今までは備忘録としてまとめて書いていたのだけれど、あとで振り返るときのために今年からはどれが印象に残ったのかも書き記しておくことにしますた。
てなわけで先に書いておく。
順位とかは特にない。
・パニック・トレイン
・マチネー/土曜の午後はキッスで始まる
・ザ・ウォーク(街並み、特にラスト)
・舞踏会の手帖
「ラスト・ワールド」
一言でいえば盛大な逆張り映画。
思考実験としては楽しいけど映画としては・・・思考実験という設定じゃなくて、それこそループにすればまだ観れたのではないかと。2013年だし。ありふれてはいるけれど。
んでもって倫理的にどうよ、という場面が多い。特に無理やりゲイをアウティングさせてる(それを同じゲイが強要させているというのがまた酷い)シーンとか、あの子が自分のセクシャリティについてどう考えていたのかを明示しないことで都合よく使ったんだろうけど。
合理的・論理的な思考()に対するカウンターというか異議申し立てとしてあの展開にしたのだろうけれど、あまりにオプティミズムが強すぎるし、まあ最初からそうなんですけど言ったもん勝ちすぎて。
あれが偽善的に見えてしまうのは日本人的に精神論や根性論への反発があるからなのかもしれないけれど。アメリカはむしろ合理性()によって突き進んで弱者を排他するからこそ勘定的価値ではなく感情的価値による成功パターンを見出したかったのかしら。
しかし、あの選択はある種哲学への問いかけでもあって、最初に生徒が言っていたように哲学とは自慰行為なのだろうか、であればあの思考実験の空間に哲学者がいた場合、果たして選ばれるだろうか?ということがあるわけですが、まあそこまでは行かず。
詩人は即そぉい!の天丼は面白かったです。
年始から嫌な映画を観てしまった。
斜めのカメラワークやスロー、一人称視点のカメラワークなどなどデ・パルマックスな画面。印象的な画面が多い。
ベトナム戦争を題材にしたものであり戦争犯罪を描いてはいるのですが、その精神性は「野火」にとても近接している。
おそらく戦場における個を描こうとするのならばどうしてもああなってしまうのでしょう。そこにおいてマイケル・J・フォックスもといエリクソンが理性を保ち続けたことにスポットを当てるのはさすが。
が、これは一つの絶望でもある。なぜなら、エリクソンが正気を保たなければ告発はできなかったのは事実ではあるけれど、そうやって理性を保ち続けたがゆえに彼女を逃がすことができなかったのだから。あそこで一緒に逃げていれば、あるいは救うことはできたかもしれない。もちろん、あそこで救ったとして生き延びることができたかどうかはわからない。ただあそこで何もかもなげうって一緒に逃げていればあるいは、という可能性はあった。しかし何もかもなげうつということは理性を捨てるということだ。
脱走兵になってしまうという軍規への従属は、理性のなせる業であるがゆえに彼女を救うことはできなかったということでもある。
しかし盲従することはすなわちアイヒマンへの道でもあるわけで、その葛藤の中での最善策があれだったのかもしれない、と考えるとなんともやるせない。
「ラスト・ターゲット」
ヒットマンのジョージクルーニーというより助平ジジイにしか見えないんですが。
ていうか監督も狙ってるよね?ブロンド美女のケツ(やや望遠とはいえスカート透けてるし)カットからの凝視クルーニーのアップである。
原付でのカーチェイスで確信する。これわざとだと。
だからこそクルーニーだったのだ。
どれだけ大真面目に取り組んでも老体故に生じるおかしみ。そしてその苦悩。
若い女性と並ばされるのも、その相手が情婦であるというのもまさにその証左。
これは当人にとっては辛いことだ。どれだけ大真面目にシリアスに徹底しようとしても、それが可笑しさにしかならないのだから。
ことによると、これは「ラッキー」におけるハリーの描かれ方にも近いのではないだろうか。無論、あそこまで老いた肉体にコミットはしていないし、クルーニーごとき(失礼)若造ではアレだけのものを発することはできないにしても。
ある種の中年の危機映画なのかもしれない。
この当時でまだ50行ってないのに年齢より老けて見えるし…。
どうしてこうなった…どうしてこうなった?最後までは良かったのに!
娘も含めてみんな良い演技して演出も良かったのに、どうして最後にああなった!?
ひょんなことから大きな陰謀に巻き込まれるのかと思いきや、むしろその真逆の真相というのは中々よかったし、スケールダウンしていたとしてもその人物たちの説得力も十二分に役者が担ってくれていたし、終盤までは人物の描き方自体も良かった。なのにラストがあれ!
エディの二面性の表現としてサミューに壁ドンするシーンの鏡の使い方とかもそうですし、回想をインサートしてもおかしくないところを徹底して切っているし。
そうやって回想を入れないで写真だけで端的に示すスマートさは、単にスマートなだけでなく過去に囚われる人々の、その過去(身近な人間が殺されたこと)との決定的な断絶を浮き彫りにしてくれているし、だからこそ死者を引きずる人々の顔の演技がなおさら光る。サミュエル・L・ジャクソンの中でもここまで落ち着いて重厚感のある顔はそうは見れますまい。
そこにエド・ハリスとかもいるし、娘さんも達者だしみんないいんですよ、本当に。
なのにラストのあれはどういうつもりなのか!?
もう一度書きますけどラスト以外は最高だったのにラストで台無しだよ!全米ライフル協会のステマですかこれは?!
いや、あれを狙ってやってるならブラックジョークとかいうレベルじゃないんですが、しかしここまで演出レベルで手際よくやってるのにあのラストに違和感を持たないのはちょっと信じがたい…。狙ってるのだとしたらかなり意地悪ですけお。
だって母親の死体を目撃してあれなのに、家族同然で自分の名付け親を射殺するのはそこまで気にかけないどころか映画上の締めとしてとはいえレポートの中に刻むというのはヤバいですよ。
いや、このラストはこのラストで嫌いではないというか、完全に虚を突かれたとはいえそれがかえって新鮮だったりはするんですが。
「ユリシーズ」
告白すると半世紀以上前の叙事詩系の映画や西部劇映画はあまり好きではないというか、単純に慣れてないからなのだろうけどいまいちドライブできないことが多かったりするのですが、これは面白かった。
よく考えたらオデッセイだしソード&サンダルなのでああいう怪物系が出てくるのも当然なんですけど、ちょっと意表を突かれた。
一つ目の巨人ポリフェーモも足だけとか手だけとはいえ、しっかし等身大の人間と一緒に映していたりしますし。
この年代の叙事詩系の映画では一番純粋に楽しめた気がする。
「マチネー/土曜の午後はキッスで始まる」
2階のスペースが崩落して座席が吹っ飛ぶショットが最高。
さすがはジョー・ダンテ。無邪気な楽しさを全開にしつつもその背景あるいは背後に忍び寄る不穏を滲ませる。ラストのヘリコプターのショットなんてぞっとしない。
ていうかこの人もう73歳なんですね。なんとなくまだ60代くらいの印象だったのですがスピルバーグと同年代とは。
思うに、この人って割とタランティーノと似たような精神の監督なんじゃないだろうか。目指す方向性はちょっと違うけれど、無邪気な楽しさとそこはかとないポリティカルなにほひも持ち合わせている。
「グレムリン」ですらクリスマスに対するあてつけ(笑)のようなものがあり、ある種の中心に対するカウンターのようですらありますし。
あと劇中劇のクオリティが半端ない。これ自体が独立した作品として特典映像として観れたりするらしいので最初からそのつもりだったのでしょうけど。
「ターミネーター2」の後、というのもちょっと勘ぐってしまう。CGが違和感のないものになった直後として、いわゆる特撮の遺物にさせないための手法として劇中劇にしたのではないか。60年代という時代を使って当時の人々を再生させ、彼らの視点を通じて特撮を観るのだと。だって60年代の特撮映画を完全再現してるわけじゃないでしょ、MANT!って。明らかに60年代の特撮よりもアップデートされてるじゃんすか。そんなに60年代の特撮映画を観ているわけではないですが。
少なくともジョー・ダンテはそういう技術に関しては意識的なはずですし。スクリーンの使い方がとても示唆的だし。
劇中の出来事はそれこそ現実のパロディ(興行としての映画の歴史というか)ではあるのだけれど、MANT!も含めスクリーン内と現実を並置させ拮抗させることで、ある種の弁証法的な手法でもって何かを見出そうとしているんじゃないかなーと。特にこの映画はそれが顕著な気がする。
いやー面白い。
「ウルヴァリン サムライ」
いや面白いですこれ。
マンゴールドのウェスタンをサムライに置き換えた感じというか、義というか。
うーん?まあ面白いと言えば面白いんだけど下手に過敏すぎてホラーというよりはモンスターパニックに寄ってしまっている感じ。
ラストの繋げ方はリメイクかと思わせてからの〜ってことなんでしょうけど、原題ならともかく邦題はネタバレしちゃってるのでなんだかなぁ。
「バルカン超特急」
初めて通して観る。なんかすごいパラノイアなんですけど。
やたらと人があっさり死ぬわりにコミカルな描写が多かったりするし、妙に倒錯しているように見える。
こんなんだったっけ・・・? あまりに軽い人の死、それ自体がギャグになっているというような見せ方でもなくて(手を撃たれた時のリアクションなんかはギャグですが)、なんかすごい恐ろしい悪夢を見ているような感覚。
きつい。痛みで泣きそうなったの久々ですよ、本当。
否が応でもその場に、視線を括りつけようとする長回し。カメラを移動させながらのものもあればフィックスによるものもある。そのあまりにも残酷な世界を提示し続けようとするマックイーン監督の意思が見える。
そして製作のブラピが「良い」白人の役を持っていくというせこさ。ブラピは冗談にしても、やっぱりハンス・ジマーはこの手の映画に合わなすぎてちょっとどうなんですかね。「ザ・ロック」のノリで書いてませんかこれ。
ラスト周辺はまだしも中盤の「ザ・ハリウッド大作」然としたBGMはさすがに空気読めてない感じがするんですけど、どうなのよジマー御代。
あらゆるものが間違っている狂った世界。人間がモノとして扱われる世界。その極限が戦争・戦場であるとすれば、この時代は戦場そのものだった。
なんてことはない、南北戦争が始まる前からアメリカはすでに戦場だったのだ。
「カラー・パープル」や「青い目が欲しい」といった抒情として描かれる黒人差別とも異なり、叙事としての怜悧な視線がそこにはある。それを象徴するようなカメラワークが随所に散見できる。
とはいえ監督は同じく黒人である。徹底した叙事として描くには当事者性が強すぎたのだろう。その語り口は観察者の、もっと言えば傍観者のそれだからだ。「デトロイト」とは真逆に。だからこそ、ハンス・ジマーのこてこてな劇映画じみたBGMを入れて抒情に寄り添ったのではないだろうか。というか、入れざるを得なかったのではないだろうか、と勘繰ってしまう。
「ザ・ウォーク」
ジョセフ・ゴードン・レビット、映画のたびに顔が少し変わっている気がするんですけど。いつも彼を見かけると「あれ、これゴードン・・・? でも微妙に違うような・・・あ、やっぱりゴードンだ」という風になるのですが、わたくしだけでしょうか。
ゼメキスに関しては「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズや「永遠に美しく」といったかつての日曜洋画劇場でやっていたような映画とか「コンタクト」とか「フォレストガンプ」とかの話題作くらいしか観ていないにわかな私。
ルーカスに似て映画の技術的な方面に対しての興味関心が強い人で、大衆を満足させることはできるんだけどよく考えると首をひねりたくなるようなディテールも散見できる良くも悪くも技術志向な人、という印象が強かったんですけれど、不覚にも今回は泣かされてしまった。
もちろん、それはゴードンにではない。彼を通じて描かれる「ワールドトレードセンタービル」にだ。
もしゴードンが魅力的に見えるのであれば、それは彼が生きながらにして彼岸を、というか彼岸「で」遊歩するブリッジャーとして向こう側の世界と同期しつつ同時に此岸に足を置くバランサーでもあるからだろう。
ゼメキスは「フォレストガンプ」においてモノローグによる回想を採用し、その手法は北野武などのようなシネフィル回りの人間からはその手法を批判され(まあ予算の多さに対するやっかみも含めてなのでしょうが)がちではあるのですが、今回もその手法を採用している。「フォレスト~」からこの「ザ・ウォーク」の間に同じようにモノローグを採用していたのかどうかは観ていないのでわからないのだけれど(白目)、ことこの映画に関してはその手法によって、回想という「誰かを通して過去を見る」行為によってもたらされる感動がある。
ではこの映画はフィリップを通じて何を見せてくれたのか。それは今は無き・・・今は亡き「ワールドトレードセンタービル」だ。
正直なところ、前半は退屈だった。記号的なキャラはいてもそれぞれのキャラのかけあいはアンサンブルなんてものは感じられないし、とりあえず描いといた感じがぬぐえないからだ。
んが、中盤になってワールドトレードセンタービルが登場してから本格的にこの映画は動き出す。なぜならこの映画の主役はワールドトレードセンタービルであり、そのワールドトレードセンタービルという無機物を追悼する回顧映画として観れるから。
前半が退屈なのは当然で、それはすべてこのビルを美しく飾り立てるおぜん立てでしかないからだ。
この映画で力が一番入っているのは、CGをふんだんに使って様々なアングルから描き出されるワールドトレードセンタービルに他ならない。
だから主役が登場してから加速度的に映画はテンポアップしていくのだ。ケイパーもののように。
この映画の主役は決してジョセフ・ゴードン・レビットなどではない。登場の時点から常に彼の背後にたたずんでいたワールドトレードセンタービルである。だからこそ最後の最後にカメラは彼ではなくワールドトレードセンタービルにフォーカスしていき、美しく黄昏の中に輝いて有終の美を飾るのであります。
この映画のすべては、このラストカットの美しさのためだけにあると言ってもいいんじゃないでしょうか。それくらい、陶然としてしまった。
まるでタワーが、タワーそれ自体のためのモニュメントであるかのように黄金色に輝く様に。周囲が暗くなって一層輝かせようとするゼメキスの心入れに。
物を思うということ。それをここまでの技術を投入して美しく見せてくれる映画はそうはないんじゃないだろうか。
特に、人間中心主義にある昨今では。そうでなくとも人間中心主義というのは行き過ぎてしまうとピーター・シンガーを筆頭とするパーソン論に行きついてしまうわけですが、この映画はそういうレベルですらもはやない。
なにせ扱っているのが人ではない、それどころが生き物ですらないのだから。
カーヤン曰く「前略~そりゃ危険だからないにこしたことはないしリスク背負うのも怖いし。でも・・・原発に対して・・・みんな難しいこと叫ぶ前に言うことがあると思うんっすよね。今までお世話になってありがとう。」
そう、この映画の視線はカーヤンのそれと同じなのだ。
人々の欲望によって生み落とされ、身勝手な象徴を投射され散々利用された最後には表象として破壊される、あるいは指弾される物々。
もちろん原発とワールドトレードセンタービルを同じ文脈として語ることはできないけれど、でも産み落とされてしまったアーティファクトを思う気持ちに偽りはないはずだ。
廃墟に向ける退廃的なものへの憧憬とも違う、その物を優しく見る視線。すでにこの世からは崩壊してなくなってしまったものをコンピューターグラフィックスによって再現し美しく仕立てる。
不思議なのは(とか書いておきながら別に不思議でもなんでもないんだけれど)、それを人間に対して行うと途端に倫理問題に発展させられることだ。
「コングレス/未来会議」によって表面化させられたCGと役者の問題は「スターウォーズ」という史上最大規模の実写映画(を主軸にするコンテンツ)において「死者の再現」や「生者の時間回帰」において率先して使われ、それを批判的に観る人もいた。
だがその批判はあまりに人間が中心的に過ぎやしないだろうか。その批判をするなら、この映画においても、いや、いまは当然となったあらゆる映画の背景として構築されるCGモデルに対しても同じような批判をするべきだ。
故人を再現するのに他者を使っても許される人間とは違って、CGにせよ実際に作るにせよ、代替不可能性で言えば本来なら人間以外の物の方がはるかに再現が困難だと思えるのに。
というのは極端にしても、どこかそういう違和感を拭えずにいる。
擬人化、などという言葉を使うのも躊躇われる。
別に人に寄せているわけではなくて、「それ」を「それとして」悼んでいるにすぎないのだから。
アニミズムやガイア論への揺り戻しが必要なんじゃないかと、この映画で描かれるワールドトレードセンタービルの美しさ(とそれに投射される眼差し)を観て思う今日この頃。
「ワン チャンス」
R.I.P リック…
リボウスキーなあの友人最高。
あえて決勝を省くのも良い。
まあ天才(というか秀才?)の話でしかないのでアレですが。
「巴里の屋根の下」
ファーストカットの町の風景が最高。
画面の制約(アス比)のせいでみんな距離が近い。それが返って関係性に浮薄さをもたらす。そして画面内で人物が密着すると声(言葉)が世界に取り戻されるのですが、頼りない!
なんというか、トムとジェリーやウォルト存命中のディズニーアニメーションの運動力学(?)って音楽の力がかなり強いような気がする、とこれを見て思ったり。
「フィルムフィルムフィルム」「黄金のカモシカ」「チェブラーシカ「シャパクリャク」」
ロシアのアニメ特集ということで3本立てを観てきた。
・フィルムフィルムフィルムは大学の講義で断片的に観た記憶があるのですが、映画製作の過程を面白おかしくセリフなしで20分で凝縮していて楽しい。
あの役者が死んだと思わせてからのただのシーンだった、というのもミスリードが効いていますし。
脚本が出来上がってから撮影に至るまでの加筆修正のくだりとかもそうですけど、全体的にテンポが良くて一番楽しめた。
・黄金のカモシカはインドのフォークロアを原作にしたもの、らしい。
半世紀以上前のものなので完璧な修復はできておらずちょいちょいカットの繋ぎがおかしいところがありましたな。
ディズニーの黄金期を観ているようなアニメーションですが、多分撮影のミスなのかもしれませんが奥にいるはずの人物の影がそれよりも手前にある石ころと重なっていたりする。
背景とかが意外と簡素だったりする、そういう隙(ていうかこれそもそも劇場公開用だったのだろうか?)も含めてチェブラーシカの「豚がシッタカブッタ」的な緩さがたまらない。
「海外特派員」
うん。ようやく確信した。私はヒッチコックが合わないと。「裏窓」はそこそこ楽しめたし「鳥」もインパクトあってそれなりに楽しめたんですけど、イマイチ集中力が続かないんですよね。男女の部分がタルいのだろうか。嘘臭いというかウザったいというか。うーむ、よくわからない。
とはいえ全部観たわけでもないし実のところ「サイコ」とか「めまい」といった有名どころすらカバーしていないのだけれど。
この辺観てダメだったらどうしようかとガグブルなのですが。
「ヴァイラス」
鉄男のエピゴーネン、というにはあまりにB級なジャンル映画な佇まいではあるのですが、しかしそのグロテスクに関してはかなりのもので、そこだけで十分ではあるともいえる。
それにしてもジェイミー・リー・カーティスのタフネスの異常さが際立っている。近距離で爆発くらい過ぎてるのに。
「アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング」
最初の方は特種メイクを施したエイミー・アダムスかと思いましたよ。
まあ、なんていうか、はい。吹き替えに渡辺直美を起用した文脈はわかりすぎるくらいにわかるのですけれど、メインに据えるとやや他の声優と浮いている感じはある。下手、というわけではないのですが。まあ中盤からはだいぶ馴染んできましたけど。
本編に関してはそこそこ笑えましたけど、モラルの中で水遊びしているに過ぎないし、ある意味では「まごころを君に」(なんか都度都度引用していますが、別に特別好きっていうわけではなくてあくまで共通言語としてわかりやすいために引用しているだけであります)の対局でありながら、その実はやっぱり同じことだったりするのでありんす。
「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」
インタビュー画面、みんながみんな真正面から撮られているのに、誰一人として誠実さを感じられない。それは画面の余白ならぬ余黒のせいでもあるし、それぞれの姿勢やインタビュー場所の背景にあるのかもしれない。というか発言の直後にその言葉と真逆の行動が提示されるからなんですけど。
しかしラヴォナの不遜な態度は明らかに自己中心的なものだし、「真実」を作り出し「ウソッぱち」を造り出すマスメディア側の人間である「ハードコピー」のレポーターは顔をカメラに向けてはいても体は常に横を向いている。
ジェフに至ってはその発言がすでにからして韜晦である。隠すほどのものでもなければ隠し通せてすらいない下劣さであるにもかかわらず。
もちろん、マーゴット・ロビーが演じるトーニャにも余白ならぬ余黒はあるのだけれど、しかし唯一、トーニャにだけはまだ信じるにたるものがあると(作り手は)信じている。というか、それこそがこの映画のレーゾンデートルであるわけで。
ではトーニャの信じるに足るものとは何か。言うまでもなくそれはフィギュアスケートだ。
フィギュアスケートだけがこの映画において純粋なものとして描かれる。たとえそのきっかけがトーニャの言うようなラヴォナによる洗脳だったとしても。や、だからこそフィギュアスケートという本来それ自体は純粋なものであるものが、資本主義やメディアの耽美なストーリー志向などによって穢れを纏わざるをえなかった、という話なのだろう。まあ、人間がピースとして組み込まれている以上はそこに完全な純粋なものなどあり得ないと私は思いますが、こういうのはスポーツをやったことない人は結構幻想を抱きがちな気がする。
ともかく、監督はフィギュアを純なるものとして描いている以上、この映画の中では少なくともそうある。
DV母とDV夫によって穢されていくトーニャとフィギュアの在り方というか顛末というのは、彼女がフィギュアとかかわるようになったその起点がDV母であるという時点でほとんど決定していたようなものだったのでせう。
あの劣悪な環境に加えてジェフとの運命的な(無論Fate的な)出会いが決定づけてしまった。
そうして見ると、逆説的にトーニャにとってのキーパーソン(に成りえた)人物が浮かび上がってくる。それはトーニャのコーチであるダイアン。
なぜなら彼女はフィギュアを通じてのみ描かれ、フィギュアを通じてのみトーニャとの関わりを有している。
前述のようにフィギュアとはこの映画において唯一の純なものであり、それのみを媒介してトーニャと通じている彼女は純粋な存在だった。
だからこそ、もしトーニャを救いだせるとしたら彼女だけだったのかもしれないけれど、しかしトーニャを救い出すには畢竟、その汚わいを引き受けなければならず純粋なままではいられなくなる。
そんなわけでダイアンはほとんどこの映画において出番を与えられず、だからこそ純なる存在として在り続けることができた。ま、程度問題でしょうけど。
それ自体は純なるものであっても、それがこの資本主義社会のシステムに組み込まれることでどうにかなってしまう、というのは「エニー・ギブン・サンデー」にも通じるものですが、まあどうなんでしょうかね。
あと個人的には劇中のラスト近くでOJシンプソンの話題がテレビから流れる場面がありまして、非常にこの映画の主張するものと対比的で嫌な笑いというか諦念のようなもので胸がいっぱいになりました。
しかし「リチャード・ジュエル」を観た後だとほとんど姉妹作と言って相違ないレベルですね、これ。「リチャード・ジュエル」と「アイ、トーニャ」をブリッジする存在としてのポール・ウォルター・ハウザーの存在は、ほとんど楽屋オチじみてすらいるのですが、リチャードとショーンというプロファイリングだけで観れば似たような人間である両者の彼我と、それを取り巻くマスメディア(とそれに連関する拝金主義・男根崇拝思想)を一考するにはいい映画でした。
でもこの手の病理ってスポーツに限らずどこにでも巣食っているのだろうなぁ、と思うと気が滅入りますね。
んで、実はこの映画のほかに「氷上の疑惑」っていうNBCのテレビ映画があるらしいのですが、これはもっとノーサイド的に描いているとかいないとか。
「カウボーイ&エイリアン」
エイリアンの感じとかハリソンとか父親問題とか、レイダースというかスピルバーグっぽいなーと思ったら製作にロン・ハワードと一緒にいるし。
ファブローもユダヤ系ではあるし、この人の映画も思い返せばファザコンな問題を抱えているものが多い気がするので、その辺の親和性があったのだろうか。
しかしスピルバーグのような死者の国としてのエイリアンというよりは、ジョン・ファブローは分かりやすい天国と地獄、贖罪、天使と悪魔などなど、キリスト教的モチーフとしてエイリアンを使っているように見える。
良くも悪くもファブローはスピルバーグほど尖っていないので、これくらい分かりやすいバランスで良いのかもしれない。
にしてもあの雲の感じ、まるでマットペイントみたいに質量感があったのだけれど、なんですかあれ。
1作目は観てないのですが、なんか予算が倍になったおかげかすごくいい意味でバカバカしい映画でした。
前半は悪い意味でバカっぽい映画だなーと思っていたんですけど、後半のための前振りというか溜めだったのだな、と。
一言で「これがやりたかっただけだろ」という。エンディングの余韻ぶち壊しなNGシーンも含めて。
予算のせいなのかエイリアンがかなりがっつりスーツなのに全然違和感なく見れたりするあたりは何気に巧み。
展開そのものが楽屋オチというか役者ネタに走るのですが、「ザ・レイド」組だから仕方ない。とはいえ唐突なグロ描写(あれもオマージュかもしれませんが)といい遊びすぎです。いやもっとやれ、と思いますけど。
怪獣バトルといいアベンジャーズなカメラワークといいふざげすぎです。いいぞもっとやれ。
とりあえずインドネシアの格闘技は宇宙人にも通用するということでFA。
「その女諜報員アレックス」
どちらがより相手を下回れるか、勝負。
なんか全体的にダサいんですけど、終わり方と言いテレビ映画かなにかなのかしらこれ。
「嘘八百」
中井貴一と佐々木蔵之介が中年の危機を乗り越えてイチャコラする映画。需要はニッチだけれど刺さる人にはっ去りそうな映画。
「舞踏会の手帖」
なんというか、なんなんだろうかこれ。いや、いい映画なんだけれど、なんだろうこのファム・ファタールな後味の悪さは。
どうにも一筋縄ではいかない。それにしても役者がそろいもそろっていい顔していやがります。
個人的にはティエリーの部分がカメラの明らかな斜傾ぷりといいインダストリアルなカットの挿入といいオチと言い、ぞわぞわしてすごい良かったです。