dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

犬(人)>人

これ主演ハリソン・フォードじゃなくてバックでしたね。いや本当に。

後半はダブル主人公な立ち位置ですけど、中盤までほとんど出番ないですしハリソン。

 

にしても、原作全く知らなかったのですが、リアル路線かとばかり思っていたので(モーションキャプチャーなのは知ってましたが)、しょっぱなから犬の描き方の擬人化度合いが完全にファンタジーのそれだったのでちょっと面喰らいました。

まあだからこそ今再びライブアクションとして映画化されたのでしょうけど。

ていうか監督のクリス・サンダースがアニメ畑の人だったんですね。「リロ&スティッチ」や「ヒックとドラゴン」の監督というのを見てあの犬たちのモーションも妙に納得というか。劇半も「ヒックとドラゴン」のジョン・パウエルですし、今回、劇半がいい意味でBGMとして機能していて、かなり端折ったりよく考えると気になる部分もあるのですが曲と映像の勢いでもっていってくれるのも、その辺のマッチング具合のなせる業でしょうか。

それとどことなく西部劇っぽいところがあったりするのは製作にジェームズ・マンゴールドがいるからだろうか。

 

冒頭に書いたようにこの映画はハリソンではなくバックが主役なのですが(日本版ウィキのキャスト欄にバックとテリー・ノートリーの項目がない。執筆者はやりなおすように)、じゃあ犬の映画なのかというとまったくそうではない。ちょっと調べたところだと、犬は一切使っていないようですし。

要するにこれ、人間を超えた犬を描くために人間の身体を依り代にしているわけですね。超人ならぬ超犬とでもいうべきでしょうか。

ヒトが犬をヒトよりも優れた存在として描き出すことは多分、無理なのです。だからヒトを超越した動物を描くために、人間の身体に犬を憑依させることでそれを達成したわけです。まあ、これはCGに限らず着ぐるみの時代からも行ってきたことではあるのでしょうが。

 

だからというべきか、この映画では人間のキャラクターはほとんどクリシェ的ですらあり、反対に半分「虚構」である犬こそが生き生きとしているのであります。どちらかといえば人間こそが添え物であり、それはハリソンも例外ではない。いや、良い演技してるんですけどね、ハリソン。金を掬っている皿に魚が置かれた時の笑い顔とか超萌えますし。

実際、劇中では犬が人間を助けてばかりいますし、オマール・シーが「バックがボスだ」と言うくらい(冗談半分だけど)犬がすべてを先導する。犬だけのシーンがかなり多いのも、それだけ超犬への自信が脚本家と監督にあったからでしょう。「これ人間なしでもいけますわ」みたいな。

超実写と言われた「ライオンキング」の例もありますし。

ただこっちは見逃していたりするのですが・・・。どうもディズニーは「ジャングル・ブック」あたりから動物の実写表現への注力ぶりが伺えるのですが、映画におけるテクノロジーを導入し続けるその指向性と資本力はさすがというか。

屋外ロケも一度もしていないというくらいなので、はっきり言ってしまえばこの映画のすべて、人間以外は作り物なわけです。

それはほとんどアニメーションである。

そう考えると、常にアニメーションの可能性をどこよりも誰よりも不断に模索し続けてきたディズニーは、実写映画化という手法すらアニメーションのテクノロジーに寄与させるための踏み台なのではないかとすら思えるほどです。

評論家の廣瀬さんがトークショーで「トイ・ストーリー4のウッディの顔に、私たちは(肉体を持った役者の顔に見出すように)見出すわけですよね(意訳&うろ覚え)」と言っていたように、ディズニーの実写に対するアニメーションの無限の敗北(project談)の歴史はここにきて異なる様相を呈しているのではないだろうか。

ただ、「ハウルの動く城」でもアニメーションでは不可能なことをある程度達成している、と氏は指摘していたりするのですが。

 

アニメーションはすべてが虚構である。それはまあ、ネットスラングの「絵じゃん」という突っ込みが適用されるように意識せずとも理解されているところではあると思う。が、ディズニーはそのアニメという「絵じゃん」という記号をテクノロジーによって超えようとしているのではないだろうか。

そう。だからあの時代に黒人がああいう職業に就いていることも、ポリティカリーコレクトネス的な云々ということではなく、「全部虚構なんだからいいじゃん。虚構の方が実物よりいいじゃん」というある種の開き直り、というか虚構の力で押し切れると踏んだのかもしれない。

いや、実際の歴史的にそういうこともありえたのかもしれませんが。

 

これ、ちょっとディズニー映画を実写とアニメーションの両方を全部追いきれてないのでわからないのですが、ディズニーはアニメーションによる実写映画への下克上を果たそうとしているのではないだろうか。

そう考えると劇中で示される「電報」という技術の誕生により犬ぞりで手紙を届けるという仕事自体が淘汰されてしまうことが示されるのですが、あれもなんだか意味深な気がする。

 

正直物語的には言いたいことは色々なくもないのですが、それもパウエルの劇半でそこまで違和感なく仕立て上げられてますし、許容範囲ではあります。

 

みんなが「ライオンキング」を観ていたときに思ったのはこういうことなのだろうか。たしかに、ここ一連の作品はかなり実験的ではある気がします。

 

その実験の先にディズニーが見出すのは、アニメーションによるライブアクションへの侵襲なのではなかろうか。

そこに到達したときに映画というメディアの在り方がどうなるのか。多分それは、死者をCGで再現することへの倫理問題とも合わさってくるのだろうけれど、実写映画における役者の不在、なんていうのも現実味を帯びてきている気がする。

 

余談ですがテリー・ノートリーさんは元々シルクドソレイユのパフォーマーだったんですね。そこから「グリンチ」や「猿の惑星」や「アバター」などにかかわってきたというちょっと異色な感じ。

 

 

 

 

 

 

 

「だってしょうがないじゃない」、だってしょうがないんだもん まこと

などと、みつを風トートロジーなタイトルにしてしまって本当に申し訳ない。後悔はしていないけれど。

 

 まあ実際、この映画は「しょうがない」ので。

そんなわけで坪田義忠監督の「だってしょうがないじゃない」観てきました。

 

「当事者にフォーカスしたドキュメンタリー」というあやふやな情報以外は前情報は一切なしで臨んだため、映画の途中で開陳される「とある事実」には、ちょっとした驚きはありました。

ただ、驚きはしても、実のところ映画冒頭の改札場面と、製作も担当している池田さんが撮影に加わってからの同じく改札のシーンで観られるように、その「とある事実」については周到に伏線(?)が張られていたりするので、驚きというよりはむしろ得心がいった、という表現の方が正しいのかもしれない。

この映画はドキュメンタリーですが、そういうギミックも使われていたりする映画だったりします。というか、坪田監督はもともと劇映画監督らしいので、そういう演出も得意なのでしょう。

 

とか書くと、なにやらウェルメイドだったり、もしくはマイケル・ムーア(に限らないけれど)のようにイデオロギーをバンバンに主張して観客を誘導していくタイプの、ある種の偏向性、といって悪ければ恣意性を含んだ映画と思われかねないのだけれど、そうではない。そもそもドキュメンタリーだろう劇映画だろうが「撮った」瞬間に恣意が介在するものだとは思いますが・・・ってこれ毎回同じようなこと書いてますな。

とはいいつつも、ある意味では確かに偏っている映画ではあるかもしれない。「全肯定」という意味において。

元々、編集段階ではタイトルが「大人の発達障害」だったらしいのですが、編集作業の中でまことさん含め「しょうがない」という言葉が頻出していたことから、この「だってしょうがないじゃない」になったとかなんとか。

 

しょうがない。それは一つの諦めの言葉のように聞こえるかもしれないけれど、しかし本編を観るとそういうものとも違うように思える。

「だってしょうがないじゃん、ねー?」と二人仲良く顔を見合わせて笑い合うようなイメージ、とでもいえばいいだろうか。諦観、というよりまむしろ達観に近いのかもしれない。気の抜けるトロンボーンも相まって、この映画は暖簾に腕押し・柳に風といった、負荷を受け止めるのではなく受け流すしなやかさを湛えているように見える。

 

けれど一言に「全肯定」とはいいつつも、そこに至るまでには葛藤はあったはず。それは劇中でも「とある事実」とそれに連なる物事という形で監督が自己開示しているし、副読本的なパンフレットからも読み取れる。そういった、観客に伝わるナラティブ以外にも色々とあったに違いない。

だからこそ、この映画は肩ひじを張らずにあけっぴろげにしてしまう。

考えておくんなしい。肩ひじ張った神妙な映画のどこにJKのパンツ写真集をどアップにするシーンが出てこようか。

深刻な社会問題を考えようと訴えるような映画のどこに、「お茶のみに行こう」と言った人物が次のカットでは酒を飲んでいるなどというとぼけたシーンを入れるだろうか。

いい年したおっさんたちが「隠してたエロ本が見つかってしまった」という話題を出汁に、高校生の放課後の益体のない駄弁りじみた井戸端会議を展開するシーンのどこに格調高いものがあるだろうか。第一、元はあんな大胆に鎮座させていたエロ本なのに、それが叔母に見つかったという事実がもうすでにくだらなすぎるわけで。

(ただまあ、よく考えるとこのホモソーシャル空間を公衆の面前にさらすのは些か別の問題を含んでいそうな気もしなくもないのですが)

 

要するにこの映画、極めて卑近なのである。映画そのものが。

 

障碍者・・・にかぎらず、社会的にマイノリティ・弱者とされる人々を「扱う」映画では、往々にしてその当事者が背負わされてきた負の側面を描き出し、我々が考えなければならない「深刻な問題」として突きつける鋭さを持っているように思える。

近年であればそれこそ是枝監督や彼が尊敬するケン・ローチ監督なんかはその筆頭だろうし、ポン・ジュノにしたって前者に比べればフィクション性やエンタメ性が強いにしてもその映画が問題を提起しようとする際の鋭利さは劣らない。

 

翻って、この映画はどうだろうか。そんな鋭利なものは感じさせない。

精神や知的とされる人を描いた映画は目につく限りでも、直近だと「ザ・ピーナツバター・ファルコン」や「500ページの夢の束」なんかはライトな作風ではあったけれど、それにしたって「だってしょうがないじゃない」ほど気負っていなかったか、といえばそんなことは全くないわけで。まあ劇映画なので物語が要求されるのは仕方ないことではあるかもですが。

 

では「だってしょうがないじゃない」はどうしてそんなことが可能だったのだろうか。それは多分、監督自身が当事者である(という自覚を獲得した)からだ。

当事者としてカメラを持ち、またもう一人の当事者としてまことさんと一緒にフレームに収まることで、発達障害/知的障害といったものを客体化させず自身の延長として捉え直すことができたからこそ、ここまで影を絶つことができたんじゃないかなーと。

 

でも個人的にドキュメンタリーで監督に限らず作り手が前面に出てくるものは(主となる被写体が監督自身だとかのセルフドキュメンタリーとかはともかく)抵抗があるタイプだったりする。

というかまあ、映るかどうかというよりも「どう介入するか」とか、それがもたらすものが何かを本当に考えているのか、ということに無頓着なものが嫌いなのだす。具体的な名前を挙げると「ソニータ」のことなんですけど。あの映画における制作側の著しくボーダーを踏み越えた介入は、「それ以外の他者」を排他してしまう結果をまったく引き受けていないように見えて、それ以来どうにも作り手の介入に対して敏感になっているのでせう。

「だってしょうがないじゃない」ではむしろその逆で、当事者としての監督が積極的に出てくることでむしろそれを引き受けている。パンフレットでも監督が言及しているように、その身体性によって。

 「ザ・ピーナツ~」にしてもザック・ゴッサーゲンという当事者をメインに据えてはいても監督は当事者ではなかったし、「500ページの~」だって監督は松葉づえを必要とする「身体」障害当事者ではあったけれど、映画で描かれる「精神」の分野として扱われる自閉症の少女とは違う(その違い自体が一つのグラデーションではあるけど)。

 

先に挙げた鋭さを持つ映画というのは、しかしその映画が持つ鋭さがとても非日常的な体験を観客にもたらし、かえってその問題から距離を置かせるようにすら思えてしまう。

だからこそ、この映画が持つ卑近さというのは、すぐ隣に彼らがいるという、観客の地続きの日常の存在であると意識させる点において、前述した映画たち以上にその映画たちの視座する位置にある(かっこつけてかっこよく「脱構築されている!」、とか言えればいいのですが、いかんせん私は哲学とか美術とかに疎い人間なので)。

そんなふうに影を見せずにいながらも、ケン・ローチ的なイデオロギーを図らずも体現しているようにすら見える。

ケン・ローチは是枝監督との対談で「弱い立場にいる人を単なる被害者として描くことはしません。なぜなら、それこそ正に、特権階級が望むことだからです。彼らは貧しい人の物語が大好きで、チャリティーに寄付し、涙を流したがります。でも、最も嫌うのは、弱者が力を持つことです。」と言ってたけど、それは何も貧困層と富裕層にとどまらなず、障碍者と健常者の間にも適用されうる。

つまり障碍者を弱者とみなし、だから助けなければならないと、一見すると思いやりに見えるそれも、その実は当事者から主権を奪う「簒奪」にほかならないわけで。

実際、この映画の中でも後見人たる叔母さんとまことさんの関係が、家をめぐる問題が浮上した際にそのような上下の関係があることが見えてくる。

それは今の複雑な制度が敷かれた社会においては仕方のないことで、正当性があること自体は間違いないのだけれど、でもやっぱりそこに何か気持ち悪い権力構造が働いているように思えてくるのは、私がそういう人たちと距離の近いところにいるから、というだけではないはずだ。

そもそも、その正当性はだれが与えているのか、ということになりますし。

 

ではまことさんは弱者として描かれているか? 論ずるまでもなく、そんなことはない。むしろその逆で、まことさんはまさにその肉体でもってそんな視線をはねのける。

この映画ではまことさんの裸体がまあまあな頻度で登場する上に、ラスト近くでは入浴シーンに至るのですが、その肉体は還暦を超えてなお筋肉がついているのがわかる。それはおそらく、まことさんがかつて自衛隊にいたころの名残(マッスルメモリーとか運動学習とかとか)なのだろう。あにはからんや、意図せずしてまことさんは弱者として客体化されることをその身でもって否定するのである。

 

卑近でありながらも、しかし問題は問題として提起する。これはもはやケン・ローチや是枝監督以上に彼らの目指す先を行っている・・・気がします。

 

そもそも私自身は、はなから「~障害」を引き受ける身体を弱さと直結するような考え方をしていなかったというのもある。

以前、ここで↓書いた最後の一文に連なるのだけれど、

https://dadalized.hatenadiary.jp/entry/2019/02/14/220115

まさにその体現者として、むしろ、社会の要請する成長・適応を否定する彼ら障碍者の身体性は、存在それ自体が現代社会への批判を含んでいるのではないか、とすら思っているので。存在自体がロックな人(なんだか甲本ヒロトみたいでかっこいい)。そう考えると、劇中で都度都度写し撮られるまことさんの「こだわり」も、妥協を許さぬ職人の一挙手一投足を捉えたものとして再定義できまいか。

 

というか、単純に私は発達障害というのがうらやましくもあったりする(これって不謹慎でしょうか?)。

というのも、自分が「この人面白いなぁ」とか「この人頭いいなぁ」と憧れる人の多くが発達障害であることが多く、その障害特性というのはこの社会においては生き辛さではあるかもしれないけれど、その「力」は持たざる者にとっては同時に大きな魅力としても映るのです。それなりにーーーヒキニートやってたこともあるしそれ以外でもいろいろとアレなこともあったので、あくまで「それなり」。人並みではないかもーーー社会に順応できてしまっている自分としては。

だけんど、順応とは屈服の末の従属を言い換えたようにも聞こえてしまう。

とはいえ、この考え方はルサンチマンからくる歪みが大きく関与していることは自覚しているし、一歩間違えば「障害」というものを免罪符にして自分の愚鈍さや怠惰さを育んでしまいかねない。

これはそれこそ「自己責任論」みたいに、どこまでが自分のものでどこからが世界とのかかわりの中で生じる葛藤なのかがいまいちわからない、明瞭さを欠いた問答だからかもしれない。

精神疾患にしてもそうだけれど、これまでは心を病むことを弱さとして受け止められてきた部分が少なくないと思う。けれど、私にしてみれば心を病むことができるというのは繊細な強さの表出として映る。

無論、これは私がそういう人たちに投射する身勝手な視線でしかないことは重々承知しているし、少なからず当事者と接することの多い身でもある(現在進行形でADHDかつASDの人ともかかわりがある)から、当事者の誰もかれもがその「強さ」を坪田監督やその他多くの私がリスペクトする人たちのように「表現」として発露できるわけではないことも分かっている。

 

それに何より、この考え方やこの映画の「全肯定」というものには危うさもある。

宮口幸治さんが「ケーキの切れない非行少年たち」で指摘するように、「褒める教育だけでは問題は解決しない」といった問題点にも通じるものがあるし、それにさっきはああ書いたけど、叔母さんとエロ本にまつわるエピソードは「エロに厳しい口うるさいママンにがみがみ言われて七面倒くさいから男だけでだべる」といった呑気なものとしてだけ受容するのは無理だろう。

 

でも、パンフレットで森さんがまことさんとのやりとりから「寅さん」を見出すように、その「成長しないこと」というのはやはり現代に在っては一つの強度を持っていると思う。

そもそも、(森さんは知ってか知らずか・・・さすがに知ったうえで書いてるのかな。そこまでパンフでは言及してないだけで)「フーテンの寅さん」のフーテンとは元をたどれば瘋癲(ふうてん)のことであり、その言葉は精神疾患を意味していたものだ。しかし「瘋癲」という言葉は寅さんというキャラクターを通じて「フーテン」という言葉へと転化され、「まったく『しょうがない』奴だなぁ、あの人は」といった、相手の認識を融解させ肯定的なものへと再構成してきた歴史がある。ように見える。

なればこそ、やはり精神障害/精神疾患というものが、私が憧憬するような「世界を変える力」を持っているというのは、あながち間違いではないと思う。

だから甘い汁をすする人は恐れるのかもしれない。福祉とか、そういうのを。

 

ほかにも傾聴ボランティアのこととかについても自分の経験に引き付けて書きたいこともあるのですが、あんまり自分のことを知られるのは嫌なのでこの辺にしておきませう。

 

最後に余談、というかすごくどうでもいいことなのですが、まことさんの棚に飾ってあったライダーのフィギュアは平成の物が多かったわりに、家のカレンダー?のとこに一緒にかけてあった手描きと思しき絵は初代の1号だった気がするんですけど、まことさんは平成と昭和のどっちの方が好きなんだろうか。

 

あ~幸せになりたい。

中村和彦監督映画「蹴る」(ダイレクトマーケティング)

タダより安い物はない。というわけで無料の上映会があったので行ってきた。

タダで観れてしかも去年公開の映画なのにパンフレットまで買えて監督のトークも聞けて言うことなしでございます。金がなくて観たい映画をスルーすることは結構あるので。途中で製作資金が尽きて製作会社が降りて監督のポケットマネーで制作を続けた、という話を聞いて若干後ろめたくもあるのですが。まあ区の講座だから公的にお金が出ていると信じたい。

たまたま掲示板を見かけなかったらこの映画とも出会わなかったであろうことを考えると、一期一会の縁に感謝感激雨霰、恐悦至極でございます。

そう思えるくらい、観れて良かった映画。

 

 

間違いなく今年観た中でベスト級の映画。というか、この一年の中でもベスト級の映画でございました。


中村和彦監督のことを知っている人がどれだけいるのか分かりませんが、少なくとも私は今回の上映会まで寡聞にして全く存じ上げませんでした。

それにしても、こんな傑作を手掛ける監督がポケット・マネーで映画を作らなければいけないとはいやはや世知辛い。どうでもいい映画ばかりが取りざたされてこういう良い映画が埋もれていくのは困る。情弱な私としては特に。

中村監督の一連の監督作のテーマからすると寡作ではありつつも社会派な、特に障碍福祉分野にフォーカスしているようにも見えるのですが(例外的なのもありますが、3.11に関しては意識的な作り手からすれば避けては通れないのでしょう)、ウィキペディアの映画以外の仕事を見ると障碍福祉よりもむしろサッカーへの関心が先にあることがわかる。

というか、監督自身「もともとサッカー(を見るのが)好きの野球部少年で、その延長として障碍よりも色々なサッカーのゴールシーンを並べたくて、調べていくうちに障碍者サッカーの存在を知ったことがきっかけて一連の作品を撮ることになった(超意訳)」と言っていたくらいですので、サッカーに興味津々なのは間違いないでしょう。

(全く関係ないんですけど映画にかかわる人でサッカーに入れ込んでるという人が多い印象があるのですが、一体何が彼らを引き付けるのだろうか)

もしかすると、そうやって「サッカー」が「障碍者」に先立っているがために、この映画が障碍者を映したほかの凡百のドキュメンタリーや劇映画とは異なっているのかもしれない。そこまで障碍者をテーマにした作品を観ているわけではないですが。

この「蹴る」は電動車椅子サッカーを題材にしたドキュメンタリー映画なのですが、チームスポーツをたしなんでいた人や介護の現場について思いをはせたことのある人が観たらかなりくるものがあると思う。

実際、私はその両方の要素に僅かばかりとはいえかかわりがあって、だからこそここまで興奮している、というのは否めない。


けれど、そういう経験の有無にかかわらず、観れば圧倒されるはず。

この映画はすべてのプロのチームスポーツ・・・という枠を超えて「個人」と「組織」の間で生まれる二律背反、あるいは個人そのもの、そのシステムの中で身体障碍者ということからどうしようもなく導出されてしまう身体性、そういった極めて個的なものとその集合としての組織の持つ歪みといったものをつまびらかにしてしまうのだから。

それは私が都度都度名前を挙げるオリバー・ストーンの「エニー・ギブン・サンデー」にも通じる「プロ」「チーム」「スポーツ」の持つグロテスクさを、「エニー~」が資本主義的でホモソーシャルなマッチョイムズの清濁から切り撮ったのとはまた別の断面から見せてくれる。正確に言えば金の絡む話もラストあたりの東さんの発言なんかからも垣間見えなくはないのですが、「エニー~」のような個人の思惑を超えた制御不可能な大きなシステムとしてのキャピタリズムは立ち現れてこないので。

先に書いたように、この映画は電動車椅子サッカー取り上げたものなので、サッカーつまりチームスポーツの世界をカメラに収めたものであります。
ではそもそもチームスポーツとは何か? 個人のプロスポーツとは何が違うのか?
それは文字通りチーム=組織であるか否かということ。

組織ゆえに「個人」では生じえない「個々人」の葛藤が生じる。個人種目であれば競技上のすべての責任は己にあり、対峙するのは対戦相手という絶対的な他者のみ。

んが、チームスポーツにおいては、対戦相手以外にも対峙しなければならない「チームメイト」という相対的な他者がいる。そしてチームメイトという他者は、競技の内だけでなく外においても常に意識しなければならない存在なのでせう。

加えて、ただでさえ誤魔化しのきかない実力主義の競争原理がすべてを支配する(裏で色々な力が働いていたりするのでしょうが)「スポーツ」に、さらにその原理に拍車をかける「プロ」という要素が加わることで、「チーム(組織)」や「スポーツ」というものが本質的に内在するグロテスクな構造がより鮮明に浮かび上がってくる。

まあ、そもそも「スポーツ」というものが「闘争」の代替物であるというのはある程度の真であろうし、それが「チーム」という個を超えた集団となりその極北としての「国家」間の「闘争」が「戦争」なのだと考えれば、そのグロさというのは当然なのかもしれない。オリンピックで国旗を背負わされるアスリートの姿を見ていればその違和感のなさに違和感を覚える。

スポーツとは運動であり、人間の身体は運動によって健康を保ち、健康な身体というものはそれだけで病気などのリスクを減らし生存の可能性を高め、さらに立ち返れば我々ヒトの先祖はその健康な身体を駆使することによってエネルギー源としての食糧を得て、さらにその生存可能性を高めるようにできているわけで、人間・・・というか生物というものはその存在の根幹からして闘争(と逃走)を避けることはできないのではないか、とも思ったりもする。

だから戦争というものは、宗教的なイデオロギーとかそういうのとはまた別に人間の機構として組み込まれているものが、集団になることで増幅された結果なんじゃないかしら、と。

この辺の考えは一歩間違えるとレイシズムとかピーター・シンガーみたいなパーソン論に行ってしまうので気を付けなければいけまへんね。はっきり言って、だれでも植松聖になりえると思いますし。

それはともかく、そういう「スポーツ」の世界に健常者という変数の代わりに身体障碍者という変数を代入することで、健常であることに慣れた我々には見慣れない世界がスクリーンに映し出される。

そして、「組織」なるものはそういう「個人的」なものを覆いつくしてしまうということを、図らずも(とか書くと侮りすぎ?)この映画の構造そのものが体現してしまっている。


とはいえ、基本的にこの映画は個人個人に(特にこの映画のきっかけとなった真理さんに)焦点を当てているから、カメラに映し出される人たちを観て真っ当に感情を揺さぶられる作りになっている。

特に、私自身もかつてサッカー(部活動レベルですが)をしていたこともあって、セレクションの厳しさや後輩にスタメンを取られる悔しさなんかを思い出して胸が熱くなったりしましたし、東さんがトッププレイヤーの動きを観て感嘆するのにも「あるある」と頷いたりもした。

常に場面が流動し続けるサッカーなどの競技において、その一連の流れがゴールに結びついた瞬間の高揚感や羨望や憧憬は近ければ近いほどに強くなる。その点で、同じフィールドでプレイしていた東さんからすれば、ワールドカップのフランスVSアメリカの試合は特に強烈だったに違いないことは、その反応からも窺える。もちろん、だからこその悔しさや後述するような抗いようのない壁を痛切に意識せざるを得なくなるのだけれど。

これはもしかすると、観客として観ているだけでは伝わらないプレイヤーならではの共感かもしれない。そういうのは抜きにしてもVSアメリカ戦のフランスのダイレクトパスで素早く相手の守備を突いてあっという間にゴールに放り込むボール回しは誰が観ても圧巻のプレイングだろうと思う。

ほかにも試合用のマシンの調整を行う場面などは、シューズを選ぶときの「自分に適合したツールを見出す」わくわく感にも通じているし、細かいところで言えば1対1の練習や壁に向けてボールを当てて跳ね返ってきたボール(私の地元では「蹴りま」と呼んでいたっけ)をまた壁に返していく一人ラリーの練習もよくやることだった。

もちろん、いずれにしても全く同じというわけではないけれど、個人に焦点を絞ることによって、あまり取り上げられることのない些細な練習の風景一つをとっても、その風景が色彩を帯び観る者の記憶を掘削する。

 
一方で、それ自体がおいそれとした共感を阻む要素として身体の違いが厳然と横たわっている。この映画で描かれる電動車椅子サッカーの選手たちの思いは、そのほとんどが各人の身体と切っても切り離せないところにある。
たとえば電動車椅子一つとってみても、さっきは自分に合ったツールを選ぶわくわく、という風に表現したけれど、動きやすく蹴りやすくするというあくまで付加的なツールとしてのシューズを選ぶ健常者のサッカー選手に対して、彼女たちにとっては一口にツールと言ってもそれはもはや付加的なものではなく足そのものであるはずなのです。

冒頭で永岡さんが「そもそも歩いたことがないから歩き方がわからない」と言ったように。だから、気軽には選べないし(そもそも金がかかるし)入念に調整を加える必要がある。そこには楽しさ以上の懸念や憂慮なんかも多分に含まれていることだろう。

まあ、これは障碍者スポーツに限らないことだというのは、昨今のナイキの厚底シューズの問題が証明してもいるけど。今後もテクノロジーと人間の身体の関わりという問題はもっと避けがたいものになるでしょう。

もっとも、呼吸器のことからも分かるように、テクノロジーの存在は彼らにとっては健常者以上にその身体と不可分であるわけだから、采配の如何がもたらすものは厚底シューズのレベルではないと思うけれど。

これは何もスポーツのことだけではない。電動車椅子サッカーを取り上げつつも個人にフォーカスする(せざるを得ない引力を、彼ら彼女らの身体は有している)この映画は、選手の競技外の日常をレンズに収めていく。
そしてその日常においてこそ、彼らの身体が抱える生き辛さが前面に押し出されてくる。

メインに永岡さんと東さんという二人を据え、さらに他の選手にも二人ほどではないにせよ尺を割くことで、同じ障碍者競技の、同じチーム(ではないのだけど。厳密には)の中であっても、その身体には明確なスペクトルの違いがあることがわかってくる。ソーイングができる永岡さんがいれば、L字型のフォークを使い細かく切ってもらわなければ食事がとれない有田さんがいれば、「2001年宇宙の旅」さながらのペーストでしか食事ができず、しかも本当なら楽しみとしてあったはずの食事が苦痛となり、生きるための営為が苦しみと重荷に直結している東さんがいる(この辺に関してはパンフレットにも載っている東さんのブログの引用なんかを読むとその並々ならぬ思いが伝わってきます)。

だからこそ、PF1とかPF2とか、それらの区分の中でさえも違いあるような、その大きく多様なスペクトルがあっても、そんなものに関係なく一丸となって取り組めるのが電動車椅子サッカーだった・・・はずだった。

ところが、映画終盤、そのスペクトルのすべてを包括(インクルージョン)してくれると無邪気にも思わされた電動車椅子サッカーは、その実フィジカルの差が、電動車椅子であるがゆえに如実に現れてくるのかもしれないことがワールドカップの決勝戦で突きつけられてしまう。

だから東さんは一つの大きく絶対的な壁に打ちのめされてしまった。 東さんだけではない。肺気胸のリスクのせいでそもそも海外に行くことにドクターストップがかかり本人の意思や実力とは無関係に試合から降りなければならない人だっていた。
それは彼らの身体性から生じるものだ。

また「蹴る」が捉える日常風景の中には、健常者が当然のように営為する恋模様もある。

全体の比重としてはそこまで多くはないし、監督自身も障碍者の恋愛についてもっと描きたかった、と言っていたりするのだけど。

確かに、もう少しその辺を掘り下げることもできたかもしれないけれど、その短い尺の中でも見えるものはあった。そもそも実際の撮影期間は6年なわけで、それだけの時間があれば関係性も変容するものであるし、実際その変化を真正面から撮影している。

それに、短くとも東さん・永岡さん・有田さんら三者三葉の恋模様(有田さんは既婚だから少し違うんだけど)を並べることで浮上してくるものが確かにあった。1組だけに注力していただけでは見えてこなかっただろうし、かといってこれ以上の尺を取ることは難しかったのだろう。消去法としての取捨選択の結果でしかなかったとしても。

そして、それはやっぱり、健常者同士の恋愛とは違う世界なのだった。それにもかかわらず、その恋愛の中からは障害の有無に関係ない他者との関わりという普遍的な命題が現出してくる。

永岡さんと北沢さんの当事者同士の二人は、一見すると順風満帆に見える。けれど二人のデートにはヘルパーが付き添っている。それがどういうことなのか、どう二人が感じているのかまではわからない。ただ、健常者の世界に慣れた自分の感覚では、デートに交際相手以外の誰かが付いてくることに、違和感を覚えずにはいられない。

ただ、おそらく、こと恋愛模様に関しては永岡さんと北沢さんのペアよりも、むしろ東さんと有田さんたちのパートナーとの関係性について対置させて描きたかったのだと思う。というのも、恋愛だけではなくサッカーに対するスタンスにしてもこの二人はかなり対象的だからだ。

まず恋愛についてだけれど、東さんとその交際相手の健常者の彼女は、付き合い始めたきっかけを二人仲良くカメラに収まって話してくれていた。んが、撮影を進めるなかで二人は別れてしまう。

その理由は、介護しなければならない者としての自分と恋人としての自分の乖離でもあっただろうし、やはり永岡さんと北沢さんのデートでもそうであったようにヘルパーという第三者が介在することで二人きりの時間が取れなかったこと、あるいは東さん自身が明言していたようにサッカーを何より最優先する東さんの価値観に疲弊し、ついていくことができなくなったこともあるだろう。

果たして、これが健常者同士、あるいは永岡さんたちのような当事者同士だったとしたら、あのような結果になっていたのかどうか。

健常者としての感覚と障碍者としての感覚。その断絶に、二人は耐えきれなかったのではないか。ヘルパーの存在は、彼女にとってみれば東さんにとって必要不可欠であるとわかっていても(わかっているからこそ)二人だけの時間を阻む邪魔者でしかない。けれど多分、東さんにとってはヘルパーの存在は、ともすれば彼女よりも慣れ親しんた存在であったかもしれない。だとすると、そこには埋めがたい感覚があったことは想像できなくない。

当事者同士であり感覚を共有しているであろう永岡さんと北沢さんは、少なくとも劇中ではヘルパーがいても円滑に交際できているように見えるのだから。

だとしたら、サッカーに向ける情熱を彼女が理解しきることができなかったのも、やっぱりその身体性の差から生じるものなのではないか。

というのも、もし東さんが健常者だったとしたら、果たしてそこまで身を削ってまでサッカーにあれだけの熱量を持てたのかどうか疑念を向けざるを得ないからだ。

あれだけの熱意というのは、東さん自身の身体がもたらすある種の絶望を振り払うためにあるのではないか、と。

もし生きるためのよすがとしてあるのだとすれば、大げさではなく生き甲斐としてあれだけの熱量を持つことができるの当然だ。だって生きるためなのだから。

観客はそれを理解できるけれど、それは場外だからこそ客観的に観れることもさることながら、「死んでも構わない」と言うほどの、東さんと同じようにサッカーへの思いを、語り部としての永岡さんを通じることで東さんの情熱へ近接できる(けれど決してそこまでは到達できなない)からなのでせう。

それに、6年という撮影期間の間に亡くなった選手が何人かいたことを観客はすでに映画の中で知らされているから、というのもあるだろう。選手の葬儀が示すように、彼らの身体は健常者のそれよりも死が身近にある。だからこそ東さんがサッカーで全力に、それこそ狂気的に生きることに、その狂気を狂気としてではなく熱意として受け止められる。

食事という生存方法を捨ててサッカーという生存手法を選び取った東さんにとって、サッカーは文字通り生きるための術なのだろう。それは健常者でありヘルパーを必要とせず呼吸器を必要とせず車椅子を必要とせず食事を美味しく味わうことができる彼女には理解しがたい苦しみであり快楽に違いない。

サッカーそのものにかんしてもそうだけれど、内部にいては見えないもの、というのは確実にある。それこそが本当の意味での客観性、というやつなのだと思う。

うん。「さよならテレビ」でうすうす感じていたことが、さらにはっきりした気がする。


では健常者と障碍者の間の断絶は乗り越えようのないものなのだろうか。いや、そんなことはない(反語)。
なぜなら東さんたちが別れてしまった一方で、東さんたちにも在りえた可能性として有田さん夫婦がこの映画では描かれているのだから。

もちろん、すでに述べたように東さんと有田さんにしたってそこには障害の違いがあるしサッカーに対するスタンスの違いもある。だからこそ断絶を乗り越えられる、ということでもある。

それは障碍者だからとか健常者だからとか、そういうラベリングに囚われることなくその人個人を見つめるということだ。

とはいえ、それは言うほど簡単なことじゃない。有田さん夫婦にしたって、そこには前述したような東さんたちが直面したヘルパーという第三者との折り合いのつけ方だったり、夫婦であることによってより介護の現実に向き合わなければならなかったはず。

映画の中では、有田さんはすでに結婚していたから振り返る形ではあったけれど、それまでの葛藤の結実としての「夫婦」という形だけがスクリーンに投射されるからこそ、二人の「絆」(この言葉に含まれる二重性は、まさに二人に適していると思う)が示される。

有田さんは東さんに比べてリアリストな側面があって、自分の身体との折り合いをつけて生活のためにボッチャに転向するフットワークの軽さがある。それは東さんのサッカーに拘る一極集中の生き方とは違う。有田さんに比べると東さんの生き方は己を削りそのサイクルの中で他者を削るような常に全速力で燃え尽きようとする生き方で、それに身近にいながら共感し理解できる人はそうはいない。

そこに恋を芽生えさせたとして愛にまで育むことは難しいのかもしれない。東さんの生き方はほとんど漫画みたいなものだから。

誤解してほしくないのは、どちらが良いとか悪いとか、善し悪しの問題じゃなくて、それは生き方の違いでしかないということだ。ただ、その生き方というもの次第で、生き辛さを感じることもあるだろうし孤独になってしまうこともあるだろう、ということだ。

東さんの生き方はマイノリティかもしれないけれど、個人的にはむしろあのがむしゃらに全力で生きる姿にこそ憧憬を覚えるし、社会があの生き方をサポートできるようにあって欲しいと思う。

建前としてのソーシャル・インクルージョンなんかじゃなくて。まがりなりにも福祉を学んだ人間としては、そう思う。
まあ、当事者は「受け入れる、なんて何様だ」と言いいそう(というか言われた)だけれど。

これら個人個人の身体の発露はハリー・ディーン・スタントンの「ラッキー」を想起するほどだ。あちらは障碍ではなく万人に共通する「老い」についてのものなので、ちょっと趣は違いますが、晩年のル=グウィンが語っていたように、当事者の肉体があってこそスクリーンから濃密に照射されるものであることに違いはない。その意味で「蹴る」は同じ位相にあると言っても過言ではないと思う。

 〔余談ですが、障碍者の恋愛でいえば、ちょっと前に劇映画では車椅子のおっさん(リリー・フランキー)が精神障害の若人(清野菜名)と恋愛を繰り広げる「パーフェクト・レボリューション」とかありましたが、当事者はあれをどう観るのだろう。公開当時に観たときは「いい映画だなぁ」と思ったりもしたのだけど、今振り返ると性別と年齢差にそこはかとない危険ににほひを感じたりもするのだけれど〕

 
 しかし不思議なことに、そうして個人に寄り添い写し取っていくと、そのやりとりや独白によって彼らが織り成す「チーム」という形態の実体が、むしろ彼女らを囲ってしまう存在として浮かび上がり、個人を差し置いて全面に展開していっていしまうように見える。

 
それが極に達するのは2017年のワールドカップ

永岡さんを起点にしていたはずのこの映画が、あろうことにハイライトともいえるシーンで永岡さんにカメラを向けることがないのです。当然だ。あの場に永岡さんはいなかったのだから。

監督にはワールドカップではなく永岡さんに焦点を絞るという選択肢もあったはず。けれど、そうはしなかった。そうではなく、ワールドカップに出場した選手たちの総体としての日本代表というチームにフォーカスをした。そうせざるを得なかった。多分、誰が撮ったとしてもワールドカップの方を撮っただろうとは思う。

極めて意地の悪い言い方をするならば、それは個人を蔑ろにして組織に照準を定めたともいえる。

もちろん、永岡さんと並んで映画の中で存在感を放つ東さんがワールドカップに出場していたのだから、個人にフォーカスしていると言えなくもないだろう。ただ、もし仮に東さんが出場していなかったとして、監督はワールドカップを撮らなかったのだろうかと考えると疑念が残る。

勘違いされないように断っておくけれど、別に監督を批判したいわけじゃない。そういう個人の意思とかそういうレベルではない、その内部にいては知覚することのできない不可視で巨大な環境管理型権力の一形態としての組織(とそれが発生させる「大きな流れ」ーーこの映画ではワールドカップがその「流れ」)の持つ重力なのだと思う。

これがもし個人競技だったら、たとえ落選したとしてもワールドカップではなくその落選してしまった個人にカメラを向ける可能性が高い。それこそが組織と個人の違いであり、組織というシステムが内在する歪な構造なのだと思う。

 その歪な構造、チームスポーツ(=組織)が内在する二律背反が垣間見えるシーンはほかにもある。それは日本障がい者サッカー連盟会長の北澤さんと永岡さんの会話場面でのやりとりだ。

北澤さんは「代表っていうのは自分だけではなくて、人のためにやる場所」と言う。

もちろん、これはおためごかしでも欺瞞でもなくて厳然たる事実だ。チームスポーツはチームメイト全員の動きを把握してチームそのものに貢献しないと勝てないのだから。

だけれど、この北澤さんの言葉は、一面的には正しいけれどそれがすべてじゃない。もっと別の側面がある。そして、それはこの場面の前に、永岡さんが代表落ちしたことが物語っている。

代表落ちしたということは、ほかの誰かが代表になるということだ。それはオブラートに包まずに言ってしまえば、仲間同士での蹴落とし合いに他ならない。

強敵と書いて(とも)と読んだり、仲間と書いて(ライバル)と読むような週刊少年ジャンプイズムが全くないとは言わないけれど、純然たる事実として集まった仲間を出し抜いて己の実力を証明しその仲間を打ち負かさなければならないという非情な現実がある。

仲間を思いやりながら、その仲間を蹴落としていかなければならない。それがチームというものが持つ歪んだ構造の一つ。

草野球とか高架下のフットサルとかならまだしも、「プロ」スポーツともなればその選抜の闘争もより尖鋭化される。だからこそ、「蹴る」ではここまでその歪みが表面化したのだろうと思う。

結果として(といっても最初からサッカーに関心があったと明言するくらいだから、それはある程度自覚的なのだろうけれど) 監督も、その組織の重力に引っ張られてしまい、その証左と言わんばかりにワールドカップを撮り続ける。

だけど、それでもなおこの映画は最終的には個人にフォーカスしていく。それは監督の、「個」としての個人を撮ろうとという意志によるものだと思う。

システムとしての組織の中に巻き取られてしまう「個」というものを、かき消えないように繋ぎ留めようとしているように見える。だってそうじゃなきゃパンフレットであそこまで個人をフォーカスした作りにはしますまい(それと同じくらいサッカーへの関心も強いんだなぁという内容が載っていたりするのが笑う)。

すでに書いたけど、そもそもこの映画を撮ろうとしたきっかけが「永岡真理」という「個人」の発見だった(彼女だけ、というわけではない。為念)のだから、さもありなんといったところ。

それと、もしかしたらこの映画を編集するにあたって介護の経験が反映されたのかもしれないと推察することもできなくはない。なぜなら介護(というか福祉的な行為)は基本的に対人の仕事であり、目の前の個人という他者の命を預かることだからだ(だからセクショナリズムと福祉は本質的に食い合わせが悪いと思うのですが、公的な資源がなければ福祉が行き渡らないというモヤモヤ)。

そうやって個人に対して「個人」として向き合わなければならない仕事である以上、その経験を通じた監督が「個人」というものによりピントを絞る構成にしたかったからこそ、最後は永岡さんだったんじゃないかな、と思う。

プロダクションノートだと「もっと横浜クラッカーズの比重を高くしようと思っていた」と書いているのだけど、言葉通り受け取るのならばそれは個人ではなく組織にまで視野を広げることになるわけだから、劇中でクラッカーズに焦点があまり当てられなかったのはむしろ正解だったのかもしれない。

 とか書いたけれど、単純に映画を締めくくるためにはそうしなければならなかっただけかもしれない。だとすればそれはそれで、「物語」の持つ強度が組織の中の個人を救い上げることができるという証左なので個人的には喜ばしいことなのだけれど。

 あとついでに書けば、サッカーというのも結構重要な要素な気がする。サッカーというと、なんだかチャラいイメージがあったりシミュレーションというのがわかりやすい形で伝わってしまうのでアレなのですが、個人的にはアメフト(は言い過ぎかな)やラグビーに追随する身体接触の激しいスポーツだと思います。

と、個人的な経験則から思う。だからこそ、あそこまで身体性が如実に現れたのではないかな、と。
 

そんなわけでこの映画は組織と個人の対立を描いた大変な傑作だったわけですが 一つ気になることがある。
それはパンフレットの表紙がダサいことです(爆)。
なんかこう・・・玩具のパッケージ裏に描かれてそうな効果戦を入れているのがダサい。アートディレクター誰ですか?怒らないから手を挙げなさい。
永岡さんと東さんを素材にするのなら、もっと良い素材があったのではないですか。
いやね、中村監督はカツカツの中でやっていたようですし、パンフの表紙にまで気を配れというのは酷な話かもしれませんが。
 

とまあ冗談はともかくとして、この映画は間違いなく傑作でございます。

自分と絶対的に異なる他者の世界をみること。本来ならそれは恐ろしいことでもあるのだけれど、それでもなお一歩踏み出させようとする勇気をくれる。

こんな映画は、そうないんじゃないかしら。

パラサイトと1917観てきた

うーん・・・ちょっと前までは3本連続で観てもここまで疲れなかったんですけど、今日は2本連続で観ただけでかなり疲れてしまった。まあインターバルなしなのとカロリーの高い映画を観たから、というのもあるのでしょうが。

パンフレット買うのも忘れちゃうし、入場前にチケット紛失するし、今日はさんざんでございました。んでもってそこに「パラサイト~」ですよ。

のっけから余談で申し訳ないのですが「パラサイト」と言えばロバート・ロドリゲス監督イライジャ・ウッド主演のSFホラーの方を思い出す人も多いのではなかろうか。
今見ると「ワイルド・スピード」でおなじみジョーダナ・ブリュースターや旧X-menジーン役でおなじみのファムケ・ヤンセンとか出てるし純粋に映画として面白いんですけど(ロドリゲス監督なのでオマージュ多めだし)、「パラサイト半地下の家族」との題名かぶりで検索汚染されてしまうのではないかとちょっと不安になったりならなかったり。まあ「イライジャウッド」でサーチエンジンに入力するとサジェストで「パラサイト」が出るくらいなので大丈夫かとは思いますが。

 
もう十分に語りつくされた後なので言いたいことは他の人がほとんど言ってくれているんですが、まあポン・ジュノは本当に欺瞞を暴き出す監督だなぁ、と。「母なる証明」でも書いたけど、その欺瞞の炙り出し方が容赦ない上に表現として本当に優れている。

格差の描き方としてのいくつかのモチーフ。今回で言えば階段(や坂道を使った「上下」の表現)や、「母なる~」でも重要だった窓ガラスはとりわけ分かりやすいものでした。
階段は、まあ明確に階梯=階級を想起させるものでありますし。実は宮崎駿もその上下のモチーフをかなり取り入れている人(「未来少年コナン」「天空の城ラピュタ」などはかなり分かりやすい)なので、宮崎アニメに慣れている人なんかは直感的に感じ取りやすいのではないでしょうか。

その上下(というか高低差)モチーフは、本作においては明確なヒエラルキーを映し出す。それはキム一家とパク一家という別々の家族の中だけでなく、キム一家のあの半地下の家の中にさえも存在する。

冒頭のWi-Fiのくだりを見れば一目瞭然ですが、あの半地下の家の中でWi-Fiが繋がる唯一の空間は、「階段」を「上った」ところにある。その空間がトイレ、というのが容赦ないポン・ジュノクオリティ。唯一の救いの場所が汚わいの溜まり場て。

そんでもってパク一家の中にも見える形の上下と見えない形の上下が存在する。
実はさらに下があった、ということもそうなのですが、見えない差別の形というのはもちろん女性差別の構造でございます。まあ見えないというと語弊はあるわけですが、パク・ドンイクと妻()の間にある明らかなヒエラルキーはトロフィーワイフとしての関係性以上のものを見出すことは不可能だろう。

金持ち一家の家は坂を「上った」ところにあるのも露骨なのですが、その格差が実は思っていたよりも大きいものだったというのがわかる、キム一家全員が寄生に成功してパク家のリビングで騒ぎ始めたあのシーンの直後。

どうにかこうにか脱出したキム一家の三人が豪雨の中家に戻る道程。彼らはひたすらに道を下っていく。ほとんど地面と平行に走っているカットはないくらいにひたすら道を下っていく。
何度も何度もそういった階段による高低差を横からの分かりやすいアングルで捉えたりするわけですが、後述するように実はこの階段を撮るアングルというのも結構重要なのではないかと思いまする。


ポン・ジュノ映画における窓(ガラス)の使い方は相変わらず。
窓ガラスの向こう側とこっち側。向こう側が見えない壁とは違い、対岸をありありとみることのできる窓ガラスという透明な障壁はむこうとこっちが連綿と繋がっていることを嫌でも意識させる。

それは「ガラスの天井」や「ガラスの地下室」と呼ばれるスラング(?)があることからもよくわかる。
そして、映画におけるアクションとして粉々に割られることの多いガラスは、しかしこの映画においてはその匂いすら付け入るスキがない。まあ、単純にそういう風に見せるアクション映画ではないというだけではあるのですが。

あとインディアン、というのもかなり意味深(というか露骨すぎるきらいはありますが)で、その歴史性を考えればギテクがインディアンの格好をすることや同じくドンイクがインディアンの格好をするということのまったく異なる意味合いが生じる対比的多層性は、窓ガラスによって敷居られるレイヤーの違いという描写と一体である。

そうやっていくつもの対比を執拗に重ねることで、むしろ両者が同質化していくように見える。

で、ここでさっきの階段のアングルという話が出てくるわけなんです。

というのもキム・ギテクがドンイクを刺殺した直後に階段を下って逃げていくカット。あそこは真上からのアングルで撮られているんですよね。

それがもたらす視覚効果というのは何か、と考えたときに「上下」感覚の消失なのです。階段(というか段差、高低差)というのは横から見るからこそそこに上下の関係が見えるわけで、それを真上から撮ればそんなものは消失する。

だからあの瞬間のキム・ギテクには上下も何もなかったのではないか。「上」であるパク・ドンイクを殺し「下」であるグンセが死んだ今、もはや上下など何もないのだと。相対化されるべき他者が喪失されれば、そこには上下なんてものはない。

だけれど、それはとても荒涼とした景色だ。

そこで終わらず、わずかばかりの救いのようなものを提示して終わるわけだけれど、果たしてあんな「三人でやる大富豪の都落ち」を観ているような奇妙なループの感覚を抱いたままの救いを救いと言っていいのか。チェ・ウンクの顔も彼がいる空間の暗さも、あまり希望に繋がっているとは思えないのだけれど。


と、ここまで書いたところでもう一つ重要なモチーフとして「におい」があることを忘れていた。なので書く。

観ればわかるとおりキム一家の「におい」と彼らよりもさらに「下」の臭いを発するムングァンの「におい」、そしてそれに対するドンイクの反応。それがどういう帰結をもたらすのか。

それにしても、なぜポン・ジュノは「におい」を選んだのか?
におい、というのは映画というメディアにおいて観客には到達しない情報である。4DXならば、という人もいるかもしれませんがあれは広告で「Scent」と謡っていることからもわかるように地下の住人のようなにおいを造り出そうとはしていない。
そりゃそうです。わざわざ映画を観に来て金払って不快な臭いを嗅ぎたい人はそうはいない。

それこそが、ポン・ジュノが観客の中の欺瞞を抉り出そうとしていることの証左にほかならない。キム・ギテクがドンイクを殺すに至ったその大きな撃鉄を引いたのは、ほかならぬ「におい」によるものだった。

けれど、どれだけ観客がキム(一家)・ギテクに感情移入したところで、殺害に至る大きなきっかけである「におい」を感じることは決してない。そしてその「におい」がわからなければそこに向けられるドンイクの侮蔑的な態度に本気で憤ることはできない。
いや、憤ったところでそれは欺瞞でしかない、それらをまるごとひっくるめて理解できなければどうあがいたところでキム・ギテクに感情移入することは許されない。そんなことはない、などと言える人はそれが自己欺瞞だと気づいていないだけだ。

もちろん、この映画内において、というか映画というメディアでは少なくとも今のところは観客がギテクと同化するための術を持たない。だから、のうのうと映画館に来て映画を観ることのできるような「裕福」な人間がキム一家に、グンセらに感情移入することはそれ自体が大きな欺瞞なのだとポン・ジュノは突きつける。

だから私は、グンセがついに動き出したときに、暴れまわったときのその「真っ当な怒り」を原動力に暴れまわる姿に感動したにもかかわらず、それが欺瞞であることを突きつけられて居心地がとても悪かった。

それは、映画の持つの力を最大限に使って映画の持つ力を否定しているようなものなのではないかと思うのだけれど、そんな映画がアカデミー賞を獲得するというのもなんだか凄まじくアイロニカルな状況である。

とはいえそれこそがポン・ジュノの尖鋭さなわけで。劇中の倫理や論理を超えて私たち観客の中に潜在する認識という現実を通じて映画という虚構とリンクさせて地続きの欺瞞を暴きだす。

ムァングンが便器にゲロを吐いた直後にギジョンの便器の中から汚物が噴出するカットバック演出とか、思わず(引きながらも)笑ってしまうクオリティがたくさんあって確かにブラック・コメディではあるのだろうけれど、しかしこれを笑うことはやはり自分の浮薄さを笑うことのような気がする。
そして、キム・ギウの「笑い」を考えるとポン・ジュノ的にはそこまで織り込み済みなのではないかと考えてしまう。

 

相変わらずポン・ジュノは恐ろしい映画を作る人だなぁ、と。
世界が欺瞞の上にあるということ。それを描いた映画がここまで大きく取り沙汰されてなお、そのことに大衆が無自覚であること。
そこまで含めて、ポン・ジュノの映画は「炙り出し」なのでせう。

 

 

さて続いて「1917 命をかけた伝令」(サブタイ・・・)。

全編ワンカットということを前面に押し出すことにした東宝東和の広報戦略がどの程度効いているのかわかりませんが、初日ということもあって結構客が入っておりました。
「前代未聞の全編ワンカット」という触れ込みもありますが、全編ワンカットの先行事例として「バードマン」という作品があるのにそれでいいのかと思わなくもない。この映画自体あまり話題に上ることは少ないから前代未聞をつけてもいいだろう、ということなのだろうか。一応アカデミー賞も取ってるんだけれども、「バードマン」。とはいえ5年前のアカデミー賞の映画のいくつを覚えているか、ということを言われるとまあ意外と印象に残らなかったりします。

あと全編ワンカット(風)というには明らかに一か所ぶった切ったというか文字通りブラックアウトする場面があるので、ちょんぼな気がしなくもないですが、まあ時間経過を表現するための苦肉の策だったのでしょう。

 
サム・メンデスはなぜ第一次世界大戦を舞台に選んだのだろう? 祖父の話からインスピレーションを受けたから、ということでそれ以上のことは特に何も言ってはいないのだけれど、でも第一次世界大戦でなければならなかった理由はわかる。

だってこの映画は「伝える」ことの大切さを伝えようとしているのだから。

しかし、「伝える」ことがこれほどまでに手軽に気軽にできるようになった現代を舞台にそれを誠実に描くことなんて不可能だ。それこそパロディになってしまう。

だからサム・メンデスは人の身体それ自体をメディア(媒体)とする状況を作り出すために第一次世界大戦を選んだのだろう。

何故なら情報伝達技術がまだ発達していないからこそ、人の身体それ自体を情報伝達のメディア(媒体)として違和感なく描くことができるのだから。
そうでなくとも、ミステリー界隈では携帯電話というメディアの登場でトリックの作り方が劇的に変わってしまったというのはよく知られた話であるのだから。

戦争は描きたいが、戦闘は描きたくない。そういう宮崎駿的な二律背反がサム・メンデスの中にあったのかはわからないけれど、この映画はヒロイックな戦闘が存在しない。さもありなん。再三書いたように、これは第一次世界大戦という戦争を舞台にしてはいても戦闘を描く映画ではなく、「伝える」ことそのものを描いているのだから。

人が、人に、人の身体を通じて情報を、言葉を届けるというその重み。

「指先で送る君へのメッセージ」なんて歌詞が氾濫するような、携帯電話が普及して以降の恋愛ソングなどでは考えもつかないような(いやYUIは嫌いじゃないですが)、情報を伝えることが命がけだった時代までさかのぼることで「伝える」ことそれそのものがいかに重要なことなのか、ポスト・トゥルースの今だからこそこの映画の「伝え」ようとするものが価値を持っている。

誰もかれもがスマホやらパソコンやらから気軽に情報を発信できるおかげで、「伝える」ことが本来はどれだけの力が必要なものなのかということを忘れてしまっている。

だからこそデマゴーグがこうもやすやすと垂れ流される。それがどうやって他者に届き痛みを植え付けるのかという想像力を欠いたまま。


だからカメラは徹底的に一人(二人)だけを追い続ける。一つの情報を一人の人間が届けることの重みを、絶えず、線として、膨大な情報を膨大なまま、デジタルな点の連続としてではなくアナログな線の連綿として描き続ける。そのためのワンカットだ。

それはすさまじくアナログ(連続の量としての線)な技法だ。しかしそれを達成するためにはデジタル撮影による編集技術が必要だった。この、手法と技術の間に介在する二律背反がなければ到達しえなかった極致。

そうでもしなければウィリアムという個人に寄り添い続けることができない。多分サム・メンデスはそう考えたのだろう。誠実というか馬鹿正直というか。


おかげで、この映画は他にはないものを、それこそ「バードマン」にもないものを見せてくれる。それはワンカットで映し出される戦場。

まず冒頭からしてかなりガツンとくる。二人をとらえていたカメラが回り込むと塹壕が目の前に広がっている、恐ろしいまでの現実。どこか牧歌的な(それでいて寒々としている)草原の風景から少し歩いたところにある塹壕という戦場の局地。それをカットを割ることなくシームレスに写し取ること。それがここまで暴力的な驚きになるとはちょっとびっくらしました。

そうやってカメラは彼らを捉え続ける。捉え続けるしかない。なぜならこれは「人の身体が伝える」映画なのだから。

そして、それが逆説的にある事実を提示する。カメラが命綱だということを。
この映画ではカメラに切り取られた部分だけが存在を許される。そういう、きわめてゲーム的なルールがそこはかとなく立ち込めている。

思えば、ある特定の人物にのみカメラが寄り添い続けるというのは、いかにもゲーム的ではないだろうか? そうやって、これはロジャー・ディーキンスのカメラというインターフェースと一体化した観客の視線が存在を画面内に括り付けるのだ。

逆に言えば、カメラのフレームから外れた者は死ぬかもしれないということだ。思い出してほしい。明らかに主人公として配置されていたはずの「彼」が、二人に注がれていたカメラの視線が、二人がばらけたことでウィリアムにのみそのカメラが向けられたことで、何が起こったのか。

カメラの外にこそ「死」が立ち込めている。一つのカメラ=綱で永らえることのできる命は一つだけ。この映画がゲーム的システムを採用している(せざるを得ない)以上、それは必然。プレイヤーが操作できるキャラクターは一度に一つのみなのと同じ原理だ。

そしてカメラの視線を一身に負うことで彼は、「1917」という映画をウィリアム・スコフィールドという個人の物語に収斂させることで生存の権利を得る。

だからカメラがウィリアムとともにあり続ける限り、ウィリアムがカメラと在り続ける限り彼は死なず、それどころか死をも切り取ることができる。

だからこそ最後の300メートルの激走にかたずをのみ心の中でウィルに声援を送るのだ。「足を止めるな、カメラから離れるな、さもなくば死んでしまう」と。カメラのレンズが捉える光から外れた瞬間に、これは彼の物語ではなくなってしまい、彼に死をもたらすことになる。だから、カメラから彼が遠のいてしまう瞬間に恐ろしくなり、彼が再び走り出し始めたときに安堵する。

そうしてカメラは、軍人としてのメディアの役目を果たしたーーもう一つ、戦友のメディアの役目を果たしたーー彼の顔を捉えて終わる。

それにしてもジョージ・マッケイの顔の変貌ぶりが凄まじい。ほとんどこの映画は彼の独壇場なわけですが、それを破綻なく成立させる彼の表情の機微は本当に良い。

脇にベテランを配置するのもグッド。しかしコリン・ファースが最初どの役だったのか全く分からなかったんですけど、あんな最初の方に出てたとは・・・あんなロヴィン・ウィリアムスみたいな顔だったっけ、コリン・ファース

あとマーク・ストロング最高。

一つのカメラで捉えられるのは一人の物語のみ。その極北として「1917」の手法がある。それはゲームというニューメディアがなければ気づけなかったシステムではないだろうか、とメディアというものいついて考えたり。

そしてマーク・ストロング最高。

 

 

 

 

 

 

 

Awsome ! Shiaaaaaaaa! LaBoeuuuuuuuuuf!

f:id:optimusjazz:20200210130218j:image

「ザ・ピーナツバター・ファルコン」観てきました。

いやー困った。いや、ここまで作り手が気持ちいいだけで観客としては反応に困る映画だとは思わなんだ。と、観た直後は思ったんですけど、思ったよりもいい映画なんじゃないかと、反芻しているうちに思い直した次第です。

 

いや、シャイア目当てで観に行ったのでシャイアが気持ちよさそうというか満足気なオナニープレイングをしているのは別に構わないのですけどね。まあ、あんだけ顔面アップで撮ってもらったりすればそりゃ気持ちよかとよ。というか、ほとんど彼にとってのセラピー懺悔映画としての佇まいを備えているゆえ、彼にとって心地よい映画であることは間違いないのでせう。

だってあなた、泥酔で事故ったりとかそもそも彼が演じるタイラーのキャラクターがシャイア本人とリンクしてしょうがないわけで。

実際、タイラー・ニルソン監督はパンフで「~前略~彼が演じることで観客はある種の先入観を持ってタイラーを見ることができる。そして彼が他人の幸せのため犠牲になるほど成長したら、きっと感動的だろうと考えました。シャイアはこの作品で過去の過ちを捨て、カタルシスを得たかったんだと思います。」なんて言ってるし。実際、私はシャイアを目的にこの映画を観に行ったわけですし、この映画がザック在りきに見えてその実はそれと同じくらいシャイア在りきだということです。

 私が彼を好きな理由は躁的な部分が役どころや私生活において前面に押し出される中で、しかしその躁的な部分にかなりのグラデーションがあって(それこそ「トランスフォーマー」シリーズのやりすぎなぶっとんだ感じから「フューリー」の戦場におけるレイジとか色々)、その私生活の落ち着きのなさも含めて滲み出る「弱さ」という魅力を感じるからなのです。弱い犬ほどよく吠える、その遠吠えを愛おしく思ってしまうのです。こう、「大いなる西部」的な愛おしさ、というか。いや、実際にかかわったら面倒な人なのかもしれませんけど。

そして、シャイアはこの映画で一つのみそぎを終えた。クレジットの名前の順番の謙虚っぷりも、やっぱりそういうことなんじゃないかと。

それはそうと躊躇なくガキんちょを殴り飛ばすシャイア最高。

 

他の役者もみんな楽しそうではある。ザック・ゴッツァーゲンも(ある意味で当然ではあるのだろうけれど)自然な演技ですし、ダコタ・ジョンソンもみんな気持ちよさそうに演技をしている。

即興の掛け合いもあったようだし、役者は楽しめたのだろう。ブルース・ダーンとか、ちょい役に上手い人を配置しているおかげで少々首をひねる展開とかがあっても比較的安心して観れる。ウェイン・ディハートとか、私はこの人のこと全く知らなかったんですけどその佇まいだけでもはや十分でしょうし。

共同監督のマイケル・シュワルツがドキュメンタリー出身ということでところどころドキュメンタリータッチ、ライティングを使ってないような自然さも見受けられたりとかもその辺の統制があったのかしら。それが即興とマッチしているのかもしれない。

ザックに関しては馴染みすぎて逆に目立っていないような気すらしますよ、シャイアスキーからすると。が、さもありなん。むしろこの映画は、シャイアがザックの夢の手助けをする、という構造を逆照射することでシャイアこそを輝かせる作品なのだから。

 

そんなわけでシャイアファンにとっては至高の一本ではある。

ともすれば、色々と問題を孕んでいる気がしなくもないこの映画。ハックルベリーフィンに重ねるのもそうだけれど、マイノリティ側の視線とマジョリティ側の視線にはやっぱり注意を向けなければいけない。

パンフレットの渡辺さんのレビューは一読の価値はあるけれど、しかしその無垢をマイノリティに投射するマジョリティの視線というのが、果たして同じ位置にあるのかどうか、ということを考えなければならない。

じゃあこの映画はどうなのか? そういう意味ではこの映画はしっかりと明示してはいるだろう。望遠でテレンスとザックを平行に(彼らの足は海の浅瀬を通じて繋がっている)描いていることからも、そこにあらゆる差異を取り除いて同地させようとする意識はあるはずだ。

まあ、正直渡辺さんの言うようなアメリカ的価値観の「無垢(innocence)」なんていうのは欺瞞で、それこそ押井の「イノセンス」くらいじゃないと私は納得などしません(そもそも「子ども」という概念自体が近代の発明という見方もあるくらいだし)し、そういう無垢さという名の下に障碍者を非人間化してきたことの問題だってあるわけですから。

ただ、このこの映画に関してはシャイアとザック、それを繋ぐダコタがそういう境界を取り去ってくれている。

すでに述べたようにシャイアがザックを助けるという行為の裏返しにシャイアがザックに助けられるもといザックがシャイアを救うという逆転構造が浮かび上がっているのは自明なわけで、そこの垣根は取り払われているのではないか、と少なくとも私は思ったりする。

 

ただまあ、それにしてもラストの数カットはいらないかなーとは思いますけど。せっかくあそこまで現実を超克するザックの超パワーを見せつけるのであれば、持ち上げたサムをそのままダンカンとラットボーイに投げつけて一網打尽にしちゃうくらいでも良かったかなぁ、と。

エンディングの「RUNNNING FOR SO LONG」でちょっとウルっと来たので多めに見てやりますが、ええ(何様)。

 

とはいえ、タイラーもといシャイアの劇中での振る舞いに腹を立てる人もいるでしょうし、それはぶっちゃけますとシャイア・ラブーフありきで、そのどうしようもなさを背負うシャイアという人間なればこその感動でもあるわけなので、シャイアファン以外がこれを観てどう思うのかはちょっとわからない。

でも、人の弱さを認めることができる人なら、シャイアを知らなくても大丈夫だと思う。

 

 

1月に観た映画とその中で印象に残った映画

今までは備忘録としてまとめて書いていたのだけれど、あとで振り返るときのために今年からはどれが印象に残ったのかも書き記しておくことにしますた。

てなわけで先に書いておく。

順位とかは特にない。

カジュアリティーズ

ザ・クリーナー 消された殺人

・パニック・トレイン

・マチネー/土曜の午後はキッスで始まる

ザ・ウォーク(街並み、特にラスト)

・舞踏会の手帖

 

 

「ラスト・ワールド」

一言でいえば盛大な逆張り映画。

思考実験としては楽しいけど映画としては・・・思考実験という設定じゃなくて、それこそループにすればまだ観れたのではないかと。2013年だし。ありふれてはいるけれど。

んでもって倫理的にどうよ、という場面が多い。特に無理やりゲイをアウティングさせてる(それを同じゲイが強要させているというのがまた酷い)シーンとか、あの子が自分のセクシャリティについてどう考えていたのかを明示しないことで都合よく使ったんだろうけど。

合理的・論理的な思考()に対するカウンターというか異議申し立てとしてあの展開にしたのだろうけれど、あまりにオプティミズムが強すぎるし、まあ最初からそうなんですけど言ったもん勝ちすぎて。

あれが偽善的に見えてしまうのは日本人的に精神論や根性論への反発があるからなのかもしれないけれど。アメリカはむしろ合理性()によって突き進んで弱者を排他するからこそ勘定的価値ではなく感情的価値による成功パターンを見出したかったのかしら。

 

しかし、あの選択はある種哲学への問いかけでもあって、最初に生徒が言っていたように哲学とは自慰行為なのだろうか、であればあの思考実験の空間に哲学者がいた場合、果たして選ばれるだろうか?ということがあるわけですが、まあそこまでは行かず。

詩人は即そぉい!の天丼は面白かったです。

 

 

カジュアリティーズ

年始から嫌な映画を観てしまった。

斜めのカメラワークやスロー、一人称視点のカメラワークなどなどデ・パルマックスな画面。印象的な画面が多い。

ベトナム戦争を題材にしたものであり戦争犯罪を描いてはいるのですが、その精神性は「野火」にとても近接している。

おそらく戦場における個を描こうとするのならばどうしてもああなってしまうのでしょう。そこにおいてマイケル・J・フォックスもといエリクソンが理性を保ち続けたことにスポットを当てるのはさすが。

が、これは一つの絶望でもある。なぜなら、エリクソンが正気を保たなければ告発はできなかったのは事実ではあるけれど、そうやって理性を保ち続けたがゆえに彼女を逃がすことができなかったのだから。あそこで一緒に逃げていれば、あるいは救うことはできたかもしれない。もちろん、あそこで救ったとして生き延びることができたかどうかはわからない。ただあそこで何もかもなげうって一緒に逃げていればあるいは、という可能性はあった。しかし何もかもなげうつということは理性を捨てるということだ。

脱走兵になってしまうという軍規への従属は、理性のなせる業であるがゆえに彼女を救うことはできなかったということでもある。

しかし盲従することはすなわちアイヒマンへの道でもあるわけで、その葛藤の中での最善策があれだったのかもしれない、と考えるとなんともやるせない。

 

「ラスト・ターゲット」

ヒットマンのジョージクルーニーというより助平ジジイにしか見えないんですが。

ていうか監督も狙ってるよね?ブロンド美女のケツ(やや望遠とはいえスカート透けてるし)カットからの凝視クルーニーのアップである。

原付でのカーチェイスで確信する。これわざとだと。

だからこそクルーニーだったのだ。

どれだけ大真面目に取り組んでも老体故に生じるおかしみ。そしてその苦悩。

若い女性と並ばされるのも、その相手が情婦であるというのもまさにその証左。

これは当人にとっては辛いことだ。どれだけ大真面目にシリアスに徹底しようとしても、それが可笑しさにしかならないのだから。

ことによると、これは「ラッキー」におけるハリーの描かれ方にも近いのではないだろうか。無論、あそこまで老いた肉体にコミットはしていないし、クルーニーごとき(失礼)若造ではアレだけのものを発することはできないにしても。

ある種の中年の危機映画なのかもしれない。

この当時でまだ50行ってないのに年齢より老けて見えるし…。

 

 

ザ・クリーナー 消された殺人

どうしてこうなった…どうしてこうなった?最後までは良かったのに!

娘も含めてみんな良い演技して演出も良かったのに、どうして最後にああなった!?

ひょんなことから大きな陰謀に巻き込まれるのかと思いきや、むしろその真逆の真相というのは中々よかったし、スケールダウンしていたとしてもその人物たちの説得力も十二分に役者が担ってくれていたし、終盤までは人物の描き方自体も良かった。なのにラストがあれ!

エディの二面性の表現としてサミューに壁ドンするシーンの鏡の使い方とかもそうですし、回想をインサートしてもおかしくないところを徹底して切っているし。

そうやって回想を入れないで写真だけで端的に示すスマートさは、単にスマートなだけでなく過去に囚われる人々の、その過去(身近な人間が殺されたこと)との決定的な断絶を浮き彫りにしてくれているし、だからこそ死者を引きずる人々の顔の演技がなおさら光る。サミュエル・L・ジャクソンの中でもここまで落ち着いて重厚感のある顔はそうは見れますまい。

そこにエド・ハリスとかもいるし、娘さんも達者だしみんないいんですよ、本当に。

なのにラストのあれはどういうつもりなのか!?

 

もう一度書きますけどラスト以外は最高だったのにラストで台無しだよ!全米ライフル協会ステマですかこれは?!

いや、あれを狙ってやってるならブラックジョークとかいうレベルじゃないんですが、しかしここまで演出レベルで手際よくやってるのにあのラストに違和感を持たないのはちょっと信じがたい…。狙ってるのだとしたらかなり意地悪ですけお。

 

だって母親の死体を目撃してあれなのに、家族同然で自分の名付け親を射殺するのはそこまで気にかけないどころか映画上の締めとしてとはいえレポートの中に刻むというのはヤバいですよ。

 いや、このラストはこのラストで嫌いではないというか、完全に虚を突かれたとはいえそれがかえって新鮮だったりはするんですが。

 

ユリシーズ

告白すると半世紀以上前の叙事詩系の映画や西部劇映画はあまり好きではないというか、単純に慣れてないからなのだろうけどいまいちドライブできないことが多かったりするのですが、これは面白かった。

よく考えたらオデッセイだしソード&サンダルなのでああいう怪物系が出てくるのも当然なんですけど、ちょっと意表を突かれた。

一つ目の巨人ポリフェーモも足だけとか手だけとはいえ、しっかし等身大の人間と一緒に映していたりしますし。

この年代の叙事詩系の映画では一番純粋に楽しめた気がする。

 

「マチネー/土曜の午後はキッスで始まる」

2階のスペースが崩落して座席が吹っ飛ぶショットが最高。 

さすがはジョー・ダンテ。無邪気な楽しさを全開にしつつもその背景あるいは背後に忍び寄る不穏を滲ませる。ラストのヘリコプターのショットなんてぞっとしない。

ていうかこの人もう73歳なんですね。なんとなくまだ60代くらいの印象だったのですがスピルバーグと同年代とは。

思うに、この人って割とタランティーノと似たような精神の監督なんじゃないだろうか。目指す方向性はちょっと違うけれど、無邪気な楽しさとそこはかとないポリティカルなにほひも持ち合わせている。

グレムリン」ですらクリスマスに対するあてつけ(笑)のようなものがあり、ある種の中心に対するカウンターのようですらありますし。

 

あと劇中劇のクオリティが半端ない。これ自体が独立した作品として特典映像として観れたりするらしいので最初からそのつもりだったのでしょうけど。

 

ターミネーター2」の後、というのもちょっと勘ぐってしまう。CGが違和感のないものになった直後として、いわゆる特撮の遺物にさせないための手法として劇中劇にしたのではないか。60年代という時代を使って当時の人々を再生させ、彼らの視点を通じて特撮を観るのだと。だって60年代の特撮映画を完全再現してるわけじゃないでしょ、MANT!って。明らかに60年代の特撮よりもアップデートされてるじゃんすか。そんなに60年代の特撮映画を観ているわけではないですが。

少なくともジョー・ダンテはそういう技術に関しては意識的なはずですし。スクリーンの使い方がとても示唆的だし。

劇中の出来事はそれこそ現実のパロディ(興行としての映画の歴史というか)ではあるのだけれど、MANT!も含めスクリーン内と現実を並置させ拮抗させることで、ある種の弁証法的な手法でもって何かを見出そうとしているんじゃないかなーと。特にこの映画はそれが顕著な気がする。

いやー面白い。

 

ウルヴァリン サムライ」

 いや面白いですこれ。

マンゴールドのウェスタンをサムライに置き換えた感じというか、義というか。

 

遊星からの物体X ファーストコンタクト

うーん?まあ面白いと言えば面白いんだけど下手に過敏すぎてホラーというよりはモンスターパニックに寄ってしまっている感じ。

ラストの繋げ方はリメイクかと思わせてからの〜ってことなんでしょうけど、原題ならともかく邦題はネタバレしちゃってるのでなんだかなぁ。

 

バルカン超特急

初めて通して観る。なんかすごいパラノイアなんですけど。

やたらと人があっさり死ぬわりにコミカルな描写が多かったりするし、妙に倒錯しているように見える。

こんなんだったっけ・・・? あまりに軽い人の死、それ自体がギャグになっているというような見せ方でもなくて(手を撃たれた時のリアクションなんかはギャグですが)、なんかすごい恐ろしい悪夢を見ているような感覚。

 

それでも夜は明ける

きつい。痛みで泣きそうなったの久々ですよ、本当。

否が応でもその場に、視線を括りつけようとする長回し。カメラを移動させながらのものもあればフィックスによるものもある。そのあまりにも残酷な世界を提示し続けようとするマックイーン監督の意思が見える。

そして製作のブラピが「良い」白人の役を持っていくというせこさ。ブラピは冗談にしても、やっぱりハンス・ジマーはこの手の映画に合わなすぎてちょっとどうなんですかね。「ザ・ロック」のノリで書いてませんかこれ。

ラスト周辺はまだしも中盤の「ザ・ハリウッド大作」然としたBGMはさすがに空気読めてない感じがするんですけど、どうなのよジマー御代。

あらゆるものが間違っている狂った世界。人間がモノとして扱われる世界。その極限が戦争・戦場であるとすれば、この時代は戦場そのものだった。

なんてことはない、南北戦争が始まる前からアメリカはすでに戦場だったのだ。

「カラー・パープル」や「青い目が欲しい」といった抒情として描かれる黒人差別とも異なり、叙事としての怜悧な視線がそこにはある。それを象徴するようなカメラワークが随所に散見できる。

とはいえ監督は同じく黒人である。徹底した叙事として描くには当事者性が強すぎたのだろう。その語り口は観察者の、もっと言えば傍観者のそれだからだ。「デトロイト」とは真逆に。だからこそ、ハンス・ジマーのこてこてな劇映画じみたBGMを入れて抒情に寄り添ったのではないだろうか。というか、入れざるを得なかったのではないだろうか、と勘繰ってしまう。

 

ザ・ウォーク

ジョセフ・ゴードン・レビット、映画のたびに顔が少し変わっている気がするんですけど。いつも彼を見かけると「あれ、これゴードン・・・? でも微妙に違うような・・・あ、やっぱりゴードンだ」という風になるのですが、わたくしだけでしょうか。

ゼメキスに関しては「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズや「永遠に美しく」といったかつての日曜洋画劇場でやっていたような映画とか「コンタクト」とか「フォレストガンプ」とかの話題作くらいしか観ていないにわかな私。

ルーカスに似て映画の技術的な方面に対しての興味関心が強い人で、大衆を満足させることはできるんだけどよく考えると首をひねりたくなるようなディテールも散見できる良くも悪くも技術志向な人、という印象が強かったんですけれど、不覚にも今回は泣かされてしまった。

もちろん、それはゴードンにではない。彼を通じて描かれる「ワールドトレードセンタービル」にだ。

もしゴードンが魅力的に見えるのであれば、それは彼が生きながらにして彼岸を、というか彼岸「で」遊歩するブリッジャーとして向こう側の世界と同期しつつ同時に此岸に足を置くバランサーでもあるからだろう。

ゼメキスは「フォレストガンプ」においてモノローグによる回想を採用し、その手法は北野武などのようなシネフィル回りの人間からはその手法を批判され(まあ予算の多さに対するやっかみも含めてなのでしょうが)がちではあるのですが、今回もその手法を採用している。「フォレスト~」からこの「ザ・ウォーク」の間に同じようにモノローグを採用していたのかどうかは観ていないのでわからないのだけれど(白目)、ことこの映画に関してはその手法によって、回想という「誰かを通して過去を見る」行為によってもたらされる感動がある。

ではこの映画はフィリップを通じて何を見せてくれたのか。それは今は無き・・・今は亡き「ワールドトレードセンタービル」だ。

 

正直なところ、前半は退屈だった。記号的なキャラはいてもそれぞれのキャラのかけあいはアンサンブルなんてものは感じられないし、とりあえず描いといた感じがぬぐえないからだ。

んが、中盤になってワールドトレードセンタービルが登場してから本格的にこの映画は動き出す。なぜならこの映画の主役はワールドトレードセンタービルであり、そのワールドトレードセンタービルという無機物を追悼する回顧映画として観れるから。

前半が退屈なのは当然で、それはすべてこのビルを美しく飾り立てるおぜん立てでしかないからだ。

この映画で力が一番入っているのは、CGをふんだんに使って様々なアングルから描き出されるワールドトレードセンタービルに他ならない。

だから主役が登場してから加速度的に映画はテンポアップしていくのだ。ケイパーもののように。

この映画の主役は決してジョセフ・ゴードン・レビットなどではない。登場の時点から常に彼の背後にたたずんでいたワールドトレードセンタービルである。だからこそ最後の最後にカメラは彼ではなくワールドトレードセンタービルにフォーカスしていき、美しく黄昏の中に輝いて有終の美を飾るのであります。

この映画のすべては、このラストカットの美しさのためだけにあると言ってもいいんじゃないでしょうか。それくらい、陶然としてしまった。

まるでタワーが、タワーそれ自体のためのモニュメントであるかのように黄金色に輝く様に。周囲が暗くなって一層輝かせようとするゼメキスの心入れに。

 

物を思うということ。それをここまでの技術を投入して美しく見せてくれる映画はそうはないんじゃないだろうか。

特に、人間中心主義にある昨今では。そうでなくとも人間中心主義というのは行き過ぎてしまうとピーター・シンガーを筆頭とするパーソン論に行きついてしまうわけですが、この映画はそういうレベルですらもはやない。

なにせ扱っているのが人ではない、それどころが生き物ですらないのだから。

 

カーヤン曰く「前略~そりゃ危険だからないにこしたことはないしリスク背負うのも怖いし。でも・・・原発に対して・・・みんな難しいこと叫ぶ前に言うことがあると思うんっすよね。今までお世話になってありがとう。」

 

そう、この映画の視線はカーヤンのそれと同じなのだ。

人々の欲望によって生み落とされ、身勝手な象徴を投射され散々利用された最後には表象として破壊される、あるいは指弾される物々。

もちろん原発とワールドトレードセンタービルを同じ文脈として語ることはできないけれど、でも産み落とされてしまったアーティファクトを思う気持ちに偽りはないはずだ。

廃墟に向ける退廃的なものへの憧憬とも違う、その物を優しく見る視線。すでにこの世からは崩壊してなくなってしまったものをコンピューターグラフィックスによって再現し美しく仕立てる。

不思議なのは(とか書いておきながら別に不思議でもなんでもないんだけれど)、それを人間に対して行うと途端に倫理問題に発展させられることだ。

 

「コングレス/未来会議」によって表面化させられたCGと役者の問題は「スターウォーズ」という史上最大規模の実写映画(を主軸にするコンテンツ)において「死者の再現」や「生者の時間回帰」において率先して使われ、それを批判的に観る人もいた。

だがその批判はあまりに人間が中心的に過ぎやしないだろうか。その批判をするなら、この映画においても、いや、いまは当然となったあらゆる映画の背景として構築されるCGモデルに対しても同じような批判をするべきだ。

故人を再現するのに他者を使っても許される人間とは違って、CGにせよ実際に作るにせよ、代替不可能性で言えば本来なら人間以外の物の方がはるかに再現が困難だと思えるのに。

というのは極端にしても、どこかそういう違和感を拭えずにいる。

擬人化、などという言葉を使うのも躊躇われる。

別に人に寄せているわけではなくて、「それ」を「それとして」悼んでいるにすぎないのだから。

アニミズムやガイア論への揺り戻しが必要なんじゃないかと、この映画で描かれるワールドトレードセンタービルの美しさ(とそれに投射される眼差し)を観て思う今日この頃。

 

「ワン チャンス」

R.I.P リック…

リボウスキーなあの友人最高。

あえて決勝を省くのも良い。

まあ天才(というか秀才?)の話でしかないのでアレですが。

 

「巴里の屋根の下」

ファーストカットの町の風景が最高。

画面の制約(アス比)のせいでみんな距離が近い。それが返って関係性に浮薄さをもたらす。そして画面内で人物が密着すると声(言葉)が世界に取り戻されるのですが、頼りない!

なんというか、トムとジェリーやウォルト存命中のディズニーアニメーションの運動力学(?)って音楽の力がかなり強いような気がする、とこれを見て思ったり。

 

 

「フィルムフィルムフィルム」「黄金のカモシカ」「チェブラーシカシャパクリャク」」

ロシアのアニメ特集ということで3本立てを観てきた。

・フィルムフィルムフィルムは大学の講義で断片的に観た記憶があるのですが、映画製作の過程を面白おかしくセリフなしで20分で凝縮していて楽しい。

あの役者が死んだと思わせてからのただのシーンだった、というのもミスリードが効いていますし。

脚本が出来上がってから撮影に至るまでの加筆修正のくだりとかもそうですけど、全体的にテンポが良くて一番楽しめた。

 

・黄金のカモシカはインドのフォークロアを原作にしたもの、らしい。

半世紀以上前のものなので完璧な修復はできておらずちょいちょいカットの繋ぎがおかしいところがありましたな。

ディズニーの黄金期を観ているようなアニメーションですが、多分撮影のミスなのかもしれませんが奥にいるはずの人物の影がそれよりも手前にある石ころと重なっていたりする。

 

チェブラーシカ シャパクリャク

背景とかが意外と簡素だったりする、そういう隙(ていうかこれそもそも劇場公開用だったのだろうか?)も含めてチェブラーシカの「豚がシッタカブッタ」的な緩さがたまらない。

 

 

「海外特派員」

うん。ようやく確信した。私はヒッチコックが合わないと。「裏窓」はそこそこ楽しめたし「鳥」もインパクトあってそれなりに楽しめたんですけど、イマイチ集中力が続かないんですよね。男女の部分がタルいのだろうか。嘘臭いというかウザったいというか。うーむ、よくわからない。

とはいえ全部観たわけでもないし実のところ「サイコ」とか「めまい」といった有名どころすらカバーしていないのだけれど。

この辺観てダメだったらどうしようかとガグブルなのですが。

 

「ヴァイラス」

鉄男のエピゴーネン、というにはあまりにB級なジャンル映画な佇まいではあるのですが、しかしそのグロテスクに関してはかなりのもので、そこだけで十分ではあるともいえる。

それにしてもジェイミー・リー・カーティスのタフネスの異常さが際立っている。近距離で爆発くらい過ぎてるのに。

 

 

アイ・フィールプリティ! 人生最高のハプニング

最初の方は特種メイクを施したエイミー・アダムスかと思いましたよ。

まあ、なんていうか、はい。吹き替えに渡辺直美を起用した文脈はわかりすぎるくらいにわかるのですけれど、メインに据えるとやや他の声優と浮いている感じはある。下手、というわけではないのですが。まあ中盤からはだいぶ馴染んできましたけど。

本編に関してはそこそこ笑えましたけど、モラルの中で水遊びしているに過ぎないし、ある意味では「まごころを君に」(なんか都度都度引用していますが、別に特別好きっていうわけではなくてあくまで共通言語としてわかりやすいために引用しているだけであります)の対局でありながら、その実はやっぱり同じことだったりするのでありんす。

 

 「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」

インタビュー画面、みんながみんな真正面から撮られているのに、誰一人として誠実さを感じられない。それは画面の余白ならぬ余黒のせいでもあるし、それぞれの姿勢やインタビュー場所の背景にあるのかもしれない。というか発言の直後にその言葉と真逆の行動が提示されるからなんですけど。

しかしラヴォナの不遜な態度は明らかに自己中心的なものだし、「真実」を作り出し「ウソッぱち」を造り出すマスメディア側の人間である「ハードコピー」のレポーターは顔をカメラに向けてはいても体は常に横を向いている。

ジェフに至ってはその発言がすでにからして韜晦である。隠すほどのものでもなければ隠し通せてすらいない下劣さであるにもかかわらず。

もちろん、マーゴット・ロビーが演じるトーニャにも余白ならぬ余黒はあるのだけれど、しかし唯一、トーニャにだけはまだ信じるにたるものがあると(作り手は)信じている。というか、それこそがこの映画のレーゾンデートルであるわけで。

ではトーニャの信じるに足るものとは何か。言うまでもなくそれはフィギュアスケートだ。

フィギュアスケートだけがこの映画において純粋なものとして描かれる。たとえそのきっかけがトーニャの言うようなラヴォナによる洗脳だったとしても。や、だからこそフィギュアスケートという本来それ自体は純粋なものであるものが、資本主義やメディアの耽美なストーリー志向などによって穢れを纏わざるをえなかった、という話なのだろう。まあ、人間がピースとして組み込まれている以上はそこに完全な純粋なものなどあり得ないと私は思いますが、こういうのはスポーツをやったことない人は結構幻想を抱きがちな気がする。

ともかく、監督はフィギュアを純なるものとして描いている以上、この映画の中では少なくともそうある。

 

DV母とDV夫によって穢されていくトーニャとフィギュアの在り方というか顛末というのは、彼女がフィギュアとかかわるようになったその起点がDV母であるという時点でほとんど決定していたようなものだったのでせう。

あの劣悪な環境に加えてジェフとの運命的な(無論Fate的な)出会いが決定づけてしまった。

そうして見ると、逆説的にトーニャにとってのキーパーソン(に成りえた)人物が浮かび上がってくる。それはトーニャのコーチであるダイアン。

なぜなら彼女はフィギュアを通じてのみ描かれ、フィギュアを通じてのみトーニャとの関わりを有している。

前述のようにフィギュアとはこの映画において唯一の純なものであり、それのみを媒介してトーニャと通じている彼女は純粋な存在だった。

だからこそ、もしトーニャを救いだせるとしたら彼女だけだったのかもしれないけれど、しかしトーニャを救い出すには畢竟、その汚わいを引き受けなければならず純粋なままではいられなくなる。

そんなわけでダイアンはほとんどこの映画において出番を与えられず、だからこそ純なる存在として在り続けることができた。ま、程度問題でしょうけど。

 

それ自体は純なるものであっても、それがこの資本主義社会のシステムに組み込まれることでどうにかなってしまう、というのは「エニー・ギブン・サンデー」にも通じるものですが、まあどうなんでしょうかね。

 

あと個人的には劇中のラスト近くでOJシンプソンの話題がテレビから流れる場面がありまして、非常にこの映画の主張するものと対比的で嫌な笑いというか諦念のようなもので胸がいっぱいになりました。

しかし「リチャード・ジュエル」を観た後だとほとんど姉妹作と言って相違ないレベルですね、これ。「リチャード・ジュエル」と「アイ、トーニャ」をブリッジする存在としてのポール・ウォルター・ハウザーの存在は、ほとんど楽屋オチじみてすらいるのですが、リチャードとショーンというプロファイリングだけで観れば似たような人間である両者の彼我と、それを取り巻くマスメディア(とそれに連関する拝金主義・男根崇拝思想)を一考するにはいい映画でした。

 

でもこの手の病理ってスポーツに限らずどこにでも巣食っているのだろうなぁ、と思うと気が滅入りますね。

 

んで、実はこの映画のほかに「氷上の疑惑」っていうNBCのテレビ映画があるらしいのですが、これはもっとノーサイド的に描いているとかいないとか。

 

 

「カウボーイ&エイリアン」

エイリアンの感じとかハリソンとか父親問題とか、レイダースというかスピルバーグっぽいなーと思ったら製作にロン・ハワードと一緒にいるし。

ファブローもユダヤ系ではあるし、この人の映画も思い返せばファザコンな問題を抱えているものが多い気がするので、その辺の親和性があったのだろうか。

しかしスピルバーグのような死者の国としてのエイリアンというよりは、ジョン・ファブローは分かりやすい天国と地獄、贖罪、天使と悪魔などなど、キリスト教的モチーフとしてエイリアンを使っているように見える。

良くも悪くもファブローはスピルバーグほど尖っていないので、これくらい分かりやすいバランスで良いのかもしれない。

 

にしてもあの雲の感じ、まるでマットペイントみたいに質量感があったのだけれど、なんですかあれ。

 

スカイライン-奪還-

1作目は観てないのですが、なんか予算が倍になったおかげかすごくいい意味でバカバカしい映画でした。

前半は悪い意味でバカっぽい映画だなーと思っていたんですけど、後半のための前振りというか溜めだったのだな、と。

一言で「これがやりたかっただけだろ」という。エンディングの余韻ぶち壊しなNGシーンも含めて。

予算のせいなのかエイリアンがかなりがっつりスーツなのに全然違和感なく見れたりするあたりは何気に巧み。

展開そのものが楽屋オチというか役者ネタに走るのですが、「ザ・レイド」組だから仕方ない。とはいえ唐突なグロ描写(あれもオマージュかもしれませんが)といい遊びすぎです。いやもっとやれ、と思いますけど。

怪獣バトルといいアベンジャーズなカメラワークといいふざげすぎです。いいぞもっとやれ。

とりあえずインドネシアの格闘技は宇宙人にも通用するということでFA。

 

「その女諜報員アレックス」

どちらがより相手を下回れるか、勝負。

なんか全体的にダサいんですけど、終わり方と言いテレビ映画かなにかなのかしらこれ。

 

嘘八百

中井貴一佐々木蔵之介が中年の危機を乗り越えてイチャコラする映画。需要はニッチだけれど刺さる人にはっ去りそうな映画。

 

「舞踏会の手帖」

なんというか、なんなんだろうかこれ。いや、いい映画なんだけれど、なんだろうこのファム・ファタールな後味の悪さは。

どうにも一筋縄ではいかない。それにしても役者がそろいもそろっていい顔していやがります。

個人的にはティエリーの部分がカメラの明らかな斜傾ぷりといいインダストリアルなカットの挿入といいオチと言い、ぞわぞわしてすごい良かったです。

 

忘れてた映画を観に行く

最初に日本で情報出てから2、3年経ってるような気がするのですが。

公開までだいぶ時間かかったせいですっかり失念していました。

だって日本で昨年末に公開した映画の予告編に同スタジオが今年公開する映画の予告編が流れてましたよ。と思ったら18年にネットフリックスで公開してたんですね。

「生きのびるために」から劇場公開にあたって「ブレッドウィナー」にタイトル変更されてたのもあって、全く気付かなかった。ややこしや。

というわけで「ブレッドウィナー」観てきました。同時上映で「レイト・アフタヌーン」という短編もありました。

何気に日本で公開しているサルーンの映画は全部観ているのですが(まあ2本だけだし)、いかんせんそれほど記憶には残っていないしどの映画を観ていてもまどろんでしまう(今回もそうだった)というのに、なぜか懲りずにまた観に来ているのは、単にタイミングの問題でしかないのだと思いたい。

とはいえ、今回はちょっとこれまでのに比べると毛色が違いました。

「おとぎ話とナラティブ」という部分では通底していますけれど、実質「アクアマン」だった「ソング・オブ・ザ・シー」や牧歌的な児童小説然としたたたずまいの「ブレンダン~」と比べるとずいぶんバイオレンスでございますし。まあ同じシステムを使っていても監督が違うので当然と言えば当然なのでしょうが。

とはいえあまりに直接的な描写はありませんが、しかし流血はあるあたり、インタビューでも答えていますがその辺のバランスは結構気にかけているのは伝わってきた。

児童小説が原作ということですが、割と生々しい描写があるんですけどこれは原作から持ってきたものなのだろうか。いや、あったにせよなかったにせよ、それを投入してきたということは描かざるを得なかったのだろう。

そんでもって原作の出版が2000年というのにも驚く。20年経ってもまだこの映画で描かれるような世界が厳然とあるというのがなんともはや。

これは結構重要な問題で、要するに原作は9.11以前のアフガンを切り取っていたわけですが、この映画は否応なく以後の話でしかありえなくなった以上、どうしても影を落とさないわけにはいかなかったのだろう。そのような欺瞞で誤魔化せるようなものではないのだから。

戦争、飢餓、女性だからというだけで抑圧を受ける(あそこまでひどくなったのはここ数十年らしいですが)差別構造。それらを寓意するおとぎ話も、その本質は死者の慰めにほかならない。

希望、などとはおいそれと口にできない。なんだか気の滅入る一本だった。

 

これ、短編の方を後に流してくれたらもうちょっとすっきりしたのに(笑)。

短編の「レイト・アフタヌーン」は色彩といい身につける強い色の物体の線の脈動といい、ボケた母親の心象というモチーフとは真逆の生に溢れた優しい映画でございましたから。

とはいえ、こっちもこっちで結構アレで、徹底して少ない線で描いていたと思いきやおばあちゃん(というかお母さん)が一瞬、我に返った瞬間の彼女の両手の皺の数がめちゃんこ多い。そういうジェットコースター的な落差による絶望もありつつ、最後には優しく抱き留めてくれるそんな短編。

まあ、あれくらいなら全然軽度だから見れますけど、観る人が見たら「欺瞞だ欺瞞!」と言われても文句は言えない。それくらいまごころに満ち溢れている。