dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ラッキービガイルド

結局「ビガイルド」を観てきたわけですが、なんか思っていたのと違いましたが、思っていたのと違ってそこがむしろ面白かった。ほとんどエロシーンはないのに15禁だったのは、コリン・ファレルの足の傷がグロいからだったんですかな。エル・ファニングのエロを期待していたんですが、そこだけ残念ではあるかもしれません。

実はドン・シーゲル監督イーストウッド主演で以前にも映画化されていたという作品なのですが、そっちは未見。

超簡単にまとめてしまうと南北戦争を背景に(本当に背景にあるだけなんですけど)ハーレム空間を描いているだけなんですよね。一番設定として近いのは「流されて藍蘭島」かな。

ただ、そのハーレムというのを女性目線で描いているというのが、かなり新鮮味があるというか。いわゆる昼ドラ的にドロドロが表面化するわけでもなく、ラストに至るまで関係性が変動しないというのも、実はかなり珍しいんじゃないでせうか。

そのへんの、絶妙なパワーバランスや各々の行動の機微みたいなものが本当に面白くて、食事のシーンなんかは割と本気で笑いをこらえるのが大変でした。「わたしが作ったの」「わたしの教えたレシピ?」「わたしが拾ってきたのよ」とか、あの辺の応酬は本当にニヤついてました。ていうか、はっきりコメディでしょ、これ。

日本でハーレム作品といえば往々にしてアニメ・漫画がほとんどですが、はっきり言ってしまえばそれらの大半は所詮が恋愛ごっこで女の争いのままごとを描いているだけで、ある種のユートピア的な退屈さでしかないわけですが、ちゃんとやったらやっぱり面白い題材なんですよね。

今回は撮影監督のフィリップ・ル・スールがかなり良い仕事をしてくれていて、画面アスペクト比とか時代に合わせて電灯照明がないという設定に準じるために自然光を使ったり、それでも足りない部分はロウソクを使ったりしていて、寄宿舎の陰鬱とした空気はすごい出せていて良かったですな。ただまあ、「ウィッチ」でも思ったのですが暗すぎてよくわからないシーンがあったりして少し困る。

 

ラストちかくの一連のシーンで、ある女性キャラクターが一人だけほかの女性たちと別行動を取るわけですが、そこからのラストに至るまではオーソドックスではありますがハラハラしますた。

ただ、何か劇的な事が起こるといったわけでもなければ、前述したようにドロドロが直接的に表面化するというわけではないので、前半はちょっと間延びするように感じるかもしれませんね。

あと、男根の去勢としてのメタファーだったり、ある料理を食わされてコリン・ファレルが死んだりするという皮肉っぷりだったり、ラストのカットで門のデザインを利用して、あるキャラクターだけがほかの女性キャラクターから隔絶してしまったことを示していたり、そのへんは上手かったですな。

 

個人的にはソフィア・コッポラの映画の中では今のところこれが一番好きだったり。

パンフレットの情報の少なさだけはちょっとアレですかねー。せめて役者へのインタビューとかないのかよ、と。いや、役者へのインタビューって大半のパンフレットでは掲載されていますし、それゆえに以前は「役者のインタビューなんて大半が同じようなことしか言わないから削って構いますまい」と書いたこともあったんですが、こと本作に関してはそれぞれの役者がそれぞれの役についてどう思ったのかはかなり気になるところだったので、そこは欲しかったなー。スチールで濁さんでくらはいよー。

 

で、その後に「ラッキー」の試写会に行ってきました。

まったく観るつもりはなかったんですけど、たまたま当選したので観に行きましたが、一般観客に向けられた映画ではないよなー、これ。だから公開館数がかなり少ないのだろうけど。

監督はジョン・キャロル・リンチ。役者として「ファーゴ」「ゾディアック」「グラン・トリノ」といった名作から「ファウンダー ハンバーガー帝国の秘密」などにも出ている彼の初監督作品ではあるのですが、これはもう監督の映画というよりは俳優ハリー・ディーン・スタントンの映画であると言っても過言ではないでしょう。「レボリューション」と同じ系譜、といえばいいのだろうか。

というのも、この映画はほとんど主演ハリー・ディーン・スタントンのドキュメンタリーと言っても過言ではないくらい、ラッキーというキャラクターが彼に依拠している。実際、脚本のローガン・スパークスとドラゴ・スモーニャはハリーの出演作と私生活をベースにハリー本人に宛書きをしたと監督は言明している。

問題は日本の観客のどれくらいが彼を知っているのかということでしょう。もちろん彼のキャリアは長いし「ツイン・ピークス」にも出ているし「エイリアン」でブレットを演じていたりmcuの「アベンジャーズ」にカメオ出演していたりするので、決して無名な俳優というわけではない。けれど、今の人がどれだけ彼を知っているのだろうか。少なくとも、自分は知らなかった。

けれどこれ、本国での公開は2017年3月から7月にかけてで、主演のハリーが亡くなったのが2017年9月ということらしいのですが、むしろ日本の観客はこの時差によって別種の感動がもたらされているのではないかと思う。

つまり、少なからず役者自身が投影されている主人公ラッキーの、変わらないルーティーンの中で老いさらばえ死を意識するようになった老人の、そのさいごを目の当たりにするという、メタな感慨があるのだと思う。第二次世界大戦の話は、それこそ二人の体験談なのかもしれないし。

だから、この映画は万人に向けられた映画ではないし、映画好きが劇場に足を運んでまで観に行くようなタイプの映画ではない。かといってDVDでレンタルしたりネットフリックスで観るような作品とも違う。もしもこれを能動的に観る人がいるとするならば、それは熱烈なハリー・ディーン・スタントンのファンか、少なからず死を意識している人くらいだと思う。あとはまあ、デヴィット・リンチのファンとか(笑)

 

この映画には、およそフィクショナルな物語や設定というものは存在しません。その代わりにあるのはラッキーという老人のルーティーンな日常です。同じ場面に同じ人物が登場し、言葉を交わしたりものを食ったり飲んだりするだけ。アクションといえばラッキーが歩くシーンくらいでしょうが、彼が歩くシーンはかなりあります。同じ道を同じ角度から同じ人物が歩いていく。そんなシーンがいくつもあります。北野映画ではありませんが、90歳の老人がハキハキと歩いているという、ただそれだけのシーンにもかかわらず、あるいはそれだけのシーンだからこそ奇妙な感動が去来します。

もちろん、それは誰もがそう感じるとは限らない。それは、身近な人がやせ細って歩けずに寝たきりのまま死んだのを見たから、という個人的な体験がベースになっているのかもしれないし、歩くという運動が映画的快楽をもたらしてくれるからかもしれない。

何度も同じ風景が映し出され、そこを歩くラッキーのルーティーン=日常は、観ている人にとってはとても退屈かもしれない。けれど、彼が「秘密を教えよう」と言って「怖いんだ」と他者に打ち明けた時、それまで退屈に見えていた彼の日常がとても尊いものに思えてくる。

そして、その言葉に説得力をもたせているのは、ハリーの肉体の有する「老い」なのです。たるんだ頬の肉や乳房に細い手足。執拗なまでに彼の身体を映していたのも、ハキハキと(けれどどこかおぼつかない)歩行も、全てはハリー自身の背負った老いという肉体の現実なのです。そのフィジカルな現実は、やはり記号であるアニメーションとは違う、ライブアクションならではです。

わたしは、若者が老人を演じたり健常者が障害者を演じたりすることが間違っているなどと、ポリコレじみた妄言は馬鹿らしいと思っています。けれど、年月を積み重ねた老人が老人を、まして本人自身をカメラの前に現出させるということは、ほかのどんな演技巧者であってもできないことだとは思います。その意味で、わたしはこの映画をドキュメンタリーだと思って観ていましたし、製作陣もそのつもりだったのでしょう。

だからこその感動なのでしょう。

 

ラッキーはラストにいたり、こちらに微笑みかけ、道の向こう側に歩いて行ってしまいます。まるで人生の「EXIT」である向こう側へ行ってしまうように。

ワイルドスピードスカイミッション」におけるポール・ウォーカーの追悼とは違い、ハリー・ディーン・スタントンはこのシーンを撮影した時点ではまだ存命していた。けれどこのラストは、どう見ても死を予感させる。

それは、ハリーが亡くなっていることを知った状態で観たからだろうか。よくわからない。

そうして、ハリーが道の向こうに去っていくと、画面の端っこからタートル(ではなくトータスですか)のルーズベルトが現れます。映画の冒頭に現れた彼の姿をもって、この映画は幕を閉じます。

ルーズベルトの歩みの鈍さは、今となってはとても羨ましいものです。 

 

実は宗教を持たない日本人こそこの映画を観る意味があるとは思いますです。宗教を持たない者にとっての死は、持っているものにとっての死などよりもはるかに恐怖であるはずですから。