「地獄の黙示録」
作品そのものよりその撮影のエピソードが語られがちの名(迷)作を、ようやく前編通して観ることができますた。
影の使い方やトランジッションの独特さなど、編集と撮影が凄まじくかっこいい。昔ちらっと見たときは気づかなかったけれど。
極限状態の人間ってああなるのだなぁ、と。あとカーツの国のカットは本当、ぐろい。ピントこそ合ってないけど背景に死体が吊るされていてそれががっつり映っているのとか微に入り細を穿ち世界を作り出しているのががが。
「スティーブ・マックイーン その男とル・マン」
「栄光のル・マン」を観ていないのだけれど、その情熱のほどはうかがえる。なんとなく「バニシング in 60」の系譜に位置しているのかなという気はする。
情熱の所在なさ、折り合いのつかなさ、そういうのを経験した人が見ると結構くるものがあるかもしれない。
自らがスタントを行おうとするという部分は今のトム・クルーズやシャーリーズ・セロンに共通しつつも保険会社との兼ね合いによって引き下がっていたりするのだけれど、でもそれは単純には比較できない。
なぜならマックイーンの時代はまだスターという幻想が残っていただろうし、その幻想の軛に何よりも固執していたのはスター自身だったであろうから。
自らの末期の状態を「ガス欠になっただけだ」と形容するほどのレース狂な彼の一面は、彼をスターのまま佇ませるのかどうか、正直リアルタイムで彼を知らない自分からするとよくわからない。
「ZMフォース ゾンビ虐殺部隊」
「女神の見えざる手」
ロビー活動は予見すること
敵の動きを予測し 対策を考えること
勝者は敵の一歩先を読んで計画し――――敵が切り札を使った後 自分の札を出す
敵の不意を突くこと
自分が突かれてはいけない
冒頭でジェシカ・チャスティン演じるエリザベスが、まるで観客に向かって騙りかけるがごとく(それこそ注意喚起するがごとく)顔面ドアップで上記のようなことを言うのですが、彼女の警告も空しく私はまんまと彼女に騙されてしまいました。
いやだってさぁ、誰もいないところで書類をまき散らすような「出し抜かれた!畜生!」な描写があるんですもの。
それともあれですが、盗撮されているかもしれないとパラノイアな感じであったりするのでしょうか。あと薬のくだりとか、そこまでエリザベスのキャラクターやパーソナルな部分にかかわってくるわけではなく、法廷でのピンチ演出の「ため」だけにほぼ終始していたりするのはもうちょっとどうにかできなかったかなぁと思いはしますが。
ところどころ、っていうかチームで動いているときにミッションインポッシブルのイントロ部分風味な曲がBGMとしてかかったり、たぶんそういうのを意識してはいると思うんですよね。劇中で言及されるのはむしろ「007」なんですが。
音楽とか全体的に落ち着いたムードの漂う映画のせいでまじめな映画に見えますけれど、ウェルメイドというよりももっとエンタメに寄った映画だと思います。
まあコックローチスパイ(勝手に命名)とかのオーバーテクノロジーが出てきたりするのでそれは作り手も意識してはいるとは思うんですが、一方であのテクノロジーは割と近い将来在り得るタイプのものだったりするので(いやまああんなに万能ではないでしょうが)天然ボケの可能性もあるのか。
あのへんはシュールな笑いどころとして処理していいのかな・・・?
キャストでいえばジェシカ・チャスティンの演技が素晴らしいです(小並感)。
それと「キングスマン」以来好きなマーク・ストロングが出ていたりするので、そこもけっこうポイントが高い。
25歳でこれかぁ。すごいなぁ。
なんというか、ある意味で因果応報といえるのでしょうが・・・たとえばこれがタベルニエのあとも何人もこのエレベーターに呑み込まれるというか、地獄少女的なというか、そういう法則みたいなものがあればそれはそれでまた異なったおもん気で観れるような気もするのですが。
偶然により計画が破綻していくのと、そこに子どもの無邪気さというにはあまりに無鉄砲な、まあ普通に悪気があってやっているわけだし。
しかしタベルニエを思ってのフロランスの行動が馬鹿丸出しというか、どうしてそこでその二人を放置するのかとか(まあ社長夫人だし、彼女自身も殺人を画策したわけだし色々と動きづらいのだろうけれど)、あと一歩どうにかならないものかと思わないでもない。
しかしまあジャンヌ・モローのエロさ。タベルニエが現れずに夜の街を徘徊するあの薄幸の美女の感じは葬式でのゴマキの和装に通じるものがある。
ていうかジャンヌ・モローってフリードキンと結婚してた時代があったんかいな。
ウィキの「なお、フランスでは1981年に死刑が廃止されたため、現在のフランスを舞台にしたリメイクは不可能である。」の文言で笑ってしまった。
「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」
ビバリーヒルズ・コップのマーティン・ブレスト監督、「カッコーの巣の上で」のボー・ゴールドマンが脚本ってことなんですが、なんか普通に良い映画でしたぞ。音楽もトーマス・ニューマンでしっとりしつつそこまでダウナーでもなく底から上げるような曲があって。
しかしアル・パチーノのあの目の演技はどうやってんでしょうか。
14年に亡くなったジェームズ・レブホーンやらフィリップ・シーモア・ホフマン(超若い)やらが出ていてちょっと感動。
あと「はっ!」とか一々細かい反応が面白い。あとウィキでちょっと驚いたのが吹替だとチャーリーの声江原さんなのね。マジですか。
迷った若者をおっさんとの旅を通じて迷いを払拭するタイプの理想形では。
そのおっさんが一癖あるのがまた良くて、むしろこれはパチーノの救済にこそ比重が置かれているというのも重要である。
これを観た日にたまたま点字博物館に行っていたこともあって、色々と盲者に思うところがあったのですが、カーネルの場合は先天ではなく後天的で(しかもあまり褒められてものではない事象によって)あるため、その落差(本人にとっては)と除け者扱いによって死出の旅路に出るというのがなんともはや痛ましい。
だからこそひやひやもののドライブシーンの高揚感や最後のスピーチのカタルシスがあるわけですが。
しかしパチーノの最後のワンカット長丁場といい目の演技といい、さすがですな。
「ゲノムハザード ある天才科学者の5日間」
俳優陣と女優陣はみんな好みだし、「屍者の帝国」的なネタとか好ましい点は色々あんですが、演出といい演技といいテレビドラマ的すぎてなんだかなぁと。
西島秀俊ってああいう演技よりもっとサイボーグ的な演技の方が映えると思うんだけれど。キム・ヒジョンとパク・トンハは良い感じなんですけどね。
「変核細胞ジュベナトリックス」
ぐろいっていうか気持ち悪い。
こういうB級ホラーってVHS画質の方がかえっておどろおどろしいような気もするんですけど、ノスタルジーなのでしょうかね。
しかし化け物になると何の説明もなしに怪力になるのは一体なぜなのか。
助手の子がかわいかった。
「摩天楼(ニューヨーク)はバラ色に」
BSは結構時事ネタというか季節ネタというか、そういうのを入れてくるので、これもやっぱり入社シーズンゆえのチョイスなのでしょうか。
ジョーズパロに笑いつつも今見ると(というかおそらく当時からしても)古いというかなんというか。
「心が叫びたがっているんだ」
この冒頭ってギャグ描写じゃないの?あ、違う?マジですか。
禿は黒いユーモアと言っていたけれど、あれって割と本気で悲しいものとして描写しているような気がする。少なくとも「笑ってくださいな~」って提供されて笑うというよりも、明らかに全力でやっているがゆえにその滑稽さを笑うという、ある種の天然っぷりを笑うものなのではないか。もしくは太宰の人間失格を読んで笑うような感じ。
あと、なんでこの手のアニメってやたらとウィキが充実しているんだろうね。
まあGONZOのように本当に虚無なアニメってわけでもないのだけれど、かといって超いいというわけでも超悪いわけでもないというのが何とも評価しづらいところではある。
なんかところどころでリアルな(作品内リアルではなく、現実的なという意味で)描写がある割に所々でファンタジー要素が顔を覗いてくるバランスが絶妙に食い合わせ悪いような気がする。
あとちょっと「200ページの夢の束」的な障壁ががが。まああっちみたいに外界的なものでなく内部から生じているものだからまだ納得いくんだけれど。
「カリートの道」
パチーノが一瞬RDJに見えました。
さすがデ・パルマ。
あまり集中していない状態で観てたんですけど、そんな状態の私を引き付けてくれる力を持つ映画というのがやはりいくつかあるんですが、この作品でも後半の追跡劇は長いカットなどやサスペンスフルな誘引力もあってさすがです。
ラストのシーンを冒頭に持ってくるセンス、因果を閉じているというあの結果はある意味で「メッセージ」にも通じる。
自分らしさという軛に囚われてしまった男の悲哀、とかなんとか。
追跡劇だけでもうおなか一杯。あれ観れただけで正直十二分すぎる。
「蜘蛛巣城」
事情を知った上で観るとMIFUNEが矢で射られるシーンの鬼気迫る表情が演技なのかどうかというのが怪しくなってくる。
しかしまあ、この時代の映画の演技というのは基本的にオーバーな気がするのですが、それを自然に受け入れられるというのはどういう心理なのかよく自分でもわからない。
もちろん全部が全部というわけではないんだけれど。
あと一つ一つの場面が長い気がする。というか、今であればすぐに場面転換しそうなところをあえて持続させているように見える。なんなんだろう、これ。
老婆が消えるシーンのカットとか、すごく映画的でハッとする。
「アリスのままで」
認知症の身内がいるとあまり笑いごとではないんですけど、まあやさしい映画である。
どことなくドキュメンタリーっぽいのは、たぶん人物に寄り添っているからなのかも。登場人物のだれもがよき人であろうと努めるその姿勢と、アルツハイマー型認知症の症状へのストレスとの葛藤とか。
個人的に、アリスの講演のシーンが物語への欲望に引きずられずにやさしい眼差しでのみ成り立たせているところにウルっと来た。
ここで失敗させることも物語的にできたはずなのだけれど、そうはせずにここをむしろアリスのハイライトとして描いている。それはもしかすると監督が筋萎縮性側索硬化症であることと関係しているのかもしれない。病態は違っても、どちらも「以前できていたことができなくなっていく」という恐怖に苛まれる病であるし。
CGもうちょっとどうにかならなかったんだろうか・・・「ALWAYS」じゃないんだから。いや、カメラをパンしたり遠目から撮っていたり、誤魔化そうとしている努力は垣間見えるんですけれどね。坂を下っていくところとかほんとホラーですよこれ。
まあ中坊にありがちな肥大しつつある自意識としての餓鬼どものやりとりはまあまあ好きですが・・・。
二回目のリセットのときの花火の演出、あれって抽象度の高いアニメでやると「そういうもの」として描かれているように見えるから「異なる法則が働いている」花火として見せるならもっと大胆にやって良かったのでは。
「ちはやふる 結び」
上の句と下の句は劇場で観ていて「いい映画だなぁ~嫌なところもあるけど」なんて思っていたのになぜか結びだけは観なかったという謎の采配。
金曜ロードショーで珍しくいいチョイス(日テレ出資だからだろうけど)してくれてラッキー。
しかしこうして観ると画面のあのぼんやりと光った感じの彩度すごい。
いやぁ、でもいい映画でしたよ。といっても、何となくキャラの描き方とか展開のさせ方がすさまじいまでの最大公約数的なのがもったいない気もするといえば気もする。
あと試合直後の閉会式?のシーンだけ若干トーンが違うんだけど、あれって演技じゃないのかしら。編集も凝ってるしいいなぁ。
しかしさすがテレビ屋。エンディングを流さないその采配。
「ブレックファスト・クラブ」
なんだろう、この感じ。「フェリスは~」を観て以来、どうにもジョン・ヒューズという監督に対してモヤモヤするものを感じる。
この映画に限ってみれば、各キャラクターが関係性を変容させハッピーエンドに結び付いたように見える。構成が不思議だけど。
ほとんどピアカウンセリングの様相を呈しており、それのみで構成されているといっても過言ではない作りなんですよね(ほとんど同じ部屋でだけの撮影だし)、これ。30分もの間お互いにけん制しあっていると思えば、最後までほぼそれだけであるといえばそうだし。本当に、ナラティブのみでできているという歪さ。いや、確かにユーモアのあるシーンはたくさんあるんですけれど。
ジョン・ヒューズのエモーションの発露としてのダンスシーンは相変わらずあって、そこは確かに楽しいのだけれど、同時に何かやけくそ感もある気がする。
それぞれに異なる事情を抱えた「他者」を理解する。思春期の肥大した自意識と折り合いをつけて。しかしみんながみんな、大小・質は違えど家族との問題を抱えていて、それゆえに共感しあうという部分は、ジョン・ヒューズのパーソナリティに何かあるのだろうかと疑ってしまう。「フェリス~」のラストとかを観ていると特に。
バスケットケースちゃんが「大人=悪徳(意訳)」みたいな発言をしていたり、全員が親による抑圧を受けているというところと、「フェリス~」においてフェリスが成長をせずに元の位置に留まったのを考えると、大人という存在への不信があるのかなぁ、とか考えたり。思えば、フェリスのオプティミズムに貫かれたあのキャラクターと帰結というのも、逃避的といえば逃避的ではあった。
そこまで考えると、「ジュマンジ ウェルカムトゥジャングル」ではしっかりと各キャラクターたちが学校で再会して関係性の変化が継続していることを示していたのに対し、「ブレックファスト・クラブ」において変容を遂げたそれぞれのキャラクターはしかし親が運転してきた車に「回収」されてしまうところで終わる。
確かに最後のカットはジョンが陽気に帰路につくシーンだけど、それこそ「ジュマンジ~」のように描くことがやっぱりすっきりする形だと思うんですよね。
それを描かず、親=(大多数の)大人によって回収されてしまうというのは、やはり大人が彼らにとって軛として機能し続けていることを暗示しているようにしか思えない。
なんというか、すごく尾を引く形の終わり方なんですよね。
先日のブレグジット延期を受けて緊急で放送することになったとか。
あらすじ:2016年。政治戦略家ドミニク・カミングスは、EU離脱国民投票に向けて、イギリス独立党のロビイストから離脱派の選挙参謀になるよう依頼される。依頼を受けた彼は、データアナリストの協力のもと、高度なアルゴリズムを使い、相手陣営も知らない有権者でありながら投票したことのない人々「存在しないはずの300万人」を得票のターゲットに絞り込む。そしてソーシャルメディアで離脱を訴えるキャンペーンを始めるのだが…
禿たカンバーバッチという絵面がすでに面白いのですが、つい先日「女神の見えざる手」を観ていたこともあって色々と思うところが。
イギリスのEU離脱の是非はともかく、「女神~」もそして事実を基にした「ブレグジット」もプロパガンダが電子戦に移動しつつあるというのに、日本はどうなのうだろうと。
もちろん、どの国も旧態依然としたご老体どもが蔓延っていて、むしろそこに新しい風(というにはあまりにも暴風なのだけれど)を吹き込むことで離脱までもっていったということなのでせう。
物理学者まで動員する、というのが驚いたけんど、そこまで根幹的な部分からアルゴリズムを作り出す徹底ぶりがあってこそ可能となったわけなんでしょうな。
まあでも、やっぱり日本と似ているところがあるなぁ、と。