dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

「ウィーアーリトルゾンビーズ」試写会に行ってきたよ。

下書きののまま保存しててポストするの忘れておまんした。今更投下。

 

フィルマークスの日本初号試写会にて。

監督もキャストも一切知らない状態で観ました。まあ今回が長編一作目ということらしいので私のような無知蒙昧な愚者が知らないのも仕方ないのですが。

しかし長編初監督作品にしてはバジェットが結構ありそうなクレジットの長さだったんですけど・・・と思って調べたらウィキペディアの経歴を見て納得。だから電通がサポートしてたのね。


そのあたりも含めて私がこの映画に抱いているものに繋がっている部分も無きにしも非ず、なのでしょう。ほとんどやっかみ、みたいなものですけど。

でも多分、監督の経歴とこの映画が持っているある種の不誠実さ(無関心さ?)というのは決して乖離しているわけではないと思う。


それも含めて書いていこうと思ふ。

 

今回の試写会が本邦初公開ということもあってか、上映後に監督のトークショーがありました。


映画本編を観ていても思っていたんですが、登壇した長久允監督を見て「あ~どうりで自分と肌が合わないわけだ」と感じました。無論、人を見た目で判断してはいけないというのは小学生レベルの警句であり、こんなことを書く私は偏見塗れの屑なので決して見習わないでほしいのですが。

まあ一言で言えばウェーイ系とかパリピっぽい見た目、ってことですね。

 

さてトークショーの形式として進行役の人が最初にいくつか質問を投げて、それから観客の質疑応答という感じでしたので、その質問と回答を簡単に箇条書きしておきまする。

 


 ・アメリカでの上映時は冒頭の煙突パスタで爆笑。新しい形のブラックユーモアとして受けた。


・ドイツでは逆に哲学的に捉えられた。質疑応答では「死」についてどう考えているのかと問われた。どう答えたか、などは言明せず。


・この映画を作ったきっかけとして、着想として青い鯨の事件が世界的に起こっていて、子供が絶望する世界に対してその逆にユーモアだったりで肯定的に生きる子供を描きたかったとのこと。絶望的な状況でも絶望しない人を描きたかった。「絶望とか、ダサ」とか。


・音楽はエモの証左的に使っている


・歌が上手くなりすぎるとアレなので歌だけは練習の前に録音したものを使っている。


・劇中のPVはiPhone撮影。カメラマン?の後ろに池松君を配置。


・小ネタの引き出し(タコの知能は3歳児並み、とかの)は普段気になったことをメモしていてそれを使っている。


と、まあこんな感じでしょうか。


質問者は大体、この映画を好意的に捉えていて、そのうちの一人の女性がめちゃくちゃ感動していました。あとこの映画の製作に携わった会社に勤めている人がいて、その人が「自分がかかわりたかった~」とか言っていたのが印象に残ってます。

私のような猜疑心の塊な人間は「仕込みか?仕込みなのか?」と邪推しちゃうんですが、別にそういうわけではないと思います。


ただ「盆唄」のときのように監督に真正面から否定的な意見をぶつける人を見ていたので、まあそういうのがレアケースだと分かっていてもみんながみんな全肯定していたのはちょっと居心地悪かったです。


 なぜにWHY?

そりゃあなた、私がこの映画に否定的な意見を持っているからですよ。

 


とりあえずあらすじを


両親が死んだ。悲しいはずなのに泣けなかった、4人の13歳。

彼らはとびきりのバンドを組むと決めた。こころを取り戻すために—

出会いは偶然だった。よく晴れたある日、火葬場で出会った4人。ヒカリ、イシ、タケムラ、イクコ。

みんな、両親を亡くしたばかりだった。

ヒカリの両親はバス事故で事故死、イシの親はガス爆発で焼死、

タケムラの親は借金苦で自殺、イクコの親は変質者に殺された。 

なのにこれっぽっちも泣けなかった。まるで感情がないゾンビみたいに。

「つーか私たちゾンビだし、何やったっていいんだよね」 

夢も未来も歩く気力もなくなった小さなゾンビたちはゴミ捨て場の片隅に集まって、バンドを結成する。

その名も、“LITTLE ZOMBIES”。

やがて社会現象になったバンドは、予想もしない運命に翻弄されていく。

嵐のような日々を超えて、旅のエンディングで4人が見つけたものとは―

 


公式サイトを見ればなんとなくわかるんですが、こういうところにも本編にも随所にファミコンとかゲームボーイみたいな8bitな映像が使われていたり、明らかに一昔前のRPGゲームを意識した俯瞰映像やSEがあったりして、レトロゲーを意識した映像・編集が多々ある。CGも結構使っていたり空撮や水中(ていうか水面下)撮影もふんだんにあったりして、「あ~予算が結構あるんだろうな」と思わせる映画でした。


14(5?)くらいのチャプター形式になっているのですが、それぞれのチャプターの開始時は全部ゲームのドット画面で表現されてたりします。マリオで次のステージに行く感じのアレ。分割しすぎて時間の連続性が希釈されて短編のオムニバスを数珠繋ぎにしたようで逆にわかりにくなってないだろうか、と思ったり思わなかったりもするんですけどね。


章立てって、小説とかマンガとかならいいんですけど、映画みたいな時間を扱うメディアでそれを小刻みにやられると逆に混乱するんですよね。あてくしが馬鹿なだけというのを差し引いても。でもやっぱ途中で巻き戻しとかできないんで、映画は。


とにかく、そういうポップな映像や編集をこの映画はスタイルとしている部分は大いにある。


前半部分は割と楽しんで観ていたとは思う。ヒカリのモノローグはほぼほぼ自分の考えている(いた)ことと通じるし、何か空間を見つけてそこに何かを見出す白昼夢や坊主の般若神経が何言ってるかわからないとか(あれは葬儀体験者あるある)、退屈なときに別のことを考えてしまうこととか。


へその緒の「生まれてきてよかったね」からの「生まれてこなきゃよかったね」のくだりとか、掛け合いで笑える部分は結構ありましたね、そういえば。そういう部分をもってブラックなユーモア、というのはまあわかる。菊地成孔のくだりとかも笑えましたし。ただその笑いの感じも「トリック」とかああいうドラマ的な笑いに近い気もするんですが。


あとロケがすごい良い場所を選んでるなぁ、と。いいなあ、どこだろう、あれ。よく撮影の許可下りたなぁ。


一つ気になる。両親の葬儀シーンとラストのシーンから考えると、劇中の出来事は全部(両親の死以外)ヒカリの白昼夢だったのかもしれないのでは、ということ。虎が現れたのも、その布石みたいなもので。劇中で描かれることがあまりに都合よく(そして現実離れして)映ってしまうのも、頭の中の出来事だからなのかも、ってな具合に。

それが事実なら、ちょっとタチが悪い気がしますが。


「あれだけバカ騒ぎしておいて、結局は夢落ちでした」っていう作品は映画を問わず色々ありますが、現実や夢落ちという展開そのものの踏み台として描かれる「夢」っていうのがあんまり好きじゃないんですよね。


夢ってそういう前座のためにあるわけじゃないでしょ。夢とか妄想とか空想とか、もっと言えばフィクションていうのは現実に抗いうるものとしてあるんじゃないの? 少なくとも作り手がそれを信じていない創作物をどうやって信じればいいの? ってな感じに。


夢落ちのように見せかけて「夢か現か・・・」という映画が語られやすいのは、それが現実に着地していない不安を掻き立てるのと同時に、描かれた夢が現実を侵食しうる逆転の構造を内包しているからじゃないの? 「インセプション」でも「トータル・リコール」でもなんでもいいけど。

それをあんな形で収束させてしまうのは、あまりにフィクションというものに対して不誠実じゃまいか。意図がどうあれ、ほとんどエクスキューズと化していないだろうか。


ヒカリくんが本質的に破滅願望のゴス少年なのであれば(劇中では、そのニヒルな側面は反語的機能を背負わされているにすぎないが)、あのラストに帰着するのもわかる。「ま、こんな都合のいいことなんて起きないけどね」と。そういった構造を、ああいう帰結として閉じるのであればブラックなユーモアとして受け止めるのはアリだ。


とはいえ、これはどう受け取るかという受け手の主観に依拠している部分が大きくはある。ゴスよりな思想を大事にしている自分からすれば、そっちに傾倒してしまうというのはあるだろう。


だから、両親の死という現実に直面してヒカリなりに前向きに妄想したものが「リトルゾンビーズ」の物語であるならば、そういうつもりで描いているというのであれば納得もできる。

けれど、現実に引き戻されたヒカリくんの顔は真顔だった。そんな彼の顔を見て前向きになれるだろうか。ちょっと難しい。


映画というフィクションの中でリトルゾンビーズというフィクションを描いているのだとしたら、あの終わり方は結局のところ現実に屈服したようにしか思えない。

あのラストだけは省いてもよかったと思う。「ウィーアーリトルゾンビーズ」を劇中劇的に描かれたものではないと明言した方が、フィクションというものに対して誠実な態度だと思う。


でもね、たぶんそこだけじゃないんですよ、この映画が嫌な理由。

現実と空想、あるいは生と死というものを並べ立てて、どちらかをどちらかの踏み台として、前フリとして描いているのが許せないのだと思う。

この映画で描かれる死は恐ろしく軽い。それは黒沢映画とか北野映画とかのような渇いた無機的なものとか、バーホーベンみたいなニヒリズムなブラックユーモアにも至っていない。

 

両親は死んだ。その死に何も思わなかったとヒカリはいう。これが反語としての機能を担っていることは先も触れたわけですが、反語として機能させるには「死」というものを誠実に描かなければならないはずだ。そうでなければ「生」の肯定を描き出すことなんてできない。いや、それなしで描いてしまったがために、この映画は欺瞞的になってしまっているのでしょう。

さもありなん。それらの要素をスタイルとして消費しているに過ぎないのですから。それが、この映画が浮薄に見えてしまう理由。


たとえばゾンビ。

そもそも、なんでゾンビなのか? それはゾンビがポップカルチャーとして軽く使えるからでしょ。

ゾンビって身体の変質そのものなんだけど、リトルゾンビーズにとっては感情のない人間をゾンビってことになってるらしい。

ゾンビが思考停止しているのは、それに先立って身体が変容しているから(あるいは逆説的に、ゆえに身体が変容してしまった)だと思うんだけど、そういう意味じゃ結局ゾンビじゃないんですよね、彼ら。まあそこは中学生特有のノリと勢いであって、別に深い意味はないんでしょう。


問題は、そのゾンビという概念に対して不誠実であるところ。ゾンビでもない奴がゾンビを名乗るなんてゾンビに失礼だと思いませんか?! え、思わない? まあそうでしょうね。でも私は思う。ことに、「ライフアフターベス」を通過してきた今となってはなおさら。


あのヘドラみたいな衣装を着せられて歌わされる姿をもって彼らをゾンビと形容することは不可能ではないのかもしれないけれど、しかしそこで描かれた社会問題的なものは別にそれ以上何かに繋がるわけでもない。ヒカリの白昼夢オチというのは、図ってか図らずか知らないけれどこういう不誠実な部分のエクスキューズにもなっている、という意味でタチが悪い。


この映画を観ていて、ツカシンを思いだしたのは多分そこらへんに起因している。

身体の変質を描くのであれば、ツカシンの「鉄男」みたいに徹底的にグロテスクで野蛮にして見せてほしい。いや、あそこまでグロくしなくてもいいけれど、身体の変化を伴わないゾンビってゾンビに対して失礼でしょう。

それが誠実さってやつだと思う。白状すると「鉄男」は全編観たことはなんだけれど、それはあまりにあの変容する姿がグロテスクで怖いからだ。そういう怖さとかグロさとかいう描かれるべき野蛮さがこの映画にはない。


現実の不条理さや残酷さグロテスクさを表面的に描いた気になって、その実は何も描いちゃいないのに「死んじゃだめだよ」「前向いてあるこうね」「生きろ、そなたは美しい」なんてご高説垂れたところで、

「本物の闇を経験した俺からしたらおままごとにしか思えん

こういうのは俺らみたいな闇系に任せてのほほん日常書いとけばいいと思う。圧倒的に暗い経験がたりない

ガソリンの味とか知らんだろ?」

ってなレスが飛んできますよ。


長久監督がこの映画を撮ろうと思ったきっかけは素晴らしいことだと思うよ、ええ。そういう前向きな姿勢を、私のようなネガティブで自己評価が低くて厭世的なくせにプライドが高いゴミカス以下の人間を蹴散らしてその道を邁進してほしいと思う。


でも、そういうセンシティブな問題を扱うのであればnaiveなままでいちゃいけないんですよ、たぶん。

私だって人のことをとやかく言えた立場ではありませんよ。でも、バカなりに色々と考えますよ。だから結局は石橋を叩いてたら人生終わってることになりかねないんだけど。


でも、生を肯定的に描くのであれば死について考えを巡らせなければいけないことはわかる。そもそも、死んじゃいけないっていうけど、そういう人たちって本当に「死」について考えたことはあるんだろうか? どうして「生」が「死」よりも偉そうに語られるんだろうかって考えたことはないのか? 

カヲルくんも「生と死は等価ちなんだ、ボクにとってはね」と言っておりましたけど、そんなに「生きる」ことって偉いことなの?


こんなこと書いてますけど私自身は死にたくなんてないし、精神が疲弊して自殺してしまうような人たちにもどうしてそれを選んでしまったのかと考えることはあるえる。


だからこそ、自殺する人にとっての「死」って、ある意味では救いだと考える余地が生まれるんだ、私の中に。

どうして「生」物としての在り方を捨てて死のうとするのか。「死んじゃいけない。生きてほしい」と思うのならば、彼らが死に向かうその原因であるはずの社会や他者というものを描くべきじゃないの? 

それを描かずして「生きてほしい」なんておかしくない? 

それって生きる強さを持つ人の不遜じゃないの?


だから、リトルゾンビーズの両親の死はその問題を提起しない。事故って死亡、ボヤで死亡、自殺、他殺。彼らが行う死因ゲームなる言葉遊びと同じくらいに、親の死に意味がない。「死」は描かれているようで描かれていない。感傷的な感情を惹起するための場面として以外は。


この映画における両親の死というものは、世に溢れるレイプでお手軽に悲惨さを演出する感覚と似ている。おかげで、ゾンビーズが(この映画の宣伝的に言えば)心を取り戻すためだけに、「死」がものすごく軽く扱われる。


生きることを選ぶために「死」を蔑ろにしちゃあ本末転倒ですよ。 


どことなくエヴァっぽいモンタージュといい、これは伊藤の指摘したエヴァ以降90~ゼロ年代のアニメに通じている。あと多分、園子温のようなテンション・編集をスタイルとして消費してもいるのでせう。あの人の作為性は正直言って嫌いなんだけど、それでもあの人の映画は描こうとするものに対して誠実ではあるはずだ。でも、この映画はそのスタイルだけを切り取っているから、私の嫌いな部分だけを抽出して使っているから、余計にこの映画が好きになれないのだと思う。


「俺は自殺するやつが嫌いだ! 死ぬなんて馬鹿じゃねえの! だから自殺するやつを徹底的に批判的に描いてやる!」そういう熱量を持った怒りや反意ですらない。わかったふりして何かを語ろうとする、その騙りが鼻持ちならないのだ。だって、これはまるで詐欺師のようなやり口じゃないか。


だからこの映画で描かれる孤独とか死とかメディア・資本主義批判っぽいものは、恐ろしいまでに形骸だ。描かれる資本主義とそれに連なるメディアや大人の悪意は、この映画そのものがまさにそれを体現している。それを理解したうえで堂々としているのであれば、これまで書いてきたことは前言撤回するけれど。でも、たぶんそうじゃないでしょう。

ホームレスの描き方にしたってそうですけど、投げっぱなしジャーマンが多すぎませぬか。


ポップな手触りで反逆の狼煙を上げ、楽観主義者が「自死」を否定的に語るという礼儀のなさ。

それは「エモとか、ダサ(反動形成)」このセリフにすべてが現れてる気がする。

大げさなポーズで深刻じゃないふりをして自己批評的で批判的な(それすらポーズなんじゃないかと思えるけれど)体裁を取り繕う。


そもそも、エモいという言葉があらゆるディテールをそぎ落とし単純化し曖昧な感覚的な感覚のみに寄りかかった共感を通じてしか機能しえない言葉なのに、それをこんな風に使うことが浅慮なのではないですか? 

いかにも広告的だと思いますよ、あたすは。


「エモい」と発する池松君の馬鹿ムーブ(池松くんの演技自体は最高です)なんか、まさにその体現なんですけど、それも結局は肯定するための前フリでしかない。ほとんど反知性主義(ホフスタッターではなく昨今の日本での使い方としての)だよ、これ。

体育会系のノリだよ、これ。


それが間違っていた、ていうのが今の社会なんじゃないの?

なのに、それを棚上げして「生きることは素晴らしいことなんだ」って突き進んじゃっていいんですか? そんなの欺瞞以外の何物でもないでしょ。


まあ仕方ない。だって社会問題を突き詰めて考えようとしてるわけじゃないもの、この映画。わたくしがないものねだりでしてるだけだから、しょうがないよね。この映画に罪はないですよ。私がねちっこいひねくれ者なだけですから。

 


なんかいつになく嫌悪感丸出しになってしまいました。

とはいえ、LOVE SPREADを知ることができたのは大きな収穫でございました。

チップチューン?な音楽といえばYMCKくらいしか知らなかったものですから、こういう形でもなければ知ることはなかったでしょうし。

サントラは多分絶対買うと思う。

それくらい音楽は良い。とはいえ映画本編が本編だけに、資本主義的搾取の構造におのずからずぶずぶと入り込んでしまっているような気がして抵抗感が生じてしまっているのですが。


しかしピエール滝の一件でも散々言葉を割かれたように作品そのものに罪はない、ということで劇中で使われている音楽には罪はないわけであります。

そんなこと言いだしたらファミコンのシルバーサーファーとか擁護のしようがなくなりますからね。