dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

黒人の知性的な復讐

しかしそれでいいのかアメリカよ。

なんというか、黒人て書くと「アフリカ系アメリカ人だろ!」というツッコミを入れてくる日本人が出てくるようになって、ようやくこの映画は日本で語り得るのではないのだろうか、という気後れした気持ちがこの映画に対してあるような、ないような。

黒人白人の間の問題というものは知った上で国内の差別問題に向き合うというのが、正しいスタンスなのかもしれない。

 

人種的偏見と差別をホラーとかけあわせた意欲作である「ゲット・アウト」ですが、これはなんというか、ある種のコンテクストを知っていることが映画の見方としての前提に含まれているため、日本人的にはどうなのだろうか。映画館には割と年配の人が多く、それが理由なのかわからないが、明確に笑っている人は一人だけだった。自分も所々で笑ってはいたが 、確かに大笑いするようなタイプの笑いではないしなぁ。ところで平日の朝一にもかかわらず小学生が大量にいたのですが、近所の学校が記念日とかそんなんだろうか。余談に余談を重ねるが、男子小学生のグループが「えーミックスは絶対にヤダ!」と言い争いをしているのを聞いて笑っていると「斉木楠雄見ようぜー!」という代案が出てきて思わず吹き出した。「少年よ、目糞鼻糞だと思うぞ」なんて見てもない映画を見ようとしている少年を心の中で諭していました。

 

で、本編はどうだったか。

うん、自分が予想していたのとは違う方向に行ったのでそれはいい意味で裏切られた感じもあるんですが、同時に「それでいいのか」と思う部分もあったり。

 作劇はかなり優れていて、冒頭のシーンの布石がそこに繋がってくるのかという部分だったり伏線の回収とか視線演出(なんとなく黒沢清を彷彿)とか、絵画オークションのシーンにおける売買物の意味とか、あるいは握手の仕方の一つ一つを取っても、そこに不和・違和を生じさせる「なんかおかしい」という感覚を生み出すのは抜群にうまい。家に入ってくのをあんなに遠目のショットで撮ることがあれだけ寒々しく余所余所しいとは思わなんだ。しかも徐々に引いていくと使用人ウォルター(マーカス・ヘンダーソン演)の背中が・・・とか。

ただ、少し厄介なのがそのさりげない演出を理解するのにコンテクストの理解が必要だということ。もっとも、役者の表情とか台詞の機微に集中していれば「何かがおかしい」という感覚を共有することは全然可能ではあります。でもこのご時世でこの映画を見に来るような人が、「白人の黒人に対する差別」問題を知らないはずはないので余計なお世話かしら。ただ、やっぱり向こうのスラングとか理解していないと伝わりづらいところはあって、使用人(という表記が正しくないことを最後まで見ればわかるわけですが)のジョージナ(ベッティ・ガブリエル演)とクリス(本作の主演ダニエル・カルーヤ)の会話で「チクる」というスラングが通じないという部分などは、コンテクスト以前に言語の異なる日本においてはそのへんは難しいのやも。

  

 それはさておき、中盤まで描かれたその違和感が、ある時点から表面化します。実はわたすは表面化してもまだどこかで夢オチ的なものに帰着するんじゃないか、ということを半ば願望的に思っておりました。この点に関しては後述しますが。

ジョージナが鏡に写った自分の顔を恍惚の表情で眺めていたわけも、映画を見終わったあとで考えるとかなり意味深・・・というかどストレートである。

完全ネタバレで行くと、ホラー要素はアーミテージ家(白人)による黒人の「ボディスナッチャー」です。そこ自体は確かに予想外ではあったんですが(アイデア自体はともかく)、まあ白人が黒人の肉体を乗っ取ろうとしているという「ボディスナッチャー」とは異なる新たな意味を付与しているという点では着眼点はすごい。

というわけで、秀作であるということは確かに頷ける。

 

えーあと本編観たあとにパンフレットを読むと笑えます。というのも起稿者もキャストインタビューもプロジェクトノートも徹底的にネタバレを回避しており、そのためにローズ(彼女に限りませんが、彼女がもっともその影響を受けているので)というキャラクターが完全に別人な扱いを受けているからです。特にプロダクションノートの「彼女は黒人の彼氏のことを両親がどう思うか不安に感じているが、アーミテージ家に加担しているようには一切思えない。彼女は常にクリスの味方で、彼のことを本当に愛しているように見える」

ってもう完全に欺瞞じゃん!最後の「見える」って部分がなかったら欺瞞どころか虚偽でっしゃろ!

いやまあ、ある瞬間までは確かにローズはそういう人物としてえが変えているので、ただ単に情報を伝えきっていないというだけではあるのですが、それ自体が欺瞞というか不誠実というか・・・ある意味、その構造は本作にも通底しているとも言えますが。

 

この映画は肌の色の違いによって引き起こされる(引き起こされた)問題を、被害を受けた当事者の視点から描いているのは明白です。が、それをこの時代に描くのは実は危険なことなんじゃないだろうか。なんというか、それはトランプと同じとまではいかずとも、近しい視点に立っているのではないか。

劇中で登場する目の見えない白人の男は、てっきりフリークス側としてクリスに同調するキャラクターかと思い、もしそうであれば監督はかなり冷静で希望的(というか、少なくとも人種問題に耽溺するだけでなくその先の可能性を見据えている)な視線を持っているのではないかと思ったりした。

ところが、盲目の白人もクリスの敵対者として描かれる。ことに、これはやはり黒人と白人の軋轢という問題を含んでいるわけだ。最後に助けに来るのが黒人というのもやはり、バランスより黒人としての主張を選んだのではないかと思う。

黒人側から見た白人の黒人に対する意識的に無意識な差別ーー肌の色の違いにかこつけた恐怖心からくる排斥と強烈な羨望ーーを描くことに執着しすぎてしまっているのではないかなー。考え過ぎなのだろうか。

しかし、トランプが大統領である今この時代にこの映画をやることは、つまるところ白人の過去と現在を皮肉的かつ攻撃的に見せつけているわけで、それは差別に対して「黒人同士の結束」という逆説的な排他の原理を内包していはしないだろうか。

だって、白人の攻撃から救ってくれるのは黒人の親友であり、白人の洗脳から脱した黒人の魂であるラストを見せられて、白人と黒人が手を取り合う未来を想像できようか。

 

もちろん、それを描くことがこの映画の目的ではないので、ないものねだりも甚だしいということは重々承知している。

しかしそれは、「毒を以て毒を制し」ているのであり、人種問題という現実に目を向けさせるというよりも強烈に叩きつけているような印象を受ける。白人はこれを見て居心地悪くなったりしないのだろうか、とお国の違うわたしが心配してしまうほど。

実際、監督はホラーやコメディというジャンルの持つ作劇的な攻撃性に言及している。

なんだかこう、被差別側が差別ネタをやるときってどうも視野狭窄に陥っているように思える。もちろん、そう思うのは完全に外部の傍観者として冷淡な観客であるから言えることであって、当事者にその視線を持てというのはどだい無理な話であることはわかっている。そもそも、視界を狭めているのがその白人による差別であるわけで、そうなるとそれは一種のドメスティック・バイオレンスの形でもあるんじゃないかと。だから無理からぬ話なのだと。

よく虐待を受けて育った子供は、その子供にも暴力をふるってしまうということがあるわけですが、この映画の構造はまさにそのへんに通じているものがある気がします。

まあ日本にだって在日外国人への差別や部落差別の問題があるわけで、まずは根っこが通底しているそれらに対して向き合わなければいけないわけですが。幸か不幸か自分はそういった問題に直面したことがないから、こんな物言いになるのだろう。

 

 既述の部分で「夢オチ」じゃないかと希望していたのは、そうすることで、クリスという個人の中に落とし込めばよりバランスを取れたかもしれないと思ったからです。

ただ、見終わったあとで冷静に考えると、夢オチでは至って冷静なクリスがパラノイアであるような印象を持たせてしまうし、そもそも夢にしてしまっては現実にある問題としての事実性が限りなく削ぎ落とされてしまうわけで・・・全然ダメなことに思い至ったり。

 そこでもう少し考えを詰めてみて、もっとより良い、表面的は黒人同士の絆という徹底的に内輪なものでありながら白人という外部への道が開けた終わり方にする方法が見えたような気がした。

それはジョーダン・ピール監督自らが親友のロッド役をやるということ。なぜならそれによって作品への責任を負うことにもなるし、黒人の父と白人の母を持つピールであるからこそ両者の架橋になりえる存在として、「ピールがクリスを助ける」というだけでそこに重要な意味を負わせることができたはずだから。