dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

と、いうわけで

NHK昨日の今日で「ソニータ」を観てきた。九割九分九分九厘無職状態の今でなければこの軽快なフットワークは取れませんでしょうな。

アップリンク渋谷だったのですが、まあなんというか実にミニシアター然として雨の日に似合っていてよろしいかと(適当)

 

で、本編を観てみたのですがNHKBSの「ソニータアフガニスタン難民 少女ラッパーは叫ぶ~」(以下BSソニータ)と本質的に異なっているということはありませんでした。とはいえ、昨日の「BSソニータ」は実のところながら見をしていたことも否めないので何か見逃している描写がないかと割と集中して観ていましたが、部分的に勘違いしていた箇所はあれど(まあその勘違いしている部分が結構、今回言いたいことのターニングポイントではあるのでアレなんですが)使っている映像もほとんど同じだった。

ただ、50分の「BSソニータ」にはあって本日観賞した90分の本編「ソニータ」(以下、本編ソニータ)からはカットされた描写もあったので、そのへんの含めて言及していきたいと思う。追加(というか本編的にはカットか)された40分の時間と構成が作品にどう影響するのか、それを確かめたかったわけですから、いつもよりニュートラルな心構えであったことも否めないとはいえ、この作品の歪さが自分にはどうも拍手喝采されるようなものとは思えなかった。

 

 

 

結論を先に書くと、この映画に対する基本的な自分の姿勢は変わらないけれど、その理由は昨日よりもより深く掘削できたと思える。

本編ソニータも「現実を踏み台にした事実」でしかなかった。そして、ドキュメンタリーでも劇映画でもなく、どちらにもなりそこねた・・・語弊を恐れずに書けば「失敗作」だったのではないかという結果に帰着した。叙情と叙事のどちらもレンズに収めておきながら、そのどちらにもなりきれなかった映画として。

 BSソニータの方にはあって本編ソニータの方になかったシーンとして、レコーディングのスタジオを訪れスタジオ側が「職なしになるからできない」と拒否したあとに、ソニータが「自分の職のことばかりでイライラしちゃった(意訳)」と発言した部分があった。

それと、思い違いでなければBSの方にはコンビ(?)組んでいた青年と喧嘩して解散したことが言及されていたはずなのですが、本編にはなかったような気がします。

それ以外は、本編で使っている素材だったかと。というか本編にはなかった素材を使っていることがちょっと不思議。

 

 とりあえず、昨日の時点で勘違いしていた部分を先に訂正しておこう。ここは、かなり重要なところだから。

昨日の記事ではたしか、母親がソニータをダシに2000ドル要求していたことに関して、施設の女性が監督に向かって「干渉するべきではない」という発言をしたと書いていたと思うのだけれど、これを発言したのは同じ制作スタッフ(たぶん撮影の人)であって、施設の人はむしろ監督に向かって「あなた方が払ってはどうですか」といった一種の皮肉めいた挑発とも受け取れる発言をしていた。で、この発言の前に音声・録音のスタッフがソニータの母親の行動を揶揄するような発言をしていた。

 

なぜこの部分が重要なのかといえば、このシーンの前後でこの映画はまるっきり姿を変えてしまうからだ。

基本的な主張は昨日の記事のとおりなのだけれど、このシーンを転換点として捉えたときになぜこの映画が歪に映ったのかがわかった気がしたのです。

 

このシーンの前に、ソニータは監督にお金を貸してくれと頼む場面があった。けれど、監督は「ソニータの真実を捻じ曲げるわけにはいかない、これはドキュメンタリーだから(意訳)」というような発言をする。要するに、ソニータを援助するわけにはいかないと本人に言うのだ。そりゃそうでしょう。ドキュメンタリーはあくまで客観的に被写体を捉える表現形式であって、表現者が手を差し伸べる=手を加えるという作劇はドキュメンタリーではなく劇映画・ドラマのあり方じゃないんですか。違うのかな?

森達也はドキュメンタリーも本質的には劇映画。ドラマなどと本質的には変わりはないという。それはそうだろう、映画であるならば。それでもドキュメンタリーと劇映画が分たれている以上は何かしらのボーダーがあるはずで、この作品において制作側が取った行動はドキュメンタリーを文字通りドラマにしてしまったように思える。

 

つまり、本作はドキュメンタリー作品ではなくソニータという才能ある一人の少女の成り上がり成功譚・英雄譚という事実を描いた叙情のドラマあるいは擬似ドキュメンタリーなのだということ。まかり間違っても、アフガニスタンの社会問題という現実を切り取った叙事のドキュメンタリーではない。それこそが「ソニータ」の歪な構造をあきらかにする。

ロクサレ監督は、先に述べたターニングポイントに至るまでは叙事としてアフガニスタンの社会問題を怜悧に撮るつもりだったのではないか。なぜなら、ターニングポイント(面倒なので以下TP)まではソニータだけではなく彼女と同じ境遇にあるほかの少女を、それこそソニータがいない場面でもちゃんとおさめているからだ。兄に殴られ左目を腫らした少女が映るとき、そこにソニータはおらずその少女だけがレンズを支配する。アフガニスタンの現実を表象する抽象存在として、彼女はソニータと等価であったはずだ。もちろん、彼女だけではなくて30代の男性と結婚させられてしまうかもしれないと笑いながら冗談のように話す少女も、18歳の年上と結婚させられるからまだマシねとやはり談笑する少女もそうだ。

けれど、TP後にソニータ以外の少女たちは「現実」の表象として映されることはなくなる。そして、制作側はTPの直後にどこかに行ってしまったソニータを探している最中にこんなことを言う。

「彼女が見つからなかったら撮影は中止ね」

これの意味するところは明白で、主役であるソニータがいなければ映画が完成しないということだ。もちろん「ソニータ」というタイトルが示すように(といっても最初からこのタイトルだったのかどうかによって、見方が変わってくるのだけれど)本作はソニータという少女を追う映画なのだから至極当然ではある。だってこれはソニータに寄り添った映画なのだから。

思うに、それこそが問題だったのではないだろうか。

昨日の記事にあるように、その問題というのはソニータに注目し感情移入させる構造が逆説的にアフガニスタンの問題を背景に押しやってしまっているということだ。もっとも、これは仕方ないことだと思う。言うなれば、最初から勝ち目のない勝負に挑んでいるようなものだから。

アフガニスタンの「現実」の真っ只中にいるソニータはのラップは、必然として悪習を押しのけ社会正義を歌うものだった(安全で快適な日本にいるわたしがこんなことを書くのは姑息で卑怯だが、彼女のラップが社会正義を歌うものでなければここまで注目されることもなかっただろう)。

そして、ソニータが置かれた状況=「現実」と社会正義を歌う以上、彼女に寄り添うこの「ソニータ」という映画がそれを描かないということはありえない。ソニータを撮ろうとするのならば、必然的に彼女の置かれた境遇を映し出すしかないし、そもそも作り手はその現実をこそ映し出そうとしていたはずだから。それは誠実・不誠実の問題ではない厳然たる事実として。しかし、この映画はソニータに寄り添い彼女に誠実であったがために、社会問題という「現実」を背景に押しやってしまった。だからといって「現実」を完全に度外視することは、ソニータの英雄譚でありながらソニータに対して誠実ではなくなってしまう以上はありえないし、今も述べたように構造としてそれはありえないことだ。つまり、コンセプトの時点ですでにこの作品はちぐはぐになることを避けられなかったのではないだろうか。

 あるいは、真に怜悧に「現実」を真正面から捉えることが当初のコンセプトであったとしたら、仮にソニータが消えてしまったとしても叙事としてのドキュメンタリーを撮ることはできる。なぜなら、ソニータ以外にも「現実」に直面している少女はいるからだ。もしこの推量が正しければ、作り手の意識をソニータの力がねじ曲げたということになるのだけれど。

この仮定に基づけば、監督は現実をありのまま切り取るという当初の怜悧さを持ちつづけることができず、ソニータと彼女の直面する問題という「現実」に屈してしまったのことになる。そして騎手の手綱の乱れによってコントロールを失った「ソニータ」は映画として完走することができずにコースアウトしてしまった。一つの映画作品としては悲劇なことに。

逆に(というかこちらが真実だろうけれど)、最初からソニータ個人をスポットに、彼女の視点からアフガニスタンの女性問題を切り取ろうとしていた場合はどうだろうか。

そうだとしても、この映画が映し出す「ソニータの夢の成就(の途中段階)」という「事実」に「アフガニスタンで不当に扱われる少女たち」という「現実」が霞められているという事実は否定できないはずだ。

さもありなん。たしかにソニータは「現実」を批判する歌を歌うけれど、彼女の夢は歌手になることであって社会問題そのものを根本からどうにかしようとしているわけではない。結果的に社会問題を浮き彫りにし・同じ境遇の少女たちの代弁になるのであって、その歌の真意としては「この窒息死しそうな狭苦しい世界から抜け出したい」という極めて個人的なものでしかない。

もちろん、彼女が「現実」を問われれば「どうにかして変えたい」「わたしの歌をきっかけに変わってほしい」と言うだろう。けれど彼女は「現実」から脱したくて歌うのであって、あるいは歌いたいから「現実」から脱したいのであって、その視座はソーシャルよりもパーソナルな部分が大きい。

だから、彼女をスポットに彼女の視点から「現実」を捉えようということ自体が、そもそも食い合わせの悪いものだったんだじゃないだろうか。

BSソニータにはなかった本編ソニータの40分の大半はソニータの歌手への道のりを描くことだけに費やされ、才能という一点を除いてまったく彼女と同じ境遇にあったほかの少女たちがスクリーンに登場することはない。

彼女が泊まるホテルのテレビで爆弾テロのニュースが流れ、あたかも悲惨な現実として捉えているようでいても、それが彼女と結びつかない以上はただの事実として流れるだけである。

 ソニータのMVがYouTubeに掲載され、コンテストで最優秀賞を取って破竹の勢いでアメリカ留学への道が切り開かれていく。彼女の名誉を少女たちは友として祝福する、明日をも知れぬ我が身を彼女に抱き着かせて。ソニータの成功を祝福する舞台装置として位相を異にする、貶められた背景として収斂させられているとも知らずに。

そしてやはり、BSソニータと同じように本編ソニータでもソニータが舞台の上で歌を歌いながらエンドロールへとつながっていく。観客がその様子を感動的に見守り、スマホで撮影しているカットが挿入されていることくらいでしょうか、違いといえば。

 

けれど、わたしが映画を観ている間に頭を占めていたのは・胸を揺さぶり続けたのはソニータへの思いではなく、兄に殴られた名前も明かされない少女のことでした。

 

ソニータの歌が、彼女の存在がアフガニスタンの悪習を裁ち切る嚆矢になるのだろうか。けれどわたしは、現実に敗北した監督のこの作品からソニータという事実が勝利を勝ち取る姿は想像できない。現実をないがしろにした映画を観せられて、どうして現実を乗り越えられると思えるだろう?

仮に彼女がその矢になったとしても、結局のところは「トゥモローランド」でしかないではありませんか。作り手の意思があろうと物語の要請を必要としないのがドキュメンタリーであり、それゆえに弱者を弱者のまま切り取っても世界に働きかけることができるのが劇映画やドラマとは違うドキュメンタリーが持つ力だと勝手に思っているのですが、これはドキュメンタリーのガワを使って一人の少女のドラマを仕立て上げてしまいました。資金的援助をしてまで。

念の為に書きますが何一つソニータに非はありませんし、同情や賛辞を向けるべき才能ある若者であることに疑いの余地はないでしょう。そして彼女の物語として、本作が多くの人に受け入れられ様々な賞を取ったことも理解できます。

だからこそわたしは、ソニータと同じでありながら才能なき弱者であった少女たちを貶め物語の踏み台にしたこの作品を好きになることはできません。

 

本作が日本で公開される意義は大きい。それは確かでしょう。けれど、一つの作品としてわたしが本作を評価することはできないと思う。少なくとも、有象無象の弱者でありなんの才能を持たないわたしには。