dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

日常的な歪み

そうかと思えば、一気に「命」の話になっていく。

普段、わたしたちは「命」というものを意識することはない。自我とか意識とかいうものを持つ我々は、それを所与として考えているからだ。というか、「当然」と思い込んでいるから考えないのだろうけれど。

それは「1+1=2」という計算式に何も思わないことに近い。実際は「1+1=2」を証明するために考えなければならないことは山ほどあるというのに。検索エンジンに入力すればわかることですが、現に「1+1 - Wikipedia」という記事があることからもそれは自明なのでせう。この自明というやつが厄介で、それゆえに我々は思考を停止してしまうことがあるわけで。

 

人間とは、家族とは、女とは、男とは、命とは。そんな七面倒臭い疑念を抱くような人がほかにいるのかどうかはわかりませんが、わたしは「山の音」を観てそんなことを足りない頭で考えたりした。

川端康成原作で成瀬巳喜男監督というビッグネームの組み合わせですが、両方とも名前しか知らんです(恒例行事)。ただ、作品が作品だけに解説などは充実していて、それを読むに原作とは違ったものに映画はなっているように思う。

ま、原作読んでないのでどこからどこまでが原作にあった部分なのかわからないので、あくまで「山の音」という映画から得たことを書くだけなのですが。

 

大学の授業で「東京物語」と合わせて部分部分を見せられたことは覚えているんですが、そのときはかなりギミックとして「影」や「道」について言及されていたので物語全体は把握していなかった。実際に全編を通して見てみると、閉塞感のようなものがある。もっとも、これはこの映画に限らずこの時期の一部の監督の映画全般に対してわたしが思うことなんですが、大体が窮屈な日本家屋ばかりが映し出されているせいなのだろう。

ただ、この閉塞感はこと本作に関しては家族というコミュニティにおける息苦しさやどうにもならなさに通じているように思う。

それが、とてもやるせない。

一見すると、尾形信吾が全ての元凶のようにも思える。そりゃまあ、菊子(原節子)という嫁がいながら浮気をして浮気相手を孕ませるわ、その浮気が原因で菊子は自ら堕胎するわでそう思ってしまうのも無理からぬ話ではあるわけですが、しかしよく考えると修一にも責はある。それに関しては、保子や英子から劇中で指摘されるとおりなわけだけれど、だからといって石を投げられるかというと自分にはできない。誰かを贔屓することなんて誰にもでもあることだし、たとえそれが血を分けた子であろうとそうでなかろうと。

そんな、普遍的で極めて日常的な歪みは、しかし生まれてくるはずの子どもの命を奪ってしまう。その話の直後のカットで義姉の赤ちゃんを抱いていたり、成瀬自身はどちらかというと菊子に同情的な描き方をしているのだろうけれど、部外者としての観客であるわたしは別な見方をした。最終決定権を持つ菊子が自らの判断で子を堕ろしたという事実への罪過を。彼女をそこまで追い込んだのは慎吾だけれど、菊子を許してしまっては生れず堕ちた子を諦めることになる。もちろん、菊子を許したい気持ちはあるけれど、歯ぎしりせずにはいられない。

浮気とか女遊びとか、親子間の扱いの差とか、問題にするにはあまりに大袈裟かもしれないけれど、それが導く結果は決して小さなものではない。

「子どもで繋ぐのは男にも女にも卑怯な考えだ」と修一は言うわけですが、これは逆説的に子どもを道具として見ているとも受け取れるわけで、なんとなく当時の価値観のようなものが浮き彫りになっているような気がしないでもない。

 

ラストのシーン。開放的な外の道で菊子と修一が歩いて行って終わるわけですが、やっぱりこの辺なんか見てると菊子に対する優しさのようなものを修一という人物を通して描こうとしている作品なんじゃないかなーと思ふ。

それは悪いことじゃないし愛のある終幕だとは思うけど、なんの解決にもなっていないんじゃなかろうか。

 

映画化された時点では原作が完結していなかったために脚本の水木洋子がオリジナル展開にしたということだから、むしろこれは水木洋子の思いが強く作用したのかもしれない。

 

あとやっぱり原節子って原節子だなーと思う。