dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

続きと死んだライオン

えー買っておいた「CINEMA VALERIA」をようやく読み終わったんですけど、廣瀬純中原昌也の言っていることが結構同じような論になっていて面白かったです。

なるほどなー、と。ていうか廣瀬純氏のトークの内容はほとんど「CINEMA VARERIA」で言及されていることとほぼ一致しているだけでなく遠山純生氏の詳しい解説でほとんど映画の構造がカバーできてしまうので、そちらを参考にするのがよござんすね。

いや、割と本気で傑作だと思いますです。少なくとも脳天かち割りでもしないとこの映画の記憶を消し去ることはできまいて。

 

 

で、今日観てきたのは「ライオンは今夜死ぬ」でした。

諏訪敦彦監督の映画はこれが初めてなんですが、ミーハーな自分は終了後のトーク目当てに行ってきますた。あとついでにサインもちゃんともらいましたです。

さて、まあ監督のファンと思しき(ていうかサインに並んでるんだから当然なんだけど)人が大勢いたことからもかなり高名な方なのだと追認。まあ受賞歴とかあとで知ったんですけど、確かにすごい人でした。

そんなわけで、まったく監督のことも監督の映画のことも知らない私がこの「ライオンは今夜死ぬ」を観てどう思ったか。

 

ただひたすらに幸福が画面に充満していた、という印象。

それはロケーションから溢れる光や色彩といったものから、生の体現である子どもたち、死してなお存在する女、そしてジャン・ピエール=レオーを観るというメタ(ここに関しては万人共通というわけではないでしょうが)。

冒頭の長回しに象徴されるように、この映画はともかく1つ1つのカットが長い。

メタ、というのはやはり冒頭の「ラ・ラ・ランドか!」と思うような(実際にはそんなに長くもなければ手間をかけているわけではないんですが)長回しから見えてくる。レオーの劇中演技から始まりカメラが引いていくのですが「これだけの長回しでこの動きなのに手持ちってことはないはず・・・」などと思っていると、まるでレオーを捉えていたカメラの存在を意識させるようにカメラのレールを画面に写し込む。これがメタ的でないというのならばなんというのか。

長いカットは、「時」と「間」が延長され引き伸ばされることで眠気を誘う。この映画を観て眠てしまう人がいても自分は不思議ではない。というか自分は何度か瞼を閉じている瞬間があった。しかし、実のところそれは眠気というよりはむしろ「微睡み」であり、その瞼の下は揺り篭的な多幸感に溢れている。たとえば、映画的な「微睡み」をもたらす映画作家にはタルコフスキー押井守(押井本人はリンチが好きなそうな)がいますが、あれらとは違う種類の「微睡み」なのではないかと思う。映画的な、というよりも「ライオンは~」における引き伸ばされた時間というのはもっと別な位相から来ているように思える。というより、順序が逆というか。

 

諏訪監督の映画は他に知らないのでなんとも言えないのですが、どれも「ライオンは~」のように二重のフィルターがあるのでしょうか。1つ目のフィルターはレオーという役者がもたらすフィクション空間で、2つ目のフィルターは子どもたちという限りなくフィクションから離れた現実に地続きしたドキュメンタリーちっくな空間。

正直なところ、レオーに関しては大学の授業で「大人は判ってくれない」を観たときにちょろっと知った程度なのですが、この人が出てくる場面は演出も相まって映画的なフィクションの空間が立ち現れてくるのがわかるくらいの空間構築力があることは読み取れました。これは、ほかの俳優には感じたことのないものだったのでちょっとショック。もちろん、子どもたちのシーンすべてがフィクショナルではないというわけではないのですが、子どもたちだけのときは明らかにドキュメンタリー的に撮っているわけで、レオーと子どもたちを異なるフィルターを通していることは言えるはず。

その両者が交わるときの何とも言えない即興空間。それこそが異なる二つの、しかし同質のものを内包したこの映画の象徴的な空間なのかもしれない。

象徴的に使われている鏡。生者も死者も映し出していることからも生と死を分断させずに描いていることは明らか。なのに、ジュリエットなんて死者まで登場させておきながら、この映画からはおよそ「生々しい」死の匂いというものを感知することができない。それは多分、死は生と同じく所与のものだと考えているから、わざわざ「死」を切り取ることなんかせず、「生き生き」とした生を描くだけで事足りるのだろう。

えー自分でもどうかと思いますが、これは「KUBO」における物語論にも近いものがあるんじゃないかと思います。

理解不能なものとしての「死」ではなく、始まり=生の裏面としての「死」と、生きることを描くことで現出ーーではなく、出会うということ。

だから、最後のあの表情なのだろう、と。

 

私個人としては、「死」はもっと冷たいものであるし、池田晶子を援用すればあのライオンすら矛盾した「無」の一側面に過ぎないとは思いますが、あのライオンの唐突感とかは普通に好きです。

スープのシーンとかもそうですが、画面を構成する多幸感による「微睡み」に身を預ける映画だと思うので、変に肩肘はらない方がいいかもですね。

 

えーあとどうでもいいことですが、個人的には「ジュリーと恋と靴工場」というダメダメ映画から無事に諏訪監督の映画に抜擢されたポーリーヌが汚名返上できてよかったと思います。