dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

君が成れる!君がヒーロー!

スタン・リーだけじゃなくてディッコにも向けているのがなんか嬉しかった。

 

近所の映画館ではIMAX3Dと4DXしかやってなかったのでIMXAで観たんですけど、やっぱり全然違いますわ。見慣れたはずの「バンブルビー」の予告編でめちゃくちゃ興奮しましたもの。

 

で、本編についてですが、

やはりアニメーション映画であるのですからアニメーションについて書かねばなりませぬでしょう。とりわけ、ここまで革新的なことをしているアニメーションであればなおのこと。
これはほとんどアニメにおける「マトリックス」と言っても過言ではないのでは、と個人的には思う。つまり、映像表現における革新。
 
映像表現としてかなりハイレベルなことをやっているのですが、しかしそのキッチュでダイナミックな(ドラッギーですらある)手法におんぶにだっこになるのではなく、一つ一つのアニメーションが綿密に描かれている。マイルズが父親のパトカーから降りるときの車体の軋み具合の些細な部分から派手な戦闘シーンに至るまで。
ぐいんぐいん動くカメラワークは、しかしマイケル・ベイのように(なんか毎回悪例としてこの人を挙げてる気が)わけがわからなくなるようなことはなく、計算された人物配置によって観客の混乱を招くようなことにはならない。

ただ、映像のキレがスピーディで編集による情報量も多い(それこそ、言語による情報量で圧倒し、それ自体を無化するシン・ゴジラに迫る)だけでなく、それに合わせてキャラクターの動きも(緩急がしかりついているとはいえ)比例していくため、画面内の情報量がすさまじく「なんだかすごい映画を観たな」という漠然とした感想にしか出てこないくらいでした。

実際、作品に参加した若杉さんは「作っている最中は、「この映像だと、90分間お客さんが観た時に疲れないかな?」と不安だったんです(笑)。でも完成した作品を観たら、そんな不安は吹き飛んでいました。ジェットコースターに乗ったみたいに、気付いたら90分経っていましたね。「あれ、もう終わり?」みたいな感じでした。テンポもすごく早くて個人的にも好みの映画でした。」
とおっしゃっていますので。私的には、もちろん楽しかったんですが疲れもしましたし。
そういう意味では、吹き替えで観るのがいいかもしれません(吹き替えまだ観てませんが)。良くも悪くもBWで目立ってしまっていますが、アニメのX-menを筆頭にアメリカのアニメのローカライズ演出を多く手掛けている岩浪さんですから、その辺は上手い具合に調整してくれているでしょうし。いや、観てないので憶測ですが。


しかしまあ、クレジットの長さとは≒で資本力の違いなわけで、毎度のことながらアメリカ製アニメのエンドロールの長さには驚かされます。そしてその圧倒的な資本力によってのみ実現可能なアニメーションであるということを嫌でも思い知らされる。

日本のアニメーションではデジタル作画とはいえ手書きによるものをメインに補助的にCGを使うことが多いですが、本作はその逆として補助的に2Dの手書きを使っている。それは、文字だけではただの反転のように思えますが、それが莫大な資金と才能の人海戦術によって全力で実行されるとき、それは新たなアニメーションの地平を見せてくれる。

たとえば2Dアニメで、走っている時に足が何本も見えたりパンチのスピードが速すぎて腕が2本に見えるような表現も、今回のような3DCG作品で表現するために2Dっぽさを出すために実際に腕を2本入れたり、モーションブラーの残像線を手書きで入れたりと、コミックの手法でありCGのように完全に統御されたものではないムラやゆがみを表現するためにあえて手間をかけたりと。しかもそれをすべてのフレームにおいて導入しているという。

もちろん、全体の統制の下には細かい部分での調整の支えがある。
たとえば、日本のアニメスタイルのルックであるペニー・パーカーの造形に関してのアニメーションにおいて、CGアニメーターが動きを作り、それを平面的にして、さらに手描きを加えて日本のアニメ的な動きを作り、その段階から意図的にリミテッド・アニメーションの手法を取り入れるなど過去の技術を現代にコーディネートし(スパイダーマンノワールが現代=マイルズの世界に現出しように)、新たな表現のために新たなテクノロジーを一から作る(ペニー・パーカーがそのテクノロジーでもってグーバーを作り出したように)。しかもペニーに関してはほとんど手書きによる作業ですらあります。ほかにも被写体のブレをすべて手書きでやっていたりと、徹底して表現へのこだわりを見せている。

そのような工程をスパイダーマンノワール、スパイダー・ハムなどそれぞれのオリジナリティをきちんと再現したうえで、リアリティをもって同時にスクリーンに存在させなければならないのですから、フィルたちが通常の作品の4,5倍の労力をかけたというのも誇張ではないでしょう。

犬カレーのように、その位相の違いを意図的に際立たせることによるキッチュさとは真逆であり、ある意味で真っ当な表現をしようとしているのがなんとも面白い。

従来のCGアニメでは実写と同じで1秒24フレームであるところを、あえてその半分を基調とし、よりアニメ的な動きを再現しつつもキャラクター単位や場面単位ではフレームを調整してもいるため、それによって動きとしてのメリハリが強調されています。それこそ、マイルズがピーター・パーカーの戦いに巻き込まれるシーンの動きの妙はクレイアニメを観ているようですらあり、場面ごとに異なるモーションをしているのに、それが世界観を壊していないという奇跡的なバランス。
細かいことはわかりませんが、別々のキャラクターデザインのキャラを同居させるために、それぞれのライティングの調整もかなり細かくされていることでしょう。

 だから、場面場面を一つ一つ切り取ってここがいい、というのが難しくもあります。それでも、ライミ版スパイダーマン2のあの有名シーンがリスペクトされていたり、マイルズがスパイダーマンとしてニューヨークの街に飛び落ちていくシーンの美しさなど突出した決めのシーンがあったりするのですが。

 

もちろん、物語としてもこの映画は実に誠実です。

アニメという、それもコミック的な演出という抽象度の高い表現技法において描かれるのは徹底した理想と願望。ある意味で、というか真っ当に「岬の兄妹」のような冷酷な現実の描出の対局にあるといっていいでしょう。

アメリカが直面する(そして我が国も)多様性について、表現そのものから肯定する。異なる世界から異なるスパイダーたちが単一の世界に集う。これが我々が生きる今ここの世界の鏡像でなくなんなのでしょうか。

それぞれにデザインの異なったキャラクターたちが、しかし違和感なく画面に同居していることは逆説的に我々が逃れがたく異なる世界(=文化と置き換えるのも容易でしょう)の他者と共存している・しなければならないことの暗黙の了解でもある。

だからこそ「スパイダーバース」は理想を、それこそバカバカしいと一笑に付されるような理想を、声高に語るのです。この世界のだれもがスパイダーマンなのだと。

エンドクレジット(ここの異様な作りこみも観ていて楽しい)に無数のスパイダーが登場するように、スパイダーバースにおけるスパイダーは我々一人一人そのものにほかならない。
なぜスパイダーマンなのか。これがアイアンマンやバットマン(そもそもバットマンは会社が違うだろ!とかそういうことではなく)やほかのヒーローでは成立しえないのは、それはスパイダーマンが親愛なる隣人だからだ。


スパイダーマンは誰も殺さない。いや、彼ほどの歴史を持つキャラクターではありますし、中にはそういうスパイダーマンもいるんでしょうけど、しかしそのオリジンは等身大の青年であることにある。だからこそ、その等身大の先にある可能性の一つとしてピーター・B・パーカーが登場する。

叔父が死んでも先達たるピーターが殺されても、しかしスパイダーマンというアイコンは決してヴィランを殺したりはしない。なぜならスパイダーマンは私やあなたと同じような隣人であり続けるからだ。黒澤清の「クリーピー」とか、ああいうのはとりあえず脇に置いておいて。

重要なのは超能力ではなく、それとどう向き合うかということだ。
だからスタン・リーは超能力の有無だとかそういう表面的なことではなく本質的なことについて語るのです。「スーパーヒーローとは困っている人を助けることのできる者」だと。

スーパーヒーローとは、文字通りヒーローを超えたものだ。チャップリンが「一人殺せば悪党(villain)で、百万人だと英雄(hero)だ」と述べたのは、もちろん、アイロニーとしてなのだけれど、ヒーローという偶像にはそれを想起させるだけの暴力性を内包している。なればこそ、スーパーなヒーローとは読んで字のごとくヒーローを超(スーパー)越したものでなければならないのです。

まったく青臭くて、高2病の人や自分のような擦れたひねくれた人間には素直に受け止めることは難しい。
けれど、90歳のおじいちゃんが臆面もなく言えたことを、私たちが言わずして誰が言うというのか。


もしあなたが「スーパーヒーローなんて」と思うのなら、是非ともこの映画を観るべきだ。バカバカしいと思うかもしれないけれど、これほど誠実な映画はそうはないから。