dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

徹底した共感の下で描かれるサイバトロン星人

期待しすぎた。期待しすぎていた。

いや、確かにトランスフォーマーというコンテンツに対する愛憎入り混じる感情が映画としての正当な評価(偉そうですが)を邪魔していることは否めないとはいえ。

あとトレーラーの音楽が良かった、というのもある。

いや、良い映画ではあると思いますが、ここ最近の傑作群に対するほどの熱量は正直あまりない。

 

ヘンリーの体つきは良かったですね。特に二の腕の太さは、車いじりが好きというキャラクターにもしっかりコミットしているし。

しかし、徹底して共感と理解を示すこの「バンブルビー」においては、映画内で描かれる共感的行動から観客(要するに私)がはみ出してしまうと、途端に排斥されているような気分になってしまう。

まず第一として車。まあ、これは07年の一作目トランスフォーマーでも描かれていたからゼロ年代までは少なくとも「カーズ&ガールズ」が有効だった(本国では今もそうなのかな)のだろうけれど、都会っ子であり車というものにそれほど欲を掻き立てられない自分としてはチャーリーの執着は共感不能なものである。

いや、だからといって理解できないわけではない。脚本上、父親が彼女に車の修理を教えたわけだから、その父を亡くした彼女にとって車というものに対する思い入れが人一倍強いのもうなずけるし。

そもそも、映画において共感なんてものは決して重要なものではないんですけど、映画のほうから共感を煽る(ってなんかすごいなこの字面)つくりになっているように思えるのだから、それに乗れない自分が疎外感を抱くのは許してほしい。

これが徹底して共感しようとしているのは、たとえば選曲もそうだしやたらと音楽をかけるところも、思春期の少女という存在に積極的に共感しようとしているからだ。

GotGのようにある種の伏線だったりキャラクターの関係性や状況だったり、というものに用いられるわけではない。そういうのはもっぱらスコアの方に託されている。

アイアンジャイアント」っぽいなーとか「E.T」っぽいなーと観る前から思っていましたけど、正直なところそれらの方が好きかなぁ。これはまあトランスフォーマーというフォーマットを使っていることによる功罪でもあるんでしょうけれど、未知との遭遇もの+ジュブナイルをやるのに、未知の相手の素性を最初から明かしてしまっているためにミステリアスな存在としての魅力がなくなってしまっているんですよね。人間よりも先にトランスフォーマー側とバンブルビーの方を先に描いている時点で、未知もくそもないわけで。

とはいえ、それははっきりと取捨選択による意図的なものである。その代わりにバンブルビーはより身近な存在として、最初からコミュニケート可能な存在として描かれる。それってエイリアンを描くにはキャラクターとして葛藤が生じているような気がするんですが、共感しやすさと理解可能な存在として描くという方向性を打ち出しているのはパンフなどからも明らかで(チャーリーとビーを傷ついた者同士としてとらえているし、引用される「ブレックファスト・クラブ」なんかまさにそうだろう)、そこに突っ込むのはないものねだりなのでしょう。

エイリアン=異邦人の共感と理解を第一に考えているというのは、設定面からも見て取れる。

マイケル・ベイの方ではなぜ地球の言語を使用できるのか、という点がしっかりと言及されている。それは要するにエイリアンが本来的には別の言語を持つ別の存在であるということを示しているものでもあるんだけれど、今回はそういうSF的なくすぐりはない。ベイのシリーズにおいては地球人には理解不能なサイバトロンの言語が音としても文字としてもはっきりと登場する。それが彼らのエイリアン性や理解不能性を浮き彫りにしていた(そもそも制作陣がTFのキャラクターを描くことに興味がなかったんでしょう)のに対し、「バンブルビー」ではトランスフォーマーたちがなぜ英語をしゃべることができるのかという部分には全くと言っていいほど言及されない。まるで所与のものとして有しているかのように流暢に地球の言語を話す。なんなら、母星である惑星サイバトロンでさえ彼らは英語(吹き替えだと日本語なのかな)で喋る。

これほどまでに共感や理解というものを全面に押し出していることと、昨今の世界情勢を絡めることはそう難しくない。実際、近作で描き方は色々・間接的であれ直接的であれそういうのを描いているものはあった。

まあ、マイケル・ベイはゴリゴリのマッチョ思考(を皮肉るタイプでもある)な人間なんで、移民がどうとかほとんど興味ないのだろうけど、「バンブルビー」みたいにそういうのを意識しすぎるがあまりに楽しさが減じてしまうのも考え物ではある。

そういう、他者との共感を通じた理解を描こうとしている(都度都度書くけどブレックファスト・クラブの引用なんてモロだし)がために、第一段階での共感ができない自分のようなお呼びでない観客には向いていなかったのだなぁ、としみじみ思いましたですよ。

少なくとも、マイケル・ベイが初めて人類にいい仕事をしたとまで言われた「トランスフォーマー」とは全く違っている。

あっちは「トランスフォーマー」を実写で描くことの一つの成功であると言っていいだろう。いや、もちろん「画面が見づらい」とかそういうマイケル・ベイの諸々のダメな部分は認めたうえで、それでもやっぱりボンクラが車と女の子をゲットするというフォーマットにトランスフォーマーという存在(とその未知の存在に対する人間の対応)をシミュレーションした成功作であった。それは平成ガメラとかシン・ゴジラに近い欲望の形で、だからこそ特撮オタクや少年の心を持った輩には受けたのだし。

 

で、「バンブルビー」が代わりに得たもの――そうやって共感や理解を最優先しているためにキャラクターへのお膳立てのように見える舞台がままある。飛び込みのシークエンスとか。

や、車のルーフから上半身突き出して「ふぉー!」ってやってるシーンのエモーションとか、背景のうねうねした土地と海とかライティングとかはすごい好きなんですけどね。

アクションに関しては、マイケル・ベイの指示下の編集よりもしっかりと見やすくなってはいる。ラストのビーとドロップキックの戦闘はおそらく1作目のビーとバリケードのオマージュなのだろうけれど、マイケル・ベイののようにやたらとカメラを動かしたりはせずチャーリーを中心に据えてその背後で肉弾戦を繰り広げるようなやり方はやっぱり見やすいし。

 

トラヴィス・ナイトは今回が実写作品初だしスタッフも今までの勝手知ったる仲間とも違うから、正直なところどこまで彼が手綱を握っていたのかはわからないけれど、今回に関して言えばもっとチューニングのしようがあっただろうとは思う。

これまでの作品は割と自らが主導でやってきていたのに対し、今回は雇われ仕事感が強いというのもあるのかも。

 

そんな「バンブルビー」で一番共感したのは、映画本編ではなくプロダクションノートでのオーティス役のジェイソン・ドラッカーくんの「おもちゃのトランスフォーマーをなかなかトラックに戻せなくて。トラックからトランスフォーマーにするのは問題なくできるのに、ドアの左右や頭のたたみ込み方がよくわからないんだ。まるでルービックキューブみたいさ」という発言だったりする。下手するとパーツもげたりしますからね。

そんなわけで、5歳の少年の心が未だに生息している私からすれば本編で一番心躍ったのは冒頭のサイバトロン星のシーンなのでせう。

が、ぶっちゃけ、あれにしてもG1デザインに寄せすぎているせいでWFCとかFOCとか「いやゲームのムービー画面ですかいな」という気分になったりしていたんですけど。

全体的にG1デザインなのにバンブルビーだけ実写シリーズの意匠(特に顔面)を残しているせいで違和感も強い。だって同じスタイルであるクリフジャンパーがG1よりな顔なんですからねぇ。「トランスフォーマー プライム」から引き続いて、無残な死に方をしてしまった彼ですが、あれってビーのせいでもあるんですよね・・・とか色々考えたり。

 

 パンフレットのストーリー部分でチャーリーがトリップ(半裸になるパツ金ボーイ)が気になっていると書いてあるんだけど、そうかな?という部分もあって、この辺はストーリー書いた人はもうちょっとね。

あとシャッターの声を当てたアンジェラ・バセットさん(ブラックパンサーで陛下の母親をやっていましたね)の声が良いです。

他にもいろいろと過去シリーズへの目くばせが結構あって、セクター7の基地がちゃんとフーバーダムにあったり(おかげで1作目の設定と齟齬が生じたけど!)、最後にカマロをスキャンしたり。

あとめっちゃ早いビートルという絵面もバカバカしくて楽しかったですけど、世間の興奮ほどには自分は熱狂しなかったですね。

 

それこそ、熱量だけで言えばまだ「最後の騎士王」への怨嗟の方が勝るくらい。