「アラバマ物語」
7月のまとめにぶっこむつもりが文章量多くなったので単独ポスト。本当に考えなしですね、私・・・。
あらすじをちょろっと読んでから観たので、てっきり法廷ものかと思ってたら予想と全然違ってちょっと面食らいました。
でもこれ、黒人差別に対する問題意識はそこまでないように見える。人種差別的な問題というのは、むしろメインとなる「娘から父親に対するシンパシー」の一つのファクターでしかない気がするんですよね。
自伝小説の映画化ということで、例にもれず私は未読なんですけど、日本版のウィキを読んでいると大部分はそのままで、細かい部分でアレンジされている様子。
たとえば「アオカケスは撃ってもいいけど、マネシツグミは殺してはいけない」云々の部分は、原作ではモーディ嬢(ローズマリー・マーフィ)の言葉らしいのですが映画ではアティカス(グレゴリー・ペック)が子どもたちに発言したことになっている。
(逆に、あくまで表面的な物語上はそこまで必要ではないディルはそのまま残していたりもする)
事程左様に、この映画は父権主義に寄り添っているように見える。しかし、バランスとしては父権主義というよりも一人の男=アティカス(グレゴリー・ペッグ)に対する眼差しではある、というのがなんともはや不思議な味わいをこの映画はもたらしているところかと。
まず一つには、この映画は(原作が自伝だからでしょうが)スカウト(メアリー・バダム)の回顧という形で進行するところ。ぶっちゃけ、原作を読んでみてからじゃないとスカウトがどのような価値観を有していたのか分からないので、映画化にあたって脚色されたものが原作者と映画の作り手との間でいかほどに乖離しているのか不明なんですが、でもやっぱり、白人女性(おそらく回顧している時点でスカウトは成人している)に父親の苦悩を慮らせている以上、ある程度は白人成人男性の価値観を忖度してしまったということなのでしょう。
いきなりメタ的な話ですけど、幼少のスカウトとそれを回顧するスカウトと作り手の視線という3層のレイヤーに分けて観ることができると思うのですね、これ。
結局は同じ神の視点である作り手の視線が全てのレイヤーを刺し貫いているので、アティカスに強烈なシンパシーをもたらしていることに変わりはないんですけど、その描き方がすんごい遠回りというか予防線を張っているというか、ともかくなんか面白いんですよね。
だって「スカウト(6歳の娘)」の視点から「スカウト(成人した娘)」の視線・ナラティブを通して「作り手(白人成人男性)」の欲求を描いているわけですからね。
この多層性、男根主義の免罪というか許容みたいな効果を生んでいるような気がするんです。
語り部のスカウトのレイヤーではそこまでですけど、やっぱりそのもう一段上のレイヤからメタに観ると、この映画で描かれているのって当時のアメリカの社会(今も続いているけど)が有していた男根主義の肯定・・・とはまではいかなくとも、何かこう「父親という存在にエールを送りたい」という意識の、無意識の発露のような(だってグレゴリー・ペックだもんね~)。
冒頭に書いたように、黒人差別の問題がこの映画の主題でないというのは、前半のほとんどにそのような要素が表立ってこないからなんどす。
台詞の端々には、アティカスが黒人であるトムの弁護を担当することになり、それによって町の住民との間に軋轢が生じ始めていることを描いてはいるんですけど、6歳のスカウトの視点から描かれるために、具体的な問題というよりは少女である彼女の「日常に不穏な影が差し始め、その中心に父親がいる」という極めて個人的な問題に凝華(この言葉をこういうような意味で使うことはないと思いますが)しているので。
この映画は自伝をベースにしているため、スカウトが見聞きしていないことは本質的に描けないという構造を内包している。だからレイプをしたとされる被告人の黒人であるトム(ブロック・ピーターズ)がまったくフィーチャーされず、法廷の場面(まあこの法廷の場面は結構長いんですけど)でしか登場しない。
繰り返しますが、この映画は結局のところ彼女が感じたものでしかなく、積極的に差別の問題を浮き彫りにしようとしているわけではない。少なくともわたしにはそう観える。
とはいえ、書くまでもないことですが、だからといって差別の問題を提起しないというわけではなくて、6歳当時の少女の感性から黒人差別に対する違和感を覚えていた、ということを成人した彼女が振り返る形で細述しているんでげしょうし、人生においてこの部分を取り上げたということは問題意識があったということですから。
が、しかし! 幼い少女の(ナラティブの)背後には、大人の男のエゴが暗躍していた!
というのはすでに書いたわけですが、そういう傀儡(って書くと印象すごい悪いけど)としてのスカウトを排除したときに浮上してくるのは、「大人」とゆーか「白人男性」の視点からザ・男としての父親の威厳や苦悩を知らしめる話のように見受けられるんですよね。
てか、アティカス本人がスカウトに「誇りを保てなくなる」云々って言ってるし、あれは仕事上のことというよりは信念として、でしょうし。
しっかしまあ、そんなアティカス役にグレゴリー・ペックという配役となると、これはもうアメリカンな猪突猛進な正義が浮かび上がる。
彼に関しては「大いなる西部」(大傑作)で見せたようなイメージが強くあるわけでして、懊悩しつつも正義()に邁進する根っからの主人公(ヒーロー)気質な男優、というのがわたしの印象なのです。
正義か悪かで分断されるとき、彼はいつも正義側であり続ける。
そんな男が優男的に描かれつつも実は射撃の腕が一流で、法廷の内外で過ちたる事柄に対して徹底的に立ち向かい、その過ちの枠の中に自らが否応なしにカテゴライズされるにもかかわらず糾弾しつづけ、道を誤った者の思いを汲み(しかしその悪事はしっかり責めるという「罪を憎んで人を憎まず」の体現のような振る舞い)、しかしそれだけのパワーがありながら非暴力を貫く。いや、パワーがあるからこそ、でしょうか。強者の余裕というか。いや、アティカスのメンタルはそこまで余裕があるタイプではないと思うんですが、本人の好むと好まざるとにかかわらないレベルで、彼(=白人男性)はパワーを有しているので。
しかしこの正義の正論を振るうアティカスには「イヤミか貴様ッッ」と思わず叫びたくなるほどです。この映画のグレゴリー・ペックを観ている間、ずっとスーパーマンがチラついていました。それくらい、彼はもう「ザ・正義」。
社会問題を提議しつつ正論を突き付ける。しかし、どこか釈然としない。それは多分、事実や時代とかは別にして、黒人であるトムの権利を白人であるアティカスが代弁しなければならないという、社会の構造上の歪さが、この映画自体の構造と同じ(黒人=娘、アティカス=白人男性)だからだろう。「あなたはわたしのホワイトではない」というか。
そうなんす。本質的に黒人はパワーを得られず、パワーを持つ者の同士の争いであり弱者の入り込む余地がないんです。
それがスカウトの回顧の形を取っているというのも、つまり過去を変えることはできないという上述の構造と同じように「力なき弱者」の立ち位置に甘んじているところともダブる。
まあ「青カケスは撃ってもいいけど、マネシツグミは殺してはいけないよ、彼らは私達を歌で楽しませる以外何もしないのだから」という台詞を使った時点で、パワーを持つ者から持たざる者への優位性に無頓着であろうことはなんとなくわかる。
我ながら嫌なものの見方ですねぇ、これ。
ただ、あの時代にあそこまで正面切って言わせるのは驚いた。あそこのシーンはほとんどワンカットだったし。
父親の威厳を再認させる映画であれば、まだ「ジングル・オール・ザ・ウェイ」の方が子どもの視点に寄り添っていると思うのですよ。寄り添っているというか、寄り添おうとして空回りしちゃっている、というのを楽しむところなのだと思いますが、あの映画は。
あとは本筋とは関係ないところで色々と思ったこと。
1.タイヤ転がし楽しそうだけど危なくない? 娯楽のない田舎のじゃりン子が考えた感じがあって面白い。
2.ブーさんこれ「グーニーズ」だー!
3.5ドルで映画20回←何それうらやましい。
4.全部ハリウッドで作られたセットとはたまげるねぇ。
5.スカウトを演じるメアリー・バダムってジョン・バダム監督の実妹だったんですね・・・最近のBSプレミアムはジョン・バダムの監督作を放送してますけど、こんなとこでもジョン・バダムに所縁のある作品を持ってきているのは謎。
会議で「ジョン・バダム特集やろう!」とでも言いだした人がいるんだろうか。
6.スカウトのドレス姿に対して、実はその姿をバカにしているジェムこそがもっとも彼女らしさを理解している場面にほっこり。だって学校指定のドレスがスカウトの性格(お転婆で活動的)と全くマッチしていないし本人もそう思っているのに「着させられている」という状況のミスマッチさを笑っているわけですからね。
ここはほっこりすると同時に学校というコミューンが有している監獄性みたいなものがそれとなく見えてくるシーンでもありますね。あるいは、女性は女性らしい服を着なければならないという抑圧。
7.トムの証言のあとにグレゴリーの髪が乱れてるのが最高。髪もしたたるいい男。
8.お前ロバート・デュバルだったんかい!
要約:結構面白い映画でした。