別にことさら語ることもないですが、やっぱりジョン・ウィリアムスってすごいなーという。78年版のスーパーマンはさすがに今見るとスーツとか小道具とか特撮とかチープな感じにも見えるんですけど、徹底してファンタジー路線を貫いているところに現代のヒーロー映画とは違う楽しさがある。とかいいつつスーパーマンの母星とか、二重フラフープとか結構「おー」と思う部分もあるんですけどね。
派手なCGを使って戦うようなシーンはないですし、たぶん「現代のヒーロー像」がインプットされてしまっている子たちからすると退屈にも見えてしまうのかもしれない。ていうかわたしも、どっちかというと眠かった部分もあった。退屈というよりは時間帯的なものが大きい気もするんだけれど。
現代のヒーロー路線だと「どれだけ現実に顕現させることができるか」というダークナイト・シンゴジラ型と「マンガを違和感なくライブアクションにする」mcu・dceu型に大別することができると思うんですが、それらとはまた異なったおとぎ話としてのスーパーマンがリーヴのスーパーマンなのだと思う。つまり、大人が子どもに読み聞かせる話として、桃太郎などのような普遍的で当然な善の物語としてリチャード・ドナーはスーパーマンを撮ったんじゃないかしら。
まあジョン・ウィリアムスのオープニングの曲だけで十分すぎるんですけど。
で、ウォシャウスキー。どういうアレなのか知りませんがBSでマトリックスが三週連続でやっていたので観ていて、ウォシャウスキーのことを少し考えていた。
兄弟揃って姉妹になった異色の経歴の持ち主である二人ですが、映画としては処女作にあたる「バウンド」ですでにレズビアンを描いていたあたり、ジェンダーとアイデンティティというものへの思いが少なからずあったのだろう。ということは割とどうでもよかったりする。
有名な作品群を見てみると、彼女たちはSFに傾倒しているように思われているんじゃないかと推量していたんですが、実はそうでもないんじゃないかしら。
というのも、SF好きがSFのどこに注目するのかというと、基本的にはテクノロジー(とかアンノーンとか)そのものや、それらと人間の関わりなどに惹かれるはずだ。そしてそれが緻密であればあるほどに脳汁をぶちまける。が、ウォシャウスキー姉妹にはそれらがない。マトリックスのヴィジュアルにしたって、あれはあくまで背景や道具としてのテクノロジーがあるだけで、描いていることはファンタジーそのものだ。
じゃあ二人の本質がなにかというと、たぶん「メルヘン」なんじゃないかしら。女としての自分と男としての肉体の食い違いの中で、女性が抱く「メルヘン」への憧憬を映画の中で表現しているんじゃないかしら。マトリックスは救世主=王子様がトリニティとモーフィアスという二人のお姫様を救う話だし、最近だとジュピターは言わずもがな。もちろん、二人がSF的な世界の嗜好があることはもちろんだろうけれど、それ以上にメルヘン作家としての素養があるんじゃなかろうか。