dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

此度のゲーム、勝者なし!

まあ、あえて言えばアン女王は最悪の結果の中でもベターな選択をしたのかもしれない。あの恍惚の表情を見るに。

 

そんなわけで「女王陛下のお気に入り」をば。

いやぁ、まさかこんなに面白い映画だとは思いませんでした。

ゲーム・オブ・ラブの亜種、というか反意的な意味合いすらもった邪流なのではないかと思うのですが、ともかく傑作でした。

愛を巡る物語かつ権力争いを描くパワーゲームものでもあるんですが、この映画が一癖あるところは、それが純粋なパワーゲームではないところでしょう。

この映画で描かれるパワーゲームが純粋でないのは、そのゲーム自体がある種の破綻をきたしているからです。

ここで私の書く「純粋な」というのは、その先に大なり小なり目的があることを前提とはしていても、おおむね「権力を得ること」がほぼ目的となるパワーゲームのことです。その担い手が女性であるという点で「大奥」とかなり似ているかと。そこに権力闘争を伴わない純粋なゲーム・オブ・ラブとしての「ビガイルド」(を筆頭とした昼ドラ)をマッチングさせたもの、と書けば「女王陛下のお気に入り」がどういう映画なのかというのがわかりやすいでしょうか。この視点を組織そのものに向けた場合は大島渚の「御法度」になるのでしょうね。

この映画で描かれるパワーゲームが純粋なものではないと書いたのは、劇中でサラ(レイチェル・ワイズ演)が述べるとおり、ゲームを繰り広げるプレイヤー/ゲームマスターの目的というか、プレイングが違うからです。たしかに、同じ空間で対立しあう者が「あるもの」――この映画においては「女王のお気に入り」という座。女王自身にとっても――を奪取/死守しようと奮闘してはいる(簒奪ではないのがまたややこしくさせている)。

しかし、それはあくまでプレイヤーの第一義的な目的の遂行のための過程でしかなく、プレイヤー各々のその目的というのが別々であるために、勝負の体は成しているのに実質的には勝敗は決しない、というかそれぞれの思惑が異なっているがために勝ちの目が出ないのです。だから、最初からこのゲームは破綻していたのではないか。

 

もっと砕けた表現をするのなら、三者三様に愛をむさぼり合っている、というか。愛を貪るということは、何も愛に対して誠実である必要はない。何か別のことのために愛を利用することもそうでしょうし、愛そのものを求めることもそうでしょう、あるいは両方を等価に重んじることもまたしかり。 

だから、このゲームの破綻の理由は三人の女の愛の貪り方を明らかにすることでわかってくる、と思う。

 

このゲームのジャッジ的立ち位置にいるアン女王(オリヴィア・コールマン演)はどうだろうか。彼女のわがままっぷりは餓鬼そのもので、怠惰で通風持ちなせいで移動にも手間がかかり国政を左右する立場にありながら権力には無頓着。そのくせ傲慢で権力をふりかざし酒池肉林な放蕩をする、国のトップとしては最低な部類の人間です。

しかし、彼女は他のプレイヤーとは異なり愛(とりわけ肉欲)に対してだけは純粋であり、求めるものもそれだけであり、それこそが彼女の最も望んでやまないものなのです。その理由は17匹のウサギの通りです。

実の子を17回に渡って死なせ、その代替としてのウサギに子どもの名前を付けるほど。しかもほとんどが流産・死産であり、生きて生まれた5人のうち4人も幼児期に亡くなり唯一生き延びた王子も生涯病気がちで11歳のときに亡くなっている(パンフレットのトリビア参照)という、想像を絶する体験をした彼女が人並み以上に愛を求めるのも致し方ないというものでしょう。

だから、幼馴染であり恋仲でもあるサラが宴の場で男と踊っているのを見せつけられてガチギレしてサラと即ベッドインにもっていくのも納得はできる。理解は別として。

アンが求めるのは都合良く自分を愛してくれる存在で、おそらくそれ以外はどうでもよかったのでしょう。

 

サラはどうだろうか。彼女は女官長であり王室歳費管理官であり女王付き政治顧問でもあり実質的な政治の運営を担っている。

そして、彼女の最優先事項はそれだ。特に、劇中ではフランスとの戦争で勝利こそ収めたものの予断を許さない情勢であり、対立するトーリー党とのやりとりもあって、ことさらに国を気にかければならない状況に置かれている。

幼馴染でもあるサラとアンは、いじめられていたアンを助けたときからの付き合いでありお互いを信頼し真に愛し合っている。それはおそらく真実だ。けれど、そこに打算がないというわけではないし、権力をかさにわがまま放題のアンに対して辟易してもいる。いや、それは問題ではない。問題なのは、サラにとってアンへの愛と国家運営がほぼ等価であるということだ。

だから、アビゲイルに嵌められ娼館から舞い戻った彼女が取る行動は、あるいはアンへの愛情よりも国を優先しているのであれば非常に徹することで、アンを蹴落とすことでサラにとっての最悪の結果を変えることができたかもしれない。

 

最後に、今回のパワーゲームを引き起こしたアビゲイルエマ・ストーン演)。

彼女の目的は、実は当初はわからないんですよね。というのも、女王を助ける行為など、それが純粋に親切心からきているものであると思える(少なくとも私には)振る舞いだから。まあ、思い返せば言動のやや粗野なところだったり、危険を冒してまで女王に近づいたのはやはり彼女に「女王陛下のお気に入り」になるためだったからか、と後になればわかるわけですが。

序盤ではまだアビゲイルの本位が絶妙に読み取れないのですが、2回目の鴨撃ち(?)におけるあるカットで、アビゲイルが銃をサラに向けているようにも思えるアングルで撮っていて敵対の予感を孕んでいたりするのが芸コマである。

しかしそう考えると、マシャム(ジョー・アルウィン演)という上流階級の大佐との出会いなども、あるいは作為的なものなのではと思ってしまう。

彼女が女王に近づいた理由は、中盤のチャプターあたりから明確になっていく。それは権力を得ること・・・ではなく、かつての上流階級並みの生活を取り戻すことにある。権力を得るというのは、そのための手段でしかないし、別に国をどうこうしたいというわけではない。そして、そのためであれば女王にクン二だってするし、好きでもない男と結婚だってする(積極的に)。

ただ、やはりというか手段を問わない彼女にも譲れない一線がある。それは男に屈することだ。元々上流階級だったアビゲイルは父親の賭け事によって身を売られてしまい、屈辱的な扱いを受けてきた。だから、男に屈するということはすなわち忌まわしい過去の再演に他ならない。そこには極めてセックス・ジェンダー的なものがある。

だから、形式的であり立場を得るためであり徹頭徹尾そこに愛は皆無とはいえマシャムと結婚した。にもかかわらず、新婚初夜では彼の顔を見ることもせずに手抜きな手ヌキで済ませる始末。このシーンはエマ・ストーンの顔芸もあって最高に笑えます。

邪魔なサラを蹴落とすために目的が一致したハーリー(ニコラス・ホルト演)と共同戦線を張るものの、決して彼の下になることをよしとはせずあくまで対等なパートナーシップであることを強調する(それでも演技として女性の涙を見せたりする狡猾さはある)。

しかし、それを考えると自ら仕込んだ毒によってサラが落馬するシーンと宮廷で男たちが毛むくじゃらのデブおっさん(全裸)に向かってオレンジ(?)を投げつけているシーンをカットバックで見せるというのは、何やら意味深ではある。

ともかく、女王に取り入り同衾し一介の召使いから女王の寝室付き女官にまで上り詰め、さらには邪魔者であるサラに毒を盛り、サラの登場によって幼馴染の間に生じた亀裂は決定的なものに近づいていく。彼女のいない間に確固たる地位を手に入れたアビゲイルにはもはや恐れるものはないように思えた。

 

ゴドルフィンがサラとアンの仲裁をはかるべくサラに手紙を書かせるも、そこはしたたかなアビゲイル。女王の手に渡る前にサラの書簡を焼き払い、完全にサラとアンの仲を裂くことに成功する。

後手に回ったサラはアビゲイルとハーリー率いるトーリー党を失墜させるべくアン(と自ら)の愛の結晶を使ってアンに脅迫まがいのことをするが、結局はそれが裏目に出てしまう。

敵がいなくなったアビゲイルは、しかし最後の最後に自らの腹黒さを、よりにもよって女王が最も大切にしているウサギに対して発露してしまい、それをアンに見られてしまうという始末。

そして、ラストシーンに至って観客は気づかされる。

「これ全員バッドエンドじゃん・・・」と。

アンにしてみれば、最も望んでやまない愛を唯一注いでくれていたサラを自らの手で追放する形になり、その代わりになると思っていたアビゲイルが実は子どもを文字通り足蹴にする奸佞邪知の徒輩であることが判明してしまうわけであるし、サラにしてみれば一番守りたかった王国から、よりにもよって愛し愛されていたはずのアンから追放されるという最悪の形に落ち着いてしまう。

そして、勝者たりえたはずのアビゲイルも、最後に詰めの甘さを見せてしまい過去の再演をする形になってしまう。

否、元よりアビゲイルに自由はなかったのだ。アンという女王がいる限り、真に自由に振舞うことはできない。それは映画のラストでアビゲイルがやらかさずとも、遠からず明らかになることである。

だから、結局のところ支配者が変わっただけでしかないのだ、彼女にとっては。小汚い男から醜い女王にすり替わっただけでしかない。最後の長いカット。あれは明らかにアビゲイルが女王に対して口淫をしているように思わせる配置になっています。口淫とは服従にほかならず、行為としては足をさすってもらっているだけのはずのアン女王がどこか恍惚とした表情をしているのもそのためだ。面白いが、編集で両者の顔を重ねているところなんですが、このまま終わってくれたら最高だなーと思ったところにどんぴしゃりでエンドクレジットに入ってくれたのも最高。

 

それぞれが同じフィールドにいたにもかかわらず、三者三様に異なる独自ルールでゲームをしていたがためにゲーム自体が破綻してしまい、みんなが不幸になってしまった。

ボクシングの審判(アン)の前でちゃんとグローブ使って殴るんだけどキック・締め技上等(サラ)だったり、刃物持ちだして審判に見えないように相手を刺しまくってたらリング上に散らばった血でバレて反則負け(アビゲイル)してしまったりと。そのような映画なのでせう。

 

ただね、観客はそれでも観ていて面白いんですよね。

 

冒頭にいくつか作品名を挙げましたが、この映画のすさまじいところは「フォックス・キャッチャー」的なシュールな笑いや(ブラックな)ユーモアをも含んでいるところです。「フォックス・キャッチャー」的なというのは、ユーモアセンスだけではありません。「フォックス~」においてジョン・デュポンがマーク・シュルツを(レスリングの練習の場面でもあるにもかかわらず)明らかに後背位でシュルツが攻められているかのような性的モチーフを使っての主従関係の描出していたような表現がこの映画にもあるからです。

もっとも、「女王陛下のお気に入り」はあちらのようにあくまで観客にそう思わせる程度のレベルではなく、もっと露骨ではあります。

再序盤ですら男の自慰行為が描かれるくらいですから、そこでもう性に対してあけっぴろげであることはわかりますが。特にアビゲイル(エマ・ストーン演)周り。というか、この男の自慰行為のシーンの起点がアビゲイルであるわけですし。

普通に観ていればわかりますが、性愛・愛情を使って(決してソレそのものを巡っているわけではない、というのが凡百の昼ドラとは違うところです)権力闘争を繰り広げるこの映画が性的なモチーフを使うのは必然なんでしょう。

 

個人的にはアビゲイルの小芝居(という名のアピール)はあまりに露骨すぎて、終始笑えてしまいニヤニヤしながら観ていました。

が、しかし返り咲くために彼女は至って本気であり、その本気さというのは没落した父親に見捨てられドイツ人の粗チン(byアビゲイル)によるトラウマ的体験から来ているし、アン女王にしたって、彼女の無知蒙昧さや放蕩っぷり、愚かしさや幼児のようなわがままっぷりの裏側には17人の子どもを亡くしている(その代替としてのウサギという痛々しさ)という想像を絶する苦悩を持ち合わせている。宮廷内の乳母(?)から子どもを取り上げて抱きあやすシーンも、怒りよりも先に悲哀がくる。

そもそもが前述したように全員がバッドエンドを迎えるという意味では確かに悲しい話でもありますが、今回この映画のスチール写真を担当したNISHIJIMAさんが言うようにこの映画ははっきりとコメディでもあります。

そこがまた「フォックス・キャッチャー」的でもあるところなんですよね、傑作度的にも。

やっぱりアビゲイルまわりの描写は露骨にユーモア成分が最後までたっぷり。前述した「手抜き」をする場面や、彼女の周りにハエがたかる場面、森の中でのマシャム的にはガチ目なキャッキャウフフ的なバトルなんだけどアビゲイルは笑いながら本気であしらっている奇妙な齟齬がもたらすシュールな笑いとか。

 

 

猛烈に面白いんです、ともかく。

 

今回の撮影は 自然光がほとんどだったらしいのですが、「ウィッチ」みたいな何やってるか本気でわからない暗い場面はなく、不自然さなどなく安心して観れました。

セットじゃなくてロケ撮影を行ったらしいのでですが、そのロケーションをフルに使うために頭上から・人と人との間といったあまりほかの映画では見ないアングルからの撮影や、広角レンズや360度のウィップ・パンを多用していたり、その撮影方法自体があどことなくユーモアが伝わってくるようでもありまする。

 

それとダンディ・パウエルの衣装もいいです。

特に実写ではあまりお目にかけない初期更木剣八タイプの眼帯が見れたりとか、色の数を抑えたクールな佇まいだったり男装みの強いサラの衣装とか、特にレイチェル・ワイズは色々と衣替えをしてくれる映画でもあるので私としてはウハウハです。衣装好きが見ても楽しい映画かなと。

 

いやほんと面白いです、この映画。今年の私の「FAVORITE」の一本です。