dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

かくして彼女は天使にラブソングを歌うことになったとさ

どっからどう手をつけていいか困った映画である。

人種差別の映画なのか性差別の映画なのかスピルバーグの映画なのか、どっからどうやって語るべきかというのが悩みどころの「カラーパープル」。

しかしまあ、スピの映画にしては影が薄いというかあまり語られないような気がする「カラーパープル」ですが、作品として秀でているというのは認めざるを得ないところではあるでしょう。なんといってもスピルバーグですしおすし。というか、ほかに代表作が多い上にそのどれもが大衆向けエンタメ成分も濃厚なために埋もれてしまっているだけなのでしょうが。

 

不細工な黒人女性を主人公に据え、黒人社会を舞台にいろいろな差別ネタをコミカル&ホラーテイストに修飾しつつわかりやすいハッピーエンドに帰着するんですが、バランスがすごいヘンテコな気がする。バランスが変というか、安心させてくれないというか、しつこいというか。怖がっていいのか笑っていいのか、ワガンネーのです。

ちょっと「あれ、これ良い方向に行くかも?」と思わせておいて冷水をぶっかけてきて「現実はそんな甘くないんだよ」と目を覚まさせてくる。そんな感じの展開を数回リピートして最後の最後にハッピーエンドというオチなのですが、おかげさまで見てるこっちはげっそりする。

しかも、割と本気で怖いシーンありますからね。いくつも怖いシーンがあるんですが、個人的に一番怖かったのはセリーの妹ネティが学校に行こうとしているときに茂みの向こうからアルバートが馬に乗って挨拶してくるシーン。あそこの一連の流れは本当に怖すぎて鳥肌が立ちましたです。

アルバートの話の通じないサイコ感は、ネティの視点から見ていると本気で恐怖を覚えます。そのシーンに至るまでにアルバートのクズっぷりが描かれていたというのと、ネティに対して君㌔㍉?な感情を抱いていることがどストレートに示されていたのもありますし。馬の上からいなくなっているのとか、あれはどう考えてもスピルバーグもホラーのつもりで撮っているはず。

同じ時代同じ黒人コミュニティを描いたものではトニ・モリスンの「青い眼が欲しい」(細かい内容は忘れてしまいましたが)という小説がありますが、どちらも近親相姦が平然と描かれていることに結構な衝撃を受けるのですが、当時では普通にまかり通っていたのでしょう。日本でも尊属殺人重罰規定の裁判とか、20世紀後期にも色々ありましたが。

黒人・女性・不細工という三重苦のケリーが最後の最後にハッピーエンドを迎えるまで、辛抱に辛抱を重ねなければいけないというのがこの映画の構造としてあると思うのですが、この三つの要素が苦になるという社会の差別の様相が所与的にあり、深く掘り下げられていないというのは、スピルバーグが監督ということを考えるとなんとなく邪推してしまう。原作をなぞっただけなのか、あるいは被害者たるユダヤ人としての傷と加害者である白人としての責から目を背けたかったのか、とか。

というか、そういう背景がなかったら黒人女性が黒人女性を描いた小説を原作に、白人男性が映画を撮るというのは中々に反感がありそうなものですが。

 

実の父親(ではないことが後に判明するのですが)に売り飛ばされたセリーの苦渋の生活が描かれながらも、その生活の中でコミカルに描いているシーンも割とあって、それがこの映画をへんてこりんなバランスにしている。セリーとネティが引き裂かれるところなんかはリリックに悲愴溢れる質感で描いているのに、アルバートが料理をするところなんかはまんまコメディだしで、情動があっちこっち行ってしまう。白人の召使いにされたソフィアなんか、めちゃくちゃひどい顔をしているのに市長の嫁の運転で笑いを取りに行ったり、ブラックな笑いというにはあまりにその境目がはっきりしているのでありんす。

 

ただ、この作品が描いていること自体はかなり単純でそれゆえにわかりやすく力強いものであるということは言える。要するに「愛を知る者が最強」ということだす。しかもその愛というのは性差とかを超えて「(どんな)人間を(も)愛する」というもはや創造主でなければできない強烈な愛です。

それをもっともわかりやすく体現しているのが途中から登場するシャグです。創造主でもなければ、と書きましたが、その点でおそらく彼女は神の子のメタファーでもあると思います。そう思った理由というのはいくつかあるんですが、一つ目の要素としては両性愛者であるということ=性別に囚われず愛せるということだからです。

もっとも、シャグは股が緩いとは言われていてもバイセクであるなどということは一言も言われていません。しかし、セリーと二人きりになったときのあのマウストゥマウスのエロティシズムは、ズッ友などというレベルのものではないと思います。というのも、この直後にシャグはセリーの元を離れ後にまたセリーとアルバートの元にやってくるのですが、そのときにはシャグは夫を連れ添ってきているのです。シャグが結婚しているとわかったときのセリーとアルバートの落ち込みよう(その二人を一緒に収めるところに笑いを誘引しようとしている気がする)は、明らかに失恋のそれです。

二つ目は、アルバートすらも本気で愛していたと思える発言をしていたからです。少なくとも、彼とのセックスについてはかなり肯定的な意見を述べていましたし、女性蔑視極まる当のアルバートが本気で彼女を愛し彼女に対しては下手に出るあたりなんかは、彼女から愛を教えてもらったということが如実に分かる部分ですし。

どれだけのクズ(アルバート)でもどれだけのブス(セリー)でも、人間である以上はシャグにとって愛を注ぐべき対象であるわけで、そんなことができるというのは創造主や神の子くらいなわけですよ。

三つ目は、シャグが神の視点から愛を語るシーンがあるから、でしょうか。たしか花畑のシーンだったと思いますが。

で、最後に牧師の父に「罪人でも魂はあるのよ」と抱擁する。こことか三位一体を想起しちゃうんですけど、途中から登場したキャラクターにしてはあまりに大役だとは思いませんでしょうか。

言うなれば、アギトやギルスすらも愛してしまう神がシャグであるという認識でもいいんじゃないかと思うのです。

 

そして、その愛の伝道者たるシャグの導きによって、一度は失った愛(妹のネティと実の子供たち)を取り戻すというお話なんじゃないでせうか。

この映画のすごいところは、セリーだけじゃなくてソフィアとかスクィークとかみんなをまるごとひっくるめて救済するところなんですが、あまりにさらっとやっているの意外と味気なくてわかりにくいやも。

細かい演出とか、一々取り上げてると面倒なくらいなので、気になる人は自分で観てみるとよろしいでごんす。まあスピルバーグなんで、基本的に大外れということはないですからね。BFG? あれはまあ、うん。