dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

GXのテーマと5Dsのラスボスネタを思い出した。

それはともかく前作に比べて全然宣伝されてない気がする。

だからといってこの傑作には傷一つつけることはできないのですが。

しかしあまりにも宣伝されていないので気になって前作の興行収入を確認したら日本での興収はなんと2億円にも満たないレベルだったんですね。「レゴバットマン」にいたっては1億2千万ですし・・・自分のようなオモチャスキー以外はほとんど観に行ってないということなのか。私が観た劇場も吹替しかかかってなかったし。

今回も朝一とはいえ自分とおじさんの二人しか客いなかったし、もしや子供向けと舐められているのではないだろうか。子供向け映画としてしか認知されていないから大人は観に行かないし、子どもは子どもで「ドラえもん」とかそっちに流れてしまうのだろうか。

だとしたらとんだ見当違いをしている輩がいるということなので、ただでさえ傑作である「レゴムービー2」だけれど、今回は必要以上に褒めちぎっていくことにしたい。そんでもってもっと客が入ってもらわないと、今後また続編が作られることになっても興収が見込めないからビデオスルーなんてことになりかねませぬし。

そんな傑作「レゴムービー2」ですが、前作で監督を務めたフィル・ロードクリストファー・ミラーのコンビは今回脚本と製作に回り、代わりにメガフォンを取ったのはマイク・ミッチェル。この人の監督作品では「トロールズ」は観ていたのですが、ビデオスルーだったのであまり観ている人はいないかもしれませんね。まあ傑作とはいいませんが、「シング」と同じ方向性でよりミュージカルっぽさを強調したCGアニメーションといったところでしょうか。

とはいえユーモアセンスは確かにあったしほかのフィルモグラフィーから察するに今回の物語を描く人選としては割と納得できるものではあったりします。

 

あ、それど、今回はパンフレットの情報がめちゃくちゃ少ないので購入はお勧めしません。

 

そういうわけで「レゴムービー2」。

ただの続編ではなく、「レゴバットマン(傑作)」をも包括しているし、何より前作で歌っていた「すべては最高」というテーゼを揚棄しているという点で、まさしく続編の在り方として正統な存在であるといえる。

 

前作で描かれた子どもの(心が)持つ想像力の称揚は、しかし言ってしまえば一人遊びによる「他者の不在」が明確に描かれてもいた。その不在の孤独を埋めるための想像力でもあり、だからこそ最後に父親という他者との邂逅と別なる他者の存在を匂わせることによって幕を閉じた。

であれば、本作で他者とのかかわりが描かれるのは必然であったともいえる。

前作の大きなポイントとしてあった現実世界とのかかわりを前提にしているからこそ、それを存分に使って他者(今作では妹)との関係を大胆に描くことができたのでせう。

幼い妹という大人以上に理解不可能な他者。

彼女の創造物としてブロックシティ(=現実のフィンの空想世界)に最初に現れ町を破壊しつくしていくのが奇妙キテレツでいてどこか原初的な生物を思わせるデュプロ(より幼児向きのレゴ的なブロック玩具)星人たちであり、その5年後にボロボロシティ(=成長してしまったフィンの心の心象風景)に現れるのが、機械的・無機的なスペースシップに搭乗した、これまた機械型エイリアンぽいメイヘム将軍というのは実に面白い。

同じく5年の歳月を経てデュプロ星人よりもコミュニケーションを取りやすい人型でありながらも、しかしエイリアンという他者性・理解不能性は未だ有しているということの表現であることは一目瞭然。

そもそもが、レゴの世界とは兄であるフィンと妹であるビアンカの心の世界そのものであり、その世界で描かれるシスター星雲のキャラクターとブロックシティのキャラクターとの掛け合いはすべて兄妹のコミュニケーションに他ならない。そして、それぞれのキャラクターは人物の心理や考えといったいくつものペルソナの代行でもある。

だから兄のアウェイであり兄の視点を持つブロックシティでは妹という他者はエイリアン(=異邦人)として描かれれ、コミュニケーション(戦闘)を経てヘルメットが抜けて素顔が露わになるという構成。

シスター星雲という妹のアウェイにおいてはすべてが真正直なコミュニケーションとなってしまい、兄の大人(であろうとする)な部分の表象であるルーシーがそれを信じ切れずに意思疎通を阻害してしまう。そして、だからこそルーシーの本位というのもが明らかになるとテーマが一貫していることに気づかされる。

逆に孤独の表象としてのバットマンは、孤独ゆえにたやすく懐柔されてしまう。よく考えれば人間の心の一部の表象としてバットマンを用いるという発想がすでにすさまじいのですが、あくまでコミカルに描くためにはレゴという三頭身デフォルメされた世界観だからこそでもあり、その辺の組み合わせも計算ずくだったのだなぁ、と「レゴバットマン」と合わせてみるとその周到さに脱帽する。

他にもキャラクターはいますが、どことなくベニーが馬鹿っぽく描かれているのは・・・たぶん、幼稚というか純粋に物事を楽しむマインドなのでしょう(適当)

 

ありていに書いてしまえば、「レゴムービー2」はレゴを通して他者を理解しようとする物語という側面が一つある。

とはいえ、他者を完全に理解することは未来永劫不可能なことだろう。第一、自分で自分のことをすべて理解するのができないのに、他者を理解するなんてもってのほかです。

けれど、理解できないからこそ人は人を理解しようとするのです。だから「すべては最高じゃない」の後に続くのは

But that doesn't mean that it's hopeless and bleak」

であり

「We can make things better if we stick together」

であり

「Side by side, you and I, we will build it together Build it together All together now

なのです。すみません、吹き替えの歌詞忘れたんで元の歌詞持ってきましたけど、何となく意味は伝わるかと思います。

 

この歌からもわかる通り、前作の「Everything's awesome」を一度否定し、さらに高度な次元へと押し上げる弁証法的な歌であり本編なのです。

 

そしてもう一つ、「レゴムービー2」を語る上で重要な要素がある。「変わらぬこと」。もちろん、それは保守的になるという意味ではないし、他者を阻害したりするというわけではない。

ありきたりだけれど、童心を持ち続けるということ。でも、それをここまで徹底的に、それこそ「大人」的なる価値観に歯向かってまで真正面から描いてくれる作品はそうはない。

さらに言えば、エメットの未来の姿であるレックスが最期に口にした通り、そういう大人がいて反面教師として学べたからこそその大切さを知ることができたのだと肯定する。大人を否定的に描こうとも決してそれ自体を否定するのではなく、あうふへーべんするために必要なものであったと云う。

 

レックス周りのことやルーシーに呆れられるエメットを観ていて思ったのは「フェリスはある朝突然に」だった。変わらないこと、あるいは成長しないという言い換えが可能であるならば、「レゴムービー2」と「フェリス~」はやっぱり同じようなものとしても観れてしまう。

ただあちらは、どちらかというとそこはかとない否定を冠した願望としての「変わりたくない」という印象や「変わらなくてもいい」といった何か意地のような含み感じたのに対し、「レゴムービー2」はもっと積極的で信念に貫かれた「変わらないことは素晴らしいことなのだ」と訴えているように思える。

両者に共通するのは、逆算的なものだけれど部分的にせよ全体的にせよ「大人=現実」という存在への反逆にある気がする。

今回、フィンとの軋轢が生じるのは妹なのだけれど、しかし敵(って書くと語弊があるんだけど、やっぱりレゴの世界を壊そうとする者なので・・・)として登場するのは現実世界では両親(というかほぼ母親)だし空想世界(レゴワールド)では「大人になった」エメットだ。父親はほとんど声のみでしか登場しないし前作から「まるで成長していない…」し。

 

とかなんとか書いていて思ったのだけれど、「フェリス~」って日本における「エヴァ」のようなものなんじゃないかしら。描き方や細かい部分は違うけれど、成長の拒絶という点では通底しているし。

でも「レゴムービー2」はやっぱり、「フェリス~」とは違うような気がする。それをさらにもう一段上に引き上げているような。

そう考えると大人のエメットが「マトリックス」を「大人の映画」として持ち上げたのも意味深長に思えてくる。だって「マトリックス」って大人の映画じゃないでしょう。あれはもっとオタク的な趣味が大爆発した映画で、むしろ童心によって作られたような映画だもの。そうじゃなきゃタランティーノが推すまい。

その意味で、伊藤が指摘するようなギリアムの「物語は現実より強い」精神の顕現としてこの映画はあるのかもしれない。

実際、この映画の中には想像が現実を浸食するシーンがある。

 「洗濯機の下」という暗く薄汚い現実に打ちのめされたレックスが、まさにその洗濯機の下でエメットにとどめを刺そうというシーンがそれだ。ここで、二人の戦いがギャグの演出として現実的なモーションになる(要するに可動がひどく制限され、単にミニフィグがぶつかり合うだけ)のだけれど、それは多分ギャグだけでなく二人がまさに現実に来てしまったことの証左でもあるのではなかろうか。

そこに現れるのがルーシー。彼女の登場によって「洗濯機の下」という現実は一瞬にしてレゴ空間=空想の世界によって浸食される。

この空間にこの三人がいることの意味。童心のままであり続けるエメット、童心を捨て大人になってしまったレックス、元は誰よりも童心を持っていたが大人への成長の手招きに導かれそうになっているルーシー。

もちろん、エメットはルーシーの手を取るのだけれど、前述のとおりレックスを根底から否定しない。なぜならこの三人は三位一体の関係にあるからだ。そもそもが、フィンという人間のパーソナリティの片りんであるのだから、欠けていいはずがないのだと。

それが「フェリス~」とは違うところなのだろう。

 

(汚い)現実を睨めつけながら全力で理想を掲げる映画が「レゴムービー2」。

考えてみれば、同じくフィル・ロードが脚本を務めた「スパイダー・バース」もそうだった。「現実は厳しいものだ」と知ったような口をきく大人の提示する現実を享受しないで、声高に理想を叫んでいた。

 

 褒めちぎるためとはいえなんだか大仰なことを書いてきたけれど、単純に観ていて楽しいというのがまず重要なことである。

 

 テンポは良すぎるくらいだし、単純にレゴの組み立ては楽しい。わがまま女王の一々変形するアニメーションは特に歌に合わさっていて無駄にテンションが上がる。

DCEXユニバースではやたら暗いのに「レゴ~」でのDCコミック勢はやたらと明るいし(ラメ入り)、マーベルは来ないとか、バットマンのあほ可愛さとか、マッドマックスな世界観とか、猿の惑星パロとか、バナナが「おかしなガムボール」のバナナ・ジョーに酷似(すっとぼけ)していたり。とかとか。

やたらブルース・ウィリスが本人として登場したり、お約束の禿ネタやダイハードネタがあったり、なぜか彼のネタが豊富なのも笑えます。

ブルースの吹き替えは多田野曜平なんですが、野沢那智に寄せているので結構それっぽいです。声質的は割と青野武に似ている多田野さんですが。

他にも声優で笑える部分はいくつかあります。脇役に岩崎ひろしを酷使していたりとか、吹き替えも吹替で吹きで字幕とは異なる視点から楽しむこともできますしね!

 

細かいネタやナンセンスなネタも大量に仕込まれていますから、少なくともつまらない場面はありませぬ。画面の情報量多くて疲れるけれど。

 

さいころに姉とよくお人形遊びをしたのを思いだしました。今でもやってるんですけどね、ええ。