dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ちぐはぐ

 原恵一作品は基本的に原作ありきというわけで、今回も柏葉幸子の児童文学「地下室からのふしぎな旅」をベースにしているらしいのですが、例のごとく未読。

 

以下ストーリー

誕生日の前日−自分に自信がないアカネの目の前で地下室の扉が突然開いた。そこに現れたのは、謎の大錬金術師のヒポクラテスとその弟子の小人のピポ。「私たちの世界を救って欲しいのです!」と必死でアカネに請う2人。「できっこない」と首を振るが、好奇心旺盛で自由奔放な叔母のチィにも押され、アカネが無理やり連れて行かれたのは——骨董屋の地下の扉の先からつながっていた<幸せな色に満ちたワンダーランド>!クッキーが好物のクモやまん丸な羊、巨大な鳥や魚と、アカネたちとそっくりな人達が暮らすその世界は色が失われる危機に瀕していた。ここは、あらゆることを水から命を得ており、その不思議な国の色を守る救世主がアカネだと言われアカネは冒険に巻き込まれていく。一方、命の源の水が湧く井戸を破壊しようとするザン・グたちは着実に計画を進行していた。井戸の前で対峙したザン・グとアカネが下した人生を変える決断とは?一生に一度きりの、スペシャルでワンダーな誕生日に感動の冒険がいま始まる—!

以上ストーリー。

 

原恵一が色彩について特に気にかけていることは、2,3年前の下北沢トリウッドで上映された「カラフル」トークイベントのときに話していたことからもなんとなくわかっていたのですが、今回の「バースデー・ワンダーランド」は今までの現実ベースの世界観がゆえに堅実な色彩設計だったのと打って変わって、ファンタジーな世界観であるがゆえにアッパーな方面に炸裂している。

 

世界観としてはスチームパンクSF×ワットイフ×ファンタジー×RPGを6くらいで割って-0.5SFしたような、というか。

ワットイフだと思ったのは、ソコビエの町のおじいさんとの会話もそうですけど、ナミブ砂漠(マッドマックス怒りのデスロードのあれ)とか、バーミリオン・クリフ国定公園にあるコヨーテ・ビュートのザ・ウェーブをベースにしたてであろう地形だったり、というのがあるから。

それに、SFよりもいわゆるファンタジックな要素の方が強く出てくるから、というのもありましょう。

錬金術と魔法が別扱いというのも中々不可思議ではありますが、科学と自然・魔法と錬金術といったものをどことなく対比的に使っているような節がある。

そういうわかりやすさはあるんだけど、一方で説明的なものはない。

リアルサウンドのインタビューでもこんな風に語っている。

子どもは子どもで感じてくれる何かがあればいいし、大人は大人なりの気づきを得てもらえると嬉しいです。特に今回はお客さんの想像力を信じたいと思っているんです。近年、説明が多い作品がすごく増えている気がしていて。そういうのをなるべくなくして、感じてほしい。無駄な説明は潔く削ぎ落としました。だから見た人の感想がバラバラでも全然構わないと思っているし、お客さんの想像力で埋めてくれればと思っています

 

ただ、それは台詞上で明かされないだけで映像の中では強烈に(しかしさりげなく)示されている。

一番露骨なのは600年前の緑の風の女神について。

ケイトウのムラのポポ村長の家で見かける、緑の風の女神の絵。その服装の色とほくろの位置が冒頭の母親の服装と一致しているし、最後に明かされる現実とワンダーランドの時間の流れの説明の中で、アカネの母親がアカネと同じような年ごろのときにワンダーランドを訪れたということを示している。

たしか、現実の一時間がワンダーランドの一日ということでしたから、ワンダーランドの600年前は現実時間の25年ということになり、かなりそれっぽく一致する。ていうかお母さんの名前「ミドリ」というモロだしっぷり。

そして、アカネもそれをたぶんわかっているからこそ、「誕生日プレゼントありがとう!」というセリフに繋がるのでせう。

それは別として麻生久美子ね。この人の存在が本当に好きなんですよね、個人的に。顔とか声とか佇まいとか。ミドリさんはそんなに出番は多くないけど重要な役どころではあるし、ここに麻生久美子を持ってくるのはやっぱり流石。

まあ声優陣は軒並み良いんですけど、麻生久美子と杏はチィとミドリのキャラクターと相まって本当にツボ。

 

今回、キャラデザ以外にも世界観やら小道具にいたるまでイリヤ・クブシノフが担っているらしいのですが、村長の家の食事シーンで使われるあのテーブルがめちゃくちゃいい。あれすごい機能的じゃないですか。あの段の部分に調味料とか置けるし。

フラスコっぽいグラスとか、あの辺にもちゃんと力を入れて設計してくれるから世界観に説得力を与えてくれますよね。洗うの面倒くさそうですけど。

 

話を戻しまする。

そういう、説明に色を使っているという部分もさることながら、単純に色を楽しむ(って書くとエロの方っぽくも聞こえるけれど)ことができるというのがこの映画の重要な部分だと思う。砂嵐が起こるシーンの大地と空の色使いとか、綺麗ですし。

あとですね、原恵一の映画って結構怖いところがあると思うんですけど、それもやっぱり今思うと色が関係している気がする。ことさら強調しすぎない影とか。

「カラフル」における死神との屋上でのやりとりとか曇った天気の日の鬱々としたものもそうだし、「大人帝国」にしても東京タワーのクライマックスの夕焼けの景色のシーンを観たときになんだか怖くなったのを覚えている。まあ、実際に死を意識させる場所にあの二人が立っているというシチュエーションがもたらすものでもあるとは思うんだけど。

 

そうやって台詞上の説明を廃し映画的手法によって説明をしていること自体はむしろ好ましい部分ではあるのだけれど、しかしそれによって世界を説明してしまっているがゆえに失敗してしまっている部分があるのではないかとも思うわけです。

すべてを説明しようとしているがゆえに(観客がそれを読み取れるかどうかは別にして)マスの方向を向きすぎて、すべてが現実の影に落としこまれているせいでワンダーランドという異「世界」が持ちうる理解を拒む圧倒的な「現実」力みたいなものを欠いている。

それは「ブレイブストーリー」の持つ退屈さに似ている。どことなく尺足らずな感じも含め。

自分が「千と千尋」を想起したのは、やっぱりそういうところにある。寝間着の感じが千尋の私服ぽいところとかは偶然かもしれませんが。

 

IGNの評で

ワンダーランドは確かに美しいものの、先述したレインボーマウンテンの描写のように、異世界の景色は現実にある景色にあまりにも近しいために、時折挟まれるファンタジーな展開とうまく繋がらないのだ。そして異世界のイマジネーションが現実世界のそれに強く依拠しているがゆえに、本作で原作以上にフィーチャーされている「異世界への旅によるアカネの成長」というメインテーマの説得力も減じてしまっている。

たとえば、アカネの世界を見る目が変化したというならば彼女の生きる現実世界の景色に多少の閉塞感があればわかりやすいのだが、正直なところ、冒頭で映し出される、ブランコと花壇で彩られたアカネの家の美術設計はこの作品の中で一二を争うくらいに美しく手が込んでおり、ワンダーランドの美しさと出会って彼女の内面に変化が起こったという事実が、ビジュアル的に今ひとつ理解しがたいのだ。」

という記述がある。

同レビューの中には「一昔前のアニメの科学技術批判」というワードがあるけれど、ザングだけが機械を使っているわけではない。アカネ一行だって鎧ネズミと同じ蒸気機関のくるまを使っている時点で単純な科学技術批判が説得力を持たないことはわかる。

科学技術を批判しているというよりは、トゥーマッチ批判の方が近い。鎧ネズミは明らかに行き過ぎているというのは無駄に(いや廃熱してるのかもしれないけど)動くパーツがあったり、ピンクフラミンゴの塔を突き崩そうとしたり(これが森林伐採のメタファーなのかどうかは知らないけど)と。

ナチュラリストな思想に近い部分は劇中の描写を観ていると思うけど。

 

それと「現実世界のそれに強く依拠している~」云々というのは、少し違う気がする。だって、そもそもすべてのフィクションは現実から生じるパッチワークで、それをどう組み合わせるかというものでしょうし。この映画における問題は、その世界観を現実の代替・メタファーとして用いているかそうでないか、そして「バースデー・ワンダーランド」は前者を選んでしまったという部分なんじゃないかと思うんですよね。

「バースデー・ワンダーランド」の劇中で、ワンダーランドというものが「科学の発達が停滞した世界(このへんの会話が科学批判的、ということなのでしょう)」であることが示されたり、チィの言葉から「多元世界ってやつ?」のようなセリフがありワンダーランドへの道が蜘蛛の糸でできた橋のような通路であったり出口が分岐していたりと、まったく異なる世界ではなくワンダーランドはあくまで現実のいまここと異なる地続きの可能性でしかないと思わされる。

 

 

 

すごく簡素に言えば、なんていうかこう、「ハウル~」の方法で抒情を描こうとして盛大に歯車がすっ飛んでいったというか。「ハウル」は最初から説明など一切を拒むただ厳然とある出来事をそれそのものとして、その世界の所与としてあるから説得力があった。

しかし「バースデー・ワンダーランド」は抒情としての物語でありながら「ハウル」の叙事としての方法論を取ってしまったがために、決定的にちぐはぐになってしまったのではないか。