dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

グレイテスト・ショーマンより断然フリークの話ですた。

シェイプ・オブ・ウォーター」観てきました。

編集騒動でちょっとバズってましたが、一箇所のぼかしはマイケル・シャノン演じるストリックランドとその妻のベッドシーンのほんの一瞬でした。

ぼかしが入ると笑っちゃうから本当はこういうのはやめて欲しいんだけど、「プリディスティネーション」に比べればこの編集はそこまで問題視するほどじゃないとは思う。

だから、某ネットサイトのライターみたいに劇場鑑賞を忌避する必要はないでしょう。

 

こと世界構築という点において、ギレルモ・デル・トロは「ブレード・ランナー」「グラディエイター」のリドリー・スコットに匹敵するといっても、まあそこまで異論はないでしょう。ファンタジーとリアルという方向性の違いはるけれど。

 

これは「そう生まれてしまったモノたち」の物語であり、実はその点においてマイケル・シャノンですらフリークと読んでも差し支えない気がする。ぶっちゃけ、日本の企業体質を知っている人からすると、シャノンに感情移入してしまってもおかしくはない。それくらい、軍という組織のシステムの中でシャノンは苦しみ、あそこまで強権的に振舞わなければの組織の中で生き残ることができなかったのだから。上からの命令に不満を抱きつつもそれに従うしかないあの姿は、はっきり言って児童向けアニメの悪役の下っ端そのものです。

むしろ、この映画における一番の被害者はシャノンの文字通り男根主義を表現するためキャンバスとしてしか役割を与えられない妻(ローレン・リー・スミス演)かもしれない。ほとんど描写がされないという、メタな意味でも。もちろん、これは冗談だけれど、そういう見方もできる。

対置されるイライザとストリックランドの性描写などからもわかるように、この映画が物語っているのはやはり「RAW~少女の目覚め~」(傑作)にも共通する、同類の相克性がある。イライザのオーガズムのメタファーとして卵が頻用されているが、単純に生殖器としての卵(らん)だけではなく、デルトロだけにエジプト神話・ヒンドゥー神話・ギリシャ神話あたりからの意味の付与もありそうだ。

だから、この映画に出てくる登場人物たちは「そう生きるしかなかったモノたち」であり、けれどそれゆえに惹かれあうことができたのだ。その意味ではストリックランドですらやはりフリークであるといっていい。現に、彼は劇中で指を半魚人に指を食いちぎられ欠損することで、イライザと同じくフリークの形象を表出させる。

終盤のアメちゃんへのこだわりのシーンなんかは、特にそれを表すのに顕著かと。

そして、その生き方や考え方は国や人種という垣根を越える。本作が冷戦時代を舞台にしたのは、単に怪獣=生物兵器化という安易なフレームを流用したかったからだけではないだろう。米ソという巨大なイデオロギーに支配される中でも、そのイデオロギーを超えて一人の「個」としての愛という自我の発露を描きたかったからに違いない。

 

エロだったりグロだったりしますが、キュートな場面もたくさんある。たとえばリストラ(おそらくはホモセクシャルであることで)イラストレーターのジャイルズ(リチャード・ジェンキス)とイライザのソファーに座りながらのタップ。最後にお互いの足をタンッと合わせる部分まで含めて、ここをGIFで延々と観ていたいくらい愛らしい。

あるいは、イライザが「彼」とメイクラブした翌日の浮かれポンチっぷり。童貞捨てた男子中学生並みのボケっぷり(ご丁寧に赤い服装してるし!)なんか微笑ましい。

即落ち2コマのようにストリックランドが車を買うシーンや、キズモノにされるシーンまで含めて。

些細な描写も気が利いていて、特にジャイルズの描写はほとんどはつ恋で浮かれる中高生のそれ。好きな人と話たいがためにまずい食物を買って、まずくて食べられないから冷蔵庫にたくさん余ってるのとか、「キャー喋っちゃった」みたいなキャピキャピとした反応とか。おっさん萌え。

あと毎度のことながらオクタヴィア・スペンサーの保護者感とか。

それ以外にも、「彼」とストリックランドのイライザへ喉の触れ方の違いや、意趣返し的なストリックランドの最期などなど。

 

あと色に対するこだわりもすごいです。今回は全体を緑色(ではなくティール色ですか)の世界観に統一しているのですが、日本語字幕まで色味がティールがかっています。日本語字幕スタッフの配慮がにくい。

 

奇形の美しさを堪能する映画として、これは傑作でせう。

 

 

余談

デルトロの作品で言えば「パシフィック・リム」が一番好きなのだけれど、あれは特定の部分にパラメーターを全振りしているわけで、それはすなわち特定の層にとってのマスターピースになるということにほかならない。その特定の層に含まれる自分にとっては「パシフィック・リム」は殿堂入りのようなものだから揺るぎようがない。

なぜなら、「パシフィック・リム」は映画そのものが奇形だったからだ。あんな一点突破型でマスに向いていない映画がビッグバジェットで作られるというのが、そもそも歪であり、だからこそメジャーなカルト足り得たのだから。

 

関係ないことですが、博士と半魚人は絶対にデルトロ自身の投影なはず。映画観てるシーンとか、怪獣への愛とか。