dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

さよならテレビ観たよ

「さよならテレビ」観てきた。

f:id:optimusjazz:20200106204622j:image

f:id:optimusjazz:20200106204628j:image

 

そういえばポレポレ東中野行くの初めてだった。東中野駅自体はたまに使うので存在自体は知っていたのですが。

トリウッド下北沢みたいな昔の情緒を残した映画館がチャリ圏内()であるのは灯台下暗しでしたな。にしてもサービスデーだからなのか知りませんが会場前から列ができているとは思わなんだ。

平日朝一番の回を観に行ったんですけど、次の回が立ち見(シネコンじゃありえませんねー)もとい座り観もでていたようで、施設そのものが小さいというのもあるのですがかなり入っていました。

 

この映画、元々は東海テレビ開局60周年で製作・放送された同名のテレビ番組に30分ほどシーンを加えて劇場公開したものだそうで、放送当時は視聴率は振るわなかったものの、業界内で話題になって情報が拡散し映画化までこぎつけた、という代物らしい。

東海テレビ製作のドキュメンタリーは質が高いことで有名らしく、最近でも話題になった「人生フルーツ」もここの製作だったとか。これ公開当初から観よう観ようと思って未だに観れてないんですよね(怠惰)。

 

さて、以前も何かの映画のレビューのときにも似たようなことを書いた気がするのですが、ドキュメンタリーは決して現実を「そのまま」切り取ったものなどではあり得ない。

そこに「何を」「どう」撮るかという作り手の視線が否応なしに介在する以上、劇映画とは違った形ではあっても演出が、大意としてのフィクションが入り込むことは疑いようはないでせう。ましてその対象が人であれば、カメラを向けられる対象は(向ける対象もその反射からは逃れがたい、というのがもろに出ているこの映画は)それを意識するだろうし、その逆もまたしかり。

要するにドキュメンタリーだからといってそれが無条件に客観的で観照的であるということにはならない、ということだす。
この大前提はドキュメンタリーを見るうえで念頭に置かなければなりませぬ。
と、自戒を込めて改めてこんなことを書き下したのは、まさにこの映画でカメラを向けられる人物が劇中でそれを示唆するようなことを言うからなんですね。

projectが「宇宙戦争」について見せること視ることにまとわりつく暴力について語っていたけれど、その暴力という点において質は違えどドキュメンタリーほどそれがあからさまに炸裂する形式もないんじゃないかしら。

劇映画がフィクションゆえに常軌を逸した暴力を発動することができるのならば、ドキュメンタリーは現実の延長として私たちのすぐそばにある些細で危ういものを暴力的に写し取ることができるのではないか。

そんな気がした。

 

でまあ本作に関しての感想なんですけど。

いつもは映画を観終わった後はその映画について帰路で色々考えるのに、何故だか今回はそういうことがなく気づいたら帰宅していた。いや、面白かったは面白かったんですよ間違いなく。

しかしここまで尾を引きそうな題材で思考を促されないのはなんでかなーと思ったんですけど、たぶん、それはこの映画が、内容としては(そして監督の意図としては)テレビ局の内実を世間一般につまびらかにしたいという反面(だから元々はテレビ放送だったわけで)、その意図に反してこの映画はすべてがこの映画の中だけで完結してしまっているからなんだと思ふ。


パンフレットでプロデューサーの阿武野さんが「私は、『さよならテレビ』が巻き起こす波紋を予測できない」と言っているけれど、多分それはよほどのことがなければ杞憂だと思う。阿武野さんの寄稿から読み取れるテレビ界隈の状況を考えると、いかにテレビというものが縮こまっているのかがわかる。「規模が年々300億単位で縮小している」ということではなくて。

自主上映会を呼び掛けているようだしそういう草の根活動が実を結べば何かしらの爆発が起こるかもしれないけれど、テレビの視聴率が振るわなかったのは決して地方だからとかそういう理由じゃないと思う。
というのはさすがに視聴者を信頼しすぎだろうか。

 

そりゃまあ渡邊さんのことから派遣切りの問題(これに関して澤村さんが「卒業」という言葉をくさしてたのは笑う。この人本当に青臭いんだなぁと拍手)を提起することも可能だろうし、テレビが掲げる3つの訓示のうち「困っている人(弱者)を助ける」という部分への痛烈な皮肉として受け取ることもできる。

就活サイトでカテゴリー検索すればこの手のADとかの派遣会社の求人は腐るほど出てくるので、決して珍しいことではないのだろうし、明らかに己に向いていないにも関わらずテレビ業界で働くことを志向しているのがアイドルという同じく彼岸へ向けた憧憬(アジテーテッドな)とモチベーションを直結させてある種のやりがい搾取的な方向にもっていくこともできるだろう。だって36協定で人を働かせられないからって雇った派遣社員があの体たらくでは本末転倒でしょうし。渡邊さんには悪いけれど。

あるいは澤村さんのような真っ当な人が現場で奮闘する様や彼の言葉の重みや疑義を通して「ジャーナリズムはまだ死んでいない」と希望を見出すこともできる。劇中で敗北を喫しているけれど。

組織の顔として矢面に立たされる福島さんの懊悩を通じて共感し、テレビの向こう側ではなくより卑近な個人としてテレビ側の人間を受け止めることもできる。

映画の中でクローズアップされるこの三人から東海テレビ(というかこの界隈)の孕む問題を社会の問題に敷衍することは容易だろうけれど、あのラストの「演出」(映画化にあたって付け加えられたものなのかどうかはわからない)は、この映画の作り手までも俯瞰して見ようというある種の誠実さーーーといって憚られるようなら悪意と呼んでもいいーーーではあるのだろうけれど、しかしその悪意は馴れ合いの悪意でしかない。L.Simpsonが言うところの「ぬるま湯の中の反抗」でしかない。

それはもしかすると、取材最終日に澤村さんに言われた
「現実って何でしょうね? このドキュメンタリーにとって。これまでのテレビの枠内に収まり切ってるんじゃないかって。おんなヌルい結末でいいんですか? テレビが抱える闇って、もっと深いんじゃないですか?」
という言葉を受け止めたうえで取った方法なのだろうけれど、あのしょぼい悪意を提示してしまったおかげでこの映画は自嘲するだけして、結局のところこの映画内で完結してしまった。オープニングとエンディングのカットのカメラの移動が逆だった気がしますが、そういう映画的な演出によって「閉じて」しまっているのもその表れだろう。

つまりですね、何が言いたいかというとですね、テレビ局の人間だってほかの人と何ら変わることはない、感情を持った人間なのだ、と。テレビ局という組織もほかと同じなのだと、この映画は、そこまでいったん立ち返る。テレビの向こう側としてベールに包まれた存在をテレビのこちら側にまで引きずり下ろす。

確かにそれ自体は達成できているのはわかるのです。

わかるのですがーーーそれで?

 テレビの内側の人たちがほかの大多数の人々と同じだというのなら、なぜテレビだけ(ではないと思いますが)がここまで良くも悪くも特別視されるのだろうか。
そこには一般的な通念とは違う特殊な原理が働いているのではないか。社会一般の通り一遍に押し広げ、テレビの内側を描いた≒内部の人々を人間化したところまではいいとしよう。

んが、これがテレビではなく映画として劇場でかかる以上、その程度の敷衍性だけでは足りるはずがない。

それを一般にまで拡張したそのさらに先にテレビ業界が持つほかとは異なる特有の病理原則を見出せるようなものでなければならなかったはずだ(皮肉にも、それが垣間見えたのは映画外のパンフレットで述べられる「君臨」というワードだったりする)。その根幹にあるのは資本主義の競争原理だとか、そういうありきたりなものでもなく。
もちろん一つの真実ということは否定できないけれど。あるいは、敷衍した先で一つの解決策とまではいわずとも光明が見えるような作りでなければ「今更そんな何年も前から言われてることを『テレビ局だから』というだけで言われても周回遅れの問題提起でしかない」のです。

それが私の邪推でしかない、というのであれば、それはそれで一つの結実としてはありだろう。もっとも、だとすればそれはテレビというメディアの力が著しく衰微しているということの証左になりかねず、テレビが作り出してきた綺麗ゴトがまさに綺麗事の幻想でしかなかったということなのだけれど。そんでもってそれがもはや通用していないということでしかないのだけれど。
ただ、そこで終わらせてしまうと新しいメディアとしてのインターネットによって醸成される新たな問題を見落とすことにもなりかねないので、やっぱりこの映画は今一歩足りなくなる。
ていうか責任の放棄だと思いますけどね、私は。

 
だって、これって所詮は許可を取ったものしか流されていないのでしょう?
それで業界がざわつくというのなら、この程度のものが過激なものだと作りてが思い込んでいるのなら、それは単にしょうもない秘匿主義が業界内部に内面化されているというだけ、テレビ業界がその程度のモラルしか持ち合わせていないということでしかない。
阿武野さんはそこに自覚的で「旅人」を自称して、結局は「住人」化されていることに気付いていたからこそこの映画が作れたのだろうけれど、でもやっぱりこれはどこまでいってもテレビでしかないのだ。

パンフレットの寄稿も読む価値があるのは武田砂鉄くらい。テレビ業界とは近接しながらも異なる業界だからこそここまで言えたのだろうけれど、内部者だからこそ語れることがもっとあっただろうに、このパンフレットにもそういうものがない。
森さんは別の媒体で土方さんと対談したりしているけれど、先輩後輩(というか上司と部下?)という関係性だったこの二人のスタンスが割と異なっているというのは面白い。
それは森さんがテレビ側の人間で武田さんとはまた違った立場だからなのかもしれない。
 

で、観ているうちにこの感覚に似たものをつい最近感じたことを思い出す。
年末年始どっちだったか忘れたけど、NHKで芸人やらキャスターやら番組プロデューサーやらがテレビについて振り返りながら今後について話し合う特番がやってたんですけど、あれを見ていたときと同じような白々しさを感じていたんですよね。

その番組が白々しいのは、テレビの内側から、議論するていで遠回しに視聴者へ責任転嫁してるんだけだったからなんです。この人たち見てると、口では時代の変化がどーのこーの言っているけれど、それはもはやノータリンではないですよというクリシェなポーズでしかなくて、内心はどうにもまだ「アイドルがうんちしない世界」に住んでるんじゃないかと思えるんですよねぇ。

あそこに視聴者を交えていたならまだしも、あの場にはそういう人はいなかったし。

それがテレビの内側にいる人々の傲慢の体現なのでせう。そしてその番組がそうだったように、この映画がそうであるように、テレビの内部で完結してしまっている。

だから視聴者である私の思考を働かせる隙間がないのだろう。もちろん、それは完結しているだけであって決して完璧だから付け入るスキがない、というわけではない。
 

といった感じで全体的にテレビに対する諦観が諦観のまま残る映画でした。

場面場面では良い絵を抜いてるなーという場面はあったんですけどね。渡邊さんの表情とか色々、そういう人間の表情が観たい人はいいと思う。澤村さんかっこいいし。

あと土方さんが渡邊さんに金を貸すシーンがすごく意図的に使われていたのだけれど、「ソニータ」に比べればそこまで逸脱したものとは思えなかったかなぁ。「ソニータ」については、あれはあれで当時の私は青臭くも憤慨していたのですが。

またどうでもいいですがPCの横に広辞苑が立ててあったりするのはなんか面白かった。すごい倒錯した感じがあって。まあネットに接続したらダメよーみたいな制限かもしれませんが。

  

うーん・・・。

テレビの向こうとこっちを越境し橋渡しをしてくれる可能性のある中間者として澤村さんと渡邊さん(はまあポテンシャルは限りなく低いが)を見出していたので、東海テレビの社員である土方さんでは、彼が阿武野さんがいうところの東海テレビの住人である以上、越境することはできないはずなんですよね。それはどっかのネット記事の森さんとの対談を読めばありありと伝わってくる。仲間意識、忖度、呼び方は何でもいいけれど。
もしも土方さんがそこを突破してくれていたら、あるいはもっと違っていたかもしれない。

さらに言えば、同じくテレビ業界に身をやつしていた森さんが、「A3」において自身が危惧していた共感の危うさに知らず知らずのうちに近づいているような気が、土方さんとの対談から読み取れるテレビ業界へのシンパシーから感じたりもした。

森さんの言うように内部者だからこそ撮れたものではあるのだろうけれど、それは取りも直さず外部者だから撮りえたもの(が排除された)の可能性も考慮しなければならい。

私は、むしろそちらの可能性、そうでなくとも澤村さんのような内部に居ながら根を下ろしていない「あわい」にいる人の視線から捉えたほうが届いたんじゃないかと思ったり。