dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

水没している街は好きなのであの二人には末永く爆発しておいてほしい

個人的にはね。晴れよりも雨の方が好きなんですよ。ていうか、晴れって雨が明けるからこそ価値があるわけで。この映画はともかく、普段は晴れていることにそこまで思いをはせないでしょ、みんな。実際、雨→晴れるという一瞬で移り変わるところにセンスオブワンダーがあるわけで。

 

特に観る予定はなかった「天気の子」を観てきたんですけど、いやぁ予告編が青春系のアニメが多くて参りますね。

ありゃ一人で観に行くぶんにはいいのだけど、今回は一人じゃなくてね。予告が流れている間嫌な汗をかいていましたよ、ええ。

新海監督の映画ってほとんど観たことないんであんまり書けることがないんですよね。あそこの作画担当したのってやっぱり〇〇さんなのかなぁ~とかそういう、いかにもにわかな感想しか出てこないんですよ。そのくせレイトショーで観たせいで眠気に屈服しクレジットで寝落ちするという始末。

この観賞態度からもわかるように、新海監督は別にそんなに好きってわけでもずっと追っている、というわけでもない。

ないのですが、それでもまあ、面白かったですよ。

 

さすがに猫に喋るかけるのとか、ああいうのを面と向かって見せられるとこっぱずかしくなったりするんだけど。あれってなんでなんでしょうね。なんとなく思うのは、こういう動物の描かれ方って、基本的にその動物に語りかけている話者の感情やら思考やらを否定するにせよ肯定するにせよ、それが自問自答でしかないからなのかな、と。

 

 

曰く「要するに、恋愛って、それおっぱじめると構築してきたすべてが崩壊し、展開していたすべてが凍りつき、ただ恋愛が圧倒的に物語を支配して~後略」であると。

この甘言に乗っかるのであれば、新海監督の映画というの漏れなく上記のように構築してきたすべてが崩壊し展開していたryとなるわけです。でも、彼の創作物って最初から恋愛をフルスロットルでおっぱじめる体勢にあるわけで。彼女彼らの恋愛のためにあの世界は構築され崩壊しすべてがデイアフタートゥモローとなり物語を支配していくわけで。

というか、すべての恋愛映画がもれなくそういう世界観を持っているんじゃないのかしら。恋愛ものをとんと観ないので、こういう受け売りを引用する以外に私の中に語り口がないのでアレなのですが。

恋愛ものって、印象としては特定の人物(まあ大半が主人公とヒロインなのだろうけど)にそこまで費やされたすべてが収斂していくわけで。セカイ系というなら恋愛映画ってほぼすべてセカイ系でしょ。いや、セカイ系の定義がいまいち自分の中で定まってないんですけど、巷間で話される場合のセカイ系のイメージとして。

 

何物でもない田舎(穂高)少年は、小栗旬(キャラ名忘れた)の下で社員という形を得ることで穂高(少年)となる。思い違いでなければ、穂高穂高と名前で呼ばれるのは、彼が職を得たところからだったはずだし。

そこで彼は「穂高」という自分を獲得する。凍えるに狂うと書いてTOKYO(うすた京介)の厳しさ(ネットを使えるのにあのムービングは彼自身の情弱っぷりからくる自業自得とも取れなくもないのですが、正直あの辺の感覚は当事者でないとわからない)にまいっていた彼がそのTOKYOで居場所を得ることで、すでに予感としてあった恋愛にエンジンキーが差し込まれる。

恋を予感させる最たるものにバーガーをもらうくだりがあるんですけど、ここで穂高くんはこのバーガーを今まで手一番美味しい夕食だったとかなんとか言ってましたよね。

いや、確かに美味しいし、その言葉のニュアンスも読みとれるのですけど、本当にあのバーガーが一番美味しい夕食だったとしたら、相当なメシマズ家庭だったのか、それとも機能不全家庭だったのか、そもそも島だし食べられるものに本土と比べて制約があるのか、と考えてしまうのです。しかし、機能不全家庭の下で育った少年があんな真っ当に(人に銃を向けるのも、あれはあれで真っ当でせう)振舞えるはずがない。だとすると、あのモノローグはポーズではないかとも取れてしまう。

ポーズというか、自己欺瞞に近い。恋愛をブーストさせるため。初恋などという、恋に恋している者しか口にしえない、口にした途端羞恥心に爆死するような台詞を恥ずかしげもなく言えるのは、恋愛という魔法のスパイス(自分で書いてて悶死しそう)によるブーストがあってこそだ。

 

で、そこからはエンジン全開!フルスロットルでぶっ飛ばすからねぇ!と言わんばかりに穂高くんと陽菜の恋愛模様が展開されていく。あれってそもそも恋愛模様なのかしら。あんまり恋愛って感じがしないのはなんでだろう。特に陽菜の方から穂高に対しての恋、というのがあまり感じ取れないんですよね。

それはまあ、陽菜が天気の子というみんなの(もちろん穂高くんのも含め)願いの担い手であり、劇中で指摘されるとおりの人身供物として非人間(化していくから)であり、クライマックスにて穂高が陽菜をようやく人間にしていくからなのかな、と。陽菜の視点から描かれないのって、多分描けないからでしょ、構造的に。

 

話は変わりますが、CGの東京の街並みを観て私が思ったのは「うわぁー壊れなさそうな街並みだなぁ」ということだった。

まあなんで私がこういうことを思ったのかというか、ああいう街並みが出るとその街が破壊されることを予想というか期待する自分がいるからですね。

で、まあその願望というのは主に特撮とか庵野さんとか樋口さんとかあの辺による調教を受けてきたからなわけですけど。彼らの作品の街というものはいかにも壊れやすい。それはまあ、彼らの作る街というか世界って「壊すために在る」から。

庵野さんとか樋口監督みたいに「街ですか? そりゃ壊すためのものでしょ」(偏見)みたいな欲望のカタチに私の場合は近いので、ああいうただ「在るために在る」という背景にそんな感覚を抱いた、というわけで。庵野監督たちみたいに「壊すために在る」という欲望の方向性と全く違っていて、そういう自分の欲望と異なる風景を観るというのが割と珍しいことだったのでなんとなくそんなことを書いてしまった。

 

あの落雷にしたって、せいぜい車一つだししかも彼女の落雷だ。徹頭徹尾それは二人のセカイ。庵野さんみたいにゴジラエヴァ使徒といった絶対的な他者によって破壊される世界はない。実のところ、シンジ君自身が街破壊したことってないのではないか。使徒を撃滅する際に生じる爆発にしたって、あれは彼というよりも使徒という絶対他者による破壊だし、初号機が町を破壊するときって基本的に彼のママンという圧倒的他者が出張ってくるときだし。

 

そうなんす、この映画で描かれる街って壊れることはないんですよね。水に没したところで、そこにはずっと在り続ける。まったく壊れる気がしない。

セカイ系と言われるのって、そういう風に意固地なまでに世界を維持しようとするところからきてるのかなぁ、と。

 

でも、滝君のおばあちゃんみたいに引っ越すことのできない、あの姉弟のような人たちは二人の選択によってあの水の中に沈んでいったのだろうなぁ、と考えるとそういう隙間者の恋愛が同様に隙間者たちを搾取した上に成り立つという恐ろしく恐ろしい世界観だなぁとも思ったり。

 

うーん、でもまあ、みんなが言うように「天気」という概念に対するような普遍性を見出していないんですよね。

 

なんか書き足りない部分がなくもないんだけど、なんだかそんなにモチベーションがないのでとりあえずこんなところで。

また書き足すかも。しないかも。