dadalizerの映画雑文

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異界を現出させる方法とテクノロジーへの反発

まったくノーマークの映画だったのですが、何かの拍子に予告編を目にしまして、その時点で「あーこれやばそう。観なきゃ」と思いuplink吉祥寺へ。

uplink系列は渋谷とか吉祥寺とか、オサレで人の多いところにあったり(渋谷の方はちょっと外れるけど)不必要に内装がオサレだったりするので、劇場までの道程とか劇場内での自分の場違い感とかを意識してしまって個人的に居心地が悪かったりするのですが。

いや、そういう極めて個人的な私情を除けばいい場所なんですよ。展示とか空間も凝ってますし。

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 (余談ですが、この撮影のあとに展示が撤去されていた)

あとはシネコンでは絶対知り得ないような映画の情報を仕入れることができるというだけでも、こういうところに来る価値はありますし。

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前置きはこの辺にして「阿吽」について書いていこうと思います。

 

20XX年。

都内大手電力会社に勤める男は ある晩会社にかかってきた電話をとる。

電話口からは「ひとごろし」という声がした。 幻聴か、現実か。 神経衰弱に陥った男の日常が徐々に揺らぎ始める。 救いを求めて彷徨い歩く男は、 やがて得体の知れない巨大な影を見る。

その正体は何なのか。 男の不安が頂点に達した時、 ついに“魔”が都市を覆い始める――

 

というのが公式サイトのストーリーなわけですが、まあここだけだと(サイコ)サスペンス(ホラー)やらミステリーやら、そっち方面なのかとも思えるわけですが、ホラーと言い切ってしまうとそれはそれで語弊がある気が。

はっきり言えば、よくわからない。観終わった後に振り返ってみても、やっぱり「あのシーンってどういう意味だったん?」と思うようなシーンもあったりで。

パンフレットの座談会(重要なワードや指摘が出てくるのでぜひ買うことをお勧めします。薄いですが200円ですし)で千浦さんはホラーだと感じたようで、もちろん私自身も似たような印象を受けたのですが、それはむしろシーン単位での印象で、全体を貫く印象としては少し趣が異なる。

楫野監督も「映画全体としてホラーを意識したわけではありません」と述べていますし。ただ、観る側の印象がホラーというのは確かにあると思います。

それでもものっそい強引に枠にねじ込むのであれば、個の視点を欠いた怪奇風ディザスタームービーというか。自分で書いててよくわからないんですが。

ただ、主観を廃しているというのは意図的なもののようで、座談会の中でこんなやりとりがある。

 

田村千穂「楫野監督の映画は、とても客観的ですね。後略」

楫野「映画をつくる際にいつも心掛けているのは、何かに肩入れするようなことはしないということです。平等というか……。」

千浦「平等をやると、残酷になるのです。」

楫野「人間の内面は描けない、映画では。けれども人間を描く、それはどういうことなのか。等しく撮るしかない。寄っても離れてもない面は撮れないという思いはあります。」

 

だから主人公(って書き方もすごい違和感がある)の岩田寛治の内的な部分はまったく描かれない。そのスタイルはあたかも想田監督の観察映画然とすらしているし、自分がイーストウッドに感じている観照的態度にも通じる。

起点として彼にかかってくる奇妙な電話や、ネットの書き込みを読んでノイローゼ気味になっていく描写はされている。彼が急に泣き出してしまう演出や街を彷徨う姿に観客は彼のメンタルを慮ることはできよう。

けれど、どのカットにおいても隔絶した一線を引いている。決して画面を揺らしたりドアップで寄っていったりはしない。「ただそうあるものをそう切り取る」と言わんばかりに。 だからこそ、彼が陰に呑み込まれていく過程と呑み込まれた後の行動は、観客の理解を拒むような突飛さがあるように見えるのでせう。

無論、再三にわたって述べていることですが完全な客観というものはありえない。寛治の恋人である志帆が別れた後に荷物を取りに来る場面は監督の体験をベースにしているという発言からもわかるように、そこにはどうしようもなく主観が立ちあらわれてくる。

私たちは主観を通してしか現実を認識できないのだから、どれだけ客観的に振舞おうと・演出しようとそこには主観による選択が発生する。

それを意識したうえでなのかそうでないのかはわからないけれど、スタッフ紹介の項目を読むに、それを分かった上でなお映画の持つ「無慈悲にも(そして無慈悲な)」そのままの「現実」を切り取りうる可能性を追求しているのかもしれない。

 

本作には、直接表現されることはないけれど、原発やら首都直下型地震やらゴジラやら、そして何より寛治が磨滅させられるという事実それ自体に対する、一種の社会問題的な視座はあるでしょう。

第一稿ではオリンピックを標的にしていたらしいですし、少なくとも原発に関しては監督本人がテーマとして掲げているし千浦さんの「『阿吽』の主人公は、いうならば、人間サイズのゴジラですよね。ただし放射能ではなく、人の精神のネガティブな力で怪物化して、加害者側にまわって暴れるという。」発言に対して(ネガティブな~の部分への回答はせず)「はい、ゴジラはけっこう意識していました。」と答えている。もちろん、ほかにも「吸血鬼」「ノスフェラトゥ」など監督自身が意識したと言及(認めた)したものはあるのだけれど、「ゴジラ」はかなり直接的なテーマを帯びているだろう。

もっとも、それは台詞上のものでしかない。

ゴジラという単語が劇中の女性キャラクター(志帆とその友人)の会話の中で出てくるのだけれど、それがもうゴジラを詳しくは知らない世間一般の通り一遍な会話なんですよね(ゴジラの身長は作品によって違うんだよ!)。彼女たちはゴジラを知っていても、その仔細は知らないことがこの会話の中で示される。

また、それと似たようなものとして地震の描写が何回か挿入される。すべての起点となる地震の描写(ここで寛治だけほとんど揺れていない気がするのは、彼が震源だからだろうか)からラジオによる放送、そしてまた女性キャラクターの「首都直下型地震こわいですよねー」という浮薄すぎる会話。

ここまでのことを考えれば、ゴジラ原発の隠喩としてくみ取ることは決して無茶ではないだろうし、そこに地震が結び付けばどうしたって「3.11」を想起せざるを得ない。本作にコメントを寄せる人たちの中でそれを意識したものがいくつもあるのは無理からぬ話だ。

そうなると、渚に映る風力発電の風車。あれは3.11以後の福島の海辺に建てられた原発の代替物としての風車なのだろうか、とも思ってしまう。本当のところはわからないけれど、あの渚では寛治から早苗に影(監督の言うところの「光」や「希望」なのでしょうが)の継承が行われたりするし、ある種のグラウンド・ゼロな空間性を見出してしまう。

この映画の不思議なところは、しかしそのような問題意識は映像の上では表現されないところにある。もしかすると、それが監督の言う「客観的」なのかもしれない。

 

ほかにも「阿吽」において重要なファクターがある。影。

最も印象的な影はもちろん寛治が呑み込まれていく大きな影とラストの陰。影に至るまでの過程で、神経衰弱に陥った彼はほとんど統合失調症的な挙動を繰り返していたのですが、監督はこの仕草を「人にとって大切な、希望であったり光であったり、そうしたものをつかまえようとしているのです」と表現している。続けて「現代においてはそういう気持ち――真実を追い求めるような――が、逆に人間を鬼にしてしまうのではないかと。」とまで発言している。まー平均的な凡夫から言わせてもらえばあれは虫をつかまえようとしているようにしか見えませんが(笑)。

希望を求めた末に鬼胎転じて鬼となる、というのはなんとも皮肉なことではありますが、現実的な視座を射程にいれている本作に何もまどマギ的な観念を導入する必要はないでしょう。

この希望というものを「人々が望む(二元論的な)正義」といったものに置き換えればかなり現代的に納得のいくものになる。

それを希求する流れが速く大きくなった先があの怪物であり、現代そのものなのではないか。森達也が「A3」で述べたブラックホールのようなものが、この怪物なのではないか。

その意味では、3.11より以前からこの流れは形成されていたのかもしれない。大きな分水嶺として3.11があっただけで。

 

 あと人を殺す描写がエグ怖い。最初の人殺しシーンの寛治の飛び出し方と殺しきるまでの過程を足首だけに託してワンカットで見せたり(そのあとにまた部屋から出てくるのが怖い)、あるいはその結果だけを淡々と見せていったり、殺人の予兆と結果だけを見せたり。扉の持つ空間の断絶性というか、「こっち」と「むこう」を感じさせる使い方で久々にぞくっとするものがありました。

また予告編にもあった、あのコンテナ?が積まれた人気のない通りで顔面を殴打しまくるシーンを遠目から撮っていたかと思えば、ぐちゃぐちゃになった男の顔が割と臆面もなく映されたりするその緩急。

逆に殺されない人がいる、というのも現実の無慈悲さというか不条理みたいなものを逆説的にあぶり出していてすごい好きなんですよね。おっさんが車を奪われるシーン。

 

 

上映後のトークショーで、なぜ80ミリなのかについてゲスト2名(中原昌也・田村千穂)から訊ねられていて、監督は「これまでデジタルだったから、フィルムをやってみたかった」という極めて原初的な「やってみたいからやってみた」という理由以外はあまり述べていなかったのですが、座談会でその辺はしっかりと言及されていました(これに対する千浦さんの言い換えは、ロメロの「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」にも言えることのような)。

その一つとして「吸血鬼」「ノスフェラトゥ」の、あの死の雰囲気を出したいという理由があったらしい。

自分の無知を曝すのは恥ずかしいのですが、「吸血鬼」も「ノスフェラトゥ」も名前だけで実際に観たことは一度もないんで、雰囲気がどうというのは比較できない。

 

ただ、私なりに解釈するなら、死の雰囲気=異界の表現にあるのではないかと思うのです。

それはフィルムだけでなく、ショットやカットにも言える。会話シーンでバストサイズで人物を切り取っていたり、あまりカットを割らずにシーンを持続させたり、という撮り方自体も古典的な映画を想起する。

ここで見えてくるのは、現代(まあ設定としては近未来とも近過去とも捉えられるのですが、すくなくとも2000年代ではある)の日本の都市。現代という時代性を、古き手法で切り取るということで生じる異界感。それこそがこの映画の映しだしたものなのではないかと思うわけです。

現代的な風景、現代的な人物(その服装なども含め)、それら「いま、ここ」にある現実をアナクロな80ミリというレンズを通すことで「現代(いま)を過去で切り取る」という時代性の齟齬の、その気味悪さを現出させたかったんじゃないかなーと思う。

実際、観ている間、常に違和感があった。気色悪くすらあった。

ただ80ミリで撮っているだけなのに、ものすごく気持ち悪い。それは今を撮っているからだろう。しかし、なぜこれを今まで誰もやってこなかったんだろうか? 自分の中で生じたその疑問自体が、一種の現代という時代性(とそれに対する批判意識)を帯びているような気もする。

 

そういう意味で、この映画は現代という時代を顧みているのかもしれない。

 

 それと最後に、監督は「阿吽」というタイトルには「とても大きな意味があるんです」と言っているけれど、どういう意味があるのかまでは述べられていなかった。

で、パンフの裏表紙をみるとこんな画像がありまして。

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まあ、完全に深読みなんですけど(映画本編の外だしね)、寛治が「希望をつかまえようとする」シーンの画に「阿」、早苗がその希望を感染させられたシーンの画に「吽」の文字がプリントされているのは、やっぱりそういう意味なのかなぁ、と思ったり。

いや、ないか。