dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

美しき兄弟愛(ただし当人たちにのみ理解可能)

 

ずっと気になってた(といってもここ数ヶ月だけど)「カニバ/パリ人肉事件38年目の真実」を観てきましたですよ。

 

アルバトロスでもトランスフォーマーでも配給できなかったらしい、というくらいなのですが、まあわからないでもない。
東京ですら1館でしか上映していないという小規模公開で一日一回の上映というキツイ上映プログラムになっております。


映画とは別でロフト?でトークショーもあって、私は現地には行けず生放送のタイムシフトで観たんですが、和やかなムードの中でまさかの流血沙汰があったり、こちらも色々と衝撃でした。
ライブ配信の映像にボカしがかかって、まさか映画とのリンクをするという「奇跡」まで起こる。まあ流血というのは、佐川純さんが映画で見せた「アレ」のその先をさらに開花させたせいであって……ともかく色々と凄まじいことになっていました。

このトークショーでは色々と映画では知れない情報が登壇者の口から飛び出すのですが、中でも根本敬さんの、佐川一政のあの姿はあの時期だからこそ撮影できたものであり、あの奇跡的なハッピーエンドも、今では無理なのだろうということも暗に言及されていたり、ほかにも佐川純さんが事件当時のことを話すときに涙ながらに嗚咽したりせき込んだりと感情の発露が観られたりする、貴重な場面ばかりでございました。

とまあトークショーの話を延々と垂れ流すのも面白いのですが、それだけでもかなり量を使うことになってしまうので早々に本編について書いていきましょう。

 
 これ、海外ではドキュメンタリー映画の賞を獲得していたりするのでドキュメンタリー映画として観るのが正統なのかもしれませんが、しかし画面に現出する(柳下氏が言うところの)異形さはほとんど劇映画的なフィクションの領域にも踏みこんでいるような気がする。私が寡聞なだけといえばそれまでのことではありますが。
けれど同時に、その異形さが明確に映し出される瞬間はやはり劇映画(=作りもの)を観る時に担保される観る者の理性的なセーフティを、ドキュメンタリーでありまさにカメラの前で嘘偽りなく行われているがゆえに容易に超越してくる。

この映画は、二人プラス一人の顔以外を映したりはしない。これは比喩とか誇張ではなく、始まった瞬間から終わりの瞬間まで登場人物の顔のドアップだけしか映し出さない。佐川兄弟の幼少期のホームビデオや佐川一政が出演したアダルトビデオの映像がインサートされたりはするのだけれど(そして、それのみがほぼほぼ私たちがシンパシーを感じることのできる僅かなものである)、ほとんどは佐川兄弟の顔面のクローズアップのみだ。

ところがぎっちょんてれすくてん、この映画の特徴的なところは、顔のドアップだけではない。むしろ、その顔にフォーカスが合わないことにこそある。
それが意味するものとは。端的に言って、理解不能性ではないだろうか。あるいはその不能性から逆算的に導かれる些少な理解可能性というか。

多分、監督は最初から佐川兄弟を理解しようとなんてしていないのではないか。じゃなきゃあんなにソフトフォーカスしっぱなしにならない。

もちろん実際のところはわからない。当初はその正体をあばこうとして、その過程で方向転換せざるを得なくなったのかもしれない。理解の外にあると。それでも、わからないなりにもときたま監督が解釈を加えようとしているのではないかと思う場面がある。

たとえば、佐川一政が何かを「口にする」場面がいくつかある。ほとんど常時ソフトフォーカスなこの映画にあっても、その瞬間はどれも恣意的なソフトフォーカスでボカされる。そして、最初の何かを食したシーンの後に佐川一政の唇を観ると黒ずんだものが付着していることがわかる。

フォーカスがかかっているとはいえ、会話などからチョコレートを食べたことやお茶を飲んでいるということはわかる。しかし、フォーカスが合わないことによって誰もが意識することなく生きるために行う「食す」という行為が、まるで観てはいけない不可解なもののように切り取られる。

人間はおろか動物であればだれもが生存のために平然と行う営みであり、それ自体は理解可能なもであるにもかかわらず、「佐川一政が」「食す」となると不穏な意味が付与される。もちろん、その理由は明白で、だからこそ監督はこのように描いたに違いない。

 
それでも、時にカメラがそうするように観客が佐川に近接する瞬間はある。
兄弟愛を捉えた場面、佐川純が「まんがサガワさん」(佐川一政が自ら事件当初のことを描いた漫画)について倫理(にもとること)を語る場面がそうだ。

そこに映し出されるのは我々にも共感可能なものだ。しかし、カメラが、佐川に寄り添い観ている側が彼(ら)を解きほぐそうとすると、近づきすぎるがゆえにそのフォーカスはテクスチャを、顔の表象を失い抽象的な絵画然としたものに変容していくように、近づくこと=理解可能性が高まるがゆえに、より彼らの理解不能なその異形さが際立つ。

完全に理解を拒むものであれば、むしろここまで複雑なものにはならない。しかし、どれだけ異形であろうと佐川兄弟は人間であり、シンパシーを抱く余地がある。それがより二人を不可解な存在へと押し上げている。


本作を撮った二人の監督は、インタビューでこんな風に答えている。

ラヴェル:前略~映像の焦点を合わせたり、あるいはボカしたりしているのは、我々がその撮影現場に居ながらも、日本語がわからないことで”不在”であることを示しています。この手法こそ(観客)が佐川氏の世界に入り込んだり、抜け出したりする感覚に思っています。

キャスティーヌ=テイラー:前略~もしも私たちがこの映画をミディアムショットや典型的なドキュメンタリーのスタイルで撮影していたら、観客は主人公との距離を感じてしまうと思ったのです。カメラを物理的に近づけることで、精神的にも密着して不快感を生じさせている。つまり、観客は主人公との間に快適な距離感を保てないことで、強制的に佐川氏のアイデンティティーと自分との区別を強いられることになるのです。

佐川兄弟の顔だけでない。彼らの言葉すらベールの向こう側に追いやられる。そして、画面を通してしか佐川兄弟を観聞きすることができない我々観客も当然同じレイヤーに留まることしかできず、理解から遠のいていく。
そう。だからこそ、この映画の画面には佐川兄弟と、兄にその存在を認められる里見瑤子の顔(と彼女の胸)しか映らない。なぜなら、この二人と一人の共有する世界観に他者の入り込む余地はないから。

だとしたら、それは異邦人である二人の監督だけの話では決してない。なぜなら、先に述べたようにこの映画は佐川兄弟の世界(とそこに寄り添うことを許された一人の女優)の話であり、兄弟のような異形という言語を持ちえない我々にも理解できないものであり、やはり監督と同じように観客も不在になってしまうから。


さて、ここまでカニバリズムを実行した佐川一政のみならず、かいがいしく彼の介護をする弟の佐川純を佐川兄弟として一緒くたにして語ってきたのだけれど、では佐川純はカニバリズムを実行したり人を殺したりといった犯罪を犯したりしたのかというと、別段そういうわけではない。

が、間違いなく弟の佐川純も異形である。むしろ、この映画はそれを白日の下にさらすことこそが目的だったのではないかとすら思える。

もしかすると、監督も当初は想定していなかったんじゃないか。撮影を進めていく中で「アレ」を目撃してしまい、弟にも関心が向いたのではないか。(トークショーで里見さんが言うには、監督が「アレ」を目撃したとき、凄いものが撮れたと興奮してたらしいですし)
それで兄を撒き餌に、カニバという異形性ゆえに隠れていた弟の異形性を白日の下に晒そうとしたのではないか。化物の正体を掴みに行ったら別の化物に遭遇したのだと。

それを示すかのように、この映画は佐川一政ではなく弟の佐川純の顔から始まる。ところが、「アレ」が明らかになるまで、佐川純の存在は佐川一政の陰に隠匿されている。それは演出上も明らかで、たとえば佐川純が喋っているにもかかわらず当人の顔は映らずに佐川一政にフォーカスされていたり、あるいは佐川一政の頭によってその奥で話す佐川純の顔が覆い隠されたりする。

 中盤、佐川兄弟のホームビデオが数分に渡ってインサートされる。70近い佐川兄弟の幼少のホームビデオだから、60年以上も前の映像だ。

そのビデオに映っているのは無邪気に、そして同じ服で戯れる佐川兄弟。ブランコを漕いだり相撲を取ったり、ともかく仲がよさそうだ。「右腕」に注射をされる佐川兄弟の反応の違いも、ともすると予兆だったのかとも思えてしまう。針を刺された瞬間ちょっとだけ顔を歪めるだけで特に関心はなさそうな佐川一政少年に対し、針を刺されることに過剰に反応していた佐川純少年。

二人が違うのはその反応くらいで、それ以外のほとんどはまるで双子のように同じ装いで仲睦まじい様子だけが延々と流れる。まるで二人が同質の存在であるかのように。

そして、ホームビデオの場面から暗転すると、兄の影に隠されていた弟の肉体がクローズアップで映し出される。有刺鉄線(鉄条網?)を自らの右腕に巻き始める姿が。

明らかな自傷行為はそれにとどまらず、包丁を3本ほど束ねたものをやはり自らの右腕に刺し始める。佐川純は自分の右腕から流れる血を頬張って啜り始める。射精まではしないが、性的な興奮を覚えるのだとカメラの前で事も無げに述べて見せる。

そして、そういう欲求を満たしたいがために、それを満たしてくれる女性との絡みを求めて自傷行為を捉えた映像を何回か送っていたことも明らかになる。
その映像は、目をそむけたくなるものばかりで、やばいです。千枚通しのようなもので腕を突いたり有刺鉄線を巻いてその上から仏壇用の熱い蝋燭で熱していたり、この辺は直視できない映像ばかりで配給会社が避けた理由もわかりすぎるくらいないわかってしまう。

そう、嗜好が違うだけでやはり二人は同じ異形を有している。ホームビデオはその伏線として機能しているのでせう。

それを補強するように、佐川兄弟と親交の深い根本敬の寄稿に、映画では描かれないが重要な佐川兄弟のやりとりがある。

佐川純と根本敬の誕生日をとんかつ屋で祝っている席で佐川一政が「悪かったな、俺のためにお前の人生だいなしにして」と言ったらしい。それに対して佐川純は「兄ちゃん、それは言わないでくれ、あのことは俺ちっとも気にしていない」と本気できっぱり言い切った(ように根本敬の目には写った)と。

映画本編を観た今、その言葉に偽りがないことは明々白々だ。

さもありなん。既述のように、表出する形は違えど兄と同じ異形である弟は、自身が内包していたものと同じものを感じていたはずだからだ。

いや、佐川純の言葉が本当ならば、それが明確な形で発現したのはむしろ佐川純の方だろう。なにせ、3歳のときには内なる異形を自覚し60年以上にわたって「刻み」続けてきたのだから。

そうして弟の異形性を暴き、ともすれば彼が主役にも思える中で、しかしやはりこの映画は佐川一政を主に据えていることが、里見瑤子の登場によって思い返される。

献身的に佐川一政に寄り添う彼女の挙動言動は、まるですべてを佐川一政に貢献しているかのようにすら思えてくる。彼女が「人を食うゾンビ」を演じた話を語る場面などは、まるでカニバを佐川一政と里見瑤子の共通言語化しているかのようにも見えてくる。

彼女が「メイド服を着ていなければ話の内容も変わっていただろう」と述べている。そしてメイド服を着た理由も考えると、それは偶然の積み重ねによって生じた奇跡的なやりとりなのだということを思い知らされる。まさに佐川一政自身が「奇跡以外のなにものでもない」とつぶやくように。


確かに奇跡だとは思う。そんなことを言い出すと、事件当時の誤訳によって不起訴処分になり国内外で裁かれることがなかったことも奇跡なのだけれど。

まあ、そもそも佐川兄弟に限らず他者を理解すること自体が不可能なのだとわたすは愚劣なシニカルさでもって考えるわけですが。