだらというのは、そのままこの映画がとらえようとするもののだらだらさに他ならないのではないか。それを証明するかのように、まだ空が明るかったやぐらでの盆踊りは歌い手や太鼓をたたく人が入れ替わっていき、いつの間にか夜になっている。ダラダラと、続いていた。

最後にあの真っ暗な空間で完全に作為性をもって描いた盆唄が異質で、明らかにこの映画の締めのために用意されたと言わんばかりの主張は好き嫌いが出るところではあるだろう。
個人的にはぴったりと終わらせるのではなく、音楽を流したまま徐々に音が遠のいていって場面が暗転するといった方が終わりを感じさせずに盆踊りのだらだらが表現できたのではないかとは思いますです。

ドキュメンタリーだから客観性が担保されると考えるようなバカではないですし、そもそも撮るという行為自体が否応なく恣意が働くので、それが劇映画であれドキュメンタリーであれ、作り手の恣意性が表出するものだとは思いますし。


でもまあ、そういう作品として完成度の高いものだけではなくこういう構成として破綻したものですらも強烈に何かを伝えることができる、というのが映画というものの懐の広さであると思うので、そういう意味ではやっぱりこの映画を観れて良かったと思いますです。
それに普段の私であればあまり食指の動かないジャンルではあるのでこういう機会で観れたのは良かった。



ここから先はトークショーでの覚書

・劇中で歌を歌ってくれた日系人のフェイさんは劇中でもがんであることが言及されていたのですが、この映画の完成後に亡くなったそうです。

で、このフェイさんが歌うシーンは撮影に5日かかったそうで、本人は歌いたかったもののなかなか気力が持たず5日かかってしまったとか。そのうえ、本筋から外れるから当初は編集でカットしようとしたのですが、フェイさんの「情」のようなものに打たれて残したのだとか。個人的にそれは正しかったと思います。少なくともこの映画においては。

・ハワイの盆踊りの囃子の掛け声で「べっちょ」というのがあったが、あれは福島の方言で女性器や性行為を意味するらしく福島の方では使わないとか。ただ、ハワイに移住した人たちが使っていたのでそのまま定着したとか、だったきがす。

・アニメーションを挿入した理由は相馬移民を通して人の営みを肯定的にとらえたかったとか。あとは伝えやすいのと、実写映画ばかりでリップシンクにとらわれていたので、リップシンクにとらわれないことをしたかったとのこと。

・回転式パノラマは写真で時間を表現できるのがよい。

イントレランスという映画について言及

・最後の盆踊りのシーンは未来をイメージした。数万人の人に囲まれている中でやっているイメージだとのこと。確かに声とか編集で加えていたしね。

・今回プロデューサーも務めた岩根愛さんのパノラマ写真は出来上がりまでに4万円かかるので写真集を買って金を落としてほしいとのこと。

余談ですがこの人どこかで見たことあると思ったんですけどNHKのBSでドキュメント番組やっていたらしいので、たぶんそれかもです。




あ、あとこれ公開前情報らしいですけど2月16(15だっけ?)日のテアトル新宿で公開記念イベントやる(予定)らしいですよ