dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

男ですもの 女なんだよ 人間だもの(読み人知らず)

さーせん、先に断っておきます。

書きたいことをつらつら長々と7時間にわたって書いたせいで10000字をオーバーした上、推敲の体力が尽きていつも以上に雑然としたまま投稿してしまったので「来いよベネット! 時間なんて捨ててかかってこい!」という人だけ読んでくらはい。

うーむ・・・しかしもっと読みやすい良い文章書けるようになりたし。

 

 

 

 

まずはふざけたタイトルで記事をポストしていまって本当に申し訳ないと思う。でもかなりいい線いってると思うので謝りはしますまい。

 

ということでタイトルだけでわかっちゃう人はわかっちゃうと思うんですが、某氏が某メディアで勧めていたのと、いいタイミングで無料配信されていたのでドラマ版「宮本から君へ」を観、面白かったので劇場版を観る。

どうでもいいことですが真理子哲也監督、OBだったのかい。園子温といいあの大学の出身の人はテンションの高い映画を撮るなぁ。園さんの映画はあんまり好きじゃないんだけど・・・。

 

 というのは置いといて。 

最近の邦画の傑作・秀作には共通するものがあるんじゃないかと思う。それは人の足から始まる映画だ(自分調べ・根拠なし)。「岬の兄妹」しかり、「凪待ち」しかり。

そしてこの「宮本から君へ」しかり。

控えめに言って傑作である。

ここまで揺さぶられる映画は滅多に観られるものじゃあない。とはいえ私の日常回帰特性は凄まじく、マジックが続くのは2時間限定なんだけど、最近は2時間いっぱいを堪能させてくれるものは少なかったからなぁ。

 

 

ではこの映画が傑作である理由は何か。それは人間を臆面もなく描き切ったからだ。

ではでは人間とは何か、人間を描くにはどうすればいいのか。

その方法の一つは、人間という存在が依って立つ肉体を、身体性を描くことだ。

 

それはとりもなおさず、ドラマ版には不足していたことだった。

 

だからというわけじゃないけど、映画について書くにあたってドラマ版について触れないとモヤモヤするので、別のところでドラマ版について私が書いた思いと、映画版への期待みたいなものを引用しておきませう。

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「宮本から君へ」。面白いんだけど、妙な居心地の悪さがある。でも観てしまう。面白いから。

でもやっぱり宮本みたいなタイプは苦手だ。それは遠い昔遥か彼方の銀河系で・・・自分が持っていた遺産だからかもしれないし、ああいう直情なものを信じられないほどにひねくれてしまったからかもしれない。あとは今の自分の状況がそう思わせているというのもあるだろう。

だから、普通ならああいうのを見せられても(ていうかそもそも観ないだろうけど)斜に構えて批判的にヤジを飛ばすはず。嫉妬とか羨望とか、そういうものを自覚しながら。

けれど「宮本から君へ」は違う。なぜならこれは普通のいわゆる熱血ではないから。

もう一度書くけど、宮本は苦手なタイプだ。土下座すればいいわけじゃないし。

けれど、あそこまで過剰な思いの発露を前にして、あそこまでやって報われなきゃ嘘だとも思う。「シン・ゴジラ」において頭を下げた結果だけが描かれたのとは違って、「宮本から君へ」ではちゃんと過程が描かれていたのだから、その種の批判をするのは鬼だ。少なくとも私はそこまで鬼になれるほどしっかりした人間じゃないから、そういう批判を宮本には向けられない。

ていうか、そんな世界は間違っている。そういう全身全霊全力全開の思いの丈が過剰に過剰に沸々と煮詰まって沸騰しているのが「宮本から君へ」だと思う。

 

ただ、これを真っ当な人間賛歌と受け取れるだろうか、ドラマ版のラストを観てそう思える人は、正直言って羨ましい。

だって宮本は何一つとして成功体験をしていない。

これはむしろ煉獄だ。何度も何度も終わりのない敗北を繰り返し、何一つ成功体験を経ずに、それでもその行動によって宮本は成長を促される。促されてしまう。いや、もしかすると成長してさえいないんじゃないか。

哀愁なんてものはない。宮本はそういうものを背負うには熱血すぎる。けれどこれは、宮本以外の人間からすれば、宮本の人生はどう見たって煉獄そのものだ。

もちろん、宮本のような異様なまでの直情的な熱血漢は悩みこそすれ立ち直らないということはない。宮本という存在が宮本にとってのビルト・イン・スタビライザーみたいなものだから。殴っても殴っても立ち上がる(立ち上がってしまう)起き上がり小法師みたいなものだ。そこには自由意思を超越した法則や原理みたいなものすら見いだせてしまう。

けれど、私には宮本のような打たれ強さ(ともいうと語弊がある気がする。オートリジェネによって強制的に立ち上がってしまうようなものじゃなかろうか)はないし、ほとんどの人がそうだろう。

宮本はもはや人間じゃない。人間らしさを極限まで突き詰めた結果、人間から乖離してしまった超人と言って差し支えないのではないか。少なくとも私には宮本の持つあの過剰さはそう映る。だから、宮本はほとんどヒーロー映画のヒーローと同じような存在なのだ。つまりフィクションだ。創作物自体、現実逃避のフィクションなのだから、だからどうしたと言われると取り付く島もないのだけれど。

でもですね、「宮本から君へ」で描かれた社会の歪さはフィクションではなく(戯画化されているとはいえ)厳然と現実に存在して、その世界の中で私たち現実の人間は生きなければならない。宮本のような再生能力もそれに適応した強固な意志も持った超人になれないまま(だから人は自ら死を選ぶし、誰かを殺してしまうのだろう)、凡庸な人間として。現実の私たちにとって、宮本は不在の中心みたいなものだ。

そういう、途方もない悍ましいものが描かれているんじゃないだろうか、この作品は。

 

映画版はどうなるのだろうか。

 

島貫課長の前に立ち塞がり続けた・・・否、土下座塞がり続けた宮本のその後はどうなろうのだろうか。

そこまでやって、宮本は敗北してしまった。社会のルールに、あるいは無慈悲さに、あるいは彼自身の愚かさによって。

けれど敗北とは何だろうか。ようやく付き合えた女性が立った一日の出来事で元カレと元さやに納まったことだろうか?誠意を見せたにもかかわらずそれを蔑ろにされて競合他社に仕事を奪われることだろうか?

いや、そもそもこのドラマの延長としてあるべき映画に「敗北」などという概念は存在するのだろうか?

人はすぐに色々な数字を比べて勝ち組だとか負け組だとか腑分けするけれど。上下はあるにしても、勝ち負けってあるのだろうか。

全力でぶつかって、相手の全力を引き出して延々と殴り合う。それがドラマで描かれたことだ。

それは一見して戦いに見えるけれど、生きることは闘争だと喩えることはできるけれど、死ぬまで繰り返されるこの闘争に勝敗はあるのだろうか? 死んだら負けだろうか? いやぁ、死は闘争の終わりではあっても勝ち負けのジャッジにはなりえないでしょう。

「宮本から君へ」で描かれた生きること、その闘争は、格ゲーで言えばアーケードモードでもストーリーモードでもない(恐ろしいことに)、トレーニングモードなんじゃないかと思える。ほら、あれって延々と自キャラもCPUも立ち上がって技をかけあうでしょう? あれって、体力がゼロになっても継続されるわけじゃないですか。そもそも勝敗のカウントって表示されないでしょうし。いや、すべての格ゲーがそうとは言いませんが。

 

だとしたら、生きることに勝敗なんてあるのだろうか。

あるのだとしたら、ドラマで敗北し続けた宮本はどうすれば勝つのだろう。

ないのだとしたら、それをどうやって描くのだろう。

 

とりあえず期待して待つ。

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 映画を観終わった今でも、生きることに勝敗があるのかは分からない。

 上で書いたように、ドラマ版には宮本の過剰な内面の発露に対して身体性が追いついていなかった。とはいえ欠如していたわけではない。テレビというメディアの限界ゆえに描けなかったのだと思う。だからこそ、補助的にテレビ版はモノローグを入れたりしてたのだろうし。

ドラマ版の宮本はほとんど非人間存在だった。だから私は上のようにヒーローなどと、なかば揶揄として書いた。 だってほら、ヒーローって表面的な傷しか負わないでしょう? ヒーロー映画で肉体的な痛みが描かれたことってほとんどないんじゃない? 祭りに乗っかって盛大に楽しんだ観客としてこんなことを書くのはあれだけど、「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」のラストでヒーローたちが消えていくときの「どうせ復活するんでしょ? だってヒーローだもんね。そもそも続編アナウンスされてるしね」といったある種の欺瞞みたいなものを、ドラマ版の宮本に見出していたのである。

ヒーロー映画に限らず、少年マンガのバトルでは特にあるあるなんだけど、よくキャラクターの腕が切れたりもげたりする。意図は分かる。けれど、私がそういう表現を見るにつけ、いつも嘘くさいと思っていた。レイプがお手軽に絶望の表現として使われるように、そういう、身体性の欠如をドラマ版の宮本には感じていた。や、欠如ではなく不足ですけどね、「宮本から君へ」に関しては。

けれど、映画ではようやく表現が追いつき、その身体性を徹底的に(おかしみまで増大させ)描きだすことで、宮本はヒーローから地に足着いた人間になったと言えるんじゃないか。結構、ギリギリな気もするけど(笑)。

宮本が役者陣から一定の距離を置かれている(宮本を演じた池松くんすらも)というのは、やっぱりちょっとイッちゃってるところがあるからだろうし。

そのイかれ具合が違う方向に転んだら、それこそジョーカーみたいになるんじゃないかしら、という気がする。

あと、煉獄感はやっぱり引き続きあると思う。

 

で、この映画で描かれる身体性の発露は、それだけを抽出してしまえばほとんどクローネンバーグやツカシン的と言っていい。もっともっと言ってしまえば、これは自己と外界との係わりという点において「ファイト・クラブ」ですらある、かもしれない。

クローネンバーグやツカシといった作家は個人とその個人を取り巻くメディアや社会、あるいは戦争といった状況そのものであり、個人をエンクロージャーするものであり、その作用によって変質していく人間の変容そのものを描いていた。そういう意味では「宮本から君へ」とは異なるし、どちらかと言えば私はそっちの方が好きだったりする。テクノロジーの人間のかかわりって、やっぱりSF的で楽しいし。

でも「宮本から君へ」においては、それらマクロな世界ではない。宮本という個人はもっとミニマルなものと接続している。それは別なる個人、他者だ。

他者とは何か。もっと言えば人間とは、その存在の依って立つ肉体とは何か。別に道教とかを引用するまでもなく、みんな大好きMCUにおいて「アイアンマン3」のエクストリミスがわかりやすく説明してくれているようなことだ。すなわち人間とは、その身体とは宇宙である。世界そのものである。

もう分かるように、その思想から導出される他者とは、自分とは異なる別なる世界そのものなわけです。

何が言いたいかというと、社会とかメディアとか他者とか、人間の依って立つ身体と関わる異なる世界に規模の大小はあれ(そしてそこに個々人の好みはあれ)優劣はないということを言いたかったわけです。念のため。

 

この映画は徹底して肉体を、そしてその破壊を、他者との係わりにおいて描出しようと試みる。

いや、係わりなんて持って回った言い方は止めましょう。もうすでに書いちゃってるし、はっきり書いちゃいましょう。

これは闘争だと。

宮本と靖子と、裕二と、拓馬と敬三と。駆け引きも打算もない、ひたすらストレートを繰り出しまくる拳と拳の応酬だと。

個人と個人のエゴのぶつけ合い、欲望の押し付け合いだ(そう考えると「シグルイ」っぽくもある)。

これがあくまで「個人」のエゴの話であるのは、映画の冒頭とラストカットを比べればわかる。この映画は、最初にも書いたように宮本の足から始まる。そしてラストカットは彼の顔のアップで終わる。

宮本で始まり宮本で終わるこの映画は、宮本の「頭のてっぺんから足のつま先まで」で始まりと終わりを綴じているように、宮本という個人のエゴの話でしかありえない。

ではこの映画は宮本のエゴに終始するのだろうか? もちろんそんなことはない。すでに書いてきたように、この映画には他者が存在する。

さもありなん。ヒトが人ととして生きていくには他者の存在は不可欠で、エゴというものはその対象となる他者なしでは発露しえないのだから。闘争は一人でできるか? できるわけがない、だって他者がいないと戦いは起こり得ないのだから。

宮本という人を描くには、その巨大なエゴを描くには、他者が必要だ。それも、宮本の肥大した強烈なエゴをぶつけることのできるに相応しい他者が。唯々諾々と一歩下がってついていくような女じゃだめだ。手練手管で女を篭絡しようとする軟派な男じゃだめだ。

それが映画版においては靖子であり裕二であり拓馬なのだろう(敬三は多分、位相が違う。彼は拓馬によってボコられ、あるいは父親の反面教師として宮本とは直接接触しないところにいるから)。

 

昨今の共感やら相互理解やらレリゴー精神を謡う潮流とは真逆を行く、まさに時代逆行的と言って過言ではないものを「宮本から君へ」はスクリーンに映し出している(井浦さんは時代を縦横無尽に駆け抜ける人物として宮本を評していたっけ)。

あるインシデントを使って深刻ぶる白々しさ、それを恥ずかしげもなく描く作品があり、そこに現代的(笑)なメディアとの係わりを持ってきて薄っぺらな悩みを描くような映画が今でも映画館にかかっている。相手を大事にしよう、他者を尊重しよう、と。

翻って、この映画は誰も他者を慮ることはない。生きることってのは他者を思いやることじゃない、他者を屈服することだ!とでも言うように。

映画好きからは「ゴラァ! ブラッカイマーなんかと一緒にすんじゃねぇ!」と怒鳴られそうですが、それぞれがそれぞれの欲望に忠実に動き回るというこの構図だけを取れば、「デッドマンズチェスト」とも共通点がある気がする。

つまり楽しいのです、彼らの行動が。それが巻き起こす闘争が。

 

この映画は肉体と肉体が、唇と唇が、口と性器が、性器と性器が、拳と歯が、手と性器が、物質としてどうしようもなく存在する人間同士がゼロ距離で絡み合い他者を侵食し食いつくそうとする、人間の野蛮なエゴイズムを過剰なまでに(けれど現実的に立脚した過剰さである)盛り込んで混ぜ合わせたような映画だ。

宮本一人のエゴではなく、彼が全身全霊全力全開で他者にぶつかりに行くことで、その他者のエゴを引きずり出し、その衝突によって生じる軋轢や葛藤によって人間を紡ぎだしている「宮本から君へ」が、他の映画と一線を画すところはそれ自体の過剰さ、それが持つ野蛮さにある。

だから、ドラマ版で描かれた絶望をこの映画も引き継いでいる。

でも、それを極限まで突き詰めると、やっぱり反転して希望を見出したくなるものだ。

宮本の立ち振る舞いは、それがもたらす結果と行く先は絶望だけれど、彼の言葉はすべて彼の他者を慮らない=世界に忖度しない情念に裏打ちされている。というよりも、希望として、それこそ祈りとして、最初から宮本の言葉はあったんじゃないか。

それは、話題になっているグレタ・トゥーンベリさんが世界に発信するのと同じような感じじゃないのかしら。そんな気がする。

 

とか書くと、なんだかすごい大仰で大袈裟なものに聞こえるかもしれないけれど、本質的にこの映画はコメディです。

共感を前提にあーだこーだと深刻ぶった語り口をして「オチコンダリシタケドワタシハゲンキデス」とほほ笑んで、「ああ、そうですか…」といった反応しかできないような映画ではない。

この映画は天日干しでもしたようなカラッとした笑いに彩られている。実際、観客の多くは笑っていたし私もたくさん笑わせてもらいました(それと同じくらい涙腺ゆるゆるになりました)。

ドラマ版にもありましたけど、宮本のやけ&どか食いシーンは、それ自体がギャグであると同時に表現として身体性に寄与している。ツカシンを引き合いに出したから彼の作品と絡めるけれど、この「食」すシーンは「野火」における「食」のシーンと本質的には同じだ。シチュエーションもその深度も色合いも全く異なるけれど。

え、そこは池松くんと蒼井優が出てる「斬、」だろって? すんません、偉そうに書いておいてあれですけど観てないんです。

 

多分、人間の営為(というよりも、身体の生理)をあるシチュエーションに当てはめて、てらいなく描写すると笑えてしまうのだと思う。その笑いは「トロピック・サンダー」で地雷を踏んで死んでしまうのと同じだ。

1メートル先で靖子がレイプされているのに酒の飲みすぎでぐっすり眠っている人間の身体性、レイプされた靖子(というか宮本自身か)を慰めるために彼女を抱きしめているときに陰茎をおっ勃てる人間の雄の身体性。ラガーマンにワンパンKOされるのもそうだ。陣痛に苦しむ妻に吹っ飛ばされるのもそうだ。

レイプのシーンでいえば、靖子と拓馬と宮本の顔を一緒に収めるという無慈悲さ、と同時にその状況の滑稽さに笑えても来るのだけど、カットが切り替わって蒼井優の顔のアップになるとやっぱり悲惨なのですよね。

このシーンに代表されるように、ともかくこの映画はこっちの感情の起伏を細かく起こしてくるので、見終わった直後はかなりへとへとになります。自分の情動の上下に。

 

この映画は粗暴で野卑で荒々しい(いや、靖子の部屋の照明の陰と陽の表現とか、そこに立つ人物とか、金魚の寓意とか、豪雨の中で宮本がさす傘が小さくてカバーしきれないところとか、演出は細かいのですよ、ええ。為念)。

当たり前だ。血の通った肉に覆われた人間を描くならそうならざるを得ない。

 

だから私は宮本と靖子のセックスシーンで泣く。いや冗談とかではなく、文字通り泣いた。

裕二の闖入によって(まさに嵐のような登場&退場の仕方で笑う)靖子がその狡猾さを含めすべてを吐露し、それに対して宮本も思いの丈をぶつけ、お互いの全力がぶつかった末の感動的な――――とか書くとなんだか嘘くさい気がするので、ここはあえて「感情的な」と修飾しませう――――セックスに。

これは「RAW~少女の目覚め~(これも超傑作)」の姉妹対決シーンとも似たような感動で、言うなれば「河川敷で全力で殴り合った不良同士に芽生える友情」なのでせう。

そのセックスというのも生々しくて、ちょっとダルついた蒼井優の肉づきとか69に至る流れとか、本当にてらいがない。

これだけのセックスを描ける人がどれだけいるだろう?

世に蔓延る多くのエロ同人やアダルトビデオといった「抜く」行為の慰みものでしかない単なる消費的なメディアが描く、なあなあでセックスに至る陳腐な仮定が失笑や嘲笑しか生まないようなものでは絶対に持ちえない感動がこの映画のセックスシーンにはある。

(いやAV界隈にもバクシーン山下とか実録SEX犯罪ファイルの高槻彰とか、それこそ話題になった全裸監督とかいるけれども。日活ロマンポルノは全く知らないけんども。)

 

セックスシーンだけじゃない。全編にわたってこのセックスシーンのような描かれ方をしている、この映画の登場人物たちは。彼らのコミュニケーションは。

 

だから私はそのやりきれなさや無情さに泣くし、滑稽さや気まずさに笑う。

 

 でもどうなんだろう。やっぱり裕二になびく靖子をビッチだとか尻軽だとか呼ぶような輩が出てくるのだろうか。なんだか、そういうコメントが書かれる様が容易に想像できるのが世知辛いところだ。

靖子の痛みを理解できない、他者を、その肉体を認めず記号的な性を貪ってきたオタクとかが書きそうではある。ていうかまず、自分を内省できていないのだろうな、とは思う。いやそもそもそういう連中は観ないか。この映画を観て、わざわざ感想を書こうとする人はそこまで書かないだろうから。

守ると言った宮本が熟睡していた時点で、彼の言葉に言霊が宿らないことは明々白々だから、どっちが悪いとかって話ではないというか、しいて言えばどっちも悪いわけで。いや、あれは宮本の失敗だな!うん!やっぱダメだ宮本!

だって、大見得切って守ると言ったのに守れなかった男の台詞ですからね。彼女からすればここまで浮薄な言葉もないだろう。だから彼女は彼を責め立てるし、宮本にはない軽妙さゆえの強さを持つ裕二に救いを求めるのもうなずける。

やっぱり裕二ですよねー実のところ、二人にとってのキーマンって。

裕二ってクリシェな恋敵(とそれに類する都合の良いメンター的存在)ではない、ちゃんとした個人であるところが良いところですよね。

パンフの蒼井優のインタビューを読んでいて思ったのは、靖子と宮本のような直情型の人間にとって裕二がやりにくい相手なのは、二人にはないのらりくらりとした柔軟さがあるからなのだな、と。

柳に風、暖簾に腕押し。どれだけ靖子や宮本が風を起こしても腕で押しても交わされてしまう。現に、金的喰らった相手にも平然と話しかけられるし元カノ(ワン・オブ・ゼムだけど)を平然と助けようとできてしまうし。

そんな裕二だからこそ、宮本と靖子を上手い具合に仲立ちさせられたんだろうな、と。

個人的には、裕二のような生き方や人間性が一番理想だったりする。宮本よりも。ていうか宮本は無理。遠くから眺めている分には応援できるけど。

よく考えれば、あそこで裕二が乱入しなければ、というか裕二という存在がなければあそこまで宮本と靖子の関係は発展しなかっただろうし。

レイプとも実のところ全く関係ない場所にいますし、裕二。いや、ダメンズではありますけど、井浦さんが言うように男の一つの理想ではあるのでは。

 

登場人物でいえば、ドラマ版にも出てきた人たちはある種の安心感みたいなものだからか、今回は控えめではありましたね。松ケン神保とか好きな人物なんですけど、マルキタの人も含めほぼ出番はなし。

とはいえ拓馬を演じる一ノ瀬ワタルさんとか、その父の敬三を演じるピエール滝とかがしっかり光っているので問題なし。

特に一ノ瀬さんは何故か私が観ないような映画にばかり出演していてほとんど存じてなかったんですけど(「銀魂」は観てたけど本編の記憶そのものが消えている。「クローズ ゼロ2」も観たけど「頭割れたらセメダイン!」しか覚えていない)、30キロ増やしただけあってその体の威圧感たるやすさまじいものがあります。しかも拓馬の撮影、あのシーンが初日だったとか。おいおい。

 

ラガーマンのくせにスポーツマンシップみたいなものを持ち合わせていない不遜で慇懃無礼な役柄、めっちゃハマってました。運動部にはいるんですよねーああいう輩が。しかもフィジカルは強いからどうにもできないという。

 

あと佐藤二朗

俳優としての佐藤二朗は好きでもないし、むしろ悪性映画(主に福田映画。勝手に命名いたした)にばかりでているから印象は悪いんだけど、本作では出番はそこまで多くないわりにその使い方はかなり納得がいくし重要ではある。

というのも、観客のスタンスに一番近いのが佐藤二朗演じる大野だからなんですよ。いやーしかし本当に腹立つよなーこの人。顔から浮薄さがにじみ出ている。安全圏から分かったようなことを言う人(まさに自分に当てはまるからすごい痛いよー書いててダメージ喰らうヨー)、安全圏から眺める観客と立場が一緒なんですよ。

無論、そんなことでは宮本は止まらないんですけど。安全圏からセイロンティーをぶっかけるだけのような輩の言葉に宮本の自我が抑制される道理はない。

それでも、一貫しているのはどいつもこいつも自分の思うことをドストレートに相手にぶつけているということ。この腹の立つ大野でさえそうだし、知らないところで息子にボコられていた敬三もそうだ。

 

池松くんと蒼井優はなんかもう、書く必要がありますか? という感じで。

しかし「害虫」のころに比べてむしろネオテニーが進んではいまいか、蒼井優芦田愛菜が段々と蒼井優に近づいていく(顔がね)のを見るにつけ、蒼井優のベッドシーンというものに禁忌的なものを感じるのですが・・・という冗談はともかく、彼女が感情をあらわにするシーン、つまり映画で彼女が登場するほとんどのシーンでわたしゃ目に涙貯めてましたよ。

映画で、ていうか邦画でここまで全力で叫ぶのって本当に少ないんじゃないかしら。それを嘘くさくなく、作り物でなく見せるのって、アニメーションならともかくライブアクションでやり通すっていうのはかなりすさまじいことだと思う。少し前まで(今も?)邦画ではやたらと「叫ぶ」だけの映画がたくさんありましたが(個人的には「デビルマン」のアレが一周回って酷すぎて肴にはなるんですが)、どれもこれも臭いだけだった。

けれど「宮本から君へ」は違う。それがしっかりと人物の叫びとして、怒りとして入ってくる。

だって現実で貴様なんて言う人いませんよ。それを違和感を感じさせない熱量でもって成立させる池松くんと蒼井優

いやもう最高です。

ただなんていうか、これは映画本編とは関係ないところなんですけど、蒼井優の力を思い知るたびに「どうして宮崎あおいはああなってしまったのか」と悲しくなってしまったり。全く罪作りな映画だよ「害虫」は!

とかいうことを本編観ながらちょっと思ってしまって、途中で混乱しそうになった。というのもこの映画、時系列をかなり入れ替えて頻繁にカットしていくから、ちゃんと見ていないと置いてきぼりになりかねないんですよ。ちゃんと見てればそんなことはならないんだけど、私はそういう本編の外での雑念が入り込んでしまう隙があったので・・・。

 

本編の外といえば、本編観た人は分かるとおもうけど、予告編はのあの人のささやきはミスリードっていうか完全に予告詐欺でしたね。宮本は多分そのこと自体には悩まないというか、やっぱり本編で描かれたような決断をするだろうから、本質的には変わらないとは思いますけど、やり方が汚い。さすが広告汚い。

 

 あそこまで徹底して人間の身体をえがいた映画のラストに「男ですもの 女なんだよ」はストレートすぎてちょっと笑っちゃいました。てらいのない映画だとは感じてましたけど、最後の最後でそんなこと言っちゃうんだ、と。

言葉尻だけ捉えて批判するような輩が出る前に言っておきますが、これは精神論とかそういうのとは全く違う、男女の肉体性を一言で表し締めくくるものだ。

こう書けばわかりやすいだろうか。

「(勃起しますよ、)男ですもの 女なんだよ(、そりゃ孕みますよ)」と。男と女という、ジェンダー以前の身体性の問題として、生物的な雄と雌として、オブラートに包まない人間の素っ裸な表現としてこの映画はあるんだと。

そこを理解しないと、それこそ性別違和の苦痛だってわかりませんからね。

 

そういえばパンフによるとあの階段での格闘はガチらしいですな。まあ予算考えれば当然なのでしょうが、しかし前時代の東映ヒーローじゃあるまいし、今どきあんな無茶やらせてくれるんだなぁ。

それとパンフで言えばプロダクションノートの文面も時代に対する製作の河村さんのやるかたない憤懣が読み取れて面白いです。今までパンフレットはいくつか読んできたけど、ここまであけすけに自分の思いをプロダクションノートに書いてる人っていないんじゃなかろうか。

今まで読んだパンフレットのプロダクションノートで一番面白かったかもしれない、これ。

 

あと最後にこれだけ。

これ、好き嫌い以前に、人としてどうなのか、ということを試されるリトマス試験紙のような映画でもあるかもです。

私も随分と擦れて捻くれた人間で斜に構えて安全圏からヤジを飛ばすのを楽しむ人間ではあるけれど、この映画を心の底から堪能できるだけのものが残っていた。それを再認できるだけでもこの映画は価値があった。ほんと良かった、この映画を受け止めらるだけのものがあって。

オタク的なものにかつて拘泥していた身としては。

あの界隈は、今はどうか分かりませんけど本当に酷かったし。アニメやエロゲー理論武装して持ち上げるのはいいけど、そういう人ってちゃんとその気持ち悪さを語ってくれてるのだろうか。

 

 最後に愚痴ってしまったけれど、いやでもほんと、掛け値なしにこれ傑作なんで。

でもやっぱり宮本はキツイなぁ~。