dadalizerの映画雑文

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グロテスクな現実を飾るユーモア

ここ数年、ブラックパワーや黒人差別の歴史を再考させる映画が作られてきている。

ここで扱ったものだけでもキャスリン・ビグローの「デトロイトジョーダン・ピールの「ゲット・アウトラウル・ペックの「私はあなたのニグロではない」などがあるわけですが、満を持して名匠スパイク・リーの「ブラック・クランズマン」が公開となりました。

 

事実を下地にしつつもフィクショナルな要素もふんだんに取り入れている本作は、はっきり言ってシリアス一辺倒だった「デトロイト」や狙いすぎているきらいのある「ゲット・アウト」より個人的には好ましい。

フィクションとしての物語を、映画の持つ力を、決して居丈高に高説にするのではなくあくまでユーモアを使って描き出す。一方で冒頭に「風と共に去りぬ」の映像を流すといったように、その映画が内包しているような現実の問題を見据えてもいる。その巧みな構成によって劇映画の魅力を醸した評伝的映画の様相を呈しているのが「ブラック・クランズマン」なのでせう。

劇映画の魅力は色々ありますがキャラクター・設定・展開そのものなど、いくつか要素を抽出することはできるでしょう。

この映画は事実をベースにしていても、そこには架空のキャラクター(ローラ・ハリアー演じるパトリス・デュマス)や架空の展開(言ってしまえば彼女とのやり取りすべてもそうだし、爆弾騒動やカタルシスをもたらす終盤の「俺は黒人だよバーカ(意訳)」のシーンも実際にはなかい)が描かれ、劇映画としての楽しさを味合わせてくれる。それは徹底的に当時のシチュエーションを再現しその手触りや空気感といったものをスクリーン上に現出させようとした「デトロイト」にはないものだ。

けれど、事実をベースにしている以上、やはり現実にあったリアル(KKKが「国民の創生」を観て追いやられる黒人に狂喜乱舞する様など)を、それが結果的になのか意図的なのかはわからないけれど露悪的に描き出す。あるいは、その歴史を生きた・現存する歴史そのものとしてハリー・べラフォンテ(御年92歳!)によって悍ましい過去の事実を語らせる。これはフィクションに徹底し(意地悪な書き方をすれば「耽溺する」)「ゲット・アウト」にはない眼差しでもある。

加えて、スパイク・リーは黒人差別の問題だけに終始しない。それよりももっと大きな枠組みとして「差別」そのものを見据えている。だから黒人差別だけでなく、ユダヤ人迫害についてフェリックスによる歴史修正主義な発言(日本でも高須がホロコーストを否定していましたが)の問題にも言及するし(というかKKKを描く上で逃れられないのですが)、それとなく侮辱的な家父長・女性蔑視な家庭(フェリックスとコニーの関係性)をも描いて見せる。

これらはとりもなおさずスパイク・リーが人種に拘泥しない(だからこそ当事者としても黒人差別に抗う)ことの証左であり、これまで多様なキャスティングを行ってきたことの理由なのではないか。

本作においてもロン(ジョン・デヴィッド・ワシント演)とフリップ(アダム・ドライバー演)の被差別者としてスポットの当たるメイン二人だけでなく同じ署で同じ潜入捜査のチームとしている白人のジミー(マイケル・ブシェミ演)をごく自然に輪の中に入れてみせ、仲良く楽しそうな場面もいくつかある。だから、潜入捜査が終わったあとのバーでの差別警官を嵌めるシーンと、その直後の署長に呼び出されて椅子に腰かけて並ぶ4人の「やったった感」に胸が熱くなるのである。

理想でもありつつ現実の一側面としても確実に存在するからこそ、スパイク・リーはこれみよがしに描いたりはしないのかもしれない。

 

そうして劇映画としてフィクションとして楽しんでいると、最後の最後に現実を突き付けてくる。これがスパイク・リーのしたたかさなのでしょう。

ロンとパトリスが会話をしているとインターフォンが鳴る。銃を構えてドアを開けると、しかしそこには何もない。だが、廊下の窓の向こうには火を放つKKKの姿があり、まるで現実に引き付けられていくようにロンとパトリスの背景がスクリーンプロセスによって背後に追いやられていき・・・そして2017年に起きた一連の「現実」の映像が流されていく。ヴァージニア州シャーロッツヴィルの、グロテスクな現実の映像が。本作で最も強烈な映像が。未だに続く現実の問題が。

この一連のシークエンスにおける異界感はちょっと黒澤清的ですらあり、その異界こそが現代の現実というのがまた恐ろしくもある。

 

ここでこの映画の構造が明らかになる。すでに書いてきたように、この映画はフィクションとリアルを双方向的に描いている。それはKKKと黒人集会で対比的に描かれていたことからもわかる。かたや強烈なフィクション(KKKを再生させた「国民の創生」)に耽溺し、かたや強烈な現実(1916年のテキサス州で起こった詳細を書き起こすことすら悍ましいリンチ事件)を語る。

リアルとフィクションを明確に区別しながらも一本の芯で貫き同位させている。

そうしてフィクションなどよりもよっぽどグロテスクな現実を見据えた上で、そしてやはりフィクションには現実に拮抗し変革しうる力があるのだと信じ、その力を引き出す。映画の魅力と、その危険性も熟知しているからこそだろう。同じ映画である「国民の創生」がそうであったように、「ブラック・クランズマン」が同じく(しかし正反対の)影響を及ぼす力を持つと信じて、両者を同じ直線上に対置させている。

 

この映画ではそこかしこに現実とリンクする悍ましさが見られる。「アメリカ・ファースト」と唄うKKKの理事デュークと同じことを発言するどっかの国の大統領もそうだろうし、頭の方でアレック・ボールドウィン演じるボーリガードなる人物の主張も聞き覚えのあるものだ。

 

ラストのラスト、星条旗が色あせて白黒になる演出は、アメリカの歴史を如実に表している。もっとも、アメリカには白と黒だけではなく黄色も赤色もいるのですが。

この映画で描かれることが、すべて今の日本にも当てはまることであるというのが、なんともやるせない気持ちになってくる。