dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ギャレゴジとかクリコロとか愛の渦とか

「愛の渦」

ハゲはなんだかんだで言葉を選んでいる。グラサンハゲは解説において門脇麦の体当たりな演技を賞賛したが、決して「演技が上手い」とは言わなかった。

こどもつかい」で門脇麦の演技があまりにへっぽこだったことを知っていたわたしは、それよりもタイムラインとしては先にあたる「愛の渦」でそこまで達者な演技をしていたのならば、「こどもつかい」におけるあのへっぽこ演技も巧緻さによるものだったのだろうか、と期待したわけであるが。いや、普通にへっぽこでした、門脇麦。だから「こどもつかい」に抜擢されたのだろうけど。

あとハードル上げすぎ、ハゲ。どこがAV並なのか。

とはいえ描いているものは至極単純で、セックスはセックスでありセックス以上のなにものでもないということ。それゆえに「いや、そんなこと百も承知ですが」という自分が常にどこかにいたので、はっきり言ってそこまで楽しめなかった。いや、笑えるところは本当に笑えるので、演出は優れていると思いますが。

意図的なものとはいえ、かなり間延びするのは否めない。1回戦終了後の2回戦に至るあのくだりは、正直どうかと思う。1回ヤったらそのあとはもっとスムーズに進むだろう、なんていうツッコミはそもそも的外れなものであることはわかっているのだけれど、いかんせんストレスが溜まる(それを意図しているのでまんまとハマっているわけですが)。

池松くんは相変わらずセックスしてます。

門脇麦が最終的に閉じてしまう(最後に大学でメガネをかけていた)ラストは、どうなんだろうか。悪いというわけではなく、門脇麦的にはどう感じたのだろうかということ。

 

まー誰もが思うことでしょうか、この作品でもっとも存在感を放ち魅了するのは窪塚洋介である。ともかくこの作品の窪塚はエロい。エロくてかっこいい。オダギリジョーからスノッブさを希釈した感じで、すごい良い。

窪塚洋介はなぜあんなにエロいのか。

おそらく、彼がエロかっこいいのは劇中におけるセックスの外部にいてもっとも傍観者的な立場にいながら、もっともセックスの根源的意味を理解している(だから最後の子どもが占めなのだ)、いわば知的なエロみが多分にあるんじゃなかろうか。

というか、窪塚洋介がエロかっこいいからこの役に選ばれたんだろなぁ。

 

 ギャレゴジ(今となってはレジェゴジか)

ギャレゴジとかギャレス(よく考えたらこの名前からして怪獣っぽい)自体ローグ・ワン騒動のときにも騒がれてたし今更すぎるんだけど、ギャレゴジは劇場で見て以来見返していなかったし、普通に面白いなーと思ってたからそこまで考えて見ていなかったんだけどBSでやってたからざっと見直したのであった。

そしたら、なんというかギャレゴジが怪獣映画というよりはモンスターとしてゴジラたちを描いていたような気がしたので。

まず一つ言えることは、ギャレスはゴジラよりもムートーの方に感情移入していることは間違いない。どちらが好きか、というのではなく。というのも、前作「モンスターズ 地球外生命体」でも同じようにモンスターの生殖とか愛とか、そういうものを描いていたこととすごく連続しているし、卵を爆散させられたときの雌のムートーの表情とかあまりに悲しいものだったのもあきらかに意識しているだろう。

あとこれは完全に邪推なのですが、ギャレスはモンスターに自己性癖のエロスを導き出そうとしているような気がする。モンスターズのモンスターは触手の束のようなデザインだったし、「ゴジラ」においてはすでに大幅な変更のしようがないゴジラをできるかぎり無難なものに落とし込む代わりに、ゴジラシリーズとはあきらかに別ラインの造作として摩擦の少なそうな肌にスラリと角度のついた手足を持った怪獣にムートーを仕立てている。わたしがムートーにエロスを感じたのと同じように。

つまり、ギャレゴジにおけるゴジラ・ムートーは日本的スピリット(荒神)を持った怪獣ではなく、自己の投影としてのモンスターなのではないかということ。それを示すように、「ゴジラ」においてはその登場人物が過剰なくらいに視線でやり取りをするようにムートーは視線でやり取りをするし、あるいはゴジラの目線に立っているカットもある。シン・ゴジラと見比べると、どれだけゴジラが外見的なアイコンが巨大であるかということが伺い知れる。要するに、見た目がゴジラであればその中身はほとんどなんでもOKなのである。もちろん、それはどのゴジラシリーズを見てきたのか・どれだけゴジラを知っているかによって受け取る幅が変わってきますが、昭和シリーズ・平成VSシリーズなど全作品とは言わずともある程度をVHSで観てきた自分にとってはどれもまさしくゴジラなのであった。

実のところ、ゴジラがどこまでゴジラを保つことができるのかは未知数なところであり、シン・ゴジラゴジラが劇中のその先に進み完全にゴジラ的外見をすっとばしたときにゴジラゴジラを保つことができるのか。ゴジラというアイコンが持つ器の真価が問われるんじゃなかろうか。つまり、クリエイターにとってゴジラを作るということは自らの作家性とゴジラとの衝突であり、それを壊すことができたときに初めてゴジラはその先に進めるのではないだろうか。

庵野秀明ゴジラに愛着がないがゆえにゴジラを破壊しようとし、しかし設定にとどまったもののその裏側をジ・アートであきらかにしたことは、ゴジラというアイコンに勝利することはできずとも敗北もしていないという意地なのではないだろうか。

ゴジラの絶対性を維持しつつゴジラを倒す。それがゴジラをさらに先に推し進めることでありクリエイターの力量の測りになるのだろう。それにおいてVSシリーズは完全に商業的なものであり、その終局としてゴジラの自壊という責任転嫁に終わったものの再びゴジラが息を吹き返したことはほかならぬゴジラの勝利にほかならない。

果たして、アニメ版のゴジラゴジラを倒すことができるのだろうか。

 

で、次は「アンドリューNDR114

 アイザックアシモフの(The Bicentennial Man)を原作とした映画で「ピクセル」のクリス・コロンバスが監督を務めた映画。後に同題の短編集(日本語版タイトル『聖者の行進』)に収録された。初訳時の題名は「二百周年を迎えた男」だったとか。

ロビン・ウィリアムズが意外とスタイル悪くないんだなーと思ったり。

クリス・コロンバスフィルモグラフィーを見るとわかりやすすぎるほどわかりやすい。製作まで含めたら多分、ほとんどの人が一度は彼の作品を目にしたことがあるのではなかろうか。監督作品にしたって「ホームアローン」シリーズ「ミセスダウト」はまあ微妙なラインだけど「ハリーポッター」シリーズの成功もなにより彼が監督した賢者の石と秘密の部屋があってこそであろうし。脚本だけとはいえ「グレムリン」「グーニーズ」とくれば、クリス・コロンバスがもはや幼児の心を持つジジイ監督の一人であることは言うまでもない。

彼の監督作品でいえばホームアローンハリーポッターミセス・ダウトピクセルと半分ほどは見ているが、こうして見ると彼がどれだけ映像としての人間の身体性を面白おかしく描こうとしているのかがはっきりする。しかも子ども(へ)のまなざしというものを媒として描くという意地悪さ。

ホームアローンで戯画化された人体へのダメージ(普通に致死レベルだと思いますが)を笑いとして描き、ハリーポッターでは魔法というファクターを通して人体をいじくりまわしたクリスは、ミセス・ダウトでそれを大人の目線から良心的に描き(特殊メイクによる変装という身体性への言及)、この「アンドリュー~」でついに無機物にまで身体性を付与することにまで至った。

クリスの作品が大衆に受けるのは、臆面もなく映像で見せてくれるからだと思う。「アンドリュー」では劇中で200年の年月が、小刻みに描かれる。それによって必然的に生じる人の老いを特殊メイクによって臆面もなく描く。サム・ニール老いていく過程はどこか面白く(それは多分、特殊メイクによって未来のあるべき姿を堂々と見せ付けられることによる可笑しみ)、そのくせに老衰という人間の避けがたい終幕にどこか切なくなるのである。

これまでの作品では外部要因による身体性を描いていたクリスは、ここに来て内在する身体性をやはり面白く、それでいて侘びしく描き出す。

そして、それが死ぬことのないアンドリューというロボットにまで及んだとき、彼がロボットの生よりも人間としての死を選んだとき、そこには言いようのない感動が生じるのである。

ピクセルであれだけ後退したのは一体なぜなのか・・・。