dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ゾンビ×おくりびと×500日のサマー÷短編的空気感

といった感じ。

 

これ今までのゾンビ映画で一番好きかもしれない。コメディ路線だけれど「ショーン~」よりも全然好きかな。てっきり「ゾンビーバー」みたいな出オチだったりネタ路線一直線かと思ったんですけど(この直前にZMフォース観てたのものあったからかな)、いや全然良い映画ですよこれ。良いっていうか、好きな映画。

しかも、「マギー」(シュワちゃんのアレ)のようにエモすぎないという、良い感じのバランス。あっちもあっちで悪くはないんですが、いかんせんしめっぽすぎて。

 

やさしくて笑えて毒もあって、しかも(自分にとっては)新しいゾンビ像を提示してくれてもいる。まあゾンビ映画そんなに観てるわけじゃないんですが。

身近な人を亡くした人に向けて、あるいは失恋した人に向けて、おどけてみせながらもやさしく肩を抱いてくれるそんな映画。

かといって温かみ一辺倒かというとそういうわけではなくて、ロメロやその精神を受け継ぐ作家たちがそうであるように、批評精神(まあ社会問題ではないかもしれませんが)も持ち合わせている。ような気がする。

 

何気にキャストも結構いい。日本版ウィキが作られていない監督作の割にデイン・デハーン様(!)が主役だし、「スコット・ピルグリム~」でジュリー役をやったときはこんなに可愛い顔だったかしら?と思うくらい今作ではコミカルかつキュートな役どころのオーブリー・プラザ(余談ですがこの人コメディアン畑の人だったんですね)に、ジョン・C・ライリーががっつり絡んできたり、同じく「スコット~」のアナ・ケンドリックもちょい(だけど割と大切な)役どころで出ていたり。

ていうかまあ、デハーンね。デハーンが好きなんですよね、個人的に。

 

このブログではゾンビ映画をまともに?扱ったのはヨン・サンホの「新感染~」と「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」くらいだし、実を言えばロメロの初期作品すらほとんど未見なくらいゾンビ映画には疎いのであまり突っ込んだことは書けないんですが・・・。

それでも、映画好きの間では現代的なゾンビの始祖たるジョージ・A・ロメロを筆頭に、ゾンビは往々にして社会的な問題を孕んだメタファーとして用いられることが多いことは知っております、ええ。

その前提を踏まえて、本作においてはしかしゾンビはきっちりと死者として描かれている。怠惰に消費する(時代的にはウェブレン的ですらない、ボードリヤール的消費に邁進していた時代)の生者のメタファーとしてあった「ゾンビ」のゾンビのようなものではなく、死者のメタファーとしてのゾンビという。なんとも二度手間感を覚える描かれ方をしている。でも、それがしっかりと意味を成している。

この映画におけるゾンビは、生者にとって都合の良いもの(あるいは彼らが死者に投射する欲望――というよりは願望――の反射としての都合の悪いもの)として描かれている。だから劇中でゾンビは基本的に何もしない。人を襲ったりもなんてもってのほか。

それが露骨に強調されるシーンがいくつかある。

一つはオーフマン家の先祖(ゾンビ)や元家主(ゾンビ)がオーフマンの家に押しかけてくるシーン。ひたすらビビりまくるザックの兄貴(銃を撃つのが夢で警備員になったとかいうアレな人)に対してゾンビ勢はあっけらかんとしている。ビビった末にゾンビに向けって発砲するのにも、まったく動じないでザックのパパとソファーに座って駄弁り出すほど。

またこの直後の場面。このゾンビの件にかかわっているのではないかとモーリーが雇っていたハイチ出身のお手伝いさんのところへザックが訪れる場面で、そのお手伝いさんの親戚からモーリーがセクハラ糞おやじだということを知らされ、後を追いかけてきたモーリーによってザックが昏倒させられ路上で一晩眠りっぱなしになるシーン。目を覚ましたザックの目の前にゾンビが佇んでいるのですが、しかしそのゾンビは一切何もせずただザックを見下ろしていただけで、彼が恐る恐る車に乗って逃げようとする際にも何らアクションは起こさない。おそらくそのゾンビは一晩中そうしていたのでしょう。

ゾンビ=死者を死者として描いている本作においては、生者のメタファーとしての他のゾンビ映画のゾンビのように現世に干渉することはできない。だって、死んでるんだもの。

この映画では、ゾンビが人を襲うシーンも人を食べるシーンもない。ゾンビ第一号であるベスが人を食べた、と言及されベスもそれを肯定するのだけれど、明らかにベスは望んで食べたわけではなくザックによって押し付けられた思考(死者=ゾンビは人を食べるものという固定観念)を吹聴されたことやザックの不審な態度への当てつけでしかない。

ラストの方でニュースキャスターの目の前を何もせず通過していくゾンビ(だよね、あれ)だってそうだ。(ギャグ的にベスが墓を破壊したり、郵便配達員のゾンビが郵便受けを轢き壊していったりする描写はあるんだけど)。

それどころか、ゾンビは被害者ですらある。ザックの兄が家に押しかけたゾンビの死体の山を築き、銃をもって追い立てる描写がされる一方で、ゾンビが人を襲うシーンはない。

徹頭徹尾、此岸に立つ者たちの願望の延長線上にしかない。

だからこそ、より生者が相対化される。

 この映画において何かをする(しでかす)のはすべて生きている者だ。作中で発生するハプニングの直接的な要因は、すべて生きている者によって引き起こされている。

青臭いことを書かせてもらえば、ベスが墓から蘇ってきたのだって「戻って『きてほしい』」という死者に対する願望によるものだろうし。そう、語弊を恐れず書けば死者というもはや何もなすことができない無力な存在に縋り、彼らに求めるその姿勢こそが死者の安寧を妨げているのです。

 もっと深く読み取ろうとするのであれば、蘇らされた(と私は解釈しますが)ベスを家にとどめさせようとし執拗なほど写真を撮るスロカム家も、ベスを外に連れ出して歌を聞かせようとしたザックの行いも、当人たちの悪意や善意の有無はさておき極端に言ってしまえば生者側が、死者たるベスをいいようにしたいだけだ。

ザックがベスに歌をささげるシーン。これは頭のほうにある字義通りのマスターベーション(未遂)シーン以上のマスターベーションだ。

あそこは確かにギャグとしてベスがザックの歌をなじり最低最悪だと罵倒する(謎の発火とか暴れっぷりが面白い)のだけど、それはとりもなおさずベスというゾンビ=死者を使ってザック自身の感情の憂さ晴らしをしているからにすぎない。歌の出来栄えがどうのこうのではなく、それを聞かせるという死者をオナペットにした生者のマスターベーションに対する怒りの表出。死者を冒涜する、生者のモラルの欠如への憤り。

我々生者にとっては救えない話ですが、死者はそんな比じゃないほどに救えないのだから我儘は言えません。何度も言いますが、だって死んでいるんだから。

まあ、私事になりますが彼らの気持ちは痛いほどにわかるので書きながらダメージ追っているわけですが。

 

 

つらつらと書いてきましたが、そもそもこの映画は何を描いているのか。

死んだ彼女のマフラーでマスターベーションしようとするくらい未練たらたらに過去の恋愛に囚われたザックが、新しい恋に進んでいく話として表面的には描かれる。

けれど、この映画にはもっと広い裾野があると思う。今は亡き者=過去と折り合いをつける、今を生きる人の話であり、死者に対するモラルの話といったような。此岸に立つ我々が、彼岸に佇む彼らと共生する話と言ってもいい。

死者は生者の慰みものじゃない。それを理解し、死者の望みを果たす――折り合いをつけることで、ようやくザックは前に進むことができたように。

 

そして、その「前」としてザックの先にあるのがエリカなのでせう。

中盤、レストランで彼女と邂逅し新たな恋を予感させるシーンがある。けれど、ここでは明らかにザックが軟派で浮薄な人間のように描かれている。いや、その行為自体(頬に触るとか)以上に、彼の行動を浮薄に見せているのはひとえにその時点でザックはまだベスとの折り合いをつけていないからだ。

それを示すように、レストランでエリカと別れてザックが車に乗り込んだ直後にエリカが現れる。ここでエリカを轢いてしまうシーンは笑ってしまうのだけれど、ザックの無神経さの表れでもあるわけでして(そうなのか?)。

そのまま レストランの前でベスと言い合いになってしまい、店から出てきたエリカと鉢合わせてしまう。

この修羅場のシーンで、エリカ突っかかるベスに対してベスは「あなたひどい臭いがするわよ」と言う。まあ見た目がゾンビに近づいているし、その発言自体はことさら取り上げることではないのだけれど、ここで気になるのはなぜザックはベスに対して「臭う」と言わなかったのか、ということだ。

ベスとは初対面のエリカが(明らかに敵対的に描かれているとはいえ)臭いを指摘するくらいなら、ザックがそれを先に指摘していた方が自然だ。

ではなぜ、後から会話に参加したエリカがベスの臭いを指摘したのか。

 

それは、エリカにとってベスは風聞程度の完全な見知らぬ他者でしかないから。単なる死者でしかないがゆえに、はっきりした隔絶が描かれる。

一方でザックにとってのベスはいまだに尾を引く存在として、悪い意味でというか感情的な作用よりも根深いところで「痘痕も靨」的な、もっと臆面もなく言ってしまえば呪いにも似たしがらみがあるからだ。

 ここで一旦エリカとの関係が途切れてしまうのですが、既述のとおりベスとのしがらみを振りほどけていないのですから、さもありなんといったところ。三宅風に言えば「過去の清算」ができていないから当然であり物語的必然であるといえる。

 

映画の終盤、ゾンビ化がさらに進行したベスはオーブンに鎖で繋がれた状態でザックの前に姿を現す。ていうかザックがスロカム宅を訪れるとそういう状況になっていたんだけど。

ここでジーニー(ベスの母)との会話でベスがモーリーを食ったことが明かされる。

この場面は母親が指を食わせるという馬鹿っぷりに笑いながら、死んでもなお我が子に生きてほしいという想いに泣けてしまう。部屋に戻すより病院行ってもらいたいんですけど。

ここでザックはベスとの約束を果たそうとする。ハイキングの約束を。

そんなわけでオーブンを背負ったままハイキングに行こうとする二人の前に、トリガーハッピーの兄貴が現れてベスを射殺しようとする。そこでひと悶着ありつつ、兄貴を説得して、ケリをつけろと銃を手渡される。

ハイキングに繰り出し崖の上でとりとめもない話をした後、ザックは引き金を引く。オーブンを背負いながら転がり落ちていくワンカットは絵面は面白いのに不思議と胸に来るものがある。

そうして過去を清算ししがらみと決別したザックが家?に戻ると家族が全員いて、避難していたエリカとの再会も果たす。

この場面で、テレビに映るニュースキャスターが言う。これは限定的な地域の現象だと。限定的な地域とはもちろん身近な人を亡くした残された人たちの周辺のことだ。

それが示すようにこの映画で描かれる世界はひどく狭い。ひどく狭いけれど、開けてはいる。

 

この後の墓参りのシーンでベスの墓標に刻まれている文字が笑えたりするのですが、何はともあれこうしてザックは最後のカットで新たな恋に踏み出すのであった、と。

 

だからこの映画は「ライフ・アフター・ベス」なのでせう。

ベス亡き後のザック(とその家族やスロカム家)の、色々な意味を含んだライフ。

「(500日)のサマー」においてサマーと別れ自分の夢を歩みだしたトムがオータムに出会ったのと同じように、ベスという今は亡き彼女との過去を清算し、エリカとの関係に踏み出すのだ。

 

温かみのあるように見えて、結構割り切った映画だと思う。

映画の冒頭でベスが死んでその葬式を開いたあとの、モーリーとザックとの掛け合いの中で「良い思い出だけを抱いていこう」というような科白があるのですが、これはこの映画を通じて伝えていることなのかな、と思える。

ベスを殺した銃を捨てるというのも、ある種の割り切りとも受け取れるし。

死者との「嫌な思い出も含めて思い出なのだ」とか、そういう「あうふへーべんしようぜ」な感覚ではなく。

 

ただ、ぶっちゃけ文化的なものなのかよくわからにところもあった。ゾンビたちが屋根裏を好む理由やスムースジャズで落ち着きを取り戻す理由はわからないんですけど、もしかすると死者の安寧を得られる空間や音みたいな含みがあるのかしら。

 

伊藤がスピルバーグを論じたときのような死者の帝国という怜悧でスケールのでかい死者=彼岸の世界の捉え方も魅力的だけど、こういう人間味があるのもやっぱり捨てがたいな、と思う今日この頃。