dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

騙されません、観るまでは

ビガイルド観れば良かったかなぁ。

グレイテスト・ショーマン」か「ビガイルド」か「blank13」かで迷っていたんですよ。でもまあ、こういうリアルタイムの機会でもないとインディ映画なんて観ないし(そんなこともないけど)?、高橋一生好きだし? 斎藤工ってかなりのシネフィルらしいし? もしかしたら大傑作の可能性もあるし? ということで「blank13」観に行ったんですがね。

うーん・・・微妙かな、これ(爆)

こんなことなら、エル・ファニングが脱ぐであろう(希望的観測)「ビガイルド」にすりゃ良かったヨー。半分冗談ですが、それでも「霊的ボリシェヴィキ」を観た後ということを差し引いても、これはちょっとどうなのでしょう。

 

映画を観ている気がしない。かといって映画を越えたものを観ているかというとそういうわけではなく。なんていうかこう、抑えた部分はちゃんとしているのに、羞恥心からくるふざけみたいなものが目立ってしまっているせいで、全体的にテレビドラマとかコント番組見てるような気になるんですよね。

佐藤二朗、お前だよ。あと本当に笑わせるためだけに登場する野性爆弾のくっきー。悪いけどね、この部分は本当に「銀魂」並みですよ。もちろん、全編通してそれだけを見せる「銀魂」のようなクソとは違いますけどね。自信がないのか本当にそれを入れることが効果的だと思っているのか知らないけど、自分の作った世界に疑いを挟むのは監督が一番やっちゃダメなことなんじゃないでせうか。

雀荘に蛭子能収とか杉作J太郎がいる、というああいう笑いはいいんだけどね。あそこに爆笑問題の田中がいたら多分もっと評価上がってたかもしれん。

で、この笑わせシーンもさることながら、この短い尺の中で不要なシーンがあったりする。高橋一生松岡茉優の二人の出会いのシーンっていらなくないですか。正確には出会ったシーンじゃなくて、出会ったであろう経緯を示すシーンなんですけど。台詞とか冗長なシーンで見せないのは良い。が、そもそもからしてこの二人の出会い(であろう経緯が読み取れる現金下ろし)の部分とか不要でしょう。この映画内においてなんら必要性がないのではないでしょうか。実在感を出そうという意図があるのかもしれないけれど、はっきり言ってしまえば「so what?」。だって、それが何か貢献するのかといえば、そんなことはまったくないから。松岡茉優の父親にもう一回会えという説得も、役者の俳優力に頼ってばかりでその背景が読み取れないために「なんでそんなこと言われなかきゃいかんのですか」という気になる。

もちろん、余命幾ばくの実父と恋人が気まずいまま別れることが嫌だという、清潔で真面目な理由を忖度することはできる。まあ、そんな説得に簡単に折れるくらいなら、最初から行動に移せよ、ということも言えなくもない。

もっとも、これは高橋一生の父親に対する複雑な思いだとか、それゆえに面倒くさい態度を取ってしまうというカマチョであると考えれば違和感はないのですが、それだけの演出が十分なされていたかというと、ちょっと疑問かもです。

 

ちゃんとした役者陣は良い。良いんだけど、方針として後半部分は役者のアドリブに任せているせいで高橋一生の演技がちょっと過剰かなぁ。目の泳ぎとか、それ自体はいいんだけどギリギリでやりすぎかもしれない。演技自体がいいだけに、そこを過剰になりすぎないように制御するのが監督の仕事だと思うんですよ。でもまあ、ここは個々の感じ方によるかもしれませんね。

実際、アドリブ主体による役者たちの掛け合いのおかげで会話のリアリティは出ている部分もある。最初の葬式を間違えるシーンの松岡茉優の同じ台詞の反復なんかは、実際にありそうだし、高橋一生の不器用な感じ自体はいいし、役どころにぴったりだと思う。

前半の統制の効いた抑えた画面や演出は(どことなく短編映画っぽいけど)好印象なだけに、後半がボロボロなのがもったいない。

 

あと言葉への配慮が足りない。

台詞とかもうちょっとブラッシュアップしませんか。口語で「彼」や「彼女」が出てくるときの(それも、ある程度の親しさがある相手に対して)嘘くささは、文字メディアであればいいんですけど、生身の人間が発するとなると途端に嘘くさくなるんですよ。よしんば、ここはわたしの感じ方のせいだとしても、一箇所だけ明らかに不自然な台詞回しがある。

「大手の広告代理店」という台詞。そんな説明的な台詞をアドリブな自然体な演技の中で言わせると、ただでさえ嘘くさいセリフが一層のこと際立ってしまうんですよ。ここはたとえば架空の名前でもいいから自然になるような台詞に変えたりもできたはずです。

たとえば

コウジ:○○(架空の企業名)で働いてる

雅人:○○って○○か? すごいな、大手じゃん。

コウジ:どうしてそんな大手に入ったかわかる?以下略

とか、そういう自然な台詞にできたはず。

あと冒頭の火葬についての字幕も「面積の狭い国」っていう、なんていうかこう、ダサい表現はどうにかならなかったのかと。ここはまあフェティシュの部分なのでそこまで突っかかるところでもないんですが、冒頭からそういう「ん?」と思う部分があると乗れなくなったりする。

もう少し言葉や文字というものへの配慮があったほうがよござんす。

 

所々に良いシーンとかカットがあるだけに(家族が多分、父親の死に気づいたのであろうとことか)もったいない。

 

最後に一つ。根本的に「それでいいのか」という疑義を呈したい部分もある。

原作のこともあるから、監督がどこまで原作との距離を取っていたのかということもあるし、おそらくはエンドクレジット後のアレを見るに原作の方に共感したからこそではあるのだろう。

しかし、もうちょっと美談な雰囲気に落ち着かせすぎではないかなぁ。どれだけ父親が実は他人を思いやる人だったとしても、家族を蔑ろにした上での、言ってしまえば自己満足な偽善でしかないわけで、だからこそコウジのあのラストの台詞なんです。

けど、その愛憎入り混じっているはずの(少なくとも台詞上は)この台詞の中には憎の部分がほとんど感じられないんですよね。

無論、元がマイナスからのスタートで、葬儀に来た人のおかげで相対的に評価が爆上がりしたからこそ、父の良い面を発見できたからこそではあるんだろう。

だけど、それで許せる程度の、言ってしまえば父親への憎さはその程度のものでしかなかったというだけなのです。深刻ぶってるくせに底が浅い、というか。

エモーショナルな映画なのに、当のメインとなるコウジのエモーション演出が少し弱いのかなーと。

 

スタッフとコメントの身内感がちょっとアレなのも・・・うん。河瀬直美がコメントしてるせいでこの映画への評価がブレそう(それくらいわたしの彼女への信頼が厚い)なんですが、大絶賛して手放しで褒めるような映画ではないと思いますです。

 

あ、でもパンフレットのデザインは良かったですね。香典風の表紙になっていて。80円高いけど!

 

別映画ですがソダーバーグの「コンティジョン」も録画で観た。パンデミックのシミュレーション映画としてはなかなか面白かった。ただ、どう考えてもすっとばされた過程で描かれるであろう部分が面白いことは想像できるので、映画じゃなく1クールだけのドラマシリーズとかにしてもっと過程を綿密に描いた方がいい気がする。そういう意味では連続ドラマ向けではあるかも。

ラストの原因解明&恐怖の継続を匂わせる音楽の使い方なんかは、どことなくホラーぽくもあったり。

登場してすぐ死ぬパルトローとか、頭皮めくられるパルトローとか、パルトロー好きでリョナ好きな人は興奮するポイントがありますな。

あとマット・デイモン。や、別にこれといってすごいというわけではないんですが、妻であるパルトローが死んだ直後の医師のやり取りとか、すごい動揺が表されていて良かった。

メインっぽい人が中盤で死んだりするあたりのスリリングさ(まあどうあがいてもフィシュバーンは死なないんだろうけど)とか、あれをもっと突き詰めて初期ウォーキングデッドみたいに誰が死ぬかわからない状況化で進めるともっとドキドキしそう。映画というメディアの性質上、それをやると絶対に収拾つかなくなるか人類アボーンな結末にしか向かわなそうではあるので、観客の感情移入役としてデイモンを配置するのは賢明ではあるのでしょうが。