dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

悲しきスタアの死と誕生

レディ・ガガだと思った? 残念、ジュディ・ガーランドでした!

というわけでスタチャでやってた「スタア誕生」を観てました。ここ最近、なんだか劇場に足を運ぶ気力がなく、そうこうしてるうちに「ヘレディタリー」が「ニセコイ」とかその他いろいろなものに食われて公開終了していたり、余計に劇場に行くモチベーションが下がったりしてた一方で、自宅で録画していたのを観ていたり。

 

スタア誕生」も12月のまとめの方にやってもよかったんですが(ってこれ毎回同じ前置きしてるなぁ)、何となく最後の方が好きだったので。

ジェームズ・メイソンの寄る辺なさとか、入水自殺のシーンなんかはちょこっと「ガタカ」の水泳シーンを思い出したり。

要するに、物悲しいのだ。

 

ノーマンにとってのエスターはまさに太陽で、彼女がなければ彼は生きていくことはできなかった。けれど、イカロスがそうであったように太陽に近づきすぎればその身を焼かれてしまう。妬み嫉みだけであれば、そして嫉妬を抱く者の矛先が、その者にとっての明確な敵対者に向けられるのであればこれほどわかりやすいものはないでしょう。だからこそ、いわゆる昼ドラというのは受けるのだから。

けれど、ことこの映画に限ってはその対象が愛情を抱く者に対してであり、さらに言えばその対象を見出し手塩にかけて支えてきたのがほかでもない自分自身でもある。

その懊悩は、かつてヴィッキーの立っていた場所に自らが立っていた分、はるかに深いものだったことでしょう。

これは間違いなく、ノーマンの物語でしか在り得ない。それは最後のシーンに至って、エスターが「エスター」としてノーマンの妻であることを表明したことからも明白だし、それをとって女性蔑視的だと言うこともできるでしょう。けれど私は、ノーマンの物語にどうしても感情移入してしまう。この映画からジェンダー的に社会論を論じるのは、無粋に思えるのです。それこそが男性優位に依って立つ思想だ、と言われると弁明の余地がないのですが。

いや、より正確に言えば、エスターにもエスターとしてノーマンの軛から逃れるルートもあったのかもしれない。そう思わせる程度には、この映画から読み取れるものはあった。

さて、言い訳がましい言い訳を並べ立てたところで、この映画の魅力は伝わらないので本題を続けましょう。

なぜこれがエスターの物語ではなくノーマンの物語であると私が思うのか。それはエスター周りのの描写からだ。

なぜエスターに「ヴィッキー」という芸名が与えられたのか。それはハリウッドの慣習であるから。あるいは名を得るシーンを描くことで彼女の女優としての一歩と喜びを表すためだから。もちろん、それはそうだろう。

けれど、そこにはもっと、文字通り二面的な意味合いがある。それは彼女自身にとっての、というよりはノーマンにとっての、という意味で。ノーマンにとっての「エスター」とは愛する妻であり幸福の象徴である。一方で「ヴィッキー」とはシンデレラストーリーを体現しかつてノーマンが立っていたスポット・ライトを一心に浴びるスタアであり、彼の羨望と嫉妬の対象であるのです。

だかこそ、前述したような太陽なのです。太陽がなければ人は生きて行けず、しかし太陽の熱と光は身を焼き尽くす毒でもある。ただ、太陽とは本来人の手に届かないもの。しかしエスター/ヴィッキーはノーマンにとって手の届くもの(そればかりか自らが生み出したといっても過言ではない)であり、それゆえに一層のこと苦悩が強まっていくのです。

かたや自宅で「エスター」とノーマン二人きりのときの、二人きりの刻の幸福の絶頂でなければ到底できないで恥ずかしいスーパー☆ハイテンションタイム(各国のステレオタイプな表現に笑う)な夫婦の、ひいてはノーマンの絶頂シーン。かたや役者としての「ヴィッキー」の最高の瞬間であるオスカーの受賞のシーンでの、あまりにだらしなく羞恥心も自尊心もないノーマンのクラッシャーっぷりの対置。

一人の女性によってもたらされる最大の幸福と最低の劣等感。その板挟みの中で、彼が選択するのが自死であるということに、彼女をどれだけ愛していたのかがわかることでしょう。少なくとも、劇中で描かれるノーマンは放埓なだけで見ているこちらは過去の栄華をうかがい知ることはできない。でも、だからこそ、そんな放縦で自分本位な彼が自らを殺すことしかできないほどに、「エスター」を(そして「ヴィッキー」を)愛していたことの証左となるのです。

ではエスターとは何だったのか?

それまで良くも悪くもノーマンに振り回され、彼の最期にいたっても(というか最期によって)振り回されはしたけれど、それを彼女自身の悲しみによって受け止め泣きつくし、彼女自身のその感情を大事に抱きステージから離れることもできたはずです。それこそが、人間的感情を有するエスターという一人の個としての振る舞いであると私は考えたからです。

しかし、そうやって自らの感情を尊重しようとした折に代理人から「ヴィッキーがノーマンの宝だったのに、すべてを失った彼の最後の宝であるヴィッキーをお前(エスター)は奪おうというのか?」と発破をかけられます。

この男にとっては徹頭徹尾ビジネスライクなセリフでしかないのでしょう。しかし、その言葉はすべて真実であり、それが残酷さをことさらに際立てる。

その言葉を受けて、彼女は舞台に立ってしまうのです。ノーマンのために。ノーマンの物語に貢献するために。

もしもここで彼女がステージに立たなかったのであれば、彼女はノーマンの軛から逃れることができたといえるでしょう。しかし、ノーマンの物語である「スタア誕生」はそれを許さない。しかし、再三書いているようにもしもエスターの物語としてエスターを主体とするのであれば、その道もあったでしょう。もっとも、そうなればノーマンの物語として進んでいたこの映画の完成度はエスターという個を引き立てるために低くなることもあったでしょう(それこそが「スーサイド・スクワッド」が表面化させた問題でもあったわけですが、もちろんそれを両立させる映画はたくさんあります)。

そしてこの映画の最後のシーンにあらわされるように、エスターはノーマンに、ノーマンの物語に貢献するピースであることを選択する。

だからこそ余計に物悲しいのかもしれない。ノーマンの人間的な悲哀と、エスターという人間の中心と周縁を巡る葛藤の末に導かれた必然的な結果への抗いがたさに。

 そう考えると、非人間化された「スタア」の誕生というこの映画のタイトルは、まさに的を射ているのかもしれない。