dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

誰でもない・誰でもない者さん

本当は5月のまとめに放り込むつもりが思った以上に長くなったので単一でポスト。

 

というわけで「ミスター・ノーバディ

観よう観ようと思ってから3年くらい経過してしまっていた。あと「神様メール」も観たかったんですけど、こっちは時間の都合上断念。

そんなわけでようやく観賞したんですけど、なんだこれ・・・。

一応、主観現在時間としては2092年ということでよろしいのでしょうかねこれ。

夢と現実の境目を曖昧にしたのが今敏とするなら、この映画はそこにさらに「可能性」としての現在・未来・あるいは過去(どこを起点に置くか、という問題でしょうが)の変数を代入した、観る者の足場を不安定にさせてくるタイプの映画でありましょう。

ただ、今敏のように夢の印象が強烈に膨れ上がっていくタイプというよりは、些細ながら決定的に違和感のある画を作り出してくる。

催眠術にかけられて目を覚ますシーンで、ニモの服装や壁の柄が同じひし形であったり、ベッドがいくつも並んでいたり、かと思えばローラーで道路を剥がしていたり現実の風景を模型化するように巨大な腕が出てきたり、線路を滅茶苦茶に重ね合わせてきたり、時間も空間も可能性も、あるいは音楽でもそういう表現があって、ともかくそういった変数をシャッフルして見せる、そういう表現を極めて平然と盛り込んでくる。

カメラワーク、というかカメラを一周させると場面が変わっているような、あるいは結婚相手が変わっているとか、単純なカットの切り返しではなくアクションカッティングだったり編集の力によってシームレスに場面を横断していく表現がこの映画では多用されているので、ちょっと混乱してくるところはある。それでも、シームレスさがもたらすその混乱こそがこの映画の耽美なところなのでせう。

生まれてくる親を選ぶシーンの、人種やペアごとに部屋の装飾を変えてたり、冷凍睡眠?のあのパッケージングは何気に「おぉ!」と思ったデザインだったりしましたし、細かい部分の美術も凝っていて、実は「観ていて」楽しいタイプの映画でもあるような気がします。

オムニバスだったり章立てすることで、それぞれの可能性をわかりやすく描くこともできたでしょうが、それではあまりにこの映画の語り口としてそぐわない。なぜなら、そういうわかりやすく理路整然とした目に見える因果律は幻想じゃないか?という問いかけこの映画は始まっているから。

 

冒頭の鳥の話は、すなわちニモが辿った人生そのもののたとえであるわけで。「ある結果というのは自分の行動がもたらしたもの」ではないということを提示したうえで、しかしそれでもなお、ラストに9歳のニモが「選択する」ということでレドのニモがアンナと再会できたという結果を選び取ることができたように、自らの選択を肯定する。

あらゆる可能性を提示しつつ、しかし過程を描かずに行動の結果(とそれがもたらすその先の結果)を無慈悲に描いているので決して甘美なだけの映画というわけではない。ないのですが、あらゆる可能性を観て、その上で1つをつかみ取ることができるというのはやはりチートなのでは。

 

結局は到達点が一つしかないあみだくじみたいなもので、その到達点たる老体ニモから催眠術によってプロセス(という名の無数のありえた結果の連続)を振り返っているだけという解釈なのか、それともそれぞれの時点でのニモもその可能性を観ていたのかによって結構見方は変わってくるような。

事故ったときのベッド上でそれを認識しているような、あるいは(どこまで本気か微妙ですが)予言ができるというくだりもあるし・・・。終盤で9歳のニモが列車で父母のどちらを選ぶかのシーンが再び出てくるとき、全てを観たからこそ迷いどっちも選ばないという「選択」をした、的なことを老体ニモが言っていたし。

 

で、ふと思ったのは「メッセージ」だった。あの映画で登場するエイリアンは、その文法によって過去と現在と未来を全て同一に観ることができたわけだけれど、それはつまり、可能性の排除ということではないか。すくなくとも、あの作品上では未来は一つしかないはずだ。現在というものが変えようもない以上、そこから一直線に伸びている未来も同一では。そうなると、ヘプタポッドはその文法によって自らの無数の可能性を消滅させているのでは。

速い話が波動関数の縮小を、自分の人生そのものにおいて行っているというわけで。たしか未来が現在を決定する、みたいな話があったけれど、それはヘプタポッドには当てはまるような気もするのだけど、それはそれで未来が現在に先立っているという解釈もできてしまう気もしてわけがわからなくなってくる。

その点、「ミスターノーバディ」は可能性を可能性のまま保持し、それぞれの選択によるそれぞれの可能性を見せていく映画ではあるので、こっちの方がわかりやすい。構成のせいでわかりにくくなってはいるけれど。

その意味では「リック&モーティ」の画面がどんどん分割されていくシュレディンガーの猫のエピソードが非常にわかりやすいかも。

ニモにはリスポーン地点(というか時点)がいくつかあって、そして時間も一方向的ではないから行ったり来たりすることができる、ってことなのかしら。ラストの巻き戻しを観ると。

まああれですね、「強くてニューゲームもといコンテニュー」みたいな。

 

一応3人のヒロインが配置されている(3人との邂逅は作為性ぷんぷんで笑うのですが)んですけれど、完全に当て馬扱いのジーンさんがカワイソス。ジーンさんと結ばれるルートでは、ほとんどが自らに課した硬直的なルールのせいでバッドエンドに向かうわけで、もうほとんどファムファタール扱いですよ。

それを言えば、すべてを分かった上で選び取るのがアンナである以上、ニモにとってはアンナ以外はバッドエンドであるのでエリースもあれなのですが。というかエリースのルートも結構キツイ感じでしたし、火星に灰を撒くという約束をした創作の中でアンナが登場してきたり、あらゆる可能性を観て、それでもやっぱりアンナが一番であるということを提示するので、ジーンもエリースも完全に負けヒロインです本当にありがとうございました。

 この辺はなんかもうちょっとこう、手心が欲しかったところではあるんですよね。と考えてしまうのはADV脳なせいでしょうか。

とはいえ劇中でニモが引用していたテネシー・ウィリアムズの科白で「人生には他のどんなことも起こり得ただろう。それらには同等の意味があったはずだ」といっていたことを考えると、すべての可能性に価値を見出したということなのでしょうか。

しかし、その中の一つを最終的に選び取ってしまった(ように描かれる)時点で詭弁感が強い・・・。

 

どうでもいいんですけどジュノー・テンプルダイアン・クルーガーになるのはどうなんですか。あんなの予想できませんて。や、そういう見た目で選んでいるわけではないんですけれどね、ニモは。だとしてもそれぞれの時点でみんな顔違いすぎる。ニモは一貫して(9歳時点はやや太めですが)イケメンなのに。

しかしこの映画のジュノーはエロい。いやにエロい。顔立ちでいえば、失礼を承知ながら神崎かおりさんとヘンリー・スタインフェルドを足してエレン・ペイジで割ったような感じで、お世辞にも純粋に整った顔立ちというわけではないんですが、やはりそこは成長期ひいては可能性を内包する肉体のエロさというものがある。

あと15歳のニモ(トビー・グレボ)がエグいほどハンサム&エロスでビビる。産毛が立つシーンとかもうね・・・。

 

いわゆるループものでありながら既存のループものとは一線を画す表現で面白かったです。