dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ティム・バートンと書いて愛い奴と読む

前々から思ってはいたんですけど、バートンはやっぱり「オタク」という言葉がしっくりくる気がする。向こうにも似た言葉として「ナード」や「ギーク」といった言葉があるのは知っているけれど、やはりそのメンタリティは正しく「オタク」であるのだと、「シザーハンズ」を観て思った。

いまや言葉だけが一人歩きし、その精神性が失われて久しい「オタク」ですが、そんなオタク=フリークの生き方がこの映画にはあった。オタクとは、諸々の詳しい部分を端折って説明するのであれば「二律背反の中でもがきながらもそこに快楽をも見出すマゾヒスティックな変態」であると思う。

今のオタクの中に、その歪みに悶えることのできる自覚的なオタクがどれだけいるのだろうか。

や、まあ、丸屋九兵衛氏とかいるけど・・・どうも動画の印象からは、元来オタクに求められていたスキルという点では申し分ないオタク(ていうか普通にプロ)なんだけど、精神性はどっちかというとスポーティ寄りな気が。

 

それはさておき「シザーハンズ」は傑作である、と言っていいでせう。

世界に馴染めないフリークたるオタクの願望を、メルヘンなおとぎ話として美麗に、悲哀に、そしてときに恐ろしささえ湛えた語り口で綴る。

シザーハンズ」は彼のその作家性の急先鋒といっても過言ではないのではなかろうか。少なくとも、これはバートンの魂の映画であることに疑いようはない。

正直、「シザーハンズ」を観るまではバートンのことはオタクの才人であるという程度の認識でそこまで意識してはいなかった。まあ、映画を観るようになったのがかなり遅かったというのもあるんだけれど、初の出会いが「チャーリーとチョコレート工場」で劇場でリアルタイムで体験したのが「アリスインワンダーランド」(しかもまだしょぼい時代の3Dということもあって酔った)ということもあって、これといって印象に残るタイプではなかった。もちろん「ナイトメアビフォアクリスマス」については人並みに知っていたし、ウーギーブーギーのデザインとか好きなんですけど。

まさか、ここまで衝撃を受けるとは思わなかった。ちょっとバートン舐めてました。

 

 

シザーハンズ」は御伽噺であり、ベッドタイムストーリーであります。それはこの映画の本質でもあり、映画内の構造としてもそうあるはず。なぜならオープニング直後(このオープニングも最高。20世紀フォックスのロゴまで雪が降っているという凝り具合)に 老女のキム(ウィノナ・ライダー)が孫娘を寝かしつけるために、文字通り「御伽噺」としてこの映画を、エドワード・シザーハンズ(ジョニー・デップ)のことを語り始めるのです。物語の始まりがキムではなく彼女の母親の視点から始まることを考えると、キムすらも御伽噺の中の住人とも考えられるのですが。

彼女が語り始めると、窓の外の雪が降りしきる町へとカメラがうつっていき、いかにも作り物然とした白銀の世界が続いていき、家から雪の積もった町を見せてからーのトランジッションでエドワードに繋ぐ、あの一連のショットは 実に美しい。

一気にバートンの世界に引き込まれたと思いきや、御伽噺としてはやけに現実味のある化粧品のセールスの女性ペグ(ダイアン・ウィースト)が登場。しかも「トゥルーマンショー」のような凄まじい作り物の臭いを発する褪せた極彩色のサバービアの町並みとセットになることで、奇妙な感覚に陥ります(驚いたことに、セットじゃなくて実際にある場所で撮ったとか)。メルヘンにしては、あまりに現実の臭いが残っている。車なんてものはその最たる例だと言える。そのくせ、町外れの山の上の屋敷という、それだけでファンタジーの匂いを発するのに博士に作られた人造人間が登場する。このちぐはぐ差はなんだろう、と思うかもしれない。ていうかわたしは思った。

けれど、何ら問題はない。だってこれは、御伽噺だから。

そんなわけでペグは屋敷にまで赴くわけですが、この屋敷の寂れた色合いなんかはもう町並みへのあてつけかと思うほど色彩を欠いていて(エドワードが手を加えた庭は色づいている)「ああ、バートンはなんてひねくれたやつなんだ。可愛いなぁ畜生」と思うのです。エドワードはバートンであり、彼の屋敷はバートンの世界であるはずだ。色に溢れているのに、そのどれもが褪せている町=現実というオタク特有のひねくれた見方。

現実からの使者としてペグは彼の屋敷に足を踏み入れるわけですが、エドワードの部屋(?)に貼られていた新聞の切り抜きなどがすべてフリークスのものであるのも、心をえぐられる。そうしてペグに連れられて町に降り立ったエドワード(車とエドワードのミスマッチ感とか、車内でのアクションとかすごく可愛い。目の感じとか、なんというかもうほとんどチワワ)は噂になり一躍町の人気者になっていくわけですが・・・。

細かい演出でいえば、エドワードがワイシャツをきれなくてわしゃわしゃしてるときの動きとか、アレどう見ても怪獣特撮で怪獣がやる動きで思わず笑みがこぼれました。昭和ゴジラでああいう感じの動きを何度も見ましたもの。ミニラとか、あんな動きしてたでしょ。それと、アニメーター出身らしくアニメっぽい演出も散見できて、それがまたメルヘンでイイ。ウォーターベッドに穴開けちゃうところとか、 テレビ出演のシーンでひっくり返ったイスに座るエドワードの上半身をカメラで隠してみたり、そこかしこにクスっとくる画面がでてくる。

町に降りてからの町民たちの一連の流れは、個人的に見世物小屋のような印象を受けた。なんというか「カラーパープル」における市長婦人というか、「怪物園」におけるクレオパトラというか、そういうマスターベーションの道具として扱われているような気がした。この辺も、やっぱりバートンの思いがあったりするような気がしてならない。

ペグの娘のキムに恋心を抱くことで、最後の結末になるわけですが、もうここまでオタク魂全開だと清々しい。少し考えると、エドワードが追いやられるきっかけを作ったのはキムにもあるわけで、もっと作劇の上で彼女を責めることもできたはず。それどころか「わたしは止めようとしたの」と言い訳をする始末。言い訳というか、まあ事実ではあるんですけど。

けれど、バートンはキムへの責任の追及はしない。この言い訳にしたって、キムを責め立てるような演出ではないし。ただ、個人的にこの髪型のウィノナがあまり好きじゃないっていうのがあって、そういうふうに見ている自分もいるからかもしれないけれど(エイリアン4のは好きなんだけどなぁ)。

  でも、やっぱり「綺麗なままの私を覚えていて欲しい」なんてセリフをキムに言わせたり、オタクが理想とする美しい別離を臆面もなく描いちゃうバートンだから「好きな女の子を責める気はない」って宣言だと思うのですよね。

そして、そんな無邪気なバートンに萌える。

そんなわけで、バートンを愛でる映画でした。

還暦間近のおっさんに萌え悶える自分はおかしいのだろうか。

  

ここからは少しどうでもいいこと。

シザーハンズ」だけでなく「ダークナイト」でも思ったのだすが、フリークを「化物」と訳すのは少し短絡的すぎるような気がしないでもない。「化物」という単語の持つ懐の広さを考えれば決して間違えではないのだけれど、広いがゆえに不必要な奥行を持ってしまってフリーク性が希薄というか。それこそ「怪物園」というのがあるのだから「怪物」のほうが合っている気もする。並外れた何かを持つ人を「怪物」と形容することも表現としてあるわけだし、「人であるのに人ならざる者」として見られるフリークを表すのに合致している。ように自分は思う。

 そういえばクレジットに「カメラスクリプター フランクミラー」ってあったんですけど、これは同姓同名の別人なのかな。

それと、ソフト版の吹き替えが塩沢さんということでかなり気になり始めている。