みたいだなーと「エリジウム」を観て思った。
なんかところどころでターミネーターっぽい絵ヅラがあるというのもそうなんだけど、ガジェットとかマシーンの挙動がT-800系っぽいというか。あとこれは特定の映画というよりは80年代あたりのアクション映画の特徴なのかもしれないけど、やたらとモーションブラーを使うなーという印象。
今はつべで「ADAM: The Mirror」なんて短編を5ヶ月で作って無料公開してたり、あるいは脚本だったりCGモデルだったりを提供している慈善家(でもないか、有料だし)なわけですが、そこまで作品数は多くないのですな。
「チャッピー」はまだ未見なんですけど、この人の映画ってスラムと綺麗所を舞台に立場を逆転させるという話なんですよね。プロムガンプがヨハネスブルグ出身ってことで、まあそこにはアフリカ最大と言われるスラムがあるわけですから、もしかすると原風景としてあるのかもしれない。原風景というか、日常として。
「第9地区」はまさに身体そのものが変異してしまうことで貧困・被虐の立場に「落ち」てしまい、それによって理解するということなのですが、「エリジウム」はその逆で、それがちょっとありがちな展開になってしまっているのは否めないかなぁ。そういえば最後の自己犠牲のところなんかも「ターミネーター」ぽくはあるかな。
細かい部分を指摘しだすと、医療ポッドが万能すぎるとかあるんだけど、基本的にはこの映画で描かれていることはメタファーでしかないのでツッコむだけ野暮なことではある。
彼の出自なんかを考えると貧富の差(それに付随する医療格差や衣食住の格差)に関心があるのも納得がいくし、それを描くための舞台建てとしてSFというのも親和性がある。センスもあるし。
キャメロンを引用しておいてあれなんですけど、こういうところがむしろキャメロンと違って面白いなーと思うところだったりする。それと、テクノロジーへの考えという部分でも、差異がある気がする。これはジェネレーションギャップのようなものなのだろうけど、キャメロンみたいにテクノロジーそのものへの、言ってしまえばホーキングやイーロン・マスク的な恐怖(から転じたテクノロジーへの責任)のようなものはない。
テクノロジーそのものへの恐怖ではなく、それ自体はむしろ所与のものであり、それを使う人間に責任があることを間接的に描いているような気がする。これ自体は以前からある立場ではあると思うんだけど、プロムガンプの映画だとガジェットやテクノロジーが割と自然に世界の中に同居しているんですよね。エクソスーツの外科手術とはいえかなりお手軽な感じとかからもなんとなく伺える。テクノロジーへのパラノイア的な言及がなされないというか。「ターミネーター」なんかはむしろ未来という異界からの掌握不能な異物としてのターミネーター(テクノロジー)を描いているわけですから、その描き方の違いは結構はっきりしている。
プロムガンプはテクノロジーを人間が掌握していることを前提に、そのテクノロジーの使い方を問題にしているのだと思う。だから、ラストでエリジウムのシステムを反転させるんですよね、ダウンさせるのではなく。そりゃ娘っ子を助けるためという目的があるから、ということではあるんですが。
まあ、どんだけシステムを一元化したらあんな簡単にひっくり返るんだ、という野暮なツッコミもできるんですが。
「第9地区」はよく考えると「アバター」と基本構造が同じというのも面白い。描き方は違うけれど。