dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

人は皆、猿のまがいもの 神は皆、人のまがいもの

というポエムがある。ネット・漫画にそれなりに触れていればオサレポエムとして一度は耳にすることはあると思う。別になにがどうってわけではないんですが、「猿の惑星:聖戦記」を観てなんとなくエントリータイトルのポエムが思い浮かんだのでした。

 

して、その感想である。

えー泣きながら驚きました。新三部作、ほとんど人類史を観ているようで逆に笑えても来てしまうという。そもそも前作の新世紀からして構造としては猿に感情移入させる作りにはなっていたのですが、今作ではそれがさらに顕著になっているんですよね。別に今になってことさら取り上げることでもないんですけど、CGの進化のおかげで「猿がしゃべる・銃を撃つ・馬に乗る(ゴリラが乗っているのは馬が心配になりましたが)」といった絵空事がごく自然と受容できてしまうのだから。

だがしかし、はたしてこの映画に泣かされたのはCGのおかげなんだろうか。もちろん、技術が貢献した部分は大きいだろうしそこを否定するつもりは毛ほどもない。ただあらためて考えてみると、CGによって再現された猿と着ぐるみによって再現された猿の違いに明瞭なアンサーを出すことができるだろうか。これは、何も特撮映画に限らないのだけれど、わかりやすくゴジラを例にとるといいかもしれない。着ぐるみゴジラとCGゴジラの違いに。これはメタ的に考えなければいけない問題なので省く。

 

まず出だしの20世紀フォックスのロゴから森林の音が響いていおり、各社のロゴから一度ブラックアウトしてからの前2作のおさらいてきに文章が立ち現れるのですが、ここの演出が地味にかっこいい。というのも、その説明的な文章の中に前2作のタイトル(Rise of the Planet of the Apesの「Rise」とDawn of the Planet of the Apesの「Dawn」)の重要ワードが入っており、ほかの文章が消えてもその部分だけが赤字で残るというような、一種フェティッシュな演出がされりと冒頭に仕込まれているのです。

また、冒頭からエイプの住む森の中に人間側(というと人間側の総意みたいで語弊があるのですが)の兵士たちが襲撃をかけるところから始まるのですが、この場面からしてすでに驚きを持たせてくれる。というのも、ゴリラのドンキーが人間側について指示された武器を人間の兵士に渡しているんですな。それだけでも冒頭の掴みとしてはかなり上手いのですが、その武器を渡す場面における人間がエイプに行う所作・アクションだけで人間側に寝返ったエイプの扱いがさらりとわかるような演出になっています。この辺は、本当にごく当たり前のように描いていて、観客は驚きつつもまったく不自然さを伴わずにエイプと人間が映像的(CG技術による支え)かつ物語的(クールな演出による支え)に同居していて、もう最初から「うほっ」となるのですが、ここからさらにシーザーの登場となるのですからシリーズを観てきた人にとっては興奮モノ。物語が進んでいくとシーザーがコバの夢・幻視をするのですが、さて冷静に考えてみたら猿が夢や幻視をするというのは主観的に描き、しかもそれを平然と観客に刷り込ませるというのはかなりの離れ業ではないだろうか。実際のところ、コメディやコミカルな表現以外でこんなにまっとうに描けるだろうか。

で、この戦闘で生け捕りにした人間側の兵士(と離反者のドンキー)にシーザーは争う気はないという伝言を託して人間側のリーダーである「大佐」の元に生きて返すのですが、まあなんというかこれが自らの息子と妻の死を招くだけでなく、大局的に見るとシーザーが率いるエイプの群れを窮地に追いやり自らの復讐心に火を点け自らの死を招くことになるという。アウトレイジ症候群に陥っている自分には、どうも個の行動の結果が組織や世界にまで波及していくという風に見てしまったりした。実はこの時点でエイプ側にも恐怖に駆られているエイプがいて、そのエイプがドンキーを逃がしたことがきっかけで大佐に襲撃されてしまうわけですが、そのエイプというのがほかのエイプと違って毛並みが白い(それゆえにウィンターと呼ばれている)というのも意味深ではあります。

そんなわけで大佐に家族を殺されたシーザーはモーリス・ロケット・ルカとともに群れを離れて敵討ちに赴くわけですが、その道中で言葉をしゃべることのできない少女と出会う。ちなみに、この少女の父親と思われる男をシーザーは射殺するのですが、その遺恨というか複雑な感情が少女に向けられている場面などは、人間に息子を殺されたシーザーの行動の鏡としての存在ともなっているのが面白い。それゆえに、コバの夢なのでしょうし。実は口の聞けないこの少女はノバとモーリスによって名付けられるのですが、オリジナル版の猿の惑星でテイラーと同衾した(?)金髪の女性と同じ名前だったりする。このノバは「新星」って意味がありますから、エイプ陣営に属する唯一の人間としてこの名前はまあわかりやすい。

物語が進んでいくと、どうしてノバが喋れないのかってことが判明するんですが、それがまあ人間みんな猿インフルのキャリアで前作と前々作までの間で生き延びた人間もウィルスの突然変異で言語と人間的思考能力を失うということらしい。

つまり、猿が人間になり人間が猿になるということ。そして、そのきっかけが「人が人を助けようとして作った薬」であるというのだから、なんだか皮肉な話ではある。

そんでもって大佐が実は人間側の中でも異端者なマイノリティで、マジョリティー側の人間と争うことを想定して猿に労働させていたということが判明したり、捕縛されたシーザーが猿たちの脱獄させるという感じになっていくのですが、本作は全体的に象徴的・印象的な演出が多い。

ノバが一人でシーザーに水と餌をあげるところとか、シーザーのおでコミュニケーションが大佐の場合は銃口であったりだとか、まあいろいろうまい演出は楽しめるし猿だから雪崩に巻き込まれず生き残れたという理由とかもしっかりしている(あのレベルの雪崩だとぶっちゃけそういうレベルじゃなくてみんな巻き込まれると思うが)し全然楽しいですよ、はい。

 

が、まあ気になるところがなくもない。

まず今作から登場するバッドエイプ。こいつの存在そのものに負わせた意味はともかくとして、作品の温度からかけ離れたコメディリリーフになっている。いや、双眼鏡とかお口あんぐりのシーンは笑えるんだけど、そういう笑いはこのシリーズにはいらないと思う。吹き替えも柳沢慎吾だし、あきらかにトーンが違うだろ!

それと、ルカとノバの絆の描き方もとってつけたような感じがしないだろうか。そこ死ぬべきはモーリスじゃね? 花をあげるのモーリスであるべきじゃね?いや、ルカってモロに聖書関連の名前だし寓意を持たせてるのかもしれないしモーリスすきだから生き残ってくれたのは嬉しいんだけど、何か腑に落ちない。

あとさー、あんなあからさまでとってつけたような火気厳禁のタンクはもうちょっとどうにかならなかったのでしょうか。立地的な問題以外は、シーザー・ドンキー・プリーチャーの無言のやりとりが良いだけにむず痒い。しかも手榴弾であれだけの被害を与えられるなら人間同士の戦闘、ヘリまで動員してんのに間抜けに見えてくるじゃないですか。いや、実際人間のやってることは愚かな行為ではあるんですけど。

脱獄の部分もなんかちょっとうまくいきすぎてる割にデティールが浅いなーと思う部分もないわけではないんですが、そこを丁寧に描いていたら2~30分は必要になるだろうから仕方ない、ないものねだりですから。大脱走っぺーと思ったらコミコンで言及してたみたいですね。脱走シーンは(単純比較できるものじゃないけど)創世記の方が工夫凝らしていて面白かったかなぁ。

が、それでも後半のスピードはやや鈍重に感じられたかなーと。上映時間も2時間を超えていますし、まあ三部作の締めということで内容を盛り込むのも致し方ないといったところではあるのでしょう。ただ、それ以上に少しセンチな演出を盛り込みすぎたのではないかというのもある。ただ、これの厄介なところはその演出がどれもこれも演出としては間違っていないために、「ここ削ればもっとテンポよくなるのに」と思えないところだったりする。つまるところ、わたすの集中力の問題です、はい。集中力なくてすみません、ほんと。

 そうそう、わたくしはIMAX3Dで観てきましたが3D要素は皆無と言っていい感じなのでIMAXだけで十分ですよ。余計に金がかかるし。