dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

急遽決まった試写会

に行ってきました。「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」

 

f:id:optimusjazz:20190831110907j:image

 

いやほんとダメもとで応募したのでまったく予定にはなかったんですけど、ただで映画を観れる機会なので行かねばならぬと。

 

日本語吹き替え完成披露試写会ってことで日本語吹き替えだったんですけど、個人的にはこれは字幕で観た方がいいかもしれないと思いますです。

 というのは、この見慣れない世界設計の映画に対して、日本語ではなくフランス語という異言(というのはもちろん比喩ですが)を導入することで、言語というレイヤーをもう一段階用意したほうが、むしろ作品そのものと馴染むような気がするのですよね、日本語ネイティブとしては。

リップシンクとか、そういうのとは別の位相の話で、理解を補助する日本語吹き替えに違和感があるというか。日本語吹き替えが悪いということではなく。

つまり一種のロストイントランスレーションというか、むしろその逆かな。

 

国も違うし監督も違うので単純に比較するのもあれなのだけれど、ちょうど「ロング・ウェイ・ノース」のレミ監督が助監督・ストーリーボードとして参加した「ブレンダンとケルズの秘密」、それと「ソング・オブ・ザ・シー」は字幕で観たからこの映画に感じたような違和感がなかったのだなぁ、と今振り返って思ったり。

そもそも、あれらはトム・ムーアの統御の元であったし「ロング・ウェイ・ノース」に比べれば相対的に馴染みやすい作風ではあった。輪郭線もはっきり残っていたし、アニメーションの躍動感なんかはジブリに通じるし。

「ブレンダン~」は本当に観たのかどうかすら怪しいくらい本気で内容を思い出せないくらい印象に残ってないのでアレなのですが。

 

そういう「見慣れない世界」を「耳馴染んだ言語」で観るというある種の齟齬が生じているような気がして。そのせいかわからないんですけど、前半の5分はあまり頭に入ってこなかったです。喋っているのは日本語だし、内容がまったく入ってこないっていうことではないんですけど、なんだかすんごい変な感覚としか言いようのない変な感覚でした。

 

舞踏会の後あたりかららかな、ようやく慣れてきたのは。

 と思って観続けると、今度は話の作りというかバランスがちょっと違うんですよね。これはもっとこう、生理的な感覚に近いものかもしれないけど。

たとえば、ある理由でオルガの食堂でサーシャは住み込みで働くことになるんですけど、劇中で1か月という中途半端に短い時間経過をモンタージュで見せるのとか。

貴族の箱入りお嬢様が荒くれものの集う食堂での生活を通じ、世界を知っていくというイニシエーションであるというのはわかるのですが、何というかこう急かされているというか。1か月でそこまで馴染むものなのだろうか、という生理的な感覚がちょっと違う。試写会から家に帰ったらちょうどテレビでラピュタがやっていて、ちょろっと観ていてシータとサーシャの描き方の違いを見て、そう思ったり。

サーシャはなんかこう、急かされてるなぁ、という印象を受ける。

 

そういうのも含め、全体的に演出が妙。というか、やたらと目で語りたがる。

特にそれが顕著だったのは、負傷したルンド船長を置いていくかいかないかのシーンでのラルソンとのやり取りのところ。

あれ、本来なら観客側にラルソンの台詞がブラフであることを伝えるためにもっとわかりやすい演出をするのがオーソドックスだと思うのですが、この映画はそういうことはせず彼がカッチに向ける視線の誘導のみで表現される。でも、その視線の誘導が意味するところは絶妙に観客には、サーシャには伝わらない(だからサーシャは彼を非難する)。

ほかのシーンでも、キャラクターの目の動きはかなり細かい。

やけに目で語っているように見えるのは多分、キャラクターデザインにも起因しているはず。

日本のアニメではキャラクターのデザイン傾向は、たとえば京アニなんかがその最たる例だと思いますけど、どんどん細かく緻密に先鋭化していく方向に進んでいる。もちろんそうじゃない方向を目指しているアニメもたくさんあるし昔からあったけれど。

だから顔の情報が多い(まあ、その情報量というのはデフォルメ方向を指向しているわけで、それは実写の持つ顔の情報量の総体から見ても決して多いわけじゃないと思うんですが)いわゆる日本的なキャラデザは、どんなに表情を作りこんでも、その動きが顔の持つ情報と釣り合ってしまう。これは別に悪いってわけじゃなくて、むしろ動かし方としては適切なのだと思う。

けれどそれは、動き=表情が逸脱を、突出することを許さないということでもある。

翻って、この映画の登場人物たちのキャラクターデザインはとてもシンプルで顔それ自体の情報量は決して多くない。

その中で、「目の動き」の情報量だけが突出しているがゆえに、この映画は目で語る映画になっているのでせう。

瞬きの数、細かい黒目の震え、単なる視線の移動。背景と人物が同じように描かれ、画面全体が同質化していく中で、この人物の目の動きだけがそれを拒む。

そういうシンプルなキャラデザと表情の動きの持つ情報量の幅によってもたらされるものが、この映画のキモなんじゃないかな、と。

 

だから、目で語るこの映画のラストが、サーシャが遠くを眺める横顔(個人的にはこの直線のおじいさんとの横顔の対比が一番好きなんだけど)なのも納得がいくものではある。

それにしても「エンドロールにそれを回す?」という気もしなくもないのですが、これがサーシャとオルキンの物語であることを考えれば、帰還・再会で締める必要性というのはないけれども。

 

しかし感情移入や共感の映画であるのに、観客におもねらないというのは何気にすごいことやっているなぁ。