dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

蝙蝠男と旧蝙蝠男(ポストクレジット)

ここまで影の薄いMCU映画って「インクレディブルハルク」以来じゃなかろうか。いや、正確にはMCUラインに組み込まれているのが極めて曖昧というか、ノーウェイホームという結節点があるのと最後にMCUラインの人が雑に合流してくるので無関係というわけではないのだろうが。それにしても、である。

 

個人的には何とも言えないビミョーな映画。ジャレッド・レトとヒーロー映画って食い合わせ悪いのかしら。ジョーカーの時もそうだったけれどネームバリューの割にいまいち役にハマっていない気がする。いや、演技はすごい良かったし、彼の説得力がなければ蝙蝠と遺伝子ミックスしただけでああはなるまいというバカバカしさをなんとか中和してくれてはいるのだけれど。

というかこの人50歳ってマジなのですか?マイロ役のマット・スミスと10歳以上離れてますが全然違和感ない。まあジャレッドはもともと年齢不詳感が強いので忘れそうになりますけど、結構前から映画出てますしそれくらい行ってても不思議じゃないのか。その辺の怪しい感じ・年齢不詳感が吸血鬼モチーフのこのキャラクターとマッチしている、というのはわかる。

 

映画自体は特段悪いというわけでもないけれど特別良いというわけでもないというか。なんというかこう、出来の良い「グリーンランタン」というか。とはいえ、個人的には良かった部分も結構ある。

 

CG良かったですね。特に表情の、吸血鬼顔へのシームレスな変貌。この辺はソニーだからなのか、妙に自然。だからなのかやたらと多用する。特にマイロは顕著。

あと個人的にタイリース・ギブソン出てるじゃんすか!というのがポイント。この人好きなんですよね。

いつものおバカ映画なキャラクター(車でバカやるやつとか車が変形してバカやるやつとか)と違って、あとひげのせいもあるかもだが妙に渋さがあってクレジット見るまで確信持てなかったんですけど、こういう落ち着いた塩梅のキャラクターもできるのですな。そういう意味で新しい発見でした。タイリース・ギブソンに渋さを感じるとは思わなかったので、思わぬ収穫。

 

ヒーロー映画というわけでジャンル映画的に気になるアクションはどうなのよ、というところなのですが、まあ単調ではある。というか、これソニーの関わっているマーベル映画全般がそうなのだけれど、疑似ワンカットでストップ、スローで緩急つけてまたわちゃわちゃしだすのアメスパ、ヴェノムときてモービウスでさすがに飽きる。アメスパ特に2の時はかなり良かったと思うのですが、あそこまで凝った作りではないし(ネームパワーの差で割けるリソースに違いがあるのだろうが)そう考えるとマーベルスタジオが手綱を握っているトムホスパイディのアクションはそういった単調さの罠には引っかかっていないように思える。エフェクト自体はなんかもくもく煙いというか黒いドライアイスたいた感じで、何か目を見張るものがあったというわけではないのだけれど、モービウスの環世界表現としてのエフェクトであるということを考えると実はちょっと位相が違っていて、後述する点においても興味深くはある。

これは逆に残念なポイントでもあるというか、別に期待してたわけではないのだけれど観ている間に感じたことなのであえて書き下すと、MCU(だけじゃないが)が内在する根源的なマッチョイズムというか、オーソリティへの依拠へのカウンターの可能性を秘めていたのに、という残念さがある。

それはつまるところフラジャイル=虚弱さの肯定を見出しながら、パワーへの回帰に陥っている残念さに他ならない。

前も何かの感想で書いた気もするのだけれど、「弱さを認める強さ」とかいうJPopにありがちなフレーズのnaiveさ、もっと言ってしまえば無頓着にオーソリティ側の肯定を前提にしている権力構造への無思慮さが今となってはため息しか出ないのだけれど。

身体論的にもそうだが、五体満足という言葉の「満足」という言葉がもたらす危うさと同じ話で、本作におけるマイケルとマイロの変貌がもたらすものの危うさだ

無論、生まれつきの病ゆえの当事者の苦痛や懊悩はあるだろうし、それは劇中でも被虐と合わさりマイロのpowerへの傾倒をもたらすわけだけれど、便宜的にその対となり善玉であるマイケルにしてもその本質は同じところにある。

吸血鬼になる前後の彼らの顔色の違い、松葉づえを使っていることも、血色の良い二足歩行の「健全体」になることが前提の踏み台でしかない。無論、身体的健康というのは現実レベルでは大事なことだけれども、我々観客はそんな当たり前の価値観を確かめに映画を観ているわけではない。

価値の転倒(あるいは倒錯)こそがフィクションに求めるものなのだ。少なくとも私は。

だから、病弱な身体→健康な身体(の高揚感)への変貌それ自体が使い古されたものであるのだけれど、実のところ、吸血鬼化の度合いが高まると容姿が美醜における醜に寄りかつ肌の色も病弱だったころの彼らへと回帰しているのである。ここに価値転倒の萌芽を見出せなくもないのだが、果たしてどうだろうか。

マイケルが劇中で口にした「病弱な方がモテる」的な発言は、劇中では冗談として描かれるのだが、それがこの映画の限界である。それを冗談としてではなく真っ当に言えなければならない。

 

上で書いた煙いエフェクトがマイケルの環世界としての表現である=彼からみた世界像という領域にまで踏み込んでいることも含め、結構そっち方面に振れそうな可能性もあるような気がするのだけれど、まあそっちにはいかないだろうなぁ……ヒーロー映画だし。

 

余談なのだが、マイロとマイケルが腐的に結構キているのだが、日本の配給もその辺を意識しているのか吹き替えが中村悠一杉田智和らしい(字幕でしか観てない)。MCU好きな人はその辺の文脈も踏まえていそうではあるが、どうなのだろう。

☆☆☆☆☆

やってることがGTAで手配度5にして逃げるというプレイングそのまんまなんですが。

久々に観た映画がなぜか「アンビュランス」という、アカデミー賞でもないんでもないどころかシネフィルには嫌われがちなベイ映画なのは自分でも謎。まあ自分のような人間にはこれくらいの大雑把さがお似合いなのだが、「ドライブ・マイ・カー」が三時間あると聞いて及び腰になっていたくせに「アンビュランス」も2時間半あるという罠。
というかベイ映画は基本それくらいのランニングタイムになるわけで、久々に劇場で時間を確認してしまいましたよ。途中で睡魔とも格闘してましたし。
なんて書くと「やっぱり駄作か」などと思われる(やっぱり、というあたりが個人的なベイに対する世評の表しなのだが)かもしれないのだが、実を言うと結構楽しんでいたり。

基本的に車を撮るのが上手いマイケル・ベイ(スピルバーグのお墨付き)なので、やっぱりカーチェイスのシーンはかっこいい。うだうだ文句を言っていた「最後の騎士王」にしても改めて観なおすと車のシーンは普通にかっこいいのだ。そう、普通に。

が、そこはやっぱりマイケル・ベイなので、なんかもう色々と過剰というか、これはもはや一種のパラノイアに苛まれているのではないかと思えてしまう。
冒頭から主人公二人のエモい少年時代の映像をバシバシカットカットで繋ぐ異様に速いカット割りは全編を通して続いてくわけですが、この超スピードカットにちょっと噴き出した。前よりは切りまくってなかろうか。

情緒不安定なキャラクター、情緒不安定な話の展開、情緒不安定なカメラワークなどなど、なんかもう映画的ASDというかADHDというか、マイケル・ベイという監督はアンストッパブルなのである。ただひたすらに過剰さを求めており、それはフェティッシュを越えて彼の作品群を通じてマンネリズムと化しているにもかかわらず、ひたすらに止まらない動的さを備えたこの映画は時折何かしらの逸脱を垣間見せる。しかし、それが何かと言われると正直よくわからない。

面白いとか上手いとかそういうのではなく、やばい。この映画に比べればトランスフォーマーシリーズがいかに整えられた舗道を駆け抜けていたことか(悪路だけど)。
トランスフォーマーというと、TFシリーズを見慣れた身からすると「今回爆発少ないな」と思ってしまうくらい、クラッシュシーンは結構あれどベイ映画にしては爆発が薄い。目立ったのはでかいのが一つあるくらいで、これに関してもまあバカバカしくはあるのだけれど「リベンジ」の超規模に比べるとまだ優しいほうで、その代わりに導入されたのがドローン撮影による無意味なスーパーカメラコントロール撮影。あの無駄にダイナミックなカメラワークが一体何を意味しているのか。多分意味などないのだろう。欲望自体は「ダークオブザムーン」「ロストエイジ」における高層ビル上層の表層をやたらと舐めるようにぐりぐり動かすカメラワークからも漏れていたが、今回はそれがハイスピードになっているのである。

バカバカしさも折り紙付き。ジェイク・ジレンホールが彼のキャリア史上でもっともバカに見える、という点においても、あの目の奥底に何かヤバ気な狂気を湛えた彼すらも「おばか」に見せてしまうマイケル・ベイの作劇は一見の価値があるかもしれない。臓器が破裂したのに止血したので大丈夫とか、いやもう色々とバカバカしくて笑っちゃう場面もたくさんあって、とって付けたような冒頭とラストのエモくて退屈なシーンは、おそらくマイケル・ベイにとってもどうでもいいのではないか。だからこそあえて運動を遅延させるスローモーションを使うのではないか。まあ、手癖で流しているというか。

かように、一事が万事、そういった映画としての上手さなどといったものを度外視しているように見える。「撮りたいから撮る」という選択。もちろん、こう見せたいからこのアングルで、というのはあるだろうけれど、マイケル・ベイが選択したカメラアングルやその他もろもろのプロセスは映画そのものの出来栄えに貢献しているかというと、まあ観ての通りである。
しかし、「撮りたいから撮る」という選択は、牽強付会かもしれないがジョン・カーペンターが「ゼイリブ」においてやりきったあの無駄に長い格闘シーンのそれと同じだ。
曰く、
Q.どうしてゼイリブの格闘場面は10分もあるのか?
A.長い喧嘩を撮りたかったし、それをできる肉体を持った役者がいたから。
「やりたかったし、できたから」シンプル・イズ・ザ・ベスト。単なる欲望の発露。思うに、この「アンビュランス」というのは、そのランニングタイムのほぼすべてにおいてこれと同じことが起こっているのではないだろうか。

だからこそ「何か異様なものを見せられている」という感覚に陥るのではないだろうか。そんなもん二時間半も見せつけられたら披露するはそりゃ。
超好意的に解釈するのならば、マイケル・ベイというのは運動の快楽の作家なのかもしれない。いや、快・不快すらどうでもいいのかもしれない。そこにあるのはひたすらな欲望。運動を指向する、あるいは停止を恐怖する欲望。そう思えば、すべてが動的な運動によって構成される機械生命体を主軸に据えた映画であった「トランスフォーマー」シリーズが、少なくとも一定以上の親和性がベイとあったのは間違いないだろうし、私はそこにフェティッシュを見出している人間なので、実はあのシリーズにも復帰してもらいたかったりするのだが、一般観客からもシネフィルからもトランスフォーマーファンからも望まれていないことは知っている。

いつものようにセルフパロディというかオマージュみたいなのは随所にあって、個人的には救急車を緑色に塗装したのはTFのラチェットのカラーリングを意識したのかなーとか(まあこれは逆説的かもだが。車種違うし)思ったり。


まあアカデミー賞作品が席巻している中でこの映画を観に行く人がどれだけいるのか分かりませんが、もし観るのなら体力は温存していくがよし。

2022/3

バトル・オブ・ザ・セクシーズ

思っていたよりも良かった。スポーツにおける性差、というか男女の(生物学的・社会的)性差を問いつつ、本質はマイノリティに向ける視座。でなければ、アラン・カミングをあそこに配置すまいて。というか、アラン・カミング力がすごい。どこまで脚色かわからないけれど、彼の存在感が絶妙に気が利いている。スタイリストの業界にああいう手合いが多いというのは洋邦問わずに描かれることなので、クリシェというよりは事実としてまあそうなのだろう。

ただ、この映画においてはラストの試合こそが良くも悪くもすべてではないかと思う。つまり、ジェンダーやセックス、あるいはエイジズムもろもろというのをすべて超えたところにスポーツというのはあるのだと。試合においては、特に1on1に近いものはただ「勝つ」という一念においてその身体を駆動させるわけで、その実力が拮抗すればするほどにその思いは純化されていく。だから、外野の変容も含め、そういった純なるものに収斂され圧倒されていく。それがスポーツ(あるいは疑似的な闘争)というものなのではないか、というのは少年ジャンプ読みすぎだろうか。

とはいえ、それ自体にはラディカルさがあると言われると、むしろ乏しくはある。「ボルグ/マッケンロー」のそれと、着地点は近似していると思うし。違うのは、その試合そのものが「ボルグ~」においては重要だったのに対し、この映画はより社会的・フェミニズム的な視座によって芯が串刺しにされているため、結果が重要だということだ。とはいえ、そういったスポーツの純粋さみたいなものは、この映画はその試合の部分だけなので、当然といえば当然というか。

この映画の重要な部分はむしろキングを取り巻く人々のもたらす価値観の部分だろう。ボビーですら否定的に描かれてはいない。というと語弊があるのだけれど、しかし明らかに魅力のあるように描かれている。それをキングは道化と称しているが、それはボビー自身が理解している。そして、それを引き受けたうえで彼は自分の道を進んでいる。それも一つのピュアさだろうし、それが表出したあの試合を見たからこそプリシラはああいう決断をしたのだろうし。

もちろんキングとその夫ラリー、あるいはマリリンとの関係性もそうだろう。彼女らの選択こそが、ある意味でもっともラディカルで可能性に溢れていると言っていい。様々な意味における「性」というフレームに囚われないこと。無論、そこにはラリーの葛藤があったことだろう(しかしそれはビリーにも言えることでもある)。

とはいえ、結局のところそれを決めるのは本人たちだ。彼女らが幸せであるならば、何も言うまい。

 

あと地味にスコアが良いんですよね。すっと映像と一緒に耳に入ってきて、あまり主張はしないけれどしっかりと空気が伝わってくる。誰かと思えば「ムーンライト」でもやってたニコラス・ブリテル。この人も上手いなぁ。

 

鋼の錬金術師 シャンバラを征く者

通して観るの初めてだったことに気づく。そんなんばっかだなおい。

現実の世界へと、というのは発想として面白いものはあるのだけれど、いかんせん作品のトーンが常に微温的というか、アクションにしてもラースとグラトニーのところ以外はビミョーだし。

 

「影武者」

私は黒澤明が苦手だ。なぜなら長いのばっかだからなのと、時代物が苦手だから。

だから、この影武者はかなり面白いと思いつつも長くて集中力が続かないせいで途中で気分がダレてしまう。いや、面白いんですけどね。悲哀とか色々。

 

「長江哀歌」

汚くて美しい、という価値観。画面に横溢する浅黒い肌の筋肉をもつ労働者の、労働に、労働のみのため労働のみに鍛えられた凹凸のある肉体美。タバコと酒。これは、健康志向を目指す現代的なものとは異なる低階層の人の話だ。片腕のない人も含め、ある種のドキュメンタリーちっくなとられかたといい、不思議な…参照元の少ない自分からするとアピッチャポンの空気感に少し近い気もする。

 

 

「フルスロットル」(リメイク)

ポール・ウォーカーのもう一つの遺作。こう言う書き方をすると失礼だが、役者としての彼の存在感に相応しい気がする。けれどそれは貶しているわけではなくて、ビッグスターとは違う、サイズとしてニュートラルな(?)午後ローの良心的映画と一体の存在感を持つ彼の「ほどほどさ」は、CV高橋というのも相まってある種の安心感をもたらしてくれる。

車の挟みうち衝突とかカーペットくるりんとか、パルクール的な逃走アクションとか、あと単にバディものというので結構好きな映画だったりする。カット割過ぎてよく分からないことになってるところも多々あるけれど、午後ローの良心的(しつこい)映画としては中々良いのではないだろうか。まあ午後ローじゃなくてBSで観たんですけど。

2022/2月

ホーンテッドマンション

この時期のCG黎明期の疑似ワンカットの繋ぎ目を見るのが、なんともはや奇妙な感覚が。シームレスにその境目が浮かび上がってくるという。特にラストの車内からズームアウトして車全体を俯瞰していくシーンね。

この三年後にキュアロンの「トゥモロー・ワールド」のあれがあると考えると……。

ところでなのですが、この映画って黒人男性が白人男性に妻(黒人女性)を寝取られる恐怖に苛まれるという視点があって興味深い。裕福な黒人家庭の大黒柱でありながら、しかしそれよりも大豪邸に住む白人男性によるNTRの恐怖。これはまあ、某アメリカのコメディアンを引き合いに出すまでもなく、レイシズムに基づく権力構造が引き起こす歪んだ関係性なのですが、それをディズニー映画かつエディ・マーフィーというコメディリリーフによって隠蔽しつつそれをファミリーにお出しするというのは結構えげつないと思うのですが。

 

「バード・ボックス」

マルコヴィッチがいつも「あれ、このおっさん誰だっけ」となってしまう。

話は全体的にB級にありがちで、「これネトフリでやる映画かえ?」と思わなくもないのだけれど、血縁(生殖)家族を越えたファミリー(ラストも含め)という価値観などはB級のそれにはあまり見られないように思える。

 

「ザ・フォーリナー/復讐者」

最近のポリティカルアクションの中ではかなりいい感じ。「グリーン・ランタン」の監督なんですけど、あれはネタにされてはいるけれど必ずしも悪いわけではない(良くもないけれど)のが過剰に、まあ主にライアン・レイノルズのせいなんだけれど弄られてはいるけれど、こっちは結構好きだったりする。

まあ「ジャッキーいるかなこれ?」というのはいえるが、タイトルが要するに異邦人だから

 

「イーグル・ジャンプ」

全然知らなかったけど俳優としてのキャリアの方が遥かに長いのね、デクスター・フレッチャー監督。てかこの人「ボヘミアン~」でブライアン・シンガーからバトンタッチした人かつ「ロケットマン」の監督だったのね。

ロケットマン」は観てないのだけれど、この「イーグル・ジャンプ」を観た後だとかなり食指が動く。というのも、タロン・エジャトンの真価がこの映画に詰まっていて、おそらくこの監督なら上手く彼を撮って見せるのではないかという確信があるから。

日本ではビデオスルーとなってしまった作品らしいので、ぶっちゃけオリンピックにかこつけてこの映画を放送するNHKの魂胆には「おいおい」と思わなくもないのだが、しかしこういう機会でもなければ観なかっただろうし、そういう意味ではこの映画をやってくれて良かった。前情報一切なしだったのも良かったかもしれん。

この映画はタロン・エジャトンを主役に据えたことで勝利したと言っていい。彼が演じたエディは、まあはっきり言ってしまうと今でいう発達障害に類する人間なのであろう。なんて言いつつ、ちょっとディグっただけではそういう情報は出てこないのだが、発達障害と視覚の関係(エディは極度の遠視)は昔から研究されていることだし、劇中でも言及こそされないが、彼が周囲からどう見られていたか、冒頭の幼少期の行動なども含め、少し「ズレた」人がどう扱われるかというのは誰しもわかっているはずだ。

そして、その説得力をタロン・エジャトンはその表情一つで体現してみせた。これはもしかすると監督が俳優としてのキャリアが長いからというのもあるのかもしれないが、タロンは童顔というかベビーフェイスだ。そんな彼に、ひげは似合わない。けれどそのヒゲはエディという人物の一つのアイコンである。ベビーフェイスにひげ、というのは、ともすれば下手なコント感が出てしまいかねない。

けれど、この映画に限っては彼のベビーフェイスとヒゲが上手く調和している。いや、調和していないが故の二律背反を体現できているといっていい。

エディの持つ、ある種のイノセンス(それは同時に、先に挙げた類の人間が抱える幼さでもある)をタロンの顔そのものが表現しつつ、ひげという大人(の男)としての象徴が同期しないままに内在している。そのちぐはぐさは、そのままエディという人物を表している。

マイケル・エドワーズという人物の伝記映画であるのだから、どうのように劇映画として彼を体現できるかが肝となるこの映画において、タロン・エジャトンを起用した時点で成功だったのだと言っていいほどに、タロン・エジャトンはハマっている。

 

クラッシャージョウ

うーん…?既視感と古めかしさが満載、というのは昔の映画だから当然なのだけれど、ワープ的な、超越的な跳躍のイメージが「2001年〜」のそれなのだがTFの「金あるしやりたいからやる」みたいな文脈の無視っぷりに比べると良くも悪くも平板な気がする。

 

 

 

2022/1

「シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション

原作知らないけれど「こういうのでいいんだよ」感

 

「プロフェッショナル」

そして「こういうのがいいんだよ」感

 

グッドモーニング・ベトナム

いや、まあこれ傍から見たらロビン・ウィリアムズ完全にヤバイ人なんですけど、ある意味ではアメリカンな陽キャの極限(軍属というのも含め)をそのまま描いたらこうなったという感じだろうか。しかし、これがロビン・ウィリアムズという実はその対極にいる人間が演じることによってそこはかとない狂気が滲んでいるというか。

この話をここまで感動的に描くというのは今ではなかなか難しいと思うのだが、しかしラジオという音声メディアの背景に戦争(劇中のある人物があくまで「紛争」と呼んでいるのが、ギャグとはいえ中々ブラックだなぁと)の軍靴の音が日常風景として融解している感じとかは良かった。

ただ、それがクロンナウア個人のドラマと結びついているかというと、ちょっとよくわからない。

 

「イット・フォローズ」

生まれ落ちれば、死んだも同然。ということでせうか。

公開時から気になっていたのに観るの忘れてたやーつ。

冒頭から視点者のカメラワークから始まっていたり、独特な(どこか安っぽくもある)シンセを鳴らしたり、確かにほかのアメリカンホラー映画とは違う。このスローなテンポはむしろJホラーっぽいともいえるのかもしれない。

屋根の上に全裸とか、「いや物理的に干渉可能なんかい。ていうか物理攻撃してくるんかい」(そこらへんはやっぱり日本的感覚とは違う)と、ちょっと笑っちゃうところもあるんですけど、それも含めて面白い。

そういえば時代設定が微妙にわからないんですが、これって現代なのだろうか・・・。筋肉理論的には「血が出るなら殺せるはず」なんですが、そうでもなかったようで。

あの「終わりではない」終わり方も、ホラーらしさを持ちつつも真正面から見据えたある種の清々しさすらあって、まあ「死」というのは「生」きている限りツきまとうものですから、当然なのですが。

そして、あの二人がああいう風な関係性になったということの意義も、かなり重要であって、「人という字は~」ではないけれど、見える者と追われる者が二人一緒にいることの意味を考えると(そして、それを補強するのが幼馴染をずっと想っていたという強度)、あれは希望でもある。

 

「ホワイトナイツ 白夜」

良かった。「愛と青春の旅立ち」の監督なもんで割とストレートな異邦人同士(同志)の友情物語なのでありますが、冒頭のバレエは迫真そのもので見ごたえあるし、本筋とは直接的には描写する必要のない飛行機事故とか、あれマジで実機使ってるんじゃないかと思うほど(ていうか使ってる?)迫力あるし、ともかく楽しい。ダンスシーンも下手にカットを割ったりしないでカメラを中心に役者を360度動かしてみせたり、ともかく楽しい。

ドラマ部分も良いし、良作。

老いには勝てなかったよ…

「クライ・マッチョ」……誰かこの映画を肯定的に批評した文章をください。自分ではちょっと無理だった。

ていうかこれやっつけ仕事じゃないのかいイーストウッド翁?そうだと言ってよバーニー…。

もしそうじゃないのだとしたら、ちょっと見てられない。けどウィキの製作経緯をざっと見た感じだと請負仕事っぽいんですよね(製作にかかわってるけど)。

率直に言ってしまうと、イーストウッドは諦めたように見えてしまう。まあ90歳超えたご老体に何を、という気がしなくもないのですが、しかし「運び屋」を観た後にこれというのが「おぉう…」となってしまうのは致し方ないではなかろうか。

まずもってタルい。これ、もとは脚本(を売り込むも売れず)→小説として書き直し(売れる)→再度脚本として売りこむという流れだったらしいのですが、小説ならともかく脚本としては本当に行き当たりばったりで起伏に乏しく退屈にすぎる。

その、叙情を描きたいのであろう退屈な脚本とイーストウッド観照的態度の演出との食い合わせがひどくミスマッチで、ドキュメンタリーだったり事実をベースにした事象を捉える場合に反して退屈さに拍車をかけている。劇映画然とした佇まいであろうとしているがゆえに(二回目の電話の際に真実を話していない際に顔だけが影の下にあるのとかモロ)、ひどく食い合わせが悪い。

ラフォの感情の流れの不自然さ、二度にわたるアウレリオの強襲の無意味な反復……とってつけたような出来事をイーストウッドがそれをそのまま撮った結果、「なにそれ……なんだったのあれ」という感情でいっぱいになってしまった。

第一、イーストウッドは叙事の作家であろうに、叙情(のみ)のこの脚本をやるというのがすでにミスではないか。

 

イーストウッドが仮に本意としてこの映画に取り組んでいたとしたら、それはそれでさらに絶望なのだけれど。まずは舞台が79年(から80年代)のテキサス(からメキシコ)であることが、少なくとも現代を舞台とした「運び屋」でのイーストウッドからひどく退行していると言わざるを得ない。「運び屋」において、彼がケータイの使い方を覚えキャッチアップしていこうとする姿は、世界そのもののスピードに追い付こうとする姿に他ならなかった。

翻って、「クライ・マッチョ」は過去を舞台に男根のメタファー、マスキュリニティに囲まれたマチズモ世界にひたすら耽溺している。馬も車も鶏も、すべてが男根。しかも機能不全に陥った車を乗り捨て回帰的に馬という(現代ではすでに高価な趣味でしかない)まだ機能している(していた)男根へと乗り換える。

最悪なのは、すでにその身体は「グラン・トリノ」において死んでおり、もはやマスキュリニティの体現が不可能になったイーストウッドの体を、ただ話の都合のみにおいて機能させるという醜悪さ。

そこまでやっておいて、にもかかわらず、それが物語的になんら寄与しないという。ただひたすらに叙情的な場面としてのみ扱われるだけで、しかもそのシーンの意味がおざなりな脚本の展開によって無化されるという具合。

90歳超えてるのにまだ色気を出すイーストウッドの姿はそれはそれで楽しいのだけれど(90歳の身内が奇声を発する、脱糞しては振りまく姿ばかりを日常的に見ている身としては、それだけで驚異的なのだが)、しかしそれすらもこの男根的ユートピア世界においては辟易とするしかない。

血縁主義の否定かと思わせておきながらの回帰といい、退行しかしてないよこの映画。

これを見るなら「老人と海」の方が遥かに良い。

あるいは、ハリー・ディーン・スタントン最後の主演作「ラッキー」と比較してみたまへ。彼は老いさらばえたその肉体でもって、そのままを体現し「歩いて」みせてくれたその身体そのままを、しかし絶望とも諦念とも違うそのままを見せてくれたではないか。

 

まあイーストウッド論についてはドゥルシラ・コーネルの『イーストウッドの男たち―マスキュリニティの表象分析』に譲るとして、ともかくこの映画には、イーストウッドフィルモグラフィー的順序という意味合いでも結構ダメだったです。

 

家なき蜘蛛男の青臭さが持つ可能性

スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム」

正直に言うと今回のスパイダーマンには色々と困ってしまった。まず長い、というのはもう仕方ないというか今回に関しちゃまあ十分まとめた方だろうというのはあるのだけれど、それはかなり多めに見ているからであって、キャラクターに対しての救済を与えた結果、別のキャラクターの扱いがおざなりになってしまい「二の轍を踏んでやしまいか」という風に観えてもしまい、「うおおおおお」と上がる一方で「ええ?」と困惑する場所もままあり、感情が行方不明になりかけたというのが率直なところである。

 

はっきり言ってしまえば今作は実写版スパイダーバースなわけですが、アニメ版の方があそこまで上手くまとまっていたのはアニメーションゆえの虚構性の高さ(と、異なるキャラクターデザインを同一世界内に内包してしまう技術的説得力)があるのと、MCUスパイディにおける親友(と恋愛)ポジがアニメバースの方においてはほかのスパイディによって補完されているからということなど色々な要素があると思うが、あちらに比べるとどうしても気になるところがでてきてしまうのは仕方ない。

ライブアクションゆえの説得力というのもあるし、何月による(ノスタルジー含めた)積み重ねによる感動はある。まあ平成ライダー大戦みたいに「台無しだよ」と思う人の気持ちもわからなくはないが。

もちろん、実写版スパイダーバースであるのだから、「スパイダーマン:スパイダーバース」が誘発する精神性はノーウェイホームの方にも宿っているし、そこはやはり素晴らしい部分であることは言え、それをもってこの作品を両手で称揚するのもアリだろう。結果的に「失敗」に終わってしまったライミ版とアメスパ版の救済に、ケチつけたいとこはあるにせよ胸を打たれたのも事実であるし。

 

ところで10年代後半から20年代の今になってスパイダーマンが再起した理由とは何か。個人的に、それはノーランのバットマンが提示した(してしまった)リアリズムに対する一種のバックラッシュなのではないかとか思っている。スノッブな自分のような擦れた輩はそういった闇に感化されシニシズムに陶酔してしまったがゆえに。(ダークナイトをちゃんと見たの3年前くらいなんだけれど)

無論、スパイダーマンがスーパーマンを除けば最も知名度もありアイコニックなキャラクターであるということや、ソニーの事情などは前提として。MCUというコンテンツの在り方もだが。

ノーランのバットマンにおいてジョーカーが提示した「トロッコ問題」は、どうしようもない現実の無慈悲の在り方に他ならない。その認識体系はゼロ年代後半から10年代にかけてDCEUが自分の首を絞めてしまったことも含め)社会を席巻した。

その真っただ中で登場した「アメイジングスパイダーマン」は、ライミ版からまだそこまで経っていないとか色々な理由はあるにせよ、9.11以後の「すでに起こってしまった世界」=ノーランバットマンでジョーカーが提示してみせた世界観の重力を強く受けていた。「エターナルズ」で少し似たようなことを書いた気がするのだけれど、X-menバットマンというのはそもそもがマイノリティやトラウマゆえに聖別された者=闇を刻印された者たちであり、それが映画的に使えたのだ。同様にアメスパ1(の記憶はぶっちゃけあまりないのだが)の身近な者の死、アメスパ2のグウェンの死というのも、それはトラウマ的な呪いとして機能しかねない危うさを持っていた。というか、本来スパイダーマンはそういったものを纏うに能わない存在であるにもかかわらず(少なくともあの時点では)、それをやってしまったことがずっこけてしまったことの理由の一つなのではないか。

だが、とはいえスパイダーマンである。アメスパ2のラストで、それはトラウマや呪いではない、むしろスパイダーマンとしての動機の一つとして彼を強くするものであるという萌芽が撒かれていたし、小さいスパイダーマンの存在というのはそのまま「スパイダーバース」のテーマへと引き付けることも可能だろう。

一方で、ライミ版はそういった闇(よく考えたらこれ80年代フランクミラーとかからかな)に対して捕らわれることなくスパイダーマンを全く卑近な存在、有り体に言ってしまえばダサいオタクとして描き続けた(描き続けることができた)。9.11という非日常を目の当たりにしながらも、しかしサム・ライミが描いたのは銀行の融資を断られるメイおばさんであったりという極めて日常的な、私たちの日常とまったく地続きの「親愛なる隣人」であり続けた。いや、非日常が常態化したからこそなのだろうか。

 

ともかく、それら二人のピーター・パーカーを踏まえたうえで、10年代を通過し20年代に足を踏み入れたトムホのピーター・パーカーはある。むしろ、この二人がいなければMCUのピーターはあり得ない。

今回の話が仮にトムホランドだけであったとしたら、ここまでの「青臭い」「理想」を受け入れることはできなかっただろうと思う。その意味で、ここにきて、ようやく「ファー・フロム・ホーム」での解答を得られたと言ってもいい。それは、アイアンマンではない存在になること=成熟した大人(の男)とは異なる存在になることだ。

アイアンマンは1作目において、結果的にとはいえヴィランを殺している。それは一つの現実の在り方として、大人(の男)であることの証明=ヒーローとしてあるように思える。

「ホームカミング」においてヴァルチャーという「大人」を殺さずに対峙し止めることのできたトムホピーターは、しかし「FFH」において「大人」であるミステリオの策略によって疑似的な殺人者に貶められてしまう。そしてそれは、一介の高校生であるピーター・パーカーという存在がスパイダーマンであるということをあばかれてしまう=パンピーとしてのピーター・パーカーの死をももたらしてしまうことと同義だ。

そこからこの「NWH」の話は始まる。そして、ピーター・パーカーの喪失に対してトムホピーターが取った行動は、スパイダーマンの正体がピーター・パーカーであることを誰もが忘却すること、つまりそれ以前のピーター・パーカーの蘇生。

しかし、今がノーランバットマンひいては9.11あるいは3.11以降の「すでに起こってしまった世界」である以上、「死んでしまった」「ただの高校生ピーター・パーカー」は戻ってこない。それを無理に、自分の都合のいいように(魔術中に追加オーダーするトムホピーター笑)改変しようとした結果、世界そのものから逆襲されてしまう。ピーター・パーカーがスパイダーマンであることを知っている者の記憶を消すことを望んだ結果、ピーター・パーカーがスパイダーマンであることを知っている者によって彼自身が消される危機に陥ってしまうという皮肉。

自身の過ちによってトムホスパイディは決定的な出来事に対峙しなければならなくなる。そしてそれは、親友も恋人も安全な場所へと退避させ自分だけでどうにかしようとする(自分のケツは自分で拭く)という真っ当な「成熟した大人(の男)」な対応=ヒーローとしてあろうとした(しかしキャパシティは当人のそれを大きく逸脱している)ツケとして、スパイダーマン=ピーター・パーカーという卑近な存在にそれ以上を求めた罰として彼の身に降りかかる。

それはアメスパ2のラストにおいてガーフィールドスパイディが陥りかけた闇であり、本来それを纏えない「スパイダーマン」がソレを纏おうとしてしまえば自滅してしまう。

さもありなん。「スパイダーマン」とは「親愛なる隣人」であり、我々のような一般人と地続きの存在なのだから一人で出来ることなどたかが知れているし、闇に魅入られてしまうこともある。

しかし、スパイダーマンが一人でなければ、スパイダーマンがほかにもいれば、不可能は不可能ではなくなり、闇に囚われることなく踏みとどまることもできる。

「親愛なる隣人」の「親愛なる隣人」。スパイダーマンのためにスパイダーマンが寄り添ってくれているということ。それがトムホスパイディが踏みとどまることのできた理由であり、「死んだはずのヴィランを救済する」という不可能を可能にすることができた理由に他ならない。

そして、ここにおいて「スパイダーマン:スパイダーバース」の描いたものが再び立ち現れ我々を鼓舞してくれる。「誰もが(その精神性でもって)スパイダーマンに成り得る」ということを。それは「親愛なる隣人」であるスパイダーマンでなければ説得力を持ちえない、スパイダーマンというスーパーヒーローでしか描けないものだ。

 

この映画において、記憶こそが世界をつなげるファクターとして機能していることは注中々面白い。まあ、お話の都合上という身もふたもない言い方をできなくもないだろうが、スパイダーマンの正体を知る者が、その「記憶」によってMCUという「世界」に顕現すること。記憶こそが世界に対し存在として括りつけられていること。

だから最後にトムホスパイディが決断したことに大きな意味がある。その選択は散々ほかの世界を「青臭い」「理想」によって救済した彼が、己の住まう「すでに起こってしまった出来事」に対して受容してみせたということなのだから。「すでに起こってしまった」、しかしそれでも自分はスパイダーマンでありピーター・パーカーであり誰しもにとっての(そして誰もが)「親愛なる隣人」であるということ。ガーフィールドスパイディとトビースパイディがそうしたのと同じように。

スパイダーマンという、「親愛なる隣人」という存在さえ記憶されていれば、その中身は問われないのだ。いや、それだと誤解を招きかねないか。スパイダーマンという存在が記憶され、その親愛なる隣人としてのスーパーヒーロー性が、卑近な存在として手を差し伸べてくれるという中身さえあれば誰がスパイダーマンでもいいのだということだ。その可能性の一つとして「スパイダーマン/偽りの赤(全1巻)」というジャパニーズコミックがありますのよ奥さん(ダイマ)。

 

現実的に考えて、などという言葉を一笑に付し、ひたすら「青臭さ」と「理想」を掲げること。その尊さを信じ切れるのならばこの映画は観るべきでせう。

 

が、色々と書いてきたけれど、話運び自体は正直に「うーん」とならざるを得ないところも多く、「~ため」の描写が多々ある。そもそも、メイおばさんをあそこに置き続けた意味はあったのか。たとえば、冒頭の方で警察?から保護者としてピーターを危険にさらしたと言われるシーンがあったので、それを踏まえたうえでピーターからメイおばさんも避難するように説得するも保護者として一緒にいる、と強く主張してピーターも渋々折れるとかなら納得がいくのだけれど。それとも私が見落としていたのだろうか。4DXだったもんでちょっと画面に集中していないところはあったかもしれないのでもしあったら誰か教えてください(他力本願)。

ガーフィールドスパイディの救済にしても、ギャグで打ち消そうとしてはいるけれどMJをあの場に移動させるためのご都合的な展開にしか見えないし、そもそもトビースパイディに関してはあそこでトムホスパイディを止めることの納得感はあるにせよ、「ゴブリンの痛みを知る」というような痛み分け的な救済をされるいわれはないわけで。別に必要のないものを無理やりひっつけた感もなくもない。

というか、「アメスパ2」「スパイダーマン3」で「ヴィラン多すぎてさばききれてない」問題が「NWH」でも持ち越されてましたし。サンドマンとかどうしてヴィラン側にいつづけたのか、彼のキャラクターを考えると忖度しないと謎だし。

あとヴェノムね。ソニーとの折り合いのつけ方とか色々な事情は察せられるけれど、「レット・ゼア・ビー・カーネイジ」からのポストエンディングからのこれは正直どうなの?とは思う。ポストクレジットもただの予告編じゃねーか!というのもある。

あと、あの二人の登場ももっとケレンミある感じにできたような気もするし…けど蜘蛛男たちの会話も好きだし一長一短か。

 

とまあ気になることもあるにはあるし看過していいのか悩ましいことではあるのだけれど、それを脱臭しようともしているし実際観ている間はノれるので(既述のとおり感情とっちらかるが)OKです。