dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

アウトサイダーズビュー「蟹の惑星」「坂網猟」

上映会がやっていたので行ってきました。

村上浩康監督の「蟹の惑星」と今井友樹監督「坂網漁」の二本立て。それと企画者の四方繁利の鼎談付き。

まあ監督本人が言う通り「蟹の惑星」は「東京干潟」と一緒に観たかったという気持ちもあるのですが、しかし鼎談や今井監督の過去作の経歴を知ったことでこの三人の並びから見えてきそうなものもあったので良かった。

 

「坂網猟」については、尺的にもNHKのBSとかEテレで流せそうなんですけど、私の知らないだけで放送されてたりするのだろうか。

個人的には本作よりも今井監督のフィルモグラフィー呉秀三のドキュメントのやつで、ほかの監督作に比べると、これだけちょっと毛色が違うようにも思えるわけですが、実はこれもそうでもないんじゃないか、と思ったり。

とはいえまずは本編について。この中編映画はタイトル通り「坂網猟」についての映画でございますね。

そも 坂網猟とは何ぞや。

坂網猟とは石川県と福井県の県境に近い加賀市片野町にある片野鴨池という湿地で行われる(似たようなものは日本各地でも確認されたが、現在も継承されているのはこの片野鴨池と宮崎県佐渡原町だけだとか)カモ猟のことで、元禄時代から300年以上にわたって受け継がれてきた伝統的なものだという。元は士族に限られた(鍛錬の意味もあったとか)ものだったのが明治維新で猟が自由になって坂場の取り合いが起こったから組合が組織され・・・とまあ色々と歴史があるようで、またラムサール条約の登録湿地としても指定されているとか、300年も持続する生態系を破壊しないカモ猟であるワイズユースの好例として評価されたとか。

要するに乱獲だとか乱開発だとか、そういうものと対極にある猟であるということでせう。

夏は農家が管理して冬は坂網猟師が片野町に借賃を払ってカモを集める場所として利用しているらしく、季節によって変わる湿地の様相を定点カメラで捉えられる。水の多寡によってその姿を変える様は、もしかしたら企画者の四方氏が狙ったのかもしれないけれど、干潟の姿にも似る。

全長4メートルにおよぶ坂網の構造も、ただの網とは違って捉えたカモを逃がさないようにするような仕掛けがほどこされていたりして感心する。

ただ、「伝統的な」とは言いつつもフレームに映る猟師は老齢の方々ばかり。そしてこの手の伝統が往々にして直面する後継・継承の問題が取り上げられ、地域の子どもたちに投網を体験させたりしているのだけれど、しかしここにおいて疑問が生じてくる。

生計を立てられているのだろうかと。この映画では、それについてはまったく触れられない。坂網猟をできる季節は限られているわけで、それを仕事としてこの資本主義社会下において存続させるには冬の間に一年分の生活費を稼がなければならないわけで。

坂網猟以外にも彼らが農業なり林業なりやっているのかどうなのか。それとも蟹漁のように一度に多く稼げるのか。それはわからない。無論、そこまで稼がなくとも生活することはできるだろうけれど、一対一の真剣勝負とまで表現せしめるこの坂網猟に対し今の子どもがどれだけの熱量を捧ぐことができるのだろうか。

監督は「金」を意識させたくなかったのだろうか。「若女将は小学生!」のように単なる仕事としての女将ではなく、おっこという「個」が世界と向き合い考えるべき「きっかけ」としての女将という仕事を描いたように。

しかしあちらがおっこという子どものセルフケア・セルフセラピーとしてあったのに対して、「坂網猟」は坂網猟そのものにフォーカスしているので、それが効果的なのかどうかはわからない。

 

次は「蟹の惑星」。

これ傑作でした。本当は「東京干潟」も一緒に観たかったんですが(監督も一緒に観てほしいと言ってたし)、まあそれは別の機会に。

 

この映画は一人の老人、吉田唯義さんを追い続ける。「蟹の惑星」とは銘打ちながら、その老人を追い続けた結果として蟹が取り上げられるのであり、その蟹を追っていくと多摩川の河口干潟の状態が捉えられるのであり、そしてこの局所的トリニティあるいはトリニティの局所が地球規模の極めて巨視的な視座にまで導いてくれる。その飛躍の瞬間は、今思い出しても鳥肌が立つほど。

とにもかくにも、まず言わなければならないのはこれはアウトサイダーを切り取った映画であるということでせう。そして、メインストリームでは決して語られえない、周縁にて彷徨い続けるからこそ中心にいるものでは決して見据えることのできない(それでいて同じところに帰結する)ものを見ることができる。無論、そのアウトサイダーというのは吉田さんのことだ。

一念岩をも通すというが、その岩は地球という惑星大の岩である。

たかだか一国の、島国の数百平方メートル程度の局所の出来事が、結果的に地球全体へと一足飛びに拡張する。しかし、よくよく考えてみれば南極の氷が解けているという事実だって局所の話にすぎない。だとすれば、その局所的出来事から全体へと押し広げることができるのであれば、この干潟と南極にいかほどの違いがあるだろうか。

それはニアリーイコールで中心と周縁との間に差があるのかどうかという疑義でもある。

 

監督は鼎談で「まず撮る場所を決めてそこに赴く。そしたらその場所に適した人が必ずいる」と言っていたのだけれど、それはとりもなおさず人と自然(まあ、地球と言ってもいい)が、というか人が自然とのつながりの中でしかーー人同士のつながりも含蓄するーー生きることができないことの証左である。

「蟹の惑星」というタイトルも、干潟に降り立ったときに目にした大量の蟹の姿から撮影を始まる前から「蟹の惑星」に決まっていたとか。

確かに、劇中の蟹の数は凄まじい。しかし、夥しく、おぞましいにもかかわらずどこか美しくもある。チゴガニの求愛or威嚇のシーンなんかは特に顕著。

とまあ、ともかく蟹の姿を捉えまくる。大量の蟹を遠くから近くから捉えまくっており、それはマクロとミクロ、全体と局所、地球と干潟、といったこの映画のテーマそのものに通底しているものでもある。これは最初から地球規模の話を扱っているわけです。

おそらく、それは編集の構成にも及んでいる。映画の中で多摩川に投棄されたゴミについて言及されるシーンがあって、そのあとのシーンでは蟹の数が減ったことを吉田さんが語る。これ、普通に考えればそのゴミによって蟹が生息地を追われた云々という話になりそうなものなのですが、しかし吉田さんは蟹の数が減った理由を先の東北の地震での影響であると語る。地震による泥の変化、地盤沈下津波。それによって蟹は減ってしまったのだと。

すなわち、人間などは及びもつかない地球の話なのだと、ここにおいてこの映画は干潟の話から地球の話へと飛躍せしめるわけです。最高。

 

ところで個人的に蟹の生体で一番感動したのは蟹の吹く泡が近くで観ると泡というよりも繊維の束のようにも見えるところ。まあそれ以外にも色々な蟹の色々の生体がつまびらかにされるわけですが、生体そのものもさることながら吉田さんの独自実験(ワサビを挟みにつけたり、目をふさいでみたり1メートル四方で囲って数を数えてみたり)の手法も面白い。

小難しい話もあるのでしょうが、そういうのを別にして単純に観ていて楽しいというのがこの映画。「東京干潟」がどのような感じなのか、今から楽しみでござい。

 

環境問題関連で思い出したのだけど、マイケル・ムーアが製作に回った「Planet of The Humans」の批判において、作為的云々というのとは別に、そもそも温暖化なんて存在しないという派閥もあるようで、そのての派閥の意見としては「そもそも温暖化というのは地球のサイクルの一環であって、人間ごときの産業活動程度が地球の環境に影響を及ぼすことなどありえない」というものだったりするらしい。精緻にデータを追っているわけでもない自分としてはなんか色々と凄まじいことになっていて、この辺の話も色々と意見を訊きたかったりする。

あと日本語字幕版が分割で挙げられていたので一応貼っておく。

https://www.youtube.com/watch?v=5u7Yobzm0-0

もう一つ「Planet~」で国際環境経済研究所の面白い意見記事もあったのでそれもついでに。

http://ieei.or.jp/2020/05/opinion200515/

まあムーアはムーアで極端にシフトする(だから面白い)タイプなので観賞者はまっとうな批判と合わせた上で楽しむというのが一番いいのかもしれない。

 

ほかにも「自然との共生」という言葉には色々と注意が必要でもあるのですが、それについてはまだ考えがまとまってないので今度の機会に。

ミラクル・ライブラリー

オンライン試写会で「パブリック 図書館の奇跡」を観る。

まあ低スペックのPCで2時間もない映画を3時間以上かけてカクカクの動画で観てしまったというこちらの瑕疵を考慮したとしても、これって全然いい話で終わってないのにそんないい感じで終わっていいのかと思うんですが。かろうじて音楽(音楽プロデューサーがタイラー・ベイツ(ともう一人Joanne Higginbottom

参加してますが)なので曲と歌は軒並み良いです)が主張してくれてはいるのですが。

 

役者はなかなか手堅いところを固めていて、アレック・ボールドウィンクリスチャン・スレーターなんか必要悪の敵対者としていい味出しております。

主演のエミリオ・ステベス(「ブレックファストクラブ」の主演の彼だと最初気づきませんでした)はちょっとスティーブ・カレルっぽい顔つきで、影がある感じは上手く出ていたと思います。

ちょっと驚いたのはジェナ・マローンの可愛さ。あの人、あんな野暮ったい可愛さが出せるのかと。髪色のせいもあるのでしょうが、ズーイーとオーブリー・プラザを足して人懐っこさをプラスした感じというか。ただまあ、キャラクターとしてはすごく退屈ではあります。

んが、この映画の登場人物、というが映画そのものが性善説に貫かれているように見えて、それがかえって欺瞞的に映ってしまう。

ホームレスの人々の中に黒人が多い(画面を占める割合が高い)ことは明らかに意識的ではあるのだろうけれど、ジョージ・フロイド周りの事件を経た後ではどうにもこの映画に対して居心地の悪さを感じてしまう。

それに、まあ、これは土地柄の問題とか福祉制度の違いもあるのだろうから一概には言えないのだけれど、クライマックスに彼らが全裸になったときに強烈に意識してしまったのだけれど、あのホームレス集団の中に女性はいるのだろうか。

もちろん、男性に比べればその比率は圧倒的に少ないだろう。しかし、それは不在を意味しない。だが、この映画では女性のホームレスは描かれない。眼中にないのだろう。あるいは、本当にシンシナティにはいないのかもしれないけれど。

そもそも、そうでなくともこういう人たちというのは隠蔽されがちなので、本当に意識しないと浮かび上がってこないものではある。それをもってして、この映画を称揚することも不可能ではないでしょう(志が高いとは言えないけれど)。

 

人情を描きたいのはわかるのだけれど、そのせいであまりにお行儀の良い人間が集まってしまい、悪徳を担うクリスチャン・スレーターのキャラクターはクリシェもいいところだろう。ボールドウィンは息子の件もあってそれなりに説得力のあるキャラにはなってはいるし、ホームレス集団とのブリッジャーとして機能させたかったのはわかるけどね・・・。

これ、スチュアートも結局のところ、せっかくホームレスから脱したのにまた逮捕歴がついてしまって、これから先がどうなるのかまったくわからない状態になってしまっているわけで、まったくもっていい話ではない。

 

ホームレスと公共空間という問題設定は非常に関心があるところではあるのです。日本にしたって、随分前から公園のベンチの中間に不要な肘置きやら突起やらを置いてホームレスが寝れないようにしていたり、景観という建前の元置かれるしょぼすぎる造花だったりと、まあともかくホームレスは場所を追われている。オリンピックに向けてその流れは加速している。

もちろんこれは日本国内の問題ではあるので、アメリカがどうかは知らない。けれど、結局のところこの映画は公共空間の公共性と個々人の権利の軋轢という問題を提議しておきながら投げっぱなしジャーマンで終わらせてしまうのであります。

いや、ある意味で個人の敗北ではあるのかもしれませんが、問題を突き詰め切れていないことには変わりない。

それが惜しくてならない。

最後に図書館の全体(ってほどでもないけど)を映してくれる煽りぎみのカットを淹れてくれたのはよかった。あれで少し気が晴れた感じがしないでもない。

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』が観たくなったし、そういう意味でのモチベーションにはなりうる。

 

 

6月2020

 

タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜

何で日本の配給会社ってこういうだっさい副題つけるんですかね。

それはそうとアメリカの警官が黒人を殺した問題でデモ(というかもはや暴徒ですが)が起こっているときにこの映画を流すNHKの采配のシンクロニシティ。まあ「キリング・フィールド」とかも流してましたから、現場レベルだと色々と社会情勢を考えたりしながらプログラム組んでるんだろうなぁと思ったり。

これが80年の話というのも驚き。と言っても80年が40年前なわけですから、そう考えるとそれなりに歴史化されていても違和感ないんですけど。

銃とカメラの対比や私服警官に襲われるシーンの色彩、行きは後部座席なのに帰りは助手席というモロな演出など中々どうして良いではありませんか。ああいうの嫌いじゃないです。

これも実話ベースというあたり、現地に外国の記者が入り込んで〜っていうのはそういう定石として現実にあるのでしょうけど、これほどおいしい(とか書くと不謹慎ですが)バディもの定型もそうないのでは。

「TAXI」なんかよりよっぽどタクシーがカッコよく描かれているのもツボ。まあタクシーが、というよりはその乗り手であるドライバーのドラマなわけですが。

 

「クロニクル」

ずっと気になっていたのをようやく鑑賞。ジョシュ・トランクって今何してるんだっけ、そういえば。リブートのF4がこけてから何してるのか聞いてない(追ってないからですが)のでそろそろ新作を、と思ったら一応予定はあるらしいですね。ほかにも「ボバ・フェット」の監督の候補だったとかF4反省記事とか色々出てきた。

それはさておき「クロニクル」。ちょいちょい「それ本当にPOVとしてあり?」な部分もあるのですが、普通に面白いです。

しかし転倒させられることが前提の成功(の直後に訪れる増長・失敗)シーンってどうしてこうも見るに堪えないのだろう。約束された失敗、というのはそこに至るまでに陰の人であるという彼の執拗な描写からも分かってしまう。社交性が高く弁えている二人は弁別が可能だが、そうではない彼は力に酔い、己に陶酔してしまう。

無論、フラストレーションをため込んでしまうのはその家庭環境にもあることは明々白々なのではありますが、しかし結末も含めてすべてが破滅への予定調和としてあるこの物語を観客の立場として見るには忍びない。

しかしまあ超能力という設定があればPOVでもここまでカメラを動かしても大丈夫、というのはわかるにしても、ほかの人のカメラに映されるというのは(意図はわかるにしても)チョンボじゃないのかえ、トランク監督?

ああいうのは「アメスパ2」のエレクトロの方が個人的には好きですね。そういえばあれにもデハーン出てましたが。

にしてもデハーンってこのころから生え際ヤバかったんですね。

 

若草物語

おそらく「ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語」に合わせてNHKが組んだのだろうなーという。

しかし息苦しい映画だなぁ、と。それは多分、本質的にこの映画には外の世界が出てこないからでせう。この映画には西部劇映画の、ホモソーシャルの極限な映画において開けた空と大地が広がっている(それゆえの茫漠さはあるにしても)のに対し、この映画においては空は書割だしセットであるがゆえにアングルだってシットコムかのように固定されている場面が多い。

そうでなくても、シーンのほとんどが家であったり、学校であったりと、とにかく彼女たちを徹底的に内側へと押し込み囲う箱庭的な世界しか描かれない。それが「彼女」たちのおかれた世界だったのだろう。

だからとても息苦しいのだ。

 

「知りすぎていた男」

 たまにどれがどれだかわからなくなってくるヒッチコック

相変わらずうまいな、とは思うんだけどラストの勢いはちょっと笑う。

 

時をかける少女

大林版を今更。細田守版と比べるといろんな意味で幻惑的だなぁ、と。ていうかこれに比べたら細田守版てかなりSF色強めていたんだなぁ…。

大林監督の映画は家の生活感というか、日常感が良くて、そこに非日常が唐突に侵襲してくる展開とサイケな特撮編集と相まって奇妙な感覚をもたらす。

アイドルという非日常的存在を徹底して日常空間に落とし込み、芋くさくさせる(?)のもそのためなのかもしれない。いや単純にロリコンであるということではあるのだけれど、しかしそんなことを言えば程度の差はあれみんなロリコンでありショタコンなのではないかと個人的に思うのだが。

今なら堀川くんへのフォローが入ったりもしそうなもんですが、本作においては完全なる被害者であるわけで、ほとんど略奪愛の映画でもあるんてすね。演じてるのが尾美としのりというのも絶妙。

にしてもラストのズームアウトってどうやってんですかね?

 

 「サイコ」

 そういえば全編通して観るのは初めてだった。体調最悪で所々で意識が飛んでたりするとこもあったのですが、それでもまあ単純に面白い。

基本的には演出面で「ここはこうで~」という形で部分的に観させられていたので、案外というか、ストーリーラインそのものについては実は奇跡的にネタバレを回避してこれたのでかなり新鮮ではありましたし、さすがはサスペンスの神といったところでしょうか。

うーんでもなんというか、パロディばっかり見ていたせいで逆に笑ってしまったりもしてしまったり。有名なシャワーシーン以外にもがっつりパロられているんだなぁ、と。まあ主にシンプソンなんだけど。

にしても、ここまでマザコンミソジニー悪魔合体だとは。倒錯しすぎてちょっとやばいです。最後のモノローグが「母親」というのがヤバいし(「悪の教典」のハスミンってこれのオマージュだったりするのかしら)、それが翻って悲しいというのも多分にある。アングルも結構独特だったりしますよね、探偵を殺しにかかる直前のカットとか初期GTAみたいだったりしますし。

 

病院坂の首縊りの家

犬神家よりこっちの方がコミカルで好きかも。まあミステリーがそもそも苦手というのはあるのですが。

廃墟も出てくるし、黙太郎というサイドキックがいいキャラしている。しかし草刈正雄ってこうして見るとイケメンすなぁ。ちょっとアラブっぽくて濃い顔なんですが、いい具合に軽いのに戦争孤児という重い設定を付与されてたりするのも良い。

あと劇中のバンドの頭いい。

こうして書き出すと本筋と関係ない部分ばかりですね。ホントこういうの向いてないんだなぁ。

 

「フリーソロ」

理屈じゃないもの。取ってつけたような家庭の生い立ちや脳の検査も、何の参考にもなりはしない。辛うじて何かを見出せるのとしたら先達との会話のときの笑顔だけだ。

それは普通であることの証左にしかならない。

 

 

老人と海

うーん?どうもこの映画の語り口は弁解に聞こえるんですよね。

作り手自身も老人の在り方を(というか、老いて力を失っていくこと)良しとしていないというか、諦めているというか。

ほどど副音声的な説明が入るのが老人のシーン(少年単独のときはほぼない)というのは、老人自身が己の衰えを言葉とは裏腹に認めたくないからでは。執拗なまでの説明は、逆にその情景や心情を陳腐に見せる。

だからこそ一人で漁に出たのではないか。ワシはまだやれるのだ、と言わんばかりに。そんなことおくびにも出さないけれど。

要するにこれ、ジジイが最後に一発花を咲かそうとして試合には勝ったけど戦いには敗北した、それでも努力賞もらえました、という話にしか見えないのである。

なんか痛々しいです。

 

「スキン(短編版)」

サウスパークでありそうだな、と。というか似たようなネタをジンジャー差別やHIVでやってましたな。ラストのオチは違ったような気もしますけど。

要するに、どうしようもない現実問題なのでせう。

これ長編版どうなるのだろうか。

 

ファイヤーフォックス

良くも悪くも(としておきませう)ザアメリカなイーストウッドがロシア人との混血という設定であり、勝敗の決め手が敵国の言語をイーストウッドが使用するということであり、そもそも敵国の機体を鹵獲しようという、ある意味で徹底的にロシアageな映画である、というのがすごく面白い。(一方この映画の6年後にネッガーは「すまねぇロシア語はさっぱりだ」った。アメリカという国の歪み具合ががが)

 ウィキがまあまあ充実しているのもなんか面白いですが、やはりミリオタ的には琴線に触れるものがあるのだろうか。

一方、アメリカン兵士であるイーストウッドには明らかに兵士としての瑕疵=トラウマがある。加えてセリフの中でストレス障害など一般的だという事実が述べられる。

何度も擦られるイーストウッドの回想の中に出てくるアジア人の少女は、明らかにベトナム戦争の傷であるわけです。しかもそのせいで危うく任務に支障をきたしそうになったりもする。

アメリカ的価値観の相対化、という意味でイーストウッド映画には違いないのですが、なんだかSFXとかいわゆる特撮とイーストウッドの相性ってやたらといい気がするんですが、この映画のドッグファイトシーンの合成とかほとんど違和感ないしなんなんですかねこれ。

 

伊豆の踊子

 三浦友和が若い・・・。

トンネルのカットが良い。あとロケーションね。

露骨な、しかし当然のように潜む差別があまりにも日常に溶け込んでいて少しびっくり。

そして、それがもたらす恋のわずらわしさ。これってロミジュリでは?

話だけを追って入ると、そういう風には見えないんですけど、しかしやはり「私」の奥手っぷりというのは、いわゆる童貞マインド的なものなどではなくて、踊り子である彼女と己の立場の隔絶さについて自覚的だからではなかろうか。

かたや被差別民、かたや金持ちボンボンのエリート学生。無論、彼女は(「私」の主観ではあるとはいえ)そのようなことには無意識(というかnaive?)であり、だからこそ無垢である。それがまた「私」を煩悶とさせているのではないか、という気がするのです。

その無垢さ、というのを処女性と言い換えてもいいのだろう。

そう、これは穢れの概念とも結びついているのでありませう。そのような民俗学的な概念と恋愛のマッチングした映画、というか小説、なのだろうか。

 

「情婦」

全く知らなかったんですけどこれアガサ・クリスティの有名な小説が原作だったんですね。まったくトリックのこととか知らなかったのですが、割と有名な感じらしいですね。

クリスチーネが哀れすぎてかあいそう・・・。にしても登場人物のキャラがこいーです。

 

「引き裂かれたカーテン」

冷戦を舞台にしたのがあるとは思わなんだ。博物館の中のカットがすんごい良かったっす。あとやっぱりパラノイア的な感じがするんですよね、ヒッチコックって。

美女に求められることへの倒錯というか、女性に対するコンプレックスというか。それが異様な形で発露したのが「サイコ」なのだろう、と。

 

キングダム/見えざる敵

いつものピーター・バーグなんだけど、アバンというかオープニングのおさらい映像がかっこよくておしゃれ。つまり開幕10割。

近年のは実話ベースではあるんだけれど、これはベースとなる事件はありつつも完全にフィクション。

高速で移動する理由が尾行を見分けるためだとか、その辺の考証部分なんかもさらっと取り入れてたり、アクション多めだったり、フォーマットがチームものであるのでその辺も含めて何気にバーグ作品では結構好きな部類。

ていうか製作にマイケル・マンがいるからか、銃撃戦とか妙に迫真なんですけど、それがかえって娯楽性を高めてしまっているきらいもあり、終盤の銃撃戦に関してはどう観ればいいのかわからなくなってくる。

敵組織の子どもによって射殺されてしまうファーリスと、その子どもを射殺するしかなくなるロナルド。そこで生じる敵でありながらも一方では守るべき子どもを殺さなければならなかった、という問題は、ファーリスの死という(語弊を恐れず書くならば)安直な悲哀に中和させられてしまう。しかし、「俺たちの勝ちだ」という慰めにもならない空虚な慰めの言葉が、「お父さんはとても勇敢だった」と言わざるを得ないどうしようもなさが、ファーリスの死によってもたらされる悲哀すらも無化していくようにも見える。のだけど、そこはアメリカンなマインドで「君のお父さんとはいい友達だった」というセリフが恐ろしく陳腐に聞こえてくるので結局台無しになっているような。

また敵陣をせん滅したあとに「とりあえず丸く収まったね」と言いたげに流れるダニー・エルフマンのメロウなスコア。これは他のピーター・バーグ作品でも同じような感じなのだけれど、しかし、この映画においてはそのメロウなスコアをながっしぱなしにしつつも最後に明かされる両者の「奴らを皆殺しにしてやる」という言葉が、その甘ったるい音楽にくさびを打ち込んでエンドクレジットに移る。

何が言いたいのかと言うと、これ、実はかなりバランスに苦慮しているんじゃないかと思えるんですよね。

2007年といえばまだ911テロを引きずっていたころですし(今でもそうだけど)、その後遺症というか対症療法的にアメリカを鼓舞するような映画がたくさんでてきたのだけれど、しかし一方でテロの行為をテロリストにだけその責を担わせることに無理があるというのも言われていたことで、だからこの辺のばらんすがみょうにちぐはぐになっているような気もする。

むしろあえてこういうバランスにしているのかもしれない。この人のフィルモグラフィーは結構面白くて、「バトルシップ」とか「ハンコック」とかのアメリカンパワー(?)な娯楽映画を撮っている一方で「ウィンド・リバー」みたいな映画の製作もしてたりする。

まあでも社会問題に対して意識的であることは間違いないのでしょう。もしかしたら「パトリオット・デイ」とか「バーニング・オーシャン」とか大事なとこ見落としてる可能性もあるなぁ・・・。

アダム・マッケイの作風は、かえってアメリカ的過ぎて実は自分の中では楽しみつつも好きになり切れない部分もあるのですが、ピーター・バーグはもっと生真面目な感じがあって、そこがむしろ好感を持てる部分でもあったりする。

 

「彼奴は顔役だ!」「孤独な場所で」

同時上映、というかあるイベント(勉強会?)にお誘いいただいて観てきた二作品なのですが、体力的に2本連続はもうしんどいな、と。この並びで分かる人はわかるのでしょうけど、ハンフリー・ボガードが出てる映画です。資料とかも結構もらったんですけど、とりあえずの所感として読まずに書く。

「彼奴~」に関してはボガードは主演ではないのですが、ヒールとしていい役どころではあります。

これ、戦後の帰還兵が職にありつけず禁酒法を利用してギャングを組織し一儲けして落ちぶれていくという、まあスコセッシ映画(実際、スコセッシは参考にしているとか)であります。

にしても、「16歳にはなれねぇぜ(ゲス顔)」と言いながら敵を撃ち殺すボガードの倫理観の欠如は結構危うい。後半でボガードは悪玉として動き回り裏切り上等でのしあっがていくキャラクターでもあるので、そのキャラを端的に表していた、ともいえるのですが、個人的にはキャラというよりもむしろこの映画全体がまったく悪びれていないことからくる、ある種のサイコパス性みたいなものなのではないかという気がするのです。

時代的なものなのか、ともかくこの映画はキャラクターもさることながら、映画全体が悪びれていない。悪いことを描いているにもかかわらず、どいつもこいつも罪悪感というものがない。判事になった彼でさえ、過去にギャングに属していたことそれ自体には葛藤はせず、正義に従おうとする。主人公エディを筆頭に、ともかく一連の悪行を悪びれていないのである。

そうでもなければあそこまでシームレスに密輸という犯罪に手を付けないし(生存のためとはいえ)、葛藤などというものがおよそ存在しないのである。

だから、あの感動げなラストというのも、どういう風に見ていいのかわからない。いや、ピエタが云々という話も出たのだけれど、そういうことではなく。

ノワールだから、というのはもちろん逆説的な後付にしかならないわけですから、それをもって死んだ、というのは黒い白鳥でしかない。

 

「孤独~」は、もうほとんどフリークスの映画にしか観えない。ある瞬間からボガードの顔が怪物にしか見えなくなってしまって、彼を怪物として観たときにこれはもうほとんどバートン的フリークスの悲哀の映画にしか見えなくなってしまったんどえす。

フランケンシュタインの怪物のようにも見えますし、吸血鬼ノスフェラトゥのようにも見えてくる。まあ吸血鬼だとちょっと方向性が違うので、ことこの映画に関しては物語もあってフランケンシュタインの怪物に見えたのですが、そうやって見てくるとこれはむしろフリークスの映画なのではないかと。

今なら電話が間に合わず絞め殺してしまう、という決着もありえるのだろうけれど、そうではなく、あの時点ですでに間に合っていなかったのだ(と彼女は認識する)として、ボガードは自ら去っていくというのは、殺してしまうことよりもよりフリークスの悲哀を感じさせる。

 

 「グラン・プリ

これ傑作でしたね。「フォードVSフェラーリ」のときにも名前が挙がってたので気にはなってたんですけど、まあ3時間かけるだけあって描きこみが良い。

オープニングも最高だし終幕も最高。黒いバックに白いフォントで役者の名前が続々と表示されていったかと思えば、その黒は排気筒の中で、その断面の円に収まるようにタイトルが画面中心にどどんと「GRAND・PLIX」が。

そこからさらにスプリット・スクリーンでレースを描き切ってみせ、もうこの時点でめちゃんこかっこいいのですが、まあそれもそのはずでオープニング担当してるのがソール・バス!。しかもスプリットスクリーンはオープニングだけじゃなくて本編でも有効に使われていて、今見てもかっちょいいスプリットスクリーンなんですね。まあともかく画面の遊び方がおしゃれです。

またレースシーンの撮影もかなりエッジの利いた撮影をしていて半世紀以上も映画の映画とは思えない臨場感が。クロード・ルルーシュの「ランデヴー」的というか。

で、レースの躍動もさることながら、この映画の肝は人間関係といって拡大解釈しすぎであるとすれば「男の世界」の物語であることでしょう。

実際、徹頭徹尾レース=男の世界の話であり、4人のメインレーサー(そこ、「ニーノはメインか?」とか言わないこと)と彼らを取り巻く女性の、男女の物語でもあるわけですね。

まあ、男女といってもメインがレース=男の世界の話であるわけで、女性ははっきりいってスパイスとして描かれています。とはいえ、そのスパイスは最高級の手間が加えられているわけなので、観ていて面白いわけですが。

特に最後のレースにおける彼らの物語(とスプリットスクリーン使い)は秀逸。

サルティの結末はレースという世界に対する限界を感じ始めたことによる天井を見てしまう行き止まり=デッドエンドであり、走り続けなければならないレースの世界において「止まって」しまうことはイコールでデッド・エンドになるわけです。まあ丁寧な死亡フラグ立ててましたしね。

しかしいくら男の世界とはいえ、そこには男性的非情さ持つシステムに抗うような人間性を持たなければならない。それゆえに勝利の美酒に酩酊し、男の世界に過剰適応したことで女性をモノ化する視線を強化し自我を肥大化てしまったニーノは、皮肉にも己の意思の通じないところでレースから離脱せざるをえなくなる。

ここにストッダードとアロンの一騎打ちになる。この二人はレースの世界にいて、その競争原理の中に生き快楽を感じているものでありながらも、ある意味でそれに自覚的な二人なのです。だから、二人は映画開始当初の周囲の人間関係から大きく変化していくのです。アロンはチームをやめて日本のチームに入りますし、ストッダードは破綻しかけていた妻との関係を(アロンのおかげせいで)再構築することになる。

だから、レースの結果としては1位と2位という順位がありながら、その表彰台に立つ二人の間に差はなかった(という撮り方になっている)。

不動の男性的システム下において、しかし絶えず変化しつづけ不断にアップデートしていかなければレースに勝ち続けることはできない。そこに見出す快楽というのはどういうものなのか。

そして、それがあるいは空虚なものなのではないかということがラストのひび割れたコースのスタート地点を歩くアロンを引いていきながらエンドクレジットに入る。

しかし、同時に、彼の耳にはエンジンをふかす音が聞こえている。それは、レースの世界に生きる彼(ら)にしかわかりえないものなのである。

ここにおいて「フォードVSフェラーリ」が同じものを描いていたことが明らかになるわけですね。

 

人間関係≒男女関係のバランシングがそのままレースの勝敗あるいは生死にかかわってくるという描き方。そのダイナミズム。いやぁ面白い。

 

潮騒

山口百恵は脱ぐわりにはっきり見せないというもどかしさ。それがまあ処女性でもあるのでしょうが。決してスタイルが抜群なわけでもなく、むしろ芋っぽいのだけど、それがこの村社会においてよりめんこく見えるのかもしれない。

たかが婚姻でここまで大騒ぎになる、というのは正直よくわからないのだけれど、小さなコミュニティ内のもめごとと考えればなるほど理解できないでもない。

ていうか知らなかったんですけど(別に知りたいわけでもなかったし)三浦友和山口百恵って夫婦だったんですね。超納得。というか一連の映画が二人をくっつけるためのおぜん立てとも見える。

 

太陽系を癒そうとする男=ホドロフスキーの最高マジック!

久々に映画館に行ってきました。最後に劇場で観たのが「ハーレ・クイーン」で3月末だったことを考えると、ほとんど三カ月ぶりですか。そりゃミニシアターは支援がなきゃやってられませんですよ。

本当は近所のシネコンに行ってリハビリに(?)軽めの映画でも観ようかと思ってたんですけど、先にネット通販でパンフを買っていたり、数量限定でトリエンナーレで配布されたものを配ってる、というのもあって(我ながらゲンキンである)アップリンク行ってきました。

で、何を観てきたかと言えば「ホドロフスキーのサイコマジック」

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ついでにアリ・アスター関連のものも一つ買ったり。

 

癒し系の最高峰、その名もホドロフスキー。「太陽系を癒す」とまで言ってのけたホドロフスキー翁でありますから、そんじょそこらの癒し系などでは足元にも及びますまい。

この映画、構成がすごく単純で、相談者の「傷」を提示→それをホドロフスキーがセラピーする→後日相談者の晴れ晴れとした姿がカメラに収められる、の連続なのですね。

これ、ともするとカルトor通販番組の「入信したら彼女ができました!」「シックスパットで二の腕に力こぶできました」な勧誘・広告的なものに見えてしまってもおかしくない(それくらい清々しい)のですが、もちろんホドロフスキーがそんな損得・拝金主義的な動機でサイコマジックを行うはずがないわけで。

そもそも、劇中で行われるサイコマジック=セラピーでホドロフスキーはお金は取っていないのですから。

じゃあなんのためにこんなことを?

無論、癒すために。

何を?

当然、世界を。(そして世界を構成する人を)

じゃあ世界って何?

という話になるわけですが(というか私が勝手にそういう話にもっていきたいだけ)、多分、ホドロフスキーの視座、芸術による癒しというのはモリス・バーマンが言うところの「世界の再魔術化(Reenchantment of the world)」に近いのではないかと思う。

再魔術化、というのはまあ、端的に言ってしまえば象徴としての秩序だった世界へ戻ろうとする運動(昨今の魔女活動なんかもその一種でしょう)でしょうか。で、ホドロフスキーはそれによる癒しを施すわけです。

しかし、癒しと言っても、必ずしもそれは牧歌的・子宮的安心感を与えてくれるものだけではない。むしろ、積極的に暴力を解放・発動させることも含む。それは劇中の処方箋の一つである南瓜をハンマーで砕きそのかけらを送り付けるという行為にも代表される。とは言いつつも、一方ではやはり子宮的優しさによる包摂を処方することで「生まれ直し」、不全だった親との繋がりを書き換えるようなこともなされる。

劇中の処方箋のすべては象徴としての行為であり、そこには意識することによる気づきを与える精神分析的な論拠はない。そもそも、ホドロフスキーが言うようにサイコマジックは無意識に働きかけるものだ。

それは、象徴としての世界ともう一度繋がることだと言ってもいいのではないだろうか。近代化(=合理化)された世界において神は死に、世界はカオスとなり、実存は揺らぎ、自分の生が空疎なものだと感じざるを得なくなってしまった。

象徴としての世界に接続できなくなった人々は、そのおぞましい合理的な世界観に直面することを避け、その逃避先としてドラッグやアルコールやらに依存し、あるいは精神疾患という形で(まあ依存症自体が精神障害の一つなのですが)表出させる。

自殺問題は日本だけの専売特許というわけではない。アメリカでは1966年~67年の間にティーンエイジャーの自殺は三倍に増加してたし、77年は西海岸に住む9歳から11歳の子供を対象とした調査ではその半数がアルコールを常用し毎日酔った状態で登校する子供も多かったという。それにドイツやフランスでも似たような問題はあって、それはつまり近代化以降の世界の病理そのものなのである。思うに、日本で最近になって自殺が取りざたされるようになったのは、単に周回遅れでようやく問題に直面するようになっただけなのではないかと、最近の政治や経済の状態を見るにつけ思う。

かといって、今更アニミズムやら魔術やら錬金術やらをそっくりそのままの意味合いで受容することは難しいだろう。けれど、それは表層的な意識、理性的思考のレベルにおいてである。

かつて世界は神の、あるいは大いなる自然の意思による秩序ある、まとまったものだった。しかし科学的合理性は、そんなものはないと断じ、秩序ある世界は無秩序で恐ろしいもの、まとまりを欠いたものへと変わってしまった。

たとえるなら近代化以降の世界はゲシュタルト崩壊した認識の世界みたいなものなのだろう。人は、点が三つ集まれば、それを人の顔だと認識するようにできている(シミュラクラ現象)。それは意識的にそう見ているのではなく、その点の三つの集まり全体を見るという無意識がそう見させているのである。近代化以前はそういう世界観を自明として生きていたのが、科学のメスによって転倒させられてしまった。

けれど、それは転倒させられたわけではないのではないか? だって、「そういう風に見えるだけ」であったとしても、私たちの脳は依然として三つの点の集まりを「無意識のうちに」人の顔に見立ててしまうのだから。

そう、だからホドロフスキーは無意識に働きかける。それが劇中におけるサイコマジックにほかならない。象徴的行為によって、ある種の変性意識状態に持っていき、世界との繋がりを取り戻させ、癒すのである。

 

そして、後半においてホドロフスキーはそのある種の変性意識を個人から社会にまで敷衍しようとする。

それがソーシャルサイコマジックであり、ある女性のがんの治療と死者の日のメキシコにおける抗議活動だ。

んが、パンフレットの解説やホドロフスキーのインタビューの言葉の中にはカウントされおらず、そしてまた劇中でも一切の説明がないまま行われるソーシャルサイコマジックがもう一つあって、実は個人的にはそれが一番キたのでちょっと書きたいのと、その象徴が何の象徴なのかを理解してないとわからないので自分のためにも付記しておきたいのでござい。まあ、別に意味など分からなくても問題ない、というのがサイコマジックではあるのですが。為念。

神輿のように担がれるクローゼットが燃やされ、二人の男性が衣服を切り取られていき、やがてパンツ一丁になった二人は抱き合いながら、リアルなペニスの形状を模したキャンディ?を舐める。このソーシャルサイコマジックはいわゆるセクシャルマイノリティへの癒しだ。クローゼットはクローズ、つまりアウティングしていないセクシャルマイノリティの隠喩であり、それは社会的外圧によって閉じ込められざるを得ない彼らの状況そのものでもある。だからこそそれを担ぎ、盛大に燃やすことで彼らを癒す。

象徴との接続が不全であるがゆえの病理が現代社会であるとはいえ、象徴とは、必ずしも人にとって良いものであるというわけではない。しかし、だからこそ、その象徴を破壊することで(南瓜の破壊と同じ)癒すことができるのもまた道理である。

 

つまり、癒し系アーティスト。それがホドロフスキーなのである(適当)。

 

余談ですが、なんとなく世界を再魔術化しようとしている映画作家でいえば、アリ・アスターもそうなんじゃないか、と思っていたりする。二人の違いは端的に言って規模の違い、内界か外界か、セルフセラピーかどうかでしかないと思います(そして多分、そこには世代的な要素がかなり絡んでいると思う)が、やはり癒しを求道するという点では同じなのかな、と。

まあアスターを癒し系とは口が裂けても言えませんが。

 

 

 

 

 

2020⑤月

「REBOOTED」

12分ほどの短編映画。過去のものとされるストップモーションアニメのキャラクターの悲哀と再起を描いた涙腺もの。主人公の髑髏は「タイタンの戦い」というより「アルゴ探検隊の大冒険」かしら。

手書きのアニメーションやアニマトロニクスジュラシック・パークオマージュ)、着ぐるみ、あとT-1000のようなCG?キャラクターなどなどと協力して破壊工作をもくろむというのが本筋なのですが、この潜入・破壊シーンがたまらない(まあ妄想落ちなんだけれど)。

潜入シーンにおいてそれぞれのキャラクターがそれぞれのマテリアルを生かして(セルアニメであればそのセル自体で窒息させたり、セルの薄さを利用して角度限定で風景に溶け込んだり、アニマトロニクスの恐竜であれば、それ自体が作り物であるということを利用して欺いたり)警備員を出し抜くシーンが本当にすごいです。CGという実体をもたないデータではなしえないことをフィクションの中で描いて見せるというのがなんともはや、その実体性・・・あるいは身体性みたいなものに非常によくコミットした傑作。

技術的にかなり卓抜した映像なのは言わずもがななんですが、ともかく傑作でございますこれ。

 

「夢の丘」

こちらも短編。高橋洋が監督なので、ホラーです。ええ。

妹の顔がうっすらと姉の顔にオーバーラップするところ、絶妙に顔が気持ち悪くてかなり怖かったです。

 

「Planet of the Humans」

マイケル・ムーアが監督。したわけではなくあくまでエグゼグティブとして参加しているドキュメンタリー映画

一言で表すなら「グリーン(クリーン)エネルギー」を取り巻く欺瞞について。

環境問題が語られる際によくSave earth的な文言が使われることがあるような気がしますが(ラブロックの影響とかもあるのだろうか?)、地球は死なない。

死ぬのは人類だけ。だからスーサイドという言葉が劇中で使われるのだろう。

やはり資本主義は悪ではないだろうか、という思いに一足飛びで行ってしまいそうになる程度にはこの映画がつまびらかにするクリーン(笑)エコロジー(笑)グリーン(笑)という言葉が陳腐であり虚構であり欺瞞の産物以外の何物でもないことは伝わる。少なくとも資本主義体制の下でそれらの用語が使われる限りは。

無論、この映画自体が一種のプロパガンダでありアジテーションである(ラストのオランウータンのくだりなどは本当にきつい)ことは承知しなければなりませんが、今のご時世にノンポリなどと言って逃げ回っている場合ではないわけで、イデオロギーを選択するしかないのではないか。

https://courrier.jp/news/archives/198622/?ate_cookie=1588579347

まあこんな批判記事出るくらいには今回の映画のつくりはおざなりだったらしいですが、ムーアが監督に回ってたらもうちょっと突き詰めてたりするのだろうか?

 

ぼくはうみがみたくなりました

「やさしいせかい」の話。もちろんフィクションなので「優しい世界」ではあり得ないのだけれど、しかしそこかしこに不可視化されている人々が画面を占めている。

冒頭の母と兄の振舞いは自閉症とか以前にデリカシーなさすぎですが。あとあのマンション柵低すぎて怖いんですけど。

この家族の関係で面白いのは、疎ましく思っている弟の方が保護しているつもりの母親よりも兄を分かっているところ。まあ、弟の方をあまり掘り下げられてないのはちょっと気がかりではありますけどね。いや、回想とかで兄弟に自閉症がいるということの辛さみたいなものは表現しているんですけど、そこから先にもう一歩踏み込めれば「やさしいせかい」感をもうちょっと払しょくできたのではないかなと。

あと旅館でのあれはちょっと相手がコテコテすぎるのはうーん。まあその前にアンタの息子が並べてるミニカーも普通の邪魔になるけどね、とかとか。ミニカーのくだりは結構共感することが多い。

 

「夜の訪問者」

不思議な関係性の映画でした。

登場人物の関係性が不思議。確かにロスだけがあの状況で銃を持っていてカタンガに対応できる人物だったとはいえ、どう観たって助からない相手を、しかも自分に銃を向けた相手をあそこまで介抱できるのだろうか。

ブロンソンもしかり。そこに何か上官に対する情感(激寒)のようなものがあったのではないか。

割とさくっと観れるタイプの映画だと思うんですけど、にしても何か考えてしまうようなシーンががが。

とってつけたようなカーアクションは007シリーズの監督ですし、まあ小屋の方の刺すペンディングな場面をもたせるための繋ぎのようにも見えるわけですが、あれはあれで結構観ていて危ない感じがして観ていて楽しめました。

あとすっごいどうでもいい部分なんですけど死体を遺棄するシーンで二人組がナンパしてくるじゃないですか。あそこで夫がいるとわかるやアクセル踏み出すあの二人組が同時に両手ばんざーいポーズするのがいやにツボなんですけど、あれなに。

 

「レッド・ダイヤモンド」

 いや、まあ、トマトの評価は知りませんが私は結構楽しめました。

ただまあ、なんというかですね、明らかにこれテレビシリーズの劇場版的な作りになっておりまして、観終わった後にテレビドラマ版があるのだろうとばかり思ってググってみたらねーでやんの!そういう意味で、この映画はあまり優しいつくりではないというか、シーンの飛ばし方とかあまり親切でないというか適切ではない感じもするのですが、それでも結構楽しめました。

一点突破としてのブルース・ウィリスの悪役はコテコテですけど、まあ観れますし、ステゴロシーンの後にちゃんと拳に傷を作ってたり壁に弾痕を作ってたり、そういう細かい部分でのディテールが凝っていて、かなり好感を持てる。そこに力入れるなら別のとこに注力しろ、と言われればぐうの音も出ないのですが。

クレジットのNGシーンはまあ、なんか正直あまり好きではないのですが、ブルースが出てなかった(はず)あたりは逆に溜飲が下がるというか。

それにあまりこの手の映画では描かれない男女の友情を最後まで保つのもいい。ジャックとローガンの本当に性を感じさせない(しかしジェラシーはある、という萌え)関係性は本当に良いです。

話はありきたりだしキャラクターはステレオタイプだしブロンドの扱いとか性差別的と言われても反論しにくい描写なんかもありますし、ダイヤを奪還するシーンなんかの雑さはもうアレではありますが、それでもランニングタイム分はなんとか牽引してくれる程度には楽しめました。ローガンがいいんです、ローガンが。

 

「マローダーズ」

最後の切れ味は良い。

 

「ロードオブモンスターズ」

天狗て。そして海なのに火と大地の化身とは。天狗から発想されるのは往々にして空なはずですが…ここまでねじれると返って清々しい。

まあアサイラムプレゼンツなのでそんなもんでしょう。それに怪獣のCGは結構頑張っていますし、頑張っているところは。「アップライジング」でカイジュウ呼びが不足していて不満という人はこれを観るとよろし。カイジュウ連呼なので。

 

大列車強盗

アメリカンニューシネマ的、と言えばいいのでしょうか。「さらば冬のカモメ」的と言うか。

にしても、最初からあの三人の結末が提示されているようなもので、普通に見ているとほとんどそろいもそろって自殺しに行っているようにしかみえない。いや実際、一人は自殺しちゃうんだけど。

だからこう、やるせない映画としてしか見れないのが辛い。

 

「インべージョン」

「ボディスナッチャー」の2007年版リメイク。

まあ、オリジナルから足した要素のおかげでサスペンディングはありつつややチープというかハリウッド的な大味感が増した気も。アイデンティティの問題とかすっ飛ばすあたりとかも。

自殺で感情あぶりだしとかは割とショッキングな展開で良かったですけど、平和と言う割に葛藤なしに自殺できるというのはやはり人間的ではないでせう。

 

「ビリー・リンの永遠の一日」

問題系としては「ハートロッカー」や「アメリカン・スナイパー」に通じるのですが、ただ映像の耽美さというか寄り添い方はだいぶ思いやりがある。

これ劇場公開されてなかったんですね。結構な良作だったと思うんですけどね。

武力、ホモソーシャル、英雄論、資本主義、(「エニー・ギブン・サンデー」が示したような)アメフトの問題。それらをひっくるめてバーマン的に言えば精神分裂的精神(それはベトナム戦争から続くPTSDの問題を過分に含んでいるはず)およそアメリカの病理を包括して提示してみせたのがこの「ビリー~」だと思う。

ともかく主演のジョー・アルウィンくんが良い。顔がね、やや幼さを残しつつそれを筋肉の衣で覆い隠してその筋力の外圧で己を駆動させているような危うさを湛えていて非情に良い。

ヴィン・ディーゼルはまあ、なんというかファミリー感の象徴としてあるのかな、と。しかしそれはマッチョイムズなホモソーシャルでつながったダイムと対置させられるアンチアメリカンファミリズムな体現としているのではないか、という感じ。

無論、それは「ワイルド・スピード」=ヴィン・ディーゼルな印象から導出されるものなのですが、あのシリーズにおけるファミリー感というのをアン・リーがどう受け止めているのかによって印象が異なるのだけれど、まあ少なくとも彼にキリスト教ではなくヒンズー教の話をさせ(ガネーシャの置物ががが)ていたりするのも、アメリカのマジョリティーな価値観に対するカウンターとしてあるのは言わずもがな。

で、ビリーはその二つの価値観に揺れ動かされ、ダメ押しにチアガールからの発破によって戦場に舞い戻ることを決意するわけです。

かなりバランスを意識しているような気がする。今書いたような二つの価値観の体現者として一方ではダイムとチアガールを、他方ではシュルームと姉を。またビリーの「英雄的行為」を捉えた土管?でのカメラワークなど。もちろんそれはビリーにとってのトラウマ場面としてでもあるわけだけれど、刺殺した「敵」の顔面がアップで映し出され、じっくりと、血液が広がるまで捉えたあとにカットを割ることなくビリーの顔を映す。それによって「英雄的行為」の英雄性が相対化されるという両義性。

テレビなので120フレームとかほとんど関係なかったのですが、あれがどうなるのかはちょっと気になるところ。

 

どうでもいいのですが吹き替え版ってヴィン・ディーゼルの声をたいてむがやってるんですね。あの人はドウェイン・ジョンソンのほぼフィックスでもあるので、役者ネタとしてちょっと笑ってしまいました。

 

飢餓海峡

たっぷり3時間かけて描かれる義理と人情×犯罪。ていうかこれテレビで特番組まれるサスペンス映画の定型ですよね。

この映画の白眉は杉戸八重(左幸子)が犬飼の爪で辛抱堪らん状態になっているシーンであることは全会一致のことだと思う。あのシーンは、なんだか見てはいけないものを見てしまったような(それは鏡像として自分に反射されるから)、むき出しの多幸感がひしひしと伝わってくる。

犯罪側とそれを追う側との対決構造のなかで、犯罪側はほぼほぼ情念のようなものだけが現出していて、それが前述の杉戸の悶えるシーンに代表されていて、私的には彼らのシーンはどろどろしていて楽しいのですが、反面警察側ときたら高倉健に代表されるようにお堅い。それは義務と使命感に突き動かされているにすぎないからだ。

んが、しかし、である。それが突き抜けることで義理と人情のエモーショナルな方面へと傾く警察側のキャラクターがいるのである。それが弓坂さん。

物語的にも彼の執念が決め手になって事件が解決するわけで、これはつまり犯罪側との弓坂のシンクロが事件を解決に導いたという構造を見出すことができるのでありあす。

何が言いたいのかと言うと義務より義理こそが真に優れた動機なのではないかということです。それが人間相手であればなおのこと。

 

「キリング・フィールド」

本当すみません。色々と書きたいことはあるんですけど(マルコヴィッチ若っ!とか)・・・

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これで全部持ってかれた。ラストのハグといい、なんというかこう、尊いショットが多すぎて脳みそが完全にそっちにスイッチしてしまいましてね、ええ。

いや、凄惨な物語であることは承知しつつ、しかしやはりそれを超越するだけのボーイズ(って年齢じゃないんだけどこの人たち)ラブロマンスがあって、なればこそあのハッピーエンド(少なくとも二人にとっては)なわけで。

もう尊い

 

「名探偵ピカチュウ

思ったより面白かったです。まあ劇場で観たかったか、というとうーんですが。

まあこれは予告編の時点でわかってはいたことですが、毛が生えてるポケモンの質感って基本的にぬいぐるみなんですよね。だからかなり馴染みやすい。半面、毛がない奴らのテクスチャと来たらきもいのなんのって。

でもこの辺、よく考えたら不思議な話ですよね。まあ実写版ソニックの件もそうなんですけれども、今まで実写映画でファンタジーな生物なんて腐るほど見てきたはずなのに、どうしてポケモンはきもく見えるのか、と。この辺は認知心理学とかの分野になってくるのだろうか。まあデフォルメの具合、という問題も過分にあるのでしょうけど。

だからこそ毛のあるポケモンは「ぬいぐるみが動いているように見える」のでしょうね。

ポケモンと人間の関係についても一考の価値はあるとは思うのですが、いかんせんそこまでモチベーションががが。

 

「緋牡丹博徒

情が濃ゆい。胃もたれする。女と男が明確に分かたれ切った張ったと血みどろ騒動。

不義理と人情と高倉健高倉健てキムタクがキムタクでしかないくらい高倉健でしかないんだな、と。悪いかどうかは別として。この人出るだけで叙情になっちゃいますもんね。

 

「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」

サスペンディングはあって面白いです、確かに。カンニングのアイデアも中々秀逸でしたし、ピアノのハンドリングを土壇場で回収するのとか描写も気を遣ってるのは分かりますし。

ただ人間のキャラクターがいまいち飲み込めないというか感情の流れがわからないところがちらほら。特にリンちゃんの父さん。あれ、リンちゃんからは謹厳実直な教師として映ってるらしいのですが、家でのコミュニケーションの取り方とかを見るにつけ本当にそうなのだろうか?も思えてくるのですよね。普通、娘の顔面にテッシュなげるかね?あれを子煩悩描写として親子のスキンシップとして許容される土壌があるのだろうか?タイには。死体を喜んで消費する国の連中の考えることはわかりませんな(偏見)。

よしんばリンの逸脱的気質を父親のそういうところを受け継いだのだとしても、やっぱりラスト付近の心変わりようとかちょっと別人すぎて連ちゃんパパな不気味ささえあるのですが。

リンちゃんの禊はわかるんですけど、バンクくんが闇落ちしてフォローなしというのもモヤモヤする。彼、完全に被害者の立場ですし、大使館?でのリンとバンクのやりとり(画像削除は決別の意味合いなのでしょうが)の後に闇堕ちで勧誘してくるバンクというのもなんだが。

手離して絶賛するほどではないかな、と。

ただまあ、グレースちゃん役のイッサヤー・ホースワンちゃんがあまり邦画や洋画などではお目にかからないタイプの可愛い女の子で、正直彼女が画面に映るだけでだいぶ個人的にはオッケーでした。いや、役所はまあまあクズなんですけど、バカでクズだけど顔は可愛いというレアキャラなのですよ。そのクズ度もオツムと同程度であるがゆえに愛嬌(顔ありきですが)に転化しているというのがすごい(当社比)。

あとバンクくんがナイツの塙に似てる。顔のパーツが。骨格はかなり違うけど。

 

 

 

2020 4月

ローズの秘密の頁

雰囲気は小説っぽいのに内容は少女漫画的なのが妙に笑いを誘う。

役者はみんな良かったです。女性の抑圧とアサイラムの組み合わせに「チェンジリング」を想起したり、どこも変わらないのだなぁと。

 

 

「勝利への脱出」

 スタローン若い!ペレがいる!

なんというか、モデルとなった史実のバッドエンドを改良してやろうというワット・イフなつくりであるので、多少無理がありそうな気もするのですが、しかし色々とすごい。

日本じゃせいぜいコナン映画でへたくそな吹き替えをさせられる程度の役割しか担わされないサッカー選手がどばちょどばちょと登場してプレーしてくれるというのだから。

 

「ビリオネア・ボーイズ・クラブ」

スペイシーのこの手の映画のグルっぷりは何なのでしょう。

いかにもアメリカンなアップダウンな物語に、しかしアッパーなテンションを維持し続けるキャラクターに対して抑え気味の音楽。

信用できない語り手の語りそのものがないパートなどもあり、それが単なる雑さなのか別の狙いがあるのかどうなのか。

タロンの屑演技のハマり具合も中々なのですが、いかんせんナチュラルボーンクズというよりはむしろその演技からは必死さが伝わってくる。

典型的な成功からの没落物語としてはまあ。

 

「ある天文学者の恋文」

死者によって手繰られる生者の生。それを通俗的な恋という形で描出することのおどろおどろしさ。監督は本気でこれを純粋なラブストーリーとして観ているからここまで突き抜けているのではないのかしら。

いや、確かにこの物語を成立させるほどの強烈な何か、エドとエイミーを繋ぐことのできる何かは「愛」以外ではそれこそ「憎悪」くらいだろうから、正攻法と言えば正攻法ではあるのだろうけれど。

やヴぁい。これ結構好きなタイプの映画でござい。音楽モリコーネだし、何気に豪華。

これ「ニューシネマ・パラダイス」の監督だったんですね。言われれば何となく、という気はしますがこの監督の映画「ニューシネマ~」しか観てないのでなんとも。あの映画は特に印象に残ってはいないのですが、今回の映画はかなりキてる。個人的に。

 

というのも、これは死者の話、死者が生者に・・・死者こそが生者を規定するという話だからなんですね。私の好きな「ライフ・アフター・ベス」に通じる死者映画なのでせう。

 

前情報なしで観たにもかかわらず、冒頭からすでに画面いっぱいに死の予感が充満している。それはファーストカットのやりとりからもそうだし、ジェレミー・アイアンズエドから滲む空気のせいでもあるだろうし、あの年齢差の男女の関係として行きつく必然の帰結だからというのもあるだろう。

そういう肌感覚的なものではなくとも、最初のシーンにおいて別れ際に見せる両者の反応の違いなどから察することはできる。

そして何より、この映画の中で二人が直接的にはだえを触れ合わせるのが最初のシーンのみで、あとはメディアを媒介することでしか接し合わないシーンの連続(というかこの映画がそういうシーンの積み重ねだけでほとんど出来上がっている)しかなく、エドとエイミーの間に隔絶した一線が明々白々に引かれているからに他ならない。

 

そこからは観ての通り、ひたすら死者(エド)によって生者(エイミー)が、愛という名の下に徹底的に規定されていく様を描く。

死してなお駆動しようと(させようと)するさまは、愛というよりは狂気の執着に他ならない。劇中でエドの友人の教授が言及するように、エドは徹底的に自己中心的なのです。恐ろしいのは、その自己中心性は自分亡き後にこそ加速するというところ。

「ライフ・アフター~」のようにゾンビとして自身の身体すら必要とせず、手紙やメール(と同列に扱われる、身体を持つ他者)というメディアのみで生者を動かしてしまう。

けれど、それは何もおかしなことではない。よくよく考えれば我々の周りには死者によって遺された産物が充満しているのだから。本棚にある書物にせよテレビで流れる昔の映画にせよ、それらは生者に影響を与える。ともすれば生者によるものよりも。

それは10年以上も前に伊藤がスピルバーグについて語っていたことから分かっていることではあったけれど。

スピルバーグのような暴力性を纏うことなく・・・いや、この規定性がそもそも暴力的と言ってしまえばその通りとしか言いようがない。

 

生者あるいは「生」などというよりも死者・「死」の方が強度があるということ。

人間の生のみを肯定し称揚し、それがマスに受容される世の中にあって、このような映画が観れることは喜ばしいばかりであります。

 

アメリカン・グラフィティ

通しで観るのは初めてだったんですけど、今見るとすごい豪華なスタッフ。

ハリソン・フォードがあんなちょい役で出ていたとは。

にしても異様。ほとんどが車の中でのやりとりで完結してしまうのにまったく窮屈さがない。もしかするとこれが一夜の物語だからだろうか。

真っ暗な夜空の下の喧騒が白み始めた空の下でエンジンの音によって極を迎え、空の中の点としての飛行機によって収束あるいは閉塞していく。

極めてホモソーシャルな価値観ではありつつ、おセンチになるこの作り。プリクエルの監督とは思えないですな。

 

シコふんじゃった。+ファンシィダンス」

やっぱり周防さんの映画は笑える。それだけで貴重なのだけれど、変にべたつかないのが観ていて心地よい。知らなかったけどIF出身だったんですね、周防さん。

必ずしも演技が達者な人でなく、むしろそうであるからこそのスラップスティックな空気感というか。いや、柄本さんとかちゃんと抑えるところは抑えているからこそではあるのだろうけれど。

ずーっとソフトフォーカスで(これは作家というかなんというか時代?)、けれどそれが余計な熱量を持たせることなく青春の一幕・・・というよりもモラトリアムの延長としての甘い時間が広がっている。それはラストに至ってもっくんがああいう選択をするということからも明らかであるように見える。

あれだけの汗を垂らしながらも、この映画がまったく汗臭くないのはそれだ。淡々と進んでいく、その淡泊さは青春の甘ったるさになど目もむけない。

大学生(それも就職先の決まった四年生)という設定からもそれが伺える。青春というには少し遅い。なればこそ、青春という有限な時間の有限性をことさらに強調するのではなく、その先にあるモラトリアムを遅延させようという成長の否定。

いやー好きですこの映画。

 というのが「シコ~」のほう。「ファンシイダンス」も基本的な構造は一緒だと思う。前者の方がブラッシュアップされているというか、まあそんな気はします。

ただ両方しっかり笑える、というのはさすが。

で、これ両方の映画に通じるんだけれど、この人って周縁の・・・もっと言ってしまえばフリークの扱い方がすごい意識的ですよね。

臆面もなく言えばブスやデブスの扱い方。決してPC的な正しさではなく、けれどそこには正義感や使命感などではない愛情がある。まあ、その愛を無条件に受け入れることの恐ろしさというのはやっぱり考えなければいけないことではあるんだけど。

 

 

「卒業」

リマスター版で改めて。

年を重ねた今観ると、どうも見るに堪えない童貞感ががが。

スパイダーマン3」のマグワイアを最初から最後まで見せつけられる感じといいますか。最初から、は言い過ぎですね。ミセスロビンソンとのセックスがヴェノムとの結合なわけで、童貞映画としてはかなり良い映画ではあるのでしょうが・・・それにしても見るに堪えないよー。

不安定なカメラワークといいラストの二人の表情といい、若気の至りの酸甘さにライドできるかどうかで評価が分かれるのでは。

まあ、結婚という形式にこだわるあの姿勢がそもそもいかにも西洋的な男根主義が見え隠れするというのも痛いというか。そういうナイーブさも観てていたたまれない。

これを愛せるようになるにはもう少し年を重ねなければならない気がする。

 

「68キル」

いやーこれすごい面白かったです。ヴァイオレット以外のキャラクターが屑しかない。ヴァイオレットも退場の仕方こそあんなんでしたけど、セリフだけとはいえ世の理不尽をサバイブしてきた強くて脆い人間として一番キャラクターが描かれていましたし。まあ、それゆえにあの最期を迎えてしまうわけですが。

ヴァイオレットのとの再会シーンの露骨な甘ったるい空間も、しっかりギャグとして機能させるまでに甘ったるくしてくれているし。

最後のアレを成長と捉える屑っぷりも含めてすがすがしいです。ていうかあそこまでの経験をしなければあそこまでの転換が図れないというのもまた屑で良い。

あの能天気(というかノータリン)な屑っぷりというのも、実にこの映画のタイトルに相応しい。

その徹底した受動性ゆえに最悪の展開に巻き込まれながらも成長()する、というのもこの映画のスピリットであろうし。

ランニングタイムのちょうどよさといい「ハッピー・デス・デイ」と並べて観たい映画。

気軽に観れて満足度の高い映画です。

 

ブレーキ・ダウン

ターミネーター3」で有名?なジョナサン・モストゥ監督の長編デビュー作。

評されているとおり「激突!」じみているのですが、この人のアクションはやっぱり面白い。こうしてみると「T3」のアクションってかなり正当な進化だったのだな、と。

 

ヒットマンズ・ボディガード」

「エクスペンダブルズ3」の監督なのですねぇ。テンションの感じとか確かにそれっぽい。

スクリューボール・コメディとしてはなかなか。まあレイノルズとサミュエルのバディというのも新鮮ですし。どことなく「アザーガイズ」みのある馬鹿っぽいサミュエル。

日本では劇場公開はせずネットフリックスということですが、続編やるらしいですけどそれに合わせて劇場公開するのか、続編もネトフリなのか。

 

ねらわれた学園

 そういえば大林宣彦の映画をまともに観たことがないことに訃報を聞いてから思い至る。

にしても自由闊達ではある(のか?)。その戯画化っぷりやSFXを使うことに(その使いかたも含め)躊躇なかったり、なんというか特撮映画ではある。内容もサイキックものではありますし。

確かにはっちゃけてはいるのに違和感はないし面白い。

リアリティ、という言葉について再考するのにこの人の映画は最適やも。

 

「かごの中の瞳」

どっかで聞いた名前だと思ったら 「ワールドウォーZ」やら「プーと大人になった僕」の監督でしたか。なんかあんまりおんなじ監督って気がしないような気がしないでもない。

身体の変化が人間性の変化へと直結する。その身体性を楽しむ映画。

ジェイソン・クラークの保守的で父権的さの描きかたが、全く露骨ではないのに確実に自分の優位性におんぶにだっこなサイレント屑っぷりがうまい。

何度か登場するベッドシーンの体位の変化やプレイ内容の変化は、そのまま二人の関係性(ジーナの身体性の変化による)の変化を表す。

新しい世界への扉が再び開いたとき、彼女の中の童心はくすぶられ世界に対して己を解放する欲求に駆られる。

んが、ダニエルはダメだった。あの最期の涙は観てるだけで腹立ちますね。無自覚の屑キャラ(いや自分の感情には自覚的なのでしょうが)としてはかなりポイントたかいので見ごたえ自体はあるんですけどね。

男根に一擲くれてやる映画です。

 

真珠の耳飾りの少女

これは撮影監督と証明の大勝利では。

随所にみられるまさに絵画と言わんばかりのショット。それを堪能する映画ではなかろうか。しかしスカヨハ。しかるにスカヨハ(意味不明)。

「スパイダーパニック」で蜘蛛に襲われていたあの町のイケてるおねーちゃん感とは全くことなる浮世離れした端正さ。浮世離れさせらせてしまった悲哀。絵画に別なる意味を付与し、以前と以後に隔ててしまう。

 

あとコリン・ファースオーランド・ブルームぎみに見えてこんなにイケメンタイプだったかとちょっとどきどき。

キリアン・マーフィーは好きじゃない・・・というかあの人の顔がなんか生理的に無理なのですが。それもこれも「28日後」のせいではあるんですが、まあそれはさておきスカヨハファンとコリンファースファンは観ねばならぬでしょう。

 

 

「アラモ」

男の美学の映画。それはつまり徹底してホモソーシャルな世界の話であり、無数に表れる大砲も鉄砲もサーベルも松明も、あるいは砦の柵に使われる木々でさえもすべては男根にほかならない。

ある夫妻の別れの描き方などは(それは宗教的な安らぎに裏打ちされているからかもしれませんが)このご時世では到底容認できるものではありますまい。

これを手放しで称揚することにはためらいがある一方で、しかしそこにある倒錯した美学、理性や倫理を超越したその先にあるものをここまで過剰なスケールで描いて見せてくれるのだから酔わなければもったいないという気も。

 

アウトブレイク

このご時世ということでパンデミック系の映画を観てみる。同じくパンデミック系で最近よく観られている「コンテイジョン」に比べると軍の疑似空中戦があったり万能な新人サイドキックがいたりと、ご都合的といえばご都合的ではあるのですが無駄にキャラクターを増やしたりせず省エネ人員かつストレスフリーで観ていられるので全然あり。吹き替えがなっち(野沢那智)だったり納谷さんだったり25年前の映画ということもあって懐かしの声が聞こえたのも良かった。

スペイシー若い、フリーマンは今とあまり変わらない気がする、レネ・ルッソ若い。

これは吹き替えのなっち節の方がテンポいいかも。笑わせてくれる部分もたくさんあって「コンテイジョン」よりもエンタメ成分が多めであちらよりも万人向けかも。

 

ラスト・アクション・ヒーロー

昔々に観たのを観返してみると新しい発見があったりするわけですが、これ今見ると面白い構造をしている。

まあでも、確かにシュワちゃんファンは観ていて歯がゆいものがあるのは確かでしょうけど。明らかにアーノルド・シュワルツェネッガーのメタ映画であり、ほとんど総決算というか締めに入っているというか。

エルム街の悪夢 ザ・リアルナイトメア」と同じような感じ(こっちの方が後だけど)といった趣。

カメオ出演の人数とか、色々と過剰な物量で攻めてくるわけですが、それは当時のネッガーの持つエネルギーに比肩させるためなのではないか。

アニメとかボガードとか、あの辺の遊びは正直謎・・・ってわけでもなく、映画の歴史としての映画として考えればクラシックとして劇中劇・映画内映画の世界に顕現させるというのはむしろ映画という何でもありの媒体=可能性についてマクティアナンは意識的だったということなのではなかろうか。

というか映画というものにまつわるあれこれ(Fワードとかレーティングとか)を含めて、シュワというか映画についてのメタ映画なわけで、それを勢いと物量で攻めまくる映画が万人に受けるのかというと難しいのではないか。

当初はシェーン・ブラックらが脚本を書いていたというので、そちらもそちらで気にはなるのですが。

 

2020no3月

「セイント」

すんません、ロン毛のヴァル・キルマーを直視できず・・・ずっと笑いをこらえて(こらえられてないんですけど)いて話に集中できませんでした。

シリアスな感じで作っているのもあって、そのギャップがまた面白くて。

ただあそこでヴァル・キルマーの一人称の翻訳を「僕」にした字幕の人はナイスです。

 

「ハッピー・デス・デイ 2U」

ライアンを使って前作のおさらいを手早く済ませる手腕は良い感じで、前作に増してテンポと悪乗りに拍車がかかっており、頭空っぽにして観ているとすごい楽しい。某映画雑誌ではこのシリーズの賛否が結構分かれていたのですが、自分は割と肯定派でありけります。

BGMの使い方とか眼前落下自殺とか、明らかに整合性がおかしいけれど勢いでもっていく感じは嫌いじゃないです。

 

前田建設ファンタジー営業部

あっぶなかった。タダ券で良かった。いや本当ね、機嫌が悪い時に観てたらこの映画に対して罵詈雑言の悪罵を重ねていたような気がしないでもないです。

高杉きゅん目当てだったのに肝心の高杉くんが寒いギャグ演技をさせられてまったく魅力を感じなかったというオチ。

こういうのはやるなら全力でやらなきゃいけないっていうのに、寒々しい演技で濁すしかできないならやるんじゃないよ、本当に。福田雄一じゃないんですから。

芸人は全員ダメ(といっても二人だけだけど)。特に小木(敬称省)。あのね、テレ東のシットコム形式の番組とかコントならああいうのでもいいけどね、映画でやられると本当に困るんですよ。第一、小木の役柄が格納庫建設の発端のくせにこの人だけなんもしてないしほかのキャラに比べてまったく「マジンガーZ」に対する情熱が感じられない。そのくせ美味しいところだけは持っていくという超絶に不快なキャラクター。

明らかにアドリブをそのままOKテイクにしてる監督の判断も最低。

ラストのあの展開も、夢オチでなく最後まで貫いてくれるならまだしも中途半端に逃げるし。あそこを夢オチじゃなくしっかりと最後までやってくれてればまだもう少しよかったんですけども。

 

逆に、というか、唯一良かったのは掘削の山田さんを演じた町田さん。あの人だけは寒々しいギャグ演技の犠牲にならず、すごく役柄に誠実な演技をさせてもらえていたので。すごいいい。全然知らなかったんですけど、EXILE系の人なんですね・・・この人の演技はすごくよかったです。ウレロにも出てたんですね、彼。最近のは観てないから知らなかったんですけど、その繋がりだったのかしら?

演出で寒々しくなりそうなところも彼が真面目な表情で終始演じ切ってくれていたから山田さんが出るところだけはすごく安心できた。彼側の恋愛感情的な描写を排除したのも、この映画で数少ない良心的判断だったと言えませう。

 

 

「女教師 シークレット・レッスン」

 なんですかこれ・・・昼ドラ的、と言ってしまえばそれまでなんですけど、なんかバランスががが。

いや、面白いんですけどね。露骨にダークサイドよりになっているときの服装とか、SEの使い方とか、細かな演出が生きてますし。

「愛していない」と耳元で囁かれながら挿入されるセックスとは。

でも、そうですよね。ああいう価値観を内面化させられた人に「結婚がすべてじゃないよ!ガンバルンバ!」などと言ったところどれほどの価値があるというのか。

 

「パージ、パージ:アナーキ、パージ:大統領令

フィルモグラフィーの半分近くがこのシリーズという監督。

ランニングタイムといい手ごろに観れてそれなりに満足感を得られて非常によろしいシリーズだと思います。

1,2は「28週後」的な感じでもあるので、ややフラストレーションがたまるところもあるのかもしれませんが、まあ私はむしろこの手のものは楽しめるのでもーまんたい。

ラムロウことフランク・グリロ大活躍。

特に三作目はみんないいひとですし。

 

アバウト・ア・ボーイ

内容はともかく子役に見覚えがあると思ったらニコラス・ホルト!!

なんかこの子好きだなーと思ってたんですけど、彼だったんですね!こうしてみるとかなり名残がありますね。

とまあ基本的にはそれだけなんですが。内容はなんだかダイジェストを観てる感じでイマイチだったんですけど、まあヒュー・グラントの軽さは合っているとは思いまする。

 

コンゴ

マイケル・クライントン原作でしたかこれ。監督はフランク・マーシャル・・・プロデューサーとしては多くの映画を手掛けてきた彼ですが、どうも本作はラジー賞ノミネートだとか。いかんせんフォントのダささとかセットのチープさがテレビ映画然としているのですが、まあラスト20分付近のためにお金を使ったのだろうな、という気はします。あとゴリラの着ぐるみはやけに迫真だったのでその辺もあるのかも。

まあ100分の映画で遺跡に到着するまで一時間以上かけてはいかんでしょう。

所々で観た覚えのある俳優だったりゴリラの声をフランク・ウェルカーが担当していたりそこらへんは見所があるますが。

 

 

リチャード・リンクレイター 職業:映画監督」

トルストイとかドストエフスキーとか、なんとなくリンクレイターが小説家になりたかったというのは意外でした。

でもリンクレイターのようなマインドの監督がいることはうれしいというかなんというか。

 

「ラスベガスをぶっぶつせ 21」

タイトルはギリアムオマージュでしょうか。

ぶっちゃけ「オーシャンズ」よりも(まあ事実ベースだからでしょうが)面白いと思います。

 

 

ワイルド・ワイルド・ウエスト

何これ楽しい…!

いや、脚本とか場面の繋ぎ方とかすごい雑なんですけど、ともかくガジェットが楽しいです。

監督が監督だけにバディものかつウィルスミスってことでMIB色がやたら濃い(ちっこい銃をセルフオマージュするとは思わなんだ)。

差別ネタも字幕だと若干分かりづらくなってますが描いている時代が時代だけにかなり直接的ではあるものの、そこはサウスパーク的なノリに近くちゃんと笑えますし、笑いは強いですねこの監督。

 

まあとにもかくにもガジェットが楽しいのでそれだけでも一見の価値あり。こういうタイプのガジェットって意外と少ないですし。

 

コッペリオンの小津姉妹のアレってこれのオマージュだったんだすなぁ、と今更知る。よく考えたらキャラ名に映画監督の名前使ったりしてるし、今見直したらそういうのを再発見できそうす。

これネットフリックスとかでテレビシリーズにして毎回こんな感じのフォーマットで毎回毎回色々なガジェットを登場させるドラえもん方式でやってくれないかしら。

ないか。

 

ホテル・ルワンダ

今更観賞。そういえば「THE PROMISE」の監督だったんですね。

なるほど、といった感覚。

2,3年位前にNHKでやってたルワンダの今を追った番組で、ツチ族の人とフツ族の人が一緒に耕作をしている風景を見てくらくらしたのを覚えている。

何せ画面に映っている女性の一人は顔に大きな切り傷を負っていて、その傷を負わせた男性が一緒に労働に勤しんでいるのだから。

そこに至るまでには佐々木和之という日本人の仲立ちがあったのだけれど、もちろん彼女は彼を許したわけではなかった。

元々隣人だった彼女たちがそうなった経緯。それがこの映画の中で描かれる。

鉈が劇中で一瞬とはいえクローズアップされるのはそのためなのだろう。

「THE PROMISE」もそうだったけれど「殺されるかもしれない」という身もふたもないむき出しの感情が惹起される状況のもたらす恐怖というのは、それが得体のしれないものへの恐怖ではない(ホラーとか)だけに直接的に響く。

 

マネーモンスター

つまらなくはないんですけど、何か決定的に物足りない。

ミームのシーンと主題歌はよかった。言いたいことはわかるんだけど、貧困白人が一人死んだところで何一つとして変わっていないということからくる徒労感だろうか。

というよりも、構造的に欺瞞がはびこっているからだろうか。いや確かにあの人は分かりやすい悪徳ではあるんですが、根本的な問題はもっと深いところにあって、それが前面に展開されずとも絶えず画面中を漂っているのにそれを無視してわかりやすい決着に飛びついているからなのかもしれない。

半沢直樹的な弱者に寄り添った勧善懲悪。最後の最後で彼を殺したことの意味を彼自身の行為に対する安易な贖罪ととるか、この世の非情な残酷さの発露ととるかでかなり意味合いが変わってくるのですが、ジョディ・フォスターはどういう意図だったのだろうか。

 

「ザ・メキシカン」

なんか変なバランス。

笑えるっちゃ笑えるんですけどあまり笑っていられるような事態ではないのが。

バビンスキーならぬヴァービンスキーってどこかで聞いた名前だと思ったらパイレーツシリーズの監督でしたか。

この人って純粋なアクション(アクション映画という意味ではなく)を見せてるのは楽しいんですけど、お話としてはなんだか印象に残らない気がするんですよね。

ゲイに対するあの反応はまずいと思うのですが、まあ20年前の映画だとあんな感じでも許されたのだろうか。

ラストカットの信号とかブラピとか、あとは3人旅の場面とかも結構好きですけど、まあ色々とおざなりではある。

凄腕の殺し屋が「死亡確認!」を怠るのとか、まあいいや別に。

 

「BLACK FOX:Age of  the ninja」

太秦ライムライトのあの人主演なんですね。

アクションはさすがですが、世界観が中途半端にというか、やるならもっとやってもいいと思うのですよね。

まあニチアサ特撮やら牙狼やらに慣れてしまっている弊害なのかもしれませんが、時代劇のオーバーアクトに世界観が追いついてないように見える。

あとはもっと声を張ってほしいところがちらほら。

全体的にアンバランスな気がする。

 

地獄の逃避行

地獄要素は「地獄の黙示録」に合わせた日本側の配給にのみ依拠している、という「戦争のはらわた」案件なわけで。

打算なき戯言。あるいは夢幻の戯事。ホリーのモノローグで始まるこの映画はキットの最期すらもホリーのモノローグで語られるのみ。

若気の至り、というにはあまりにも取り返しのつかない道程。

ホリーのはだえを包む色に彩られ頻繁に変わる衣服は、しかし彼女の父親の所有物であること以外の何物も示唆しない。

だから父親が死んだところで悲しみはしない。けれども解放されるわけでもない。

これは多分、ホリーの束の間の夢だったのだろう。

弁護士の息子と結婚したのは、離陸したはずの現実への、夢想からの着陸にほかならない。彼女が白昼夢として考えていた「誰か」であり、それは誰でもいい「誰か」でしかなかった。

信用できない語り手、などという概念それ自体が呑気なものだと個人的には考えているのだけれど、この映画の語り手であるホリーにとってはそれ自体の信用の有無なんてどうでもいいのではないだろうか。

それにしてもシシー・スペイセクはこの後に「キャリー」だったんですね。この人のお世辞にも美人とはいえないどことなくアンニュイな佇まいが好き。

 

「ハネムーン・キラーズ」「地獄愛」といった愛の地獄に連れ立つこともなく。それは至極真っ当な、しかし決して正気ではない退屈で抑圧された現実の生に舞い戻ることを意味する。

だからあの一瞬の夢が、信用できない語り手としての彼女のナラティブがなお一層輝きを帯びるのでせう。

 

「タリ―と私の秘密の時間」

「ヤング=アダルト」のジェイソン・ライトマン監督でしたか。納得。

「若女将は小学生」に通じるセルフケア映画でした。「もっと自分をケアしなきゃ」というセリフと、その矛盾の持つ温かさに少しジーンときた。

一人二役の「テルマ&ルイーズ」あるいはフェミニズム的「ファイト・クラブ」(違)、とでも言うべきか。

セロンは相変わらず肉体にコミットしていて、チャンベールに勝るとも劣らない肉体の酷使具合。だからこその説得力なわけですが。

息子のこぼしたジュースのかかった服を脱ぐとそこに露わになる腹、あるいは出産直後のシーンでちらりとうつるオムツ。

母親という存在の身体を徹底的にこき下ろし、さらけ出し、そうすることによってこそ「産む機械」などではないことを突きつける。

タリ―が来るまでの前半部は、というかタリ―が「馴染んで」くるまではひたすらに閉塞していくばかりで、この調子で進んで行かれると困るなぁと思っていたところだったのですが、それは文字通りマスターベーションではあるのだけれど、それが決して内向きにならない。どっかのラドクリフを弄ぶのとはわけが違う。

あとマッケンジーデイビス。彼女もさすがというか、「ターミネーター」のときも思ったけどこの人ってウーマンスの素養がめちゃくちゃすさまじくて、どこかでセロンとの絡みがあるのではないかとハラハラドキドキしてしまいました。

実際、この人はそういう界隈ではアイコン的存在になっているそうですし。

 

さてそんなマッケンジーが演じたタリ―の存在なのですが、ぶっちゃけその正体は驚くべきものではない。いやむしろ「やっぱりね」という印象を受け、おそらくは監督もどっきり的なフックとしてではなく、そういう存在だということを暗に示そうとしていたはず。そして、だからこそ感じ入ることができる。

たとえばファーストコンタクトでのやりとりの孕む二面性(片やポジティブな「絆」を、片やネガティブな「縛」としての子どもを)は、子供の存在に手を焼き疎ましく思うマーロに対し、タリ―は至極真っ当な正論を口にする。

科学的論拠を並べ立てるタリ―にどこか鬱陶しそうにしつつも、なぜだかイヤミがない。さもありなん。どっちも自分なのだから。

 

他にもタリ―がマーロのオルターエゴであることをにおわせる描写はそこかしこにあった。セックストークから始まるコスプレセックス、その際にドリューが誰を見つめていたのか、そもそもなぜマーロはいともたやすくごく自然にタリ―を寝室に招き入れるのか、寝室に向かう階段のシーンのすりガラスで二人がモザイク的に混然一体となるカットなどなど。説明されずとも映像としてタリ―の存在がそういうものであることがにおわされる。

 

だから事故後の展開は驚きではなく「ああ・・・そうだよね・・・」となる。

何もかもを一人で抱え込み、一人で抱えきれなくなったから自分をもう一人増やした。かつての自由奔放だった自分を。

ただこの映画はそれが悔悟に陥らない。マーロ自身が口述するように、マーロは決して今の境遇を呪っているわけではない。そして何より、これまで強い女を演じ続けてきたシャーリーズ・セロン演じるマーロが、誰かを(まずは別なる自分を、そしてその自分を通じてドリューという身近な他者を)頼ること=弱さと捉えかねないことを、マッチョイムズに支配されえない異なる強さの発露として肯定的に描く。「500ページの夢の束」でもやもやした部分を救い上げ肯定的に描いてくれる。

 

ま、前半であれだけ母親の負荷を描いたんだからもうちょっと「父親の参加」(という表現がもう母親という存在への負担増し増しの証左なんですが)を描いてもよかったんじゃないかなーと思いつつ、しかしラストカットによってようやく他者である「父親が参加」したわけで、それはようやくコミュニケーションを踏み出したことにほかならず、だから終盤までああいう描き方(指輪をはめた手が握るのがゲームコントローラーというわびしさよ・・・)に徹したのかも。

ドリューがようやく人間となったのはラストカットからなので、ああいうステレオタイプな仕事ばかりの父親として描いたに違いない。

 

新しい学校で触れるやさしさも含め(「ワンダー~」よりもよっぽどこっちの方が好きです私)、これは他者の存在を認めることから始まる映画であり、ラストカットに至ってようやく始まる物語なのでせう。

 

カーステレオのぶつ切り音楽連続カットがすごい好きなのですけど、ああいう編集ってあんまり見かけない気がします。

 

ウーマンス映画としても垂涎ものです。

 

「グレース・オブ・モナコ 王妃の切り札」

演じることを愛する女優がその生涯において自らを演じ続けること。

それがカメラの前でも観客の前でもないことに、彼女は幸福を感じていたのかどうか。

ただ言えることはそれらよりもより大きな国民・大衆というマス相手ではあった。

 

「チップス 白バイ野郎ジョン&パンチ再起動!?」

えーこれ劇場公開されてなかったんですか?

下手な大作洋画や邦画よりも面白いのに。ペーニャもダックスも良いキャラしてるし、ギャグの完成度も高いし、そのギャグに対してかなりお金も使っているしマイケル・ベイとまではいわずともシンプソンズやTF並みに些細な衝撃で爆発する車両といいグロいギャグといいかなり良質なコメディ映画だと思いまする。