dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

第七間隔

「2つの頭脳を持つ男」

色々とぶっ飛んでる。

やってることはバカ殿様と大差ないんだけど、倫理観とかガン無視してマッドな方向に突き進むのは面白い。

下ネタだらけだし、細かいボケの感じとかほんとにコント番組のコントそのものなので、あまり映画を観ているという感じはしないけど。

ジェームズ・クロムウェルが出ているあたりとかも笑えてくる。

 

影の軍隊

ジャン・ピエール・メルヴィル監督の映画。

にしても重い。

ナチス政権下を舞台に繰り広げられる映画はたくさんありますでしょうが、この映画は本当に暗くて重苦しい。空は映っても灰色の雲海ばかりだし。

カッコつけた表現だけど、メルヴィル監督のカット割りってすごい静謐だから、余計に無情感が滲むんですよね。

「サムライ」から続けてみてみると、プロフェッショナルな人間たちが理性的に動いているのに、その目的自体がともすれば夢や理想といった彼ら彼女らの冷静沈着な行動の裏を行くようにすら見えて、その、矛盾はしないのだけれど相反するものを背負っていてやるせなくなってくる。

矜持に生きる人間って、こんなに侘しいものなんですねぇ。

 

バトルフィールド TOKYO」

低予算なつくりバリバリなんですけど、時期的に「クローバーフィールド」のパロというかエピゴーネンとして作られてる感じ。

ノイズのバリエーションが無駄に多くて編集であることが丸わかりだったり、明らかに救急車じゃないものを救急車に見立てたり、まあ色々とアレな出来ではありますが、なんだかんだて怪物がチラリと映るシーンは好きだったりする。

ミズチとかいうネタのチョイスはよくわかりませんが。

まあクローバーフィールドより白石監督の路線こそがこの映画の目指すところだったのではないかという気がする。

 

X-men アポカリプス」

今さら見る。

外連味あるシーンはたくさんあるのに気の抜けたシーンが多いのがいかんともしがたい。

ブライアン・シンガーも飽きてたんじゃなかろうか、これ。

 

「トラッシュ この街が輝く日まで」

「ものすごくるさくて、ありえないほど〜」の監督だったんですね、これ。

この人の作風ってどうも独善性というか、欺瞞じみているというか。

いや、「ものすごく~」に比べれば遥かに観ていて楽しいんですけどね。それはまあ題材が題材だからでもあるんですけど。

基本的なフォーマットは少年の冒険譚ですし、そのフォーマットにブラジルはリオデジャネイロのゴミ山のスラム?を当てはめるというのは中々ないですから、異化効果を生んでいますし。

序盤は良かったんですけどね、これから何が起こるのかという緊張感をもたらしてくれてましたし。「コースター」の暴力表現も生々しくてエグいし、その辺までは良かった。このあとでラファエルが殺されない理由のあまりにもおざなりな部分から予定調和・欺瞞さ・独善みたいなものが全面に出てき始める。

ビデオもさ、あんだけ殴られて顔面傷だらけだったのにいつの間にか傷治ってるし、むしろ傷がある状態でカメラに収めることこそが現実のグロテスクさを誠実に伝えるということを劇中劇的に描出できたはずだと思うんですけどね。

そういう不誠実さ・欺瞞さの極北がラストの銭ゲバシーンとそれに続く綺麗な海辺でワイワイする少年少女たちでしょう。

なんだか別の監督がやればもっとうまい具合に行ったと思うんですけど。

でも終盤の、夜が明けかけている空をバックにトタン屋根の上にいる彼らのシーンは結構グッときましたよ。

 

モンスター上司

ケビンスペイシーが1人だけガチトーンの演技をしている箇所があって笑う。

 色々あるけど、歯科医の件に関してはあれは最大限の異化効果が発揮されている部分だと思いますですけど、制作側にはその辺の問題意識がないというのが惜しいところ。

 

アルビン/歌うシマリス3兄弟

チップとデール+1。原作あったんかいこれ。しかも半世紀以上前の作品が元ですと・・・?

なんだけど、なんかこう、メジャーデビューしたバンドあるあるみたいなものなのかなぁ。デヴィッド・クロスが出てることになんか笑う。

 

「サーチ」

 監督まだ20代半ばですか。卓越した編集力と脚本の構成力で画面がもう才気煥発している。

これは大きな画面で観ないと細かいディティール、というか画面中に散りばめられた伏線を確認しづらいので劇場で観ておきたかったなぁ。

死んだと分かるやお通夜モードになる友人未満の学友たちとか、tumblrをtumblerとスペルミスするお父さんとか、文言を送信をするかしないかの逡巡をタイピングの画面だけで表現する演出などなど、映像で映える描写が細かい。この辺のリアリティ、最近も観た気がするんだけど、なんだっけな。

まあ、ヴィックが家に訪れたときにフェイスチャット(?)を起動しているのはよくわからないというか、なんか説明的すぎる気はしましたけど、それ以外はほぼ設定したルールを守っているし。

あとはどこまでが本当にあるものなのか知らないんですけど、住所がわかるサービスとかって本当にあるんですかね? 日本で言う電話帳みたいなガバガバさな気がするんですけど。もっとも、ああいうサービスが実際になかったとしてもあるように思わせる細部の作りが説得力を持たせているので、ご都合主義という感じはない。

むしろ、趣としては一種のシミュレーション映画のようにも思える(ソダーバーグ監督の「コンテイジョン」をちょっと思わせる)。それくらい、父親がハイスペックというか探偵じみた操作能力を発揮する。

これを「できすぎ」と取る人もいなくもないでしょうが、まあそこは親子愛ということでご愛嬌。

いやこれ、かなりウェルメイドな作品だと思います。

今後の活躍が楽しみな若手監督の一人です、アニーシュ・チャガンティ監督。

 

 

スクール・オブ・ロック

観ててニヤニヤ、ほっこりする。そしてジャック・ブラックの動きが面白すぎる、地味に長回しだだったりするし。

一見するとジャック・ブラックがロックを押し付けているという学校と同じような構造のように見えつつ、しかしその活動の中で生徒たちが(おそらくは発散できず)抱えている怒りを拾い上げてロックの中に昇華させている。

吹き替えで観たんですけど「大物」って原語だとどういう言葉になってるんだろうか。

ともかく、ロックの敵として「大物」という言葉を使っているわけですが、生徒の一人に「大物ですね」と校長先生に向かって言うわけですが、その直後に実は校長先生も・・・というあたりも上手い具合。

実際、校長先生が実のところ一番の『大物』だったわけで。

しかも特定の人物にフォーカスしつつも、ちゃんとバンドメンバー以外の部分もバンドを構成する一員としてのロールを与える目くばせ。ギャグめかしているバランスも絶妙。

ちょっとした部分で笑わせてくる芸コマ描写も秀逸。黒板にE=mc2を書いておきながら即興の算数の歌はへなちょこだったり。とかとか。

演奏シーンは最後の最後までお預け、というのも結構珍しいパターンな気がする。途中で一回失敗を挟みそうなものなのに。

教わる側だった生徒がジャック・ブラックを奮い立たせるという展開も、ベタではありますがやぱり燃える。真面目っぽいローレンスがフレディと小競り合うのもスキでございます。

何よりジャック・ブラックが下手くそを自覚して、それでもなお好きであるということを拠り所にするのも泣ける。

制服で演奏する、とりわけジャック・ブラックが制服を着ることの意味。抑圧され幼稚な殻に包まれながらも熱唱するその様。

個々の才能を発揮しそれぞれのオンステージを飾りながらも、才能のない彼のためにその才能を発揮するワンフォーオール・オールフォアワンの体現。

 

大きな成功はしなかった。けれど小さな勝利を収めた。ああいう塩梅のエンディングも最高。

流石リンクレイター。

 

「ゾンビ・サファリパーク」

モチベーションが「パージ」的というかヒャッハーというか。

 「ジュラシック・パーク」なんかもそうですけど、こういう生命をアミューズメント化する施設を舞台にした作品では人間側のエゴが相対化されて見えてくるわけですけど、相手がゾンビ=人の姿をしているという点では中々にグロテスクな映画ではある。

「ウェストワールド」なんかはさらに逆転の構造があったりしますが。

しかし心理的な医療目的のためにゾンビを射殺、というのは大丈夫なのだろうかこれ。逆にトラウマになると思いますけど。

女子二人のキャンプの会話で死者が云々とかって話をしているあたり、功利主義というか損得勘定と倫理観の葛藤みたいなものはやはり意識しているだろうし(そもそもリゾートという施設がまさにそ表象だし)、躊躇していた彼女がゾンビを撃つという行為そのものが彼女自身のトラウマの克服という意図を持たせているのだろう。

と思いきや特にそんなことはなさそうである。しかし彼ピっぴも主人公の女性ももうちょっとムービングをどうにかできないものだったろうか。

最後まで不殺を貫くのは立派なことです、ええ。そのために彼ピっぴがとうとつに嫌なキャラクターに変化し、彼女の不殺という責任を帳消しにしようとするのは流石に笑いましたし、挙句彼に自殺させてその銃を持ち去るというあたりの「俺は嫌な思いしたくないから」精神の徹底ぷりは逆に新鮮ですらある。

そんな彼女が「人類の責任が~」というのは浮薄では。

 

あの最後の終わり方を観るに、おっさんが生存しているあたり、あのおっさんが黒幕だったりするのだろうか。まあオチとしてはB級精神にあふれているので嫌いではないのですが、妙にお金かかってこれはうーん・・・。

アニオタくんのシャツのせいで悲壮感が笑いに転じてしまうよー。

難民の扱いは予定調和ではあるし、まあそんなもんだよね、といったところ。

 

 

エニイ・ギブン・サンデー

オリバー・ストーン監督作。控えめに言って傑作。

選手の痛みから始まり、屋内での選手の姿を忙しない手持ちのカメラが追っていく。それを口火にアメリカンフットボールの世界の病理・マチズモをこれでもかと暴き出しながら、それでいて劇映画としての情動を喚起させ感動的な着地を見せるという極めて歪な作劇になっている。

オリバー・ストーンはアメフトの、ひいてはスポーツ界隈の陰部を含めたあらゆるものを晒そうとしたのではなかろうか。それを表象するかのようにロッカールームで選手たちはスッポンポンだ。モザイクはあるけど。

はっきり言って、ラストの試合に至るまでに描かれていることはフットボール界のあるあるな汚わいばかり。

ラストの試合のようにエモーショナルに徹することはせず、極めてグロテスクなシーンをインサートしてくる。ちょっとあの眼球が転がっているカットは本当に唖然としましたですよ。

でも、全てということは、そこに含まれるのは抗いようのない熱狂や感動もだ。だから、それこそあまりにマッチョでホモソーシャル(しかも、男性ではなくその価値観に支配されてしまったキャップの妻とキャップの関係性のような多層性も含んでいるという周到さ)で極めて醜悪なシステムを描きながら、最後には感動をもたらす。

それはとどのつまり、歪な構造を含めてこの感動がもたらされているという、やはりどこまでいっても歪なフットボール世界の構造を弁証法的に明らかにしてしまったのだ。オリバー・ストーンは。

わたしもまがりなりにチームスポーツを嗜んでいたからわかる。あの熱狂、あの熱量、チームという多数の意思が単一の目的に収斂し動くこと。それが達成されたときの巨大な感動。

そして、そこにはやはりロッカールームで繰り広げられたようなチームメイト間のパワー関係もあり、決してワンフォーオール・オールフォアワンなんかではない。けれど、試合になるとそういった感情は排されてゴールを狙うための群体と化す(※強豪チームなどであれば)。

ただ何度も書いてしまいますけど、本質的にあるのは歪んだこの世界への視線だと思う。キャメロン・ディアスがママンとの会話の中で「変化していく云々」と言っている画面の横には、カウントが表示されている。彼女はカメラの前であることを意識した発言しかしていない。

そういった、チーム自体の外での歪みも決して欺瞞に覆い隠さない。

選手の意思肉体家庭、マネージャー、コーチ、オーナー、ドクター、資本主義、黒人差別・・・あらゆる要素が複雑に絡み合い、それらが歪みを生じさせて、最終的に感動をもたらす。

あまりにグロテスクで残酷な情動を体験したいのであれば、この映画は最高の一本になりえる。

 

「ツイスター」

むかーし、ちょろっと観た記憶があったんですけど、こんなに面白い映画でしたっけ?

スピルバーグ製作、というのが納得できすぎるくらい納得できる。

モンスターパニックやディザスター映画で重要なのって、実のところモンスターや災害の描写ではなくキャラクターが描かれているかどうか、というところが極めて比重としては大きいと思うのですが(実際、「ジョーズ」においてサメが出てくるシーンは本当にわずかだし)その点で言えばこの映画のキャラは最高である。

ヘレン・ハントってロビン・ライトと似てるなーと思ってたんですけど、この映画だとジョディ・フォスターにも似てるな、と。何気に「フェリス~」のアラン・ラックが出ていたりするし。

しかし今見ると故人が多くて悲しくなってくる。当時は意識して観てなかったけれど、今見るとビル・パクストンにフィリップ・シーモアホフマンとか、良い役者ばっかりですねぇ。「トレマーズ」のベーコンしかり、こういうジャンル映画においてもキラリと光るものを残していくのは流石というか。よく考えたらマイケル・クライトンも亡くなってましたね。いやぁ、なんか諸行無常

で、スピルバーグが手掛けるということでやっぱりゴアな描写があったりするあたりもご愛嬌でありんす。

いいですねぇ、この映画。金ローでたまたまテレビつけて偶発的に観たりしたときの「なんだこの映画楽しい!」といった類のわくわく感を思い出させてくれる映画でござい。

家の中を突っ切る車とか、竜巻の中とか、最後の最後にカメラが離れていって竜巻の爪痕を見せてくれるあの抜けの良さといい、良い映画ですた。

 

「アンフレンデッド」

これもPC画面のみで展開する映画なんですが、ホラーという点でサーチとは異なりますん。

結構楽しかったです。

しかしまあ、チャット系のアプリあんま使わないので若干UIとかに戸惑う。

作劇上の制限とはいえ、1人目の犠牲者が出た時点で誰も家に向かわないあたりの(正確には向かおうとしたキャラはいましたが)行動の制限が、時代性を垣間見ることができる。

しかしあんだけ友人死んでるのに音量は調節しようたしてたり、錯乱状態で変に細かいところを気にしてるキャラに笑いがこみ上げる。

あとなんというか山田悠介の罰ゲーム的というかなんというか。

プロムパーティの話をしてたってことは高校生なんですよね。妊娠させて堕胎させたとか、親友が彼女とヤッてたとか、それが原因で仲間割れ起こすとか、良い感じに年相応の馬鹿っぽさが演出されていて大変よろしい。

タイトル的にはチャット仲間の繋がりと脱糞娘と主人公の関係性の二重の意味があったり、結構気が利いている映画ではありました。

続編もあるらしいし、結構ヒットしたんでしょうね。

 

「5パーセントの奇跡~嘘から始まる素敵な人生~」

こういうの本当に苦手なんですよね。障害を持った人が頑張って人生を成功させた、みたいなバラエティ番組でありがちなタイプの映画って。

 ていうか、この映画に関して言えば詐称しているわけでありますし。もちろん、それを開示していたらそもそも研修にすら参加できなかったであろう、ということはわかりますけども。

見えづらい、という描写も時たま思い出したようにぶつかったりする程度ですし。まあ、その程度だったと言われればそれまでですけど。

 

 

冒険者たち」

Q.満を辞して開いた個展の批評が最悪でした。どうすればいいでしょうか?

A.とりあえずはしゃぎましょう。

この場面のヤケクソなんだけど決してネガティブではないのが好きすぎて。

そのまま打楽器音楽を垂れ流しながらコンゴでのバカンスシーンに繋ぐのとか、とりあえず楽しむ精神につらぬかれていて大変よろしい。

前半の賑やかさから打って変わって後半のノワール調に転じる落差に驚き桃の木山椒の木。

ともかく最後のカットの悲壮さが美しすぎてアレだけでお腹いっぱい。

あれどこロケ使なんだろ。

 

おみおくりの作法」

寡黙な映画でございます。彩度も少し弱い。しかしそれは多くを語らないことを意味しない。

外を歩くとき、少し引いた位置からネイサンを捉える。一方で、黙々と作業をしているとき(=身寄りなき亡者の過去に触れ、彼らを知ろうとする過程でもある)、カメラは外にいる時よりも近い位置にある。

そして何より、彼が無縁仏の死者について(誰かと・誰かに)語る(伝える)ときに,

より一層近づいていく。

 

白くて質素な部屋で壁に向かって食事を取る。事程左様に、ネイサンが言葉を尽くす相手は一方的なディスコミュニケーションしか成立しない身元の分からない遺体だけ。

それにもかかわらず、社会のシステム上彼らを効率的に事務的に扱わなければならない。だからこそ毎日毎日の彼の仕事場は、書類の棚で囲まれている。そしてその事務的なシステムに従わなければならない以上、彼のように誠実に死者に向き合う方法は排他されてしまう。

 

いや、ディスコミュニケーションなのは死者とだけではないのかもしれない。彼が死者に対して誠実であろうとすればするほどに、その死者との縁を持った人を説得するのは困難になる。

何故なら死者はその時点で時の止まってしまった人であるのに対して、メイが説得しなければならない人々は時(いま)を生きる人であり、それらの人にとって無縁仏は過去の人でしかない。死者に寄り添うメイとの間でかみ合わないものがあるのは当然だ。

でも、ストークのような場合もある。それまで一人で何かを口にしていたメイは、しかし彼を知る物乞いとだけは、口にするものを共にする。

黙って寄り添えるのが理想なのだと物乞いの一人は言う。

 

誰かの死を伝えてきた彼の死を伝える者はないという、あのラストは確かに一抹の無情さはある。でも驚きはない。それまで嫌というほど、この無情なシステムについては描かれてきたし、彼はその中で生きていたのだから。

冷酷ではあるもののプラチェットの言葉は偽りない事実でもあるわけで。けれどそれは、メイにとっての真実ではない。だからこそ誠実に向き合い続けたからこそのあのラストなのだし。

それに何より、あの終わり方はアイロニカルでもなければシニカルでもない。それまで彼が看取った人々が集まってくるまでもなく、彼の行いが報われた、これとないハッピー・エンドだから。

誰かが「生きる」に似ていると言ってたけど、「生きる」とは正反対の終わり方だと思う。そもそも描かれていることは似てはいるけどピントがだいぶ違うし。

 

どうでもいいけど斎藤工の「Blank13」ってこの映画にインスパイアされている部分がある気がする。

 

なんかすごいしみったれたこと書いてきたけれど、結構愛嬌のある場面もあるんですよ。犬との見つめあいとか落ちたアイスを窃盗したり(ここは侘しいシーンでもあるんですが)ケリーが来ると分かると滅茶苦茶嬉しそうに葬儀について話し始めるメイちゃんかわいいし。

このケリーさん、どっかで観たことあると思えば「ボブ猫」のヒロインのジョアンヌ・フロガットさんだったんですね。

日本語版ウィキ作られていてもおかしくないくらいには作品に出てる気がするけど、まあつくられない理由もわからないでもないというのがちょっとモヤモヤする。

 

 「孤独の暗殺者/スナイパー」

なんか重苦しい。画面の明度といい、のっぺりしたカメラワークといい。

しかし全体的に中短編っぽい趣。

父親がもう少し死ぬの早ければああはならなかったのだろうとか、まあそういうたらレバを想像したりするのは楽しいものですけど。

疑心暗鬼にかられる様とかは良いですけど、全体的には自分の体調も相まって印象に残りづらい映画ではありました。

というか、多分ほとんど体調がすぐれないせいなんですけど。

 

「リバー・ランズ・スルー・イット 」

リリカル回顧。

お爺さんの昔話を聞かされている感覚。というかそういう作りであるわけなので、当然なのかもしれませんが。不在の中心を語るという意味では霧島にも似てるかな。

なんというかジョンカーニーのhurtを思い出す。

 

ニューヨーク東8番街の奇跡

なんこれ・・・。なんかほのぼの路線だけど明らかにねじが一本抜けてますよね。

まあUFOを妖精とかもっと有機的なものに変えればより受け入れやすい感じになるのかもしれませんが、あれはむしろCGの特性を生かすためにあえて無機物を選んだのでは、とも思う。

デモン・シードもびっくりでしょう、機械が機械と小作りなんて。

まあ表情は豊かですから、小動物的な可愛さがあるのはわかりますけど。

いやあこういう珍妙なものも面白い。

 

「ベテラン」

やっぱり韓国映画(少なくとも日本に入ってくるのは)にハズレはないんじゃなかろうか。

最初は結構コミカル風だったのと、アクションの感じが一昔前の香港映画みたいで、軽い感じなのかと思いきやまっくろくろすけでございました。

公開時期のナッツ姫事件の時勢の一致もあって大ヒットということらしいのですが、そういうのを差し引いても普通に面白いじゃありませんか。

何気に脚本も凝っているし、ぺさんが階段から落下していくシーンの違和感の無さといい(アシュラでもありましあけど、こういうシームレスな編集方法)、すごいっす。

アクションシーンも何かやたら豊富で、車にはねられるシーンとか、あれスタントの人相当危なかったんじゃないかしら? 

車もどんどん壊していくし、そういえば冒頭の刑事側の車の運転ですら日中の公道で結構危ない運転の撮影していましたし、この辺がフレキシブルなのはすごくうらやましいというか、そういう規制の無さみたいなものも含めてかつての邦画の良かったところみたいなものも時折垣間見える気がする。

ちょいちょい入るギャグだけが何故かコントみたいになっているのも、あそこだけ妙な空気になるのも含めてちょっとシュールで面白い味わいだったりする。

いや、良作良作。 

 

「クイーン・コング」

吹き替えで遊びすぎていてもはやビースト・ウォーズなんて目じゃないくらいで。

いや、チープとか言われますけどそれなりに特撮は観れますよ。何故なら作品そのものが極めて卑俗的だから。

いや、まあ、そういう意地悪な言い方はせずとも、結構観れると思うんですよこの特撮。だって日本に入ってきたのは21世紀でしょうけど製作年は76年ですから。違和感がないのは、画面の質感がそのまんま70年代だからであり、そこで用いられる特撮技術と合致しているからなのです。

「阿吽」と真逆のアプローチである、というような視線で観れるというか。

ていうか、今見てもそりゃまあ多少はチープかもしれませんけど全然観れるレベルの特撮だと思いますです。

 

また、この映画は計算されて作られているあたりの賢しさも見える。

ホットパンツの女性のドアップだったり、ともかく序盤は女性の露出度の高い姿で(男性)観客の興味を誘引するような仕掛けになっていて、しかしコングが登場してからはそういうのはなりを潜めてくる、というあたりは結構用意周到だと思いますです。

オリジナルの製作は76年なんですけど、吹き替え声優の挟んでくる小ネタが90年代のものがあったりするので、すごいタイム・パラドックスがあるなーと思ったら日本に入ってきたのが2001年。

うん、まあ吹き替えのテンションで観ないと厳しいかもしれないとは思いますけど。

しかし吹き替え、というのはやはり映画の観賞方法の一つとして重要なのだな、と改めて想ったりする。

 

それにしても前述のような女性のエロで釣っている(クイーン・コングの乳房と乳首にだけ毛が生えていないのは腹が立つんですけど)くせに、まるでフェミニズムを掲げているような展開になる(一応、冒頭から女性の力をアピールしていたりするんだけど)あたりの倒錯っぷりもなんか癖になる。

いやもちろん、フェミニズムに対するアンチテーゼだと解釈するのがまっとうな見方なのだと思いますが・・・わからない。

60年代後半から70年代前半にかけてのウーマン・リブに影響を受けた部分もあるのかもしれませんが・・・とかそれっぽくガチっぽく語るよりもやはり一本のおバカなカルト映画として語るのがこの映画にとっても観る方にとっても幸せなのではなかろうか。

広川さんだけでなくほかの声優陣の小ネタまで拾っているときりがないので、百聞は一見に如かずということで吹き替えを見ることをオヌヌメします。

いや、結構好きですこの映画。

 

「バイバイマン」

「リング」の口伝バージョン、というか。あちらはまさに「映像」を観ることによって感染するという映画に忠実な映画(なんだこの言い回し)だったような気がするのですが「バイバイマン」はその情報伝達が言語であるというのがかなり興味深い。

 

こと「伝える」ということに関しては人間は言葉に大部分を依拠していて、なおかつ情報を伝える(あるいは伝えない)ということは社会性動物である人間にとっては生存において重要な役割を持っているはずで。

本質的に、人間は言葉によって情報を伝える生物であり、それがこの映画の燃料になっていると思う。そこにあるのは能動性、というか「観る」という行為は相対的に受動的であるというか。

えーともかくそういうアクティブな伝えたいという欲求(不満の解消)の発露。恐怖を一人で抱え込むことへの不安、それを共有したいという願望。4人が手をつなぐシーンなんて、まさにそれそのものでしょう。

そういう、人間の持っているシステムを巧みに使っているのがバイバイマンというクリーチャー。

これ、たとえばブキミちゃん的な話だと思えばわかりやすいと思うんですよね。それが危ない情報だと分かっていても(あるいは逆に分かっていないから)伝えずにはいられない。好奇心であれ恐怖心であれ、そうやって致死性の情報が拡散していき被害者が増えていく。

あとはバイバイマンの殺し方。ここでまた「視覚」的な演出を取り入れているのもグッド。それが、逆説的に目に見えるものだけを信じるしかない人間の脆弱性を暴いているのも、まあ別にこの作品がトレイルカッターというわけではないですが、こうはっきりとした一つのモチーフとして使ってくれるのは珍しい気がする。この辺はちょっと「スパイダーマンFFH」のミステリオ戦を思い浮かべたりするあたりだったりしました。

 

あとはそう、昨今の情報社会(この言葉も懐かしい響きを帯びているなぁ)における真偽のわからない情報に踊らされる現代人のメタファーとして捉えるのもアリっちゃアリなのかも。

ほかで気になったのは、黒人が疑われ・(幻覚において)たぶらかし・殺人をおかし・襲われる対象に終始しているという点が、すごく意図的なものに思えたんですよね。

そして、そこに口伝という語りが加わることで人種問題みたいなものをそこはかとなく盛り込んでいるのでは・・・というのはさすがに考えすぎだろうか。

 

まあ、ナイトテーブルのくだりとか、特にラスト方面の姪っ子のどっきりのためだけに粗雑に処理した印象は否めませんし、手放しでほめられるものではないと思いますけど。

 

あの幕引きの仕方はB級にありがちではあるものの、よく考えればバイバイマンのロジックとしては至極当然なのですよね。自己(という概念がバイバイマンにあるのか不明ですけど)の存続・拡散のためにはそのコミュニティ内を全滅させてしまっては不可能になってしまいますから。

そういう意味で、極めてウィルスとかの感染プロセスみたいなものを踏襲しているんですよね。そういう意味でも貞子的というか。

 

個人的にはバイバイマンはむしろあそこまでクリーチャーっぽくせずに徹底的に(それこそ貞子みたいな)霊的な存在であった方がより生理的な恐怖を掻き立てることができたんじゃないか、と思うのはわたしが日本人だからでしょうか。

 

「ミラクル・ニール!」

まさかの犬映画で犬エンド。「少年と犬」並みの犬エンド。

てっきり「宇宙人ポール」みたいなポンコツナードのお話かと思いきや、なんか所々にブラックジョークが散りばめられていたり作風が全然違ってたので調べてみたらモンティ・パイソンテリー・ジョーンズだったんですね。んでもってロビン・ウィリアムズの遺作と。

 

力を与える人間のリストの中にリベラル気どりの福音派であるサラ・ペイリン州知事だったり、まあ露骨なアメリカンマッチョとかはそれらしい。

あと妙に下ネタが多いですね、メタファーとしてだけど。ストレートなうんこネタとかもありますけど、くだらなすぎて面白いと捉えるかやっぱりそのままくだらないと捉えるか、分かれそうではあります。わたしは前者ですが。

あの宇宙人たちの倫理観が実は、ってとこらへんなんかも星新一的で面白い。

ちらっとブライアン・コックスが出てるのもお笑いポイント。

まあ犬の扱いが良かったのでOKです。

 

「エイリアン・スナッチャーズ」

こういうどうしようもない映画をVHS画質で観るとノスタルジーに浸れる。

しかしこの映画のどうしようもなさったら本当にない。

この映画ときたら「戦争で人類滅亡しちゃいました。別の銀河(数光年先らしいんですけど、それって同じ銀河内なのでは?)の宇宙人も病(吹き替えなので、原語はもっとちゃんとしたワード使ってるのかもですが)で滅亡寸前なので人類との異種交配で存続しようぜ。そのために人類にセックスさせようぜ」

どうですかこれ。中学生並みの設定でしょう。そこで描かれる交尾の様子ときたらやたら長くて3,4回にわたって描かれる割に腰は動いてなかったりカメラアングルにしたってAVの方がよっぽど凝ってるしそのくせやたらと乳首だけは出そうとするし洋ピン特有の糞ダサいずっこけBGMが流れ出すし、中学生並みのエロ妄想と中学生並みのアダルトビデオ知識で出来上がっている始末です。

そんな映画に何故か登場しているアダム・ボールドウィン、というのも笑いどころとしてカウントできる。

 

そういうどうしようもない映画なのですが何故か宇宙船の模型だけやたらと凝っていて、なんかの作品の流用なんじゃないかとか思うんですよね。船内のセットはバカ殿並みなので。

いやもうね、ツッコミ出したらキリがないというか、そういうツッコミどころを笑ってあげることがむしろこの映画を楽しむためのスタンスなのではと思うわけですね。

編集とかセットとかカット割りとかサウンドエフェクトとか、そういうものの良しあしを知るための反面教師の素材としては優秀であると言えるでしょう。

冒頭のモンタージュの説明不足っぷりやジャナさんの笑ってしまう死体のポーズを何故かカメラに収め続ける謎アングル。

生殖器に遺伝子コードを移植したと言う割に、手術の映像では横隔膜付近にメスを入れているというちぐはぐっぷり。

やたらと一の高いベッド。

何故かジャナとトリットが起き掛けで不自然に仲が悪いし、躊躇なく瓶のようなものでトリットを殴打する勢いとか、機嫌が悪かった理由も特に説明されずに仲直りしていたり、誰がエイリアンに化けているかわからない状況で自分でも「ジャナと行動する」とか言っておいてさっそく彼女を放置しておいて彼女は殺されちゃうし。

 等々、笑える要素は結構詰まっています。

 

だけどまあ、敵側(一応)にも反乱分子がいて、それが誰なのかわからならいというツイストは上手く描けば面白くなりそうだったり、無駄に長くて無駄なシーンが多かったりするので、それこそトワイライトゾーン的に尺を1時間程度にして上手く編集すればそれなりに見れるものにはなりそうではあります。

それはそれで退屈なものに仕上がってしまいそうではありますが。

 

しかし4人のうち3人が反乱分子ってそれもはやお前が反乱分子だろ。

 

「落としもの」

 

絵本作家ショーン・タンが自らの絵本を原作に、共同監督としてアンドリュー・ラーマンを据えて自ら短編アニメーションとして映画化したもの。

ちひろ美術館で開催されていた「ショーン・タンの世界展 どこでもないどこかへ」の展示の一つとしてリピート上映されていたのを観賞。

そもそもがこの展覧会で彼のことを知ったのですが、中々どうして素晴らしい展示ございました。

「落としもの」とは別ですが「アライバル」の絵コンテやスクラップでコラージュしたものなどなど、見所盛沢山でござんした。油絵でメルヴィル通りを描いた作品などの小品も良いのがたくさんありまして。

展示を見るまで、人間ではない生き物をメインに描く、それこそファンタジックな作風なのかと思いきや、この「落としもの」もそうですが「アライバル」を筆頭に社会的な、そこから帰納される生き方のようなミニマルな問題を表出させる人なのだなという印象を受けました。


して「落としもの」なのですが。
えー何というか、わたしはとてもテリー・ギリアムちっくなビジュアルの世界だな、と思いました。

たとえば大きなタンスのような引き出しから大量の書類を渡されるシーンは「未来世紀ブラジル」(よりはまあ、「うえきの法則+」のモップをゲットする場所に似てるんですけど)ですし、いくつもの標識が組み合わさった標識の集合体のビジュアルは「ゼロの未来」で観たものでもある。いや、あっちほど理路整然としているわけでもないし、時系列的には「落としもの」の方が先なんですけど。共通するものがある、ということで。

あるいは、冒頭の浜辺で主人公とあの奇妙な生物の真後ろに屹立するダムのような巨大な壁(に見立てられているもの)や、彼らが戯れの中で使っていたビーチボールをゴミとして黙々と処理していく白服の男たち。

ギリアムっぽいとは言いつつも、展示されている原作のロスト・シングからはそこまで感じなかったんですよね。が(それとは別にこのロスト・シングは日本の絵本に慣れている身からすると構図とかコマ割りとかバキバキに凝っていて滅茶苦茶楽しいです。絵本というよりは漫画的な技法に近いかも)、それをアニメーションにする過程でより緩いディストピアなイメージが盛り込まれているような印象。

それは多分、絵本では省略されざるを得ないコマとコマの過程をアニメーションという動きをくわえて描出することで立ち現れてくる空気感とも呼べるようなものだと思う。

ディストピアといってもわかりやすく完全統御されたガチガチの世界観ではないのですよね。むしろ個人の生活と密接に繋がっているがゆえに気づくことのない緩やかな、それこそ環境管理型権力が蔓延した(つまり私たちが生きる現実と全く同じわけですが)社会。

たとえば主人公の暮らす家。その家と全く同じ形の家々が立ち並ぶあのサバービア的な気持ち悪さ。あるいは見た目が均質化された町中を往来する人々の「顔」のなさ、その顔のない人々の行列が主人公と不思議な生き物の二者以外は前へ倣えで一方向に進んでいく様。

そんな社会の隙間、路地の間隙にある華やかなイマジネーションに溢れた世界。あれが、この緩慢なセクショナリズムに覆われた社会にあって唯一彩に満ちた空間であり本来持っている創造性なのでせう。

けれど、その不思議な生き物を見ることができていた主人公が最後にその緩やかな社会の中にじんわりと溶け込んでしまうことになるあのラスト。

カメラを引いていくと、主人公を乗せた列車と同じような車両が無数にレールの上を、あの町の中を走っていく様。

彼が落としてしまったもの、ロスト・シングとは何か。それを言葉にしてしまうとあまりに陳腐でチープなのでわざわざ書くことはしませんけれど、後生大事に抱えていきたいものであります。

本編とは別のことで一つ。
ストップ・モーション・アニメーションやセルアニメでの表現を期待する人がいるというのもわからなくはない。
ないのですが、9年かけて製作したということは(もちろん9年間それにのみ注力していたというわけではないことは承知の上で)、そのプロセスの中で手法についても十分に考える時間があったわけで。

「アライバル」の映像化の話のエピソードから考えれば、彼はコストパフォーマンスというものよりも「表現として」の部分を重視している気もしますし、であれば観客として考えるのは「なぜ●●じゃないのか?」よりも「なぜCGだったのか」ということなのではないかと思うのです。

 とはいってもバジェットの制約というものとは逃れがたいので、種々の都合の兼ね合いでCGにしたのでしょうけど。

けれどほぼ全工程でショーン・タン自身が関わっていることで、彼の絵で描かれる非実在のオブジェクトの質感は、むしろ実物として存在するものを動かすストップモーションよりも適しているとは思います。

とはいえ展示されていた立体物を見るとストップモーションでの表現というのもかなり期待してしまうのも禿同と言った感じなのですが。

 

「ジョニー・イングリッシュ」

かなーり前にちょろっと観た記憶があったんですけど、頭空っぽにして観ると今でも笑えますな。というか「007」のパロディだと分かってなかった以前よりももっと好意的に観ている自分がいる。

しかしぐっさんの吹き替えが思った以上に男前で笑ってしまいました。

あとマルコビッチがこんなにメインで出ているとは思わなんだ。

 

 

突入せよ!「あさま山荘」事件

 そういえば原田監督の作品ってほとんど観たことなかった。「クライマーズ・ハイ」くらいじゃなかろうか。

そんなわけで観たんですけど、いやはや「シン・ゴジラ」よりも先にやってたんですね、ああいうこと。

序盤のハイテンポに進んでいく警察側の動向の描き方ってあんまりない気がする。原田監督のリメイクした「日本の一番長い日」の批判を聞くに、なんとなくこっちでもうサンプリングは済ませちゃっているから、なのかなと。

あさま山荘事件を扱ったものなのに連合赤軍側の顔は確保の瞬間まで一切映さないという徹底ぶり。

その代わりに描かれるのは警察側の内情。徹底して警察の内部の動きだけを追っていき、それがずっこけまくる様はまるで警察側の独り相撲のようですらあり、自壊にも近い様相である。

くだらない縄張り意識からくる内輪揉め、トップの無能っぷり、衆愚の厄介さなどなど、まあ観ていて滑稽で笑えてきます。

その滑稽さが極に達するのが連合赤軍を確保する際に高らかに鳴り響く勇壮なBGM。あれの阿保っぷりたるや。

けれど、ずっと警察側のゴタゴタを見せられた観客は嫌でも感動を励起させられる、という恐ろしさ。どことなく「エニィ・ギブン・サンデー」ぽいというか。

そういえば山路さんがこれだけメインで出てるのってブレイドの他では観たことないかも。いや、あの人は声優でもあるけど舞台でも結構活躍してる人なので私が観てないだけなのだろうけど。

 

スリープレス・ナイト

フランス映画のハリウッドリメイク、ということらしい。オリジナルは知りませんがこっちの出来はうーん…。

まず冒頭のアクションシーンがカット割り、カメラワークの見せ方が下手っぴい過ぎていきなり気を削がれてしまいます。

ほかにもアクションシーンはあるものの、カメラマンのやる気がないのかゼロ年代初期のアクションのようなモッサリ感が…。

野球場でのアレはオリジナルからあるのかアウトレイジオマージュなのかわかりませんが、やるならしっかりやれと。いやあそこをしっかりやられてもそれはそれで困惑するんだけど。

思い出したように腹部の傷を労わりはじめるジェイミーフォックスに笑ったりしつつ、まあなんというか午後ロー送りにしておくのが一番いいのかな、と。上映時間的にも。