dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ハレ・ハレ・愉快な映画「溺れるナイフ」

本当は8月のまとめにいれようと思ったんですけど、8月は毎日一本映画を観るという夏休みの宿題を課していて、そのせいで量が多くなってしまったので、この映画を単独記事としてポストいたしました。

あとすごくどうでもいいことなんですが、4月に和歌山に一人で旅行?に行ったときにこの映画のロケ地を訪れていたことを映画観た後に調べて知りました。なんか既視感あると思ったんですけど、そういうことか。

でも特にPRとかしてなかったような。もうちょっとアピールしてもいいんじゃないかな、地元の人は・・・うん。

とかとか、そういう事情を除いても好きな映画なので、ちょっと書いておきたいな、と。

記事タイトルに特に意味はないです。

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それにしても、まさかこんなハレとケの映画だとは思わなんだ。火祭りだし。非日常と日常の映画というか。

この映画観てたら「恋空」ってやりようによっては傑作になったんじゃないかと思うんですけど。ダメか。原作のポテンシャルが段違いすぎるか流石に。

 

そういうわけで、ハレであるコウちゃんがあんだけ美しく撮られ(水中の撮影とか諸々)ケである大友くんがあんだけ凡庸にというか身近に撮られ(カメラ固定したまま長回しとか)ていて、もっぱら夏芽(最初中条あやみかと思ってこんな顔だったっけ?と思ったのはヒミツだ)とコウちゃんの耽美な空間を堪能し、その引き立て役(悲しい)としてのみ大友くんという存在がまします。それは決して雑に扱われているというわけでなく、むしろ丁寧に描かれているわけですが、そうやって丁寧に丁寧に「大友、君は『日常』だから」と描かれるほどになんというかこう・・・辛い(笑)。

ハレとケが不可分なものであるとわかっていつつも、その日常存在としての軛に収められてしまう彼の姿がね。

 

 

冒頭の「千と千尋~」感からすでに夏芽(小松奈々)にとってのハレを予感させる空気(今観ると「若女将は小学生!」も地味にこんな風景だったような)を充満させている。橋を渡る、という行為がまさに越境そのものなわけでして。

ただ同時に、夏芽にとってのハレっておそらく芸能界のことでもあるので、和歌山の生活というのはむしろコウちゃんと大友きゅんに象徴されるようにハレとケがたゆたう空間なのかな、と。

それにしても三つ編みの持つやぼったさ半端ないです。あれ中学生って設定じゃなかったら小松奈々でもキツイですよ。いや本当。三つ編みはともかくツインテールは本当によほどの童顔か二次元限定だなぁと思う次第でしたまる

あと役者の肉体在りきであるために前半部の中学生設定は結構キツい、というのはまあ野暮ですし、すぐに高校生になるのでそこまで問題はないのかもしれないですけど。

 

ハレ≒非日常であるコウちゃんとケ≒日常である大友くん。それとカナちゃんなんですけど、カナちゃんは大友くんともまた違うんですけど、違うタイプで徹底的にケ側の存在であって、彼女を演じる上白石萌音がもうね最高なんですよ。

何が最高って、観ていてすごい安心する。凄まじい日常感。クラスに一人はいそうな感じ。ていうか中学時代に似てる人いましたよ、もちっとふくよかだったけど。

付き合うなら夏芽、結婚するならカナちゃん。といった具合のバランス。このバランスはもちろんコウちゃんと大友くんと同様にハレ存在として(昇華する)の夏芽とケ存在としてのカナちゃんという対置でもある。

要するにカナちゃんというのは日常存在なんですね。

中学時代はあんなバタ臭い髪型してたのに、中学に入って妙に色気づいた髪型にしちゃうあたりも田舎娘の俗っぽさが出ていて大変よろしい。横髪を耳にかけちゃってほんとにもうアレすぎる。2回目の火祭りのときの私服とかも「高校デビュー」並みの高校デビューな服装というか。ませようとしている頑張りが逆にダサくてそれが良いというか。

個人的には階段でのくだりの視線とかちょっと意地悪い感じとか大好物だったりするんですけど。

だからこそ終盤のナイフの部分でのあの怒りをたたえた表情が生きるわけで。ただ、あの表情やあの怒りというのも、徹底して卑俗なものに括りつけられている。ただ、なんというか、彼女に関しては大友くんともまた違ったニュアンスを含んでいるような気もするんですよね。どちらかというと、ハレとケの境界面にいるというか、両者をつなぐ橋渡しというか、ケ存在がハレに捧ぐ人身供物的というか。

 そう考えると、上白石萌音が「君の名は。」であの役をやったというのもなんか妙にダブるところがあるというかシンクロニシティというか。

映画だと彼女の出番が大幅に削られているということなので、もしかすると原作はその辺がもっと仔細に描かれているのかもですが。

 

中学時代で言えばもちろん夏芽とコウちゃんの部分のやりとり。

ハレ≒コウちゃんに近づこうとする(邂逅からすでにそうだった)ことで夏芽自身がハレ存在へと至り、だからこそ広能(を演じる志摩さんも、他の役者と違う演技の感じで、それが広能のキャラとマッチしていてすごいハマってました)は彼女を撮ったというのも実にわかりやすい。

その写真集から関係が発展するんですけど、この交際中の夏芽が実にうざったい。「わたしたち付き合ってるんだよね」とか手をつなぐあたりのカマチョぶり。あの付き合い始めのティーンネージャー特有のうざったさは身もだえします。

ただまあ、あのうざったさというのはワシにも覚えがある(ホセ)わけでして、それゆえの身悶えというか。認めたくないものだな、自分自身の、若さゆえの過ちというものを。なわけです。

 

ところが、あの事件が起こるわけですね。ハレとケで言えばあのレイプ未遂事件というのはケガレとして見ることができませう。

そこで一度、夏芽とコウちゃんはケガサレてしまい(まあレイプですからね)ハレ存在としての力を失ってしまう。ケガレとはケ=日常生活を営む力が枯渇する状態であり、そこでケ存在である大友くんになびくというのは実は感情的な動きというよりも構造的なものだったりするのでせう(この辺は諸説あるのですけど)。

けれど、ケガレから回復するのに本当に必要なのはハレなんですよね。

だから再び広能が彼女を主演に据えて映画を撮りたいと和歌山を訪れた際に、彼女を見て明らかに萎えたのも当然なんです。だって広能はクリエイターで、ケガレたケ=日常=この時点の夏芽になんて興味がないから。

 

ここに来て、さんざん描かれた大友くんとのイチャイチャというのがハレ存在としての夏芽にとっての死(は言い過ぎかな)出の旅路である構造が明らかになる。悲しいかな。

しかしだ!大友君!

君はハレとしての夏芽という非日常的な存在を貶める存在でしかないよ!確かに君は彼女と結ばれることはできないよ!彼女がハレの、非日常の存在であり続けようとするかぎり永遠に結ばれることはないよ!

だけど君がいなければ、夏目は立ち直ることはできなかったんだよ!ケがあるからこそハレがあるように!

といった具合に、私は大友くんまわりに関してはかなり感情的に観ていました。

大友くんを演じる重岡くんの演技も絶妙なんですよ。なんか台詞をちょいちょい噛んでるテイクを使っている(だいたい長回しのとき)のは、あれはやっぱりアドリブなのかな。というか、そういう長回しが多くて、あくまで日常に括りつけようとする監督の強い意志を感じてさらに切なくなる。

この夏芽と大友くんの関係はあれです、仮面ライダーブレイドの剣崎と始の関係性と言えば美化できませんか?え、できない?さいですか。

いや、でも、本質的にはそれと同じことだと思いますよ、ええ。

 

にしてもガリガリ君て!もう一度書きますけどガリガリくんて!優男でイケメンなくせにどんだけやっすい日常存在でありつづけるんだ君は!?

しかも役名観たらフルネーム大友勝利って!敗北してんじゃん君!完全に名前負けしてるじゃんすか!

マニュキュアのくだりで、大友くんの表象である赤色のマニキュアを塗る指の数が青黒い(コウちゃんの表象)マニュキュアより少ないの!あんだけ好感度上げててこの始末ですよ!

そもそも椿て!赤い椿の花ことばって「謙虚な美徳」「控えめな素晴らしさ」「気取らない優美さ」らしいですよ?なんだか大友くんを観たあとだと慰めにしか聞こえないんですけお!?

いやね、一応それ以前は椿には邪気を払う力があるとか神聖視されてた(ケガレを払う大友くんにぴったりだね!(血涙))らしいですけども!アメノウズメまで引っ張ってくるのはさすがに強引だし違うかな。いや、確かにアマテラスを引っ張りだしてきたのを夏芽の再起と結び付けようとしたけんど、序盤のシーンで授業中にイザナギイザナミの話をしてたことを考えるに夏芽はイザナミだろうし。アマテラスじゃないじゃん!ってことになるので。

それにしたってお見舞いでは忌避され競馬では落馬を連想させるから忌避され武士からは頭が切り落とされる様に見えるからと忌避され、散々だよ!

妖刀マサムネ曰く「香りも無く主張も無い、散り方も無残で気味が悪い陳腐な花」な椿。

血も涙もない!血も涙もないよ山戸監督!どこまで追い込めば気が済むんですか(追い込んでるのは私か)!?あんた鬼だよ!

 

でもそういう扱いも含めて私は大好きだよ大友君!

 

そんな大友くんに夏芽は言う「大友はずっとここにいて」と。

もちろん彼はずっと居続けるでしょう。だって彼は日常だから。

あのカラオケシーン。ケからハレに、晴れ舞台に歩みだす夏目に捧ぐ応援歌(吉幾三というチョイスが絶妙に笑いを誘う)のシーンは、あの切実な演技もあ居間で涙を禁じ得ない。

 

それからコウちゃんと大友くんがちょっと話すシーンがあるんですけど、イカ焼きに青春をささげるとかいう悲しすぎる敗北宣言に涙を流しつつ、海をバックにハレとケの触れ合い(決して接触はしないのだけれど)に一抹の寂しさと感動を覚えたり。

それに続く2度目の火祭りのシーン。あそこは特にコウちゃんの髪型がすんばらしい。というか、全体的にこの映画は衣装の伊賀さんとヘアメアクの反町さんの仕事が作品と上手くかみ合っているというのはある。

先に述べた上白石萌音の髪型の変化もそうですし、コウちゃんの一連の髪型の変化もそう。

中学時代は、髪の毛がまっすぐなサラサラヘアーなんですよね(あの田舎で一人だけ金髪ですよ、しかもちょっとプリンなのね!)。で、レイプ未遂事件の後の彼の髪型はちょっとウェーブがかってるんですよ(ついでに事件直後のシーンの夏芽の服装が黒いセーラー)。こう、純粋だった神が堕ちたみたいなね。それが2度目の火祭りのときはもっと髪の毛がもわっとしてるんですよ。鬼神を思わせる怒髪でね。

しかしこう考えると大友くんって本当に変わり映えしないんだなぁ(しつこい)。

 

で、またも悪夢の再来か、というところでそれをコウちゃんが防ぐ(この辺の絵面がこじれた四角関係みたいでちょっと笑ってしまったのは内緒だ)。

個人的には、ケ側の人間としての意見では、コウちゃんが殺してこそ、という気持ちもなくもないのですが、まあ死体遺棄な時点で結構アレですし、何よりそれはケガレを背負うことになりますから、ハレ存在としての夏芽のハレで在るためにはああなるのもさもありなん。

 

で、最後に正に晴れの舞台に夏芽は立ち、スクリーンの中でコウちゃんと再会を果たす。綺麗な終わり方なことです。トンネルの中で終わるというのがどことなく不穏なんですけお。

あとレイパー未遂の人も良かったですね。キモくて。

 

とまあ、大体満足しているんですけど気になるところも。

 

一ヵ所ですね、夏芽とコウちゃんが高校生になってから再会するところで気になるショットが。

横になった菅田くんをほぼ真横?から抜いてるショットがあってですね、そのショットだと菅田くんののどぼとけが滅茶苦茶目立つんですよ。そこはもうちょっとどうにかならんかったんかいなーとは思いますです。

あそこはまあ、監督と私の価値観の違いなのかもしれませんし、菅田くんの身体性をフル活用したかったのかもですが、あそこまではっきりと喉ぼとけがわかるようなショットになってしまうと、あの「たゆたう」コウちゃんというのがなんか地に足着いちゃってる感じが出ちゃって気になる。

難癖っていうか、フェチの反転に近い欲望なのかもしれませんけど。

 

あとカットの呼吸がなんか合わない部分が一ヵ所あったのと、音楽が過剰かなーと思う。少なくとも歌で心情表現(ていうかほぼ解説ですな、あれは)はくどいかな、ってくらい。

 

それと演出が呉美保監督の「底のみにて光り輝く」まんまなシーンがあるのは流石に笑いました(あっちも菅田くん出てたし)。 しかも2回も使ってますし。あっちはSEだったけど、確か。

いや、別に悪いというわけじゃなくて、露骨すぎて笑ってしまった、というだけで。

 

余談ですが道端の花の蜜は東京でも吸いますよ。(学童クラブっ子)

 

 

でもまあ、なんだかんだだいぶ楽しめましたよ、私。ええ。 

まさか少女漫画の世界観をここまで実写化できるとは思いませんでしたし。