dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

私たちの見たくないノイズを放つ

前回「女王陛下のお気に入り」を観に行った時に予告編がかかって「これ絶対観に行かなきゃ」と思ってたんですよ。余剰的にとはいえ自分が学んでいた分野を題材にしたものだったから、というのもあるんですが単純に傑作のにおいがしたから。

傑作でしたよ。どうしようもないほどの。

 

傑作でした。どうしようもない。

パンフレットは情報薄いですが、麒麟の田村の寄稿は読んでいいと思います。ぶっちゃけ、私に書いたことをうまくまとめているので。

予算的にもセット組めないしロケ撮影なのだろうなとは思ったのですけど、三浦半島や横須賀、家の中は川崎と、意外に移動箇所が多いのはびっくり。という程度なので、パンフはまあカンパの気持ちで買うのがいいかと。

以下本題。
 

おそらく「岬の兄妹」の予告編を見た人のほとんどが感じたでしょうが、是枝監督の描き続けてきた「現実」を切り取る系譜の映画です。そして、それ自体が欺瞞を暴き出しているという意味で、片山慎三監督が師事した形になるポン・ジュノ監督の「母なる証明」にも通じています。

どうしようもない現実を、この映画は一つは音によって私たちのような「(幸運にも)普通に暮らす(ことができている)」人間に向かっていなないてくる。

冒頭、良夫の足元を映し出した画面から始まるこの映画は、すぐに耳障りな音を拾い上げる。そのノイズとは良夫がびっこをひく音だ。ずっと、ワンカットで彼を追っていき、その間足を引きずる音が絶えず響いてくる。

良夫が足を引きずる理由は説明されず、物語に直接関係してくるわけでもない。それを理由に造船所を解雇された、というような含みもあるのだけれど、それだけが理由かどうかというとちょっと違うとは思うし。

ではなぜ、良夫は足を引きずっているのか。徹底して現実を描き出すこの映画ですから、てらいなく恐れず言えば真理子という存在が彼の足かせになっていることのメタファーとして読み取ることもできるでしょう。現に、良夫はいなくなった母の代わりに真理子を養わなければならなくなったわけですから。

でも、メタファーというよりもそれは良夫にとっての単なる現実としてあるように思える。それが何かドラマティックな過去の出来事に装飾されるのではなく、ただ「そうあるがゆえにそうなのだ」という残酷なまでの現実として、彼の片足はああなっているのではないでしょうか。

その残酷なまでの現実が地面をこする音というのは、とりもなおさず私たちの生きるこの現実の一つの側面としての叫びなのです。彼の足音だけではありません。真理子の足につながれた鎖の音もそうだし、良夫が真理子をたたく音もそうだし、真理子が仕事をしたいと住宅の密集する道のど真ん中で泣き叫ぶ音もそう。

もちろん映画という総合芸術のメディアであるために、音だけではなく画としても強烈な現実を浚いあげる。それは汚さだ。
そう、徹底して欺瞞的な「綺麗」ごとを排除しているために、この映画には見事に汚いシーンばかりです。

そもそも、兄が自閉症の妹に売春をさせているということ自体が汚穢としてほとんどの人が嫌悪するでしょうし、嫌悪されてしかるべき行いなのでしょう。

しかし、ほんの一瞬の過去の回想からもわかるように、真理子は小さいころから性に関して関心があったわけで、当人はセックスすることに関してはむしろ積極的ですらあるのです。その意思をないがしろにして、またそうすることでしか生きていけない兄妹を前にして、溝口くんのような正論を振りかざすことが正しいことと言えるのかどうか。

これは「パーフェクト・レボリューション」で描かれたような障碍者と性の問題をにも直接連なります。たとえば、もしも真理子が自閉症ではなかったら、溝口くんはあんな風に怒ったでしょうか。そう疑義を唱えたとき、義憤に由来するその怒りは反転しないだろうか。

確かに、自閉症スペクトラムのことを考えれば、兄である良夫は彼女の認識能力・判断能力を考慮しなければなりません。それができなかったからこそ、真理子は妊娠してしまうわけですから。

けれど溝口くんの、ひいては社会の抱えるその怒りとは、かなり、それこそ宗教的なドグマによるところが大きいのではないでしょうか。つまるところ、私が常々言っているような、障碍者の神格化=非人間化と性の秘匿・穢れ化の合わさった歪んだ価値観。キリスト教だけではなく儒教や仏教もそうだけれど、人間が生きていくうえで不可避的な(と書くとノンセクシャルとかアセクシャルの人を貶めかねないので注意が必要ですが)性にまつわることを忌避してきた。そのくせ、障碍者などを自らの都合の良いように聖なるものとして解釈しなおしたりと、そういう長きにわたってきた文化的な因習がまとわりついているのではないか、ということだ。

 
少し話が逸れるのだけれど、相模原の事件の責任が社会にあるというのは、そういう風に障碍者を神格化したその反動でもあるのではないか、という意味で議論を棚上げしてきた責任があるのでは、と思います。処女崇拝思考がもたらす非処女嫌悪のようなもの、というか。

 

 けれど、汚穢として忌避される(と小綺麗な私が思いたがっている)行為によって救われる人もいる、ということを描いているのが単純化された一面的かつ欺瞞的な現実を良しとしない片山監督の周到なところでしょう。

だから、兄妹の商売相手として登場する高校生のグループは多層性を帯びているのです。
不良二人がメガネの男子生徒を羽交い絞めにして「〇〇ちゃんでオナニーしました」と言わせた動画を撮影している(どことなく、編集のつなぎ方からてっきり私は良夫の過去を描いているのかと思ったのですが、そういう意図はあったのかどうか)ところに、良夫が作って配って回っていたピンクチラシ(というか名刺)を拾ってきた別のいじめっ子がやってきて・・・というふうにいじめられっ子がセックスをさせられるという構図になっているんですけど、その現実的な現実の複雑さゆえに、この場面の最後には意味合いの逆転が起こる。

また生き「汚さ」という点で言えば、ここでもそれは描かれます。
真理子といじめられっ子がセックスしている間の待機中の良夫から、不良学生たちがやぱり羽交い絞めにして金を奪おうとするわけなのですけど、ここで良夫は脱糞してそれを学生たちの顔面に投げつけるんです。

文字通りの汚さでもって、窮地を脱する。彼には美学なんてものはないし、ポーチの中身の有無が誇張でなく死活問題である以上そうやって最低な手段を使わなければ生きていけないのだから当然でしょう。しかし、綺麗に生きることを許された私に彼の当然が実行できるのか。

どんな汚いことでも生きるためならいとわない、というのを美学としてとらえることもなしではないですが、それを決めるのは当人以外ありえないと私は思いますし、これを美学としてとらえることにはやはり抵抗がある。

不良三人(くにお筆頭)+(ダメだと分かっていても付き従うしかない)舎弟的な男子生徒(ゆうじ)一人を追い払った良夫は、セックスを終えたいじめられっ子(さとし)が清々しい顔で「生きてれば良いこともあるんですね」と嬉しそうに差し出す手を握る。良夫の手にはうんこがついているんですが、そのあとのリアクションを省略するユーモアも片山監督は上手い。

ここのシーンだけを切り取っても、描かれているものがいくつもあるのがわかります。

さらっと書いたように、加虐側の生徒にその行いが悪いことだと理解していて躊躇しつつも、そうしなければ自分がいじめの対象になってしまうと理解しているがために付き従うしかないゆうじが、それでもやはり良夫のようにそうしなければ生きていけないことの提示や、さとしが強制させられ(そして真理子もまた構造的に良夫によって強制させられている)たセックスであっても、両者は満たされているということなどなど、一筋縄ではいかない複雑さを映し出している。

また、生徒たちの服装に注目すると、加虐側の生徒は全員シャツ出しだったりYシャツのボタンを全開にしているのに対し、いじめられっ子と舎弟ぎみの生徒はしっかりとシャツインしていたりと、そのへんの気も効いている。

そこに至る前に、やくざの縄張りと知らずにポン引き行為をしてしまうシーンの馬鹿っぷりへの眼をそむけたくなるような描写もまた、利口に生きてきた人間には羞恥にた感情を想起させる。

それと、このシーンに至る前に、すでに何人かの男性とセックスをしているんですが、その繋ぎの演出もすごいです。
まず最初の相手がおじいちゃんというのが、もうなんというか「描かれることのないマイノリティーな側面の現実」を描いてやろうという気概がするのですが、そのあとの疑似的なワンカットで三人の男性とセックスしたことを示す省略の手順(あそこでちんちんを起点に相手が変わっていく演出がキモい)の技巧。

ここで商売相手の中に小人症の人=中村くんが出てくるのですが、彼とのセックスが両者にとって幸福なセックスであることを示しているのが、なんというかシャマランの「スプリット」的というか。
ここでの中村くんの逆子として生まれてきたこと=どうしようもない現実への怨嗟が、中村くんを演じる俳優の中村裕太郎の身体と直結していて実に胸に来る。ていうかこれ、ほとんど演技じゃないでしょう、役名的にも。


でも、どんなに真理子が好きなことであっても、そこには逃れられない女性の身体性が立ち現れてくる。
そりゃそうだ。避妊をしなきゃ妊娠する。馬鹿でもわかる。正直なところ、こればっかりは良夫を擁護しようがないのだけれど、あるいはそれを付加価値としていたのだろうか。そうしなければ、真理子を売ることは困難であると。

妊娠したことが判明した直後、良夫は一度中村君のところに行って「真理子と結婚してくれ」と無理難題を懇願する。もちろん(と書かざるを得ないのが辛いのだけれど)中村くんはそれを断る。それ以外に良夫には手段がないとはいえ、中村くんも実は真理子のことが好きだったのだろうけれど、「結婚はできない」。それがこの映画で描かれるどうしようもなく途方もない現実だ。

その夜、良夫は夢を見る。むごいのは、最初はそれが夢だとわからないような演出がされていることだ。
彼が突然走り出したところから、すでに私は居た堪れなかったのだけれど、それに加えて子どもの集まる公園で子供に交じって遊具で遊びまわり楽しそうに笑う良夫を観せつけてくる。あまつさえ、それが夢であることがわかってしまうシーンで、夢から覚めると「妊娠した自閉症の妹」という現実が横たわっているさまを、そしてブロック塀で彼女を殺そうとするシーン見せつけてくれる。

たぶん、真理子の面倒を観なければならなかった良夫は、幼少期に遊びまわることができなかったのではないか。「ちづる」のように機能している家族の中での葛藤などではない、もっともっと難しい家庭だったのではないか。
だからこその、あの夢なのではないか。でも、あれだけ楽しそうな夢なのに、絵面が「おっさんが子どもに交じって遊んでいる」という隠しようのない「現実」の絵ヅラで、夢の中にまで厳然と浸食している様を観客に見せつける。そのうえ走り回り・遊びまわる夢から覚めた直後のカットに良夫の動かない足の裏を映すのだから、本当に監督は意地が悪い。いや、意地が悪くなければここまで現実を見据えることはできないのでしょう。


最終的に良夫は真理子に堕胎させるのだけれど、これもやっぱり真理子のことを考えると果たして正しいことだったのかわからない。確かに、良夫の涙を観て貯金箱(名前は忘れた)を差し出してはいるけれど、それは言い換えれば彼女自身を押し殺していることの証左なのだから。

だって真理子は、弥生(溝口くんの妻)の膨らんだおなかをやさしく触っていたし、産婦人科の窓から向かいの保育園(?)を眺めていたし、弥生の子どもに興味を示していたし、周りが意見を聞かなかっただけで彼女は子どもを生むことを望んでいたのではないのか?
堕ろす前に一度でも彼女と言葉を交わしたのか?

だから、彼女は最後にあの場所に立ったのではなかろうか。あの場所に立つ予感は、思えば冒頭に描かれていた。

最後まで見せることなく、この映画は幕を閉じます。けれど、徹底的に現実を射程してきたこの映画が、最後に救いをもたらすのだろうか。私は楽観視できないけれど、見る人によって最後をどう受け止めるかは変わってくるのでしょう。

 

苦味しかないこの映画ですが、笑えるシーンやスカっとするシーンもあります。既述のようにうんこの手で握手するシーンは笑えますし、金を手に入れたあとに家の窓に貼り付けていた段ボールを破り光を差し込ませるシーンやピンクチラシ(名刺)を高所からばら撒く桜吹雪のシーンなどは刹那的ながらカタルシスがある。
中村くんと真理子の幸せそうな、それこそアルバムに収まっていてもいいようなスナップ写真のように見える静止画のインサートカットとか。幸福な瞬間がないわけではないし、徹底して怜悧な現実を描いているからこそ、一瞬で些細なその幸福な瞬間が際立つ。
 

 また時間経過の描き方などは、妊婦の状態で描き出すという手法が「女は二度決断する」でもありましたが、そういう巧みさを見せつけてくれるあたり、情熱だけが先走る作品とは違う。

この映画は巧みだし考え抜かれている。
たとえば、友人である溝口くんが警察というのも示唆的ではないでしょうか。

徹底して正義の側にいる彼は正論によって良夫を糾弾します。それはそうでしょう、良夫が行っていることは犯罪なのですから、法の側にいる溝口くんは友人として責め立てざるをえません。

この映画が現実に肉薄しているのは、この警官たる溝口くんを悪役としては描いていないところです。それどころか、馴染みであるということでお金を貸したりもしますし、頼まれれば真理子を預かりもします。どちらかといえば助けになる人です。

けれど、兄妹の助けにはなっても決して救済にはならないのです。そんなことはわかっている。けれど人間二人をあのような状況から抜け出させようとすれば、文字通り人間二人分の生活費がかかります。妻もいて、その妻が身重ともなればなおさら自分の家庭のことに注力しなければいけません。だからといって、友人である良夫を放っておくわけにもいかない。だから香典から3万円を渡そうとだってする(弥生がそれを押しとどめるが)。

これって、私たちのような人間のスタンスそのものではないでしょうか。

日々流れてくるさまざまな社会問題のニュースを眺めては「大変だ」「許せない」「こんなことがあってはいけない」「どうにかならないだろうか」そうやって考えてはいても、考えるだけでしかない。

 
メタ的な見方はほかにもできる。エンドクレジットに。
劇中では名前で呼ばれることのない人物にもしっかりと名前が存在することを確かめてほしい。まあ全員、というわけではないけれど。

名前というのは、個を識別するためのものだ。そして、この徹底的に現実を描出しようとしている映画において、「名もなき人物」というモブは存在しない。一人ひとりが今この現実を生きている個別の人間として残酷なまでに存在していることを示している。不良も、チンピラも。

それはパンフレットにキャストの情報が2ページにわたって記載されていることからも明らかで、ここは間違いなく意識しているでしょう(いや単に嵩増ししてるだけかもしれないけど)。

にもかかわらず、ホームレスの男には名前がなく「ホームレスの男」とクレジットされている。そう、ホームレスというのは社会から排斥され何者でもなくなってしまった人物である以上、そこに個としての名前は存在しないのです。だからこそ「容疑者Xの献身」でホームレスがトリックに使われるのだから。

正直なところ私はあの生き汚さを、白石監督のように「美しい」と思うほどには割り切れないのだけれど(だって、その見方すらある種の権力構造による「持っている側」の取り込みに思えるから)、「もののけ姫」もこれに近いものを描いていることを考えると、スケールの問題でしかないのかも。

うんこを手に取って投げつけてまで生きようとする。それはたしかに生き汚く、ごみをあさって食べ物をあさる様は意地汚いと思ってしまう。けれど、それは「普通に暮らす」ことができている私を含めた人間だから言える特権的な立場からの見下ろした言葉に他ならない。

 だから、私たち「(幸運にも)普通に暮らす(ことができている)」人間からすれば、この映画で描かれる現実の音は耳をふさぎたくなるものしかない。


幾重にも存在するそれぞれの現実の衝突、そのような知りたくない見たくないの集積の傑作。

それでも、この映画は直視しなければならないのです。何度でも。

ぶっちゃけ、わたしはこの映画を何回も観るのはしんどいのですが・・・。