dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

死こそが勝利である

たまたま時間が合ったというだけの理由でよく考えもせず「パドマーワト 女神の誕生」を観る。

観るまですっかり失念していました。インド映画は上映時間が長いということを。「ロボット」というSFコメディでさえ(?)177分という長尺なわけで、そう考えると「マッキー」のオリジナル版が145分というのが全然短く感じてくるレベルなのでありまして。

例外もあるとはいえ基本的にわたくしの集中力は2時間が限界なので、3時間分の尺を想定したドラマの構成になっているとやはり途中で「長いな・・・」と感じてきてしまうというのは否めない。
とはいえ、全国で公開館数が70に満たない規模な上にその尺の長さも相まってスケジュールも取りづらい中で近所のシネコンでたまたまとはいえ観れたというのは幸運だったのかも。


絶世の美貌を持つパドマーワティを演じるのはディーピカー・パードゥコーン。「トリプルX:再起動」に出ていたらしいのですが、正直あれは映画自体が記憶に残らない(ディーゼルがスケボーみたいなので坂下ってる絵面しか覚えてない)タイプの映画だったので、彼女の存在すらほぼ思いだせないくらいで・・・。
個人的には彼女もさることながらアラーウッディーンの嫁となるめ、めふ、メフルーニサ(?)を演じるアディティ・ラオ・ハイダリさんもかなりの美貌だと思う。スカヨハとアリシア・ヴィキャンデルの柔和なパーツだけを持ってきたような顔立ちで。声もちょっとハスキーなところもスカヨハっぽい。


すでに「長い・・・」とネガティブっぽいワードを置いておいてなんですが、全体的には楽しめました。いや長いんだけど。

ただまあ、どうしてもこういうインドで大河(?)な映画というと「バーフバリ」を想起してしまいまして、あっちがもう外連味溢れるシーン尽くして、ダンスシーンも恐ろしくハイテンションで下手なミュージカル映画よりも楽しませてくれる多幸感でいっぱいになるタイプだったのに対して、「パドマーワト」は話自体のテンポは悪くないのですがこと空間を切り取るということに関しては、せっかくいろんな場面で壮大で荘厳な画を見せてくれているのに、似たようなカメラアングルでの撮り方が多く視覚的マンネリに陥っている部分や、ダンスのシーンをもうちょっと派手にけばけばしくやってくれていいのになーと思ったりするところがあって、それが「バーフバリ」がまったく飽きることなく興味を誘引してくれたのに比べると一歩譲ってしまうところかなぁ、と。

といっても、ダンスシーンでは一つ飛びぬけて好きな場面があるので、正直それだけでもわたくしとしては十二分なのではあります。
ランヴィール・シン演じるアラーウッディーンが臣下に囲まれて「ヒャッハー! あの子に首ったけだぜヒャッハー!」なダンスシーン(これ→https://youtu.be/8lXii6ZGqhk)なんですが、古来の伝記をベースにしているだけあって映画全体が叙事的なルックになっている一方で、ダンスシーンというのは特定のキャラクターの心情の表現としてのリリックであるわけで、叙事からの抒情というギャップとそこで表現される心情の発露がここまで動きで爆発していると、もう悪役であるとか関係なく観ていて「あ~この人すごい楽しそうで良いな~!」という気持ちになってくるわけです。このダンスシーンの結末の落差も相まってここら辺のシークエンスは笑えて楽しいです。

パドマーワティのグーマルに合わせて踊るシーン(https://youtu.be/6cKErCWrb44)も、照明や火の使い方や歌声とか豪奢な衣装・セットとか踊り子のシンクロ具合とか、すごい楽しいものでしたけれど、ただこれは愛の表現ではあるものの、ラタンが上階から見下ろしていることからもわかるように女性から男性へのアピールという階層構造(というか一種の権力構造)を内包しているため、アラーウッディーンのひたすら欲望というか欲動が全面に押し出され感情が純化されたダンスシーンに比べると素直に楽しめないんですよね。アラーウッディーンのダンスの方はひたすら彼を画面の中心に置いていたのに対して、パドマーワティの方は所々でラタンのカット入ってるし。映画の構造上ここは仕方ないところではあるんですけど。
ていうか、この映画が描き出そうとしているものが、男尊女卑の世界からの女性の解放ではあるので。解放というにはあまりにも壮絶なんですけど、ここでの能動性(自らの意思・好意に基づく愛情表現)と受動性(しきたりという束縛)がラストの能動性(侵犯をよしとせず死を選ぶこと)と受動性(侵略によって服従か死か選ばざるをえなくなったこと)との対置とも取れるし。
まあ、だからパドマーワティが本格的に動き出すまでが長いから、少し鈍重に感じてしまう部分もある。けれどその鈍重さというものは、パドマーワティら女性たちに括られた足かせなのでしょう。それはアラーウッディーンによる女性=トロフィーという価値観だけでなく、ラージプートの、ラタンの嫁となることすらも。
どちらの文化も、彼女を束縛するものでしかない。アラーウッディーンは言わずもがな、ラージプートの義を重んじる因習すら、パドマーワティ自身の問題であるにもかかわらず彼女の意思を許さないのだから。
再三に渡る彼女の訴えも聞かず、敵が狡猾であることも知っているのに不意打ち食らって死んじゃって、バカな男どもの尻ぬぐいをさせられるのはいつも女性ですよ。

その悲哀と、しかしそれでもなお決然と自らがくべた火炎の中に身を投じる紅い激流――その中の滴には身重もいれば幼い子もいる――の先頭に立つ傑物としての最期に、わたしは涙を滲ませてしまった。

彼女に残された最後のなけなしの、最悪の、それでも確かな自由を選び取る強さと美しさに。

 

そうそう。悲哀でいえば、個人的にマリクくんの忠犬ぶりの中に時折垣間見せる主従以上の何かをアラーウッディーンに求めているような、けれどどうにもならないあの胸をかきむしりたくなる絶妙なバランスの関係性もかなりきました。
あれって一目ぼれだったのかなあ。だからあんなにあっさりおじを殺せたのかなあと思うと泣ける。

 

が、細かいところで気になるところもちらほら。パドマーワティの登場で弓を引くところがあるんですけど、ディーピカーさんにもうちょっと力ませた方が良かったのではないかなーと。
あとは、これは書いても詮無いことなんですが、叙事詩をそのままなぞっているのかどうか定かではありませんが、ともかくベースがエピックであるが故に「え!?」というような展開があって、本当ならギャグとして機能していそうな部分も至って真面目に描かれる(パドマーワティとラタンの出会いとかまさにそう。演出の問題でもあるのかもしれませんが)ため、論理を飛躍してくるところがあるのでそこらへんは拒否反応が出る人もいそう。
これは「パドマーワト」に限らないんですけど、インド映画ってなんかモーションブラーというかスローモーションを使ってFPSというか被写体の動きに奇妙な動きを与えることが多い気がするのですが、あれって何かCGとの兼ね合いとかなのでしょうか。

それと壮絶な本編な割にちょいちょい笑えるバランスがあって、「お前何回刺させるんだよ・・・」な親殺しもといおじ殺しなシーンだったり、チェータンが殺されるくだりだったり、生首が3回も登場するし(どんな天丼だ)、ベッドシーンで歌うマリクくんとか、熱湯コマーシャルも真っ青な本当に一瞬だけのパドマーワティ開陳とか、意図的な笑いもシュールな笑いも結構あります。

 

全盛期のハリウッド映画の放っていた雰囲気を煌びやかな衣装とセット(上映時間も)で現出させられるのは今やボリウッド映画くらいしかなさそうなので、そういう意味ではやっぱり観れて良かったどす。