「アンロック/陰謀のコード」
リアル路線かと思ったら全然そんなことなかった。
有能ではないキャラクターを配置する(というか話の展開のさせ方がキャラクターを無能に見せている)ことで物語を展開させていく、というのが一昔前の連続ドラマっぽいというか。
どいつもこいつも安易に銃ぶっぱしすぎだし。
なんかMI5(だっけ?)の人もMぽいし、いくらチョッキ着ててもそんな清々しい顔してるってどんだけ痛みに鈍感なんすか。
一般人に犠牲出しすぎだし。ノオミ・ラパスはテロを防げなかったことでメンタルダメージ追ってる割には尋問相手とか本当に一般人の知人を任務に引き込んで殺してるしで罪悪感ってよりは単なる完璧主義者としか見えまへぬ。しかもそのトラウマも実は勘違いっていうか彼女に原因がないから彼女の物語としては面白みに欠けてしまうし。
あと雇われ傭兵っぽいのに忠義に厚いヒットマンとか、アホの子マイケル・ダグラスとか、カット割りのテンポのせいで緊張感出てなかった李とか、まあ色々とおざなりではある。
最後普通に殺すんだ…というあたりはもう完全に笑ってましたよ。
エンドロール入りのBGMもちょっとMOBYのエクストリームウェイっぽいし、全体的にいろんなスパイアクション映画の要素を盛り込んで仮分数になるくらいわり算しちゃって表層的な部分だけが残った感じ。
それでもまあ、オーランド・ブルームが良い感じに老けていたりマルコヴィッチの張っちゃケ具合だったりアホの子ダグラスは観ていて楽しいので、そういう風に観れば割と楽しめる。
「ゾディアック」
そういえば、フィンチャーの映画って色々観たつもりになってたけどあんましまともに観たことないじゃん、と思い立って観る。
デビュー作にしたって午後ローの大幅ばっさりカットが初見だし。まともに観たのってそれこそ「ゴーン・ガール」くらいじゃなかろうか。あ「セブン」もか。
というわけで「ゾディアック」を観たんですが、まず長い。
が、この長さの映画を観ると私の場合は途中で集中力が持続しないのですが、なんでかフィンチャーの映画ってどれだけ長くても全然飽きない。
ゾディアックが作り出した状況、それに飲まれていく(というか自ら飲まれこんでいく)ジレンホールという図式。相変わらずこの人って世界と対峙するっていうかなんていうか。
今観るとメインの3人がMCUのメイン級であることに不思議な感慨が。
というわけで観る。
帝都物語の方はひたすら世界観に浸ることができる映画でかなり良かった。
だいぶ端折ってるし明らかにそこは描写しとくべきだろうという部分はオミットされていたり、かなり大胆な脚本ではある。
とはいえ、それが瑕疵になっているかというと別にそういうことではなく、なぜなら昭和も明治も大正も、それが日本であろうとももはや別世界の話であるからして、その世界にはそういう道理があるということさえ頭にあれば後はその世界に浸るだけでこの映画は楽しめるのであるからして。
ギーガーデザインの護法童子とかやたらと豪華だったり、セットの作りこみや言語的な響き(東亜なんて言葉が堂々と使われる世界)による異世界の現出といい、そういう世界を自然に堪能できる映画って何気に少ない気がする。
まあ加藤がだいぶ持って行ってる映画でもありますよね、これ。あの人形を抱えて走るシーンのカッコよさとか、かなりすさまじいと思うんですけど。
あとは声も重要でっしゃろな。渋沢を演じるあの人は言わずもがななんだけど、大塚芳忠とか立木文彦とか繁千葉とか中村大樹とか、明らかに声の力も意識している。
そういう色々なレベルでのデザインによって組み上げられたのがこの帝都物語の世界なわけで。
むしろ外連味だけで造られている映画と言っても過言ではないのではなかろうか、これ。石田純一でさえあんなにいい顔ができるとは思わなかったけど。
帝都大戦の方はまあなんというか、だいぶ外連味が減ったなぁ、という印象。呪術合戦の印を結んだりしていたあの楽しさがなくてギャグマンガ日和の気功合戦の話みたいなしょっぱさになっていたり。まあ明らかに指向性が違う映画ではありますので、あれなんですけど。
野沢さんで盛大に笑ったので割と満足ではあるんですけど。
タランティーノの映画は好きでも嫌いでもない、というのが「レザボア~」や「ヘイトフルエイト」や「パルプ・フィクション」を観て思ったのだけれど、「ジャッキーブラウン」は結構好きな方で、この「デスプルーフ~」は多分タランティーノ映画で一番好きかもしれないという具合。
画面の質感がどうこうとか、まあそういうのは置いておいて、オマージュとかそういうのは置いておいて、タランティーノのいくつかの映画でやたらと会話が長いのは、その永遠とも延々と続く会話や掛け合いというのは要するに緩慢ではあるものの退屈ではない、多幸感とは言わずとも幸福な時間がだらだらと繰り広げられる時間なんだなぁ、と。
それと対を成すように、一瞬の出来事がある。それがテキサスの事故のことであるのだけれど、その緩慢なダラダラとした時間というのはその一瞬の出来事(悲劇)との構造的な対になっているのだな、と。
どうでもいいけど、本作のカートラッセルと後半の女性グループのまさに白黒な対比というのはタランティーノの心象の具象そのものなんじゃないかと思ったりするんだけれど。しかし後半は笑えるしスカっとするしで、割と本気で好きな映画だったりするかもこれ。
「DUNE/砂の惑星」
コケたという話ばかりが取りざたされていたので身構えてたら思ったより全然楽しめた。いや、まあ、お話のダイジェストな編集は目立つんですけど。
そういうのはどうでもいいくらい映像的スケール(お話ではなく)が楽しい。ダラダラ流しながらBGM的に観ていたい感じ。
あと浮遊という動作において、この作品が今まで観てきた映画というか実写作品の中で一番しっくりきた。
「十三人の刺客」
やっぱり伊福部音楽はいいなぁ。使い回されてるけど。
この間の謀略もそうだけど、こうチームものってやっぱり最低限の面白さがある気がする。
これラストの殺陣、全然美しくないんですよね。場面場面での一進一退に角に隠れて不意打ちとか、切り合いというよりはどっちも鬼の鬼ごっこ(そんなもんないと思いますけど)に近い。まあ、タッチはすなわち斬ることになりますから、必死にもなる。
汚いなさすが侍きたない。
その目的を果たさんとする生き汚さこそがこの映画の楽しいところであり、そうやって非常に徹しようとすればするほどに浮き上がってくる人の情念があのラストに結実する。
いやこれ、全然情緒ありまくりですよ。
十三人側が全員キャラ立ってるか、というとまあどうかと思いますが敵側にもしっかりと半兵衛という美味しいキャラを配置しているし全然楽しい。
「ランペイジ 巨獣大乱闘」
筋肉+怪獣=(゚д゚)ウマー。
もはやシュワの後継者と呼んでなんら差し支えない筋肉理論を大展開するロック様。
シュワちゃんの時代にCGが発達していたら多分同じような映画が作られたのだろうなぁと。
若本ボイスの人があんな登場しといて株爆上げしてくる人だとは。妙にボンクラな映画なのに良い意味で裏切ってくれるしキャラクターを上手く生かして変に湿っぽくせずに締めるあたりもよい。
いや、普通に全然楽しいです。「コマンド―」が好きで怪獣が好きで「AVP」が好きな
/)
///)
/,.=゙''"/
/ i f ,.r='"-‐'つ____ こまけぇこたぁいいんだよ!!
/ / _,.-‐'~/⌒ ⌒\
/ ,i ,二ニ⊃( ●). (●)\
/ ノ il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
,イ「ト、 ,!,!| |r┬-| |
/ iトヾヽ_/ィ"\ `ー'´ /
な人には最高のポップコーン映画。
「コマンド―」みたいに変にサイコでもないあたりに間口の広さを感じる。
ていうか「カリフォルニア・ダウン」の監督だったんですね。超納得。
「ブレードランナー2049」
いや「ブレードランナー」の楽しいところってそこではないですか?という感じがしなくもない。
むしろこう、「ブレードランナー」の世界とか言われてもどちらかというとあの寂びれた廃墟の印象などは「トゥモロー・ワールド」的というかデッカードとKの水泳シーンなんかは「ガタカ」オマージュっぽかったり、全体的に別の映画の世界に浸っているというか、ブレランに別の映画の変数を代入したことで奇妙な不一致感が出ているといえばいいのでしょうか。
これがブレランの続編でなければもっとすっと入ってきたのだろうけれど。
いや、ドゥニ・ヴィルヌーヴの作家性というか霞がかったイメージが頻発していて面白かったんですけどね。
Kくんの貴種流離譚かと思ったらそんなことはなかったでござるの巻とか、恋人を踏みつぶされるところとか、哀愁が漂いすぎていて。
思うに「最後のジェダイ」が正当に(しかしバッドエンドの方向で)描けていたらこういう感じになったんじゃないかなぁと思う。
「ウィンター・ウォー 厳寒の攻防戦」
これ、自分が戦争という状況の在り方に対して抱く危機感をそのまま映し出している。
それは戦争という状況の常態化。それに寄与しているのは上映時間の長さと、起承転結のなさ。戦争という状況に置かれた個人の物語も、戦争の状況の進退が描かれるわけでもない。
ただひたすら戦争という状況があり、そこに参加する人間の活動が切り取られるだけ。
戦争が日常化したとき、我々が日頃の全てに鈍感になっているように、戦争という特殊な状況にすら感慨をいだくことがなくなる。
ほかの戦争映画で描かれるのは往々にして日常からかけ離れた戦争の凄惨さやそこに放り込まれた人間のタガが外れていく様などの非日常。
しかし、この映画ではそれすらも日常化してくる。
ひたすら戦争という状況とそこで活動する人間を描く(ときにはドキュメンタリーちっくなカメラワークで)のだけれど、情動を惹起することがない。もちろん、飛び出た内臓を押し戻す兵士の姿や家族に営為が描かれる場面では少なからず思うことはあるのだけれど、戦争が個人に死を迫らせる状況であり、その反動としての生への執着としてのセックス描写の片手間さといい、この映画は個の云々を描こうとはしない。
そういうツカシン的なものではない。
あれだけの銃撃、血液、死体、爆発が描かれながら、しかし戦争を緩慢で弛緩した時間に落とし込もうとするこの映画によってそれらは単に「そういうもの」として、日頃わたしたちがめもくれない道端の石のような他愛ないもの、当然あるからこそ意識を向けることすらないものへと転化される。
とはいえ、それでも生理的な嫌悪を催す場面があるのが救いというべきか。
戦闘、風景、休息。その反復だけが描かれるこの映画は、唐突に終わりを告げる。
だって、個人にとって戦争なんて大きな状況に翻弄される以外にはないのだから。それは劇的に肉体が欠損したり心が変貌したりもせず。
なんだか恐ろしい、この映画。や、この映画というよりは、この映画を通して見せつけられる認識というべきだろうか。
「座頭市二段切り」
勝新太郎はいいなぁ。ご飯の食い方って、やっぱり映画で観るぶんには小奇麗なのよりも貪り食う方が気持ちいいですよね。ブラピとかもそうですけど。
話自体は義理人情の勧善懲悪、やけに長回しだったり90分もないランニングタイムだったりとか、今だからこそっていう感じもある。
やっぱ冒頭のおむすび食べるところが最高だなぁ。
「ガジュラ」
テレビ映画の割に結構なバジェットを感じさせる作り。さすがゴジラへのあてこすり(語弊)だけはある。
モンスターのデザイン、というかアニマトロにクスが何気にすごい奇妙な塩梅で困る。かわいいなぁ、このモンスター。お土産屋さんのパチモン怪獣みたいで。
アフレック兄弟入りしても違和感のない顔のアダム・ボールドウィンが主役だったりするし、その吹き替えが鈴置ボイスだったりと割に楽しめるというのが。
個人的にこの監督のアステロイドが気になる・・・。
「ルーキー」
逆ブルーサンダープラスMIBってとこでしょうか。
相変わらずのイーストウッドというか、元の脚本からなのかどうかわかりませんが、本当に無駄に無駄のない描き方というか。
普通だったらなぜいきなりあのレストラン?を突き止めたりする捜査の過程を描いたりするところを「どうやってあの場所を?」→「それが仕事だから」と切り捨てる。
後々に情報屋から仕入れたものだとわかるんですけど。
「マーニー」
観たことはあったけれど久々に観直すとほとんど記憶から抜けていることに驚く。
しかし 倒錯してるなぁ・・・。
コネリーはコネリーで人でなしな目をしているし、相変わらず。
しかしズームアップ・アウトのあのシーンとか今見ると結構キツイものがあったりする。
いや、全体として面白いことに変わりないんですけど。
「大列車強盗」
クライトンなんですね、これ。
コネリーの頑張りは観ていて萌えるけれども・・・。
「エンジェルウォーズ」
頭空っぽにして観られる映画が観たいな~と思ってザックの映画をチョイスするというのも割かし失礼な気がするのですが、そういえばこれは観てなかった~と思い出して観賞する。案の定というか安心のザックでござい。
これは何というかザックのやりたい部分(JK(正確には違うけど)ドンパチ)を違和感なく(違和感がないかどうかは別として)見せるために設定が用意されているわけで、そういう意味では「マトリックス」の電脳世界だからオールオッケーを妄想(の中の妄想)だからオールオッケーという何ともこうトーキングヘッズの執筆陣が白けそうな設定に置き換えた「キル・ビル」というか。
これが鬱だとか言う輩がいてほんと片腹痛いのですが、ザック・スナイダーなので本質は精神病院の方ではないことは明らかなわけで。
しかしあれですね、ここ数年、特に10年代に隆盛になってきた美少女(JK)に何らかの要素をぶち込んで売り出すコンテンツって、「エンジェルウォーズ」を観ているといかにそれらが良くも悪くもバカバカしく抽象化されたアニメ(絵柄)であるから許容されているかというのがありありとわかる。何とは言いませんが、最近じゃ玩具市場にもそういうのが目立ってきてて、なんだか「それでいいのか」という気もしなくもないのですが。(バン〇イとかグッ〇マとかコトブ〇ヤとかね。そういう意味じゃ海〇堂の変わらないオタク的なスタンスというのは希少ではあるのかもしれない。価値があるかは別として)
でもザックの年代的には「BLOOD THE LAST VAMPIRE」あたりなのかな。制服の感じとかからも。ていうか寺田さん起用してるし。
それはともかく「エンジェルウォーズ」にしたって前述した妄想という設定があればこそ成立しているわけなんですが、JK+αのジャパニメーション作品の類というのは「アニメである」ということ以外に根拠を持たないあたりはやっぱり怠惰だよなぁ、と思うのですが。
にしたって「エンジェルウォーズ」もいくら妄想の中とは言え1950年代って話なのにそういう意匠を用意してこないあたりは、まあ音楽がアレだしそもそも再現しようとかそういう意図はないからなぁ。
幕が上がってスタートとか、しょっぱなからモノローグあったりするし、まあやりたいことはすごくわかるんだけどね。
その辺のことはローカライズ担当者の吹替えキャストのチョイスからも何となく察せられるんですけどね。
おかげで最初はノイズがひどかったんですけど、まあモノローグは甲斐田さんだし、ギリギリ許容できる範囲ではあるんですけど、叫びとかアクションのときの声が吹き替えられてないから俳優のオリジナルの声と吹き替え声優の声質が違いすぎて妙な笑いが。
とまあこんな感じではありますか。他は特に、ザックだなぁという印象。
アーつだけ気になるのはエミリー・ブラウニングはストレートに可愛いタイプじゃないので、あの白金髪はどうかと思います。
あとオスカー・アイザックが出てたことに驚き。この人って良い感じの人を演じるときよりやばい感じの人の方が良い味出してると思うんだけどなぁ。
「アダムス・ファミリー2」
あーいい。こういう軽く観られてほんわかぱっぱする映画っていいですよね。
バートンみたいに胃もたれしないし。
日本だとこういうのってほとんどアニメが担っている気がしますしねー。
結婚式委はヘビメタとかでもよかった気がしますけど、それはそれで露骨ですかね。
でもこんな軽い映画だけど使ってるワードとか赤ん坊を落下させるとか、未だとすごいクレームがつきそうな表現がたくさんあるあたりは流石というか。
子供向けではないエグイネタがあるから日本じゃできないかもですなぁ。
ブロンド信仰というか、カーストの皮肉とかもきいてるし。
変質者と殺人鬼カード欲しいなぁ・・・
「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」
イーストウッド映画。30年前から爺さんだったのに未だに現役で爺さんやってるって改めてそのすごさを感じる。よく考えたら50年代からキャリアスタートしてるわけだし、本当にこの爺さんは存在が強いです。
あと「許されざる者」よりも前の作品なのに「許されざる者」よりも老けたように見えるのはどういうことなんでしょうか。
相変わらずテキパキと進んでいくのはイーストウッド。部下が一人死んだくらいで湿っぽくならないし、リーコン部隊の結束の描き方にしたってどこか他人目線というか距離感があるし。唯一、殴り合うところでのカメラが今までと違う感じはしましたけれど。
そういえば、はねっかえりと継承みたいなものが見え隠れし始めたのってもしかしてこの辺なのかしら。いかんせん追い切れてないから分からないんですけど、それが極に達するのが「グラン・トリノ」というのは多分間違いなくて、その後は何かこう彼岸(を垣間見た人々)みたいなものに魅入られ始めているような気がする。「インビクタス」はよく分からないんだけど。
「運び屋」を見逃したのは痛いなぁ・・・今度観なきゃ。
クレジットカードのくだりは「トランスフォーマー」にもありましたな。そんな昔からあの手続きってそのままだったんですねぇ。
「テラー・プラネット in グラインドハウス」
「デスプルーフ~」とすごい手法が似ているなーと思ったらニコイチ作品だったのですな。ロバート・ロドリゲスの映画はそれこそ「スパイ・キッズ」しか知らないくらいなんですけど(これ意外とシリーズあるんですね)、なんというかこう、割とグロテスクなものが好きな人ではあるな、と。
だからこの映画の企画というのはぴったりだったわけで、いわゆるB級ゾンビ映画の発展系といいましょうか。いや、発展系という謀のコード」
リアル路線かと思ったら全然そんなことなかった。
有能ではないキャラクターを配置する(というか話の展開のさせ方がキャラクターを無能に見せている)ことで物語を展開させていく、というのが一昔前の連続ドラマっぽいというか。
どいつもこいつも安易に銃ぶっぱしすぎだし。
なんかMI5(だっけ?)の人もMぽいし、いくらチョッキ着ててもそんな清々しい顔してるってどんだけ痛みに鈍感なんすか。
一般人に犠牲出しすぎだし。ノオミ・ラパスはテロを防げなかったことでメンタルダメージ追ってる割には尋問相手とか本当に一般人の知人を任務に引き込んで殺してるしで罪悪感ってよりは単なる完璧主義者としか見えまへぬ。しかもそのトラウマも実は勘違いっていうか彼女に原因がないから彼女の物語としては面白みに欠けてしまうし。
あと雇われ傭兵っぽいのに忠義に厚いヒットマンとか、アホの子マイケル・ダグラスとか、カット割りのテンポのせいで緊張感出てなかった李とか、まあ色々とおざなりではある。
最後普通に殺すんだ…というあたりはもう完全に笑ってましたよ。
エンドロール入りのBGMもちょっとMOBYのエクストリームウェイっぽいし、全体的にいろんなスパイアクション映画の要素を盛り込んで仮分数になるくらいわり算しちゃって表層的な部分だけが残った感じ。
それでもまあ、オーランド・ブルームが良い感じに老けていたりマルコヴィッチの張っちゃケ具合だったりアホの子ダグラスは観ていて楽しいので、そういう風に観れば割と楽しめる。
「ゾディアック」
そういえば、フィンチャーの映画って色々観たつもりになってたけどあんましまともに観たことないじゃん、と思い立って観る。
デビュー作にしたって午後ローの大幅ばっさりカットが初見だし。まともに観たのってそれこそ「ゴーン・ガール」くらいじゃなかろうか。あ「セブン」もか。
というわけで「ゾディアック」を観たんですが、まず長い。
が、この長さの映画を観ると私の場合は途中で集中力が持続しないのですが、なんでかフィンチャーの映画ってどれだけ長くても全然飽きない。
ゾディアックが作り出した状況、それに飲まれていく(というか自ら飲まれこんでいく)ジレンホールという図式。相変わらずこの人って世界と対峙するっていうかなんていうか。
今観るとメインの3人がMCUのメイン級であることに不思議な感慨が。
というわけで観る。
帝都物語の方はひたすら世界観に浸ることができる映画でかなり良かった。
だいぶ端折ってるし明らかにそこは描写しとくべきだろうという部分はオミットされていたり、かなり大胆な脚本ではある。
とはいえ、それが瑕疵になっているかというと別にそういうことではなく、なぜなら昭和も明治も大正も、それが日本であろうとももはや別世界の話であるからして、その世界にはそういう道理があるということさえ頭にあれば後はその世界に浸るだけでこの映画は楽しめるのであるからして。
ギーガーデザインの護法童子とかやたらと豪華だったり、セットの作りこみや言語的な響き(東亜なんて言葉が堂々と使われる世界)による異世界の現出といい、そういう世界を自然に堪能できる映画って何気に少ない気がする。
まあ加藤がだいぶ持って行ってる映画でもありますよね、これ。あの人形を抱えて走るシーンのカッコよさとか、かなりすさまじいと思うんですけど。
あとは声も重要でっしゃろな。渋沢を演じるあの人は言わずもがななんだけど、大塚芳忠とか立木文彦とか繁千葉とか中村大樹とか、明らかに声の力も意識している。
そういう色々なレベルでのデザインによって組み上げられたのがこの帝都物語の世界なわけで。
むしろ外連味だけで造られている映画と言っても過言ではないのではなかろうか、これ。石田純一でさえあんなにいい顔ができるとは思わなかったけど。
帝都大戦の方はまあなんというか、だいぶ外連味が減ったなぁ、という印象。呪術合戦の印を結んだりしていたあの楽しさがなくてギャグマンガ日和の気功合戦の話みたいなしょっぱさになっていたり。まあ明らかに指向性が違う映画ではありますので、あれなんですけど。
野沢さんで盛大に笑ったので割と満足ではあるんですけど。
タランティーノの映画は好きでも嫌いでもない、というのが「レザボア~」や「ヘイトフルエイト」や「パルプ・フィクション」を観て思ったのだけれど、「ジャッキーブラウン」は結構好きな方で、この「デスプルーフ~」は多分タランティーノ映画で一番好きかもしれないという具合。
画面の質感がどうこうとか、まあそういうのは置いておいて、オマージュとかそういうのは置いておいて、タランティーノのいくつかの映画でやたらと会話が長いのは、その永遠とも延々と続く会話や掛け合いというのは要するに緩慢ではあるものの退屈ではない、多幸感とは言わずとも幸福な時間がだらだらと繰り広げられる時間なんだなぁ、と。
それと対を成すように、一瞬の出来事がある。それがテキサスの事故のことであるのだけれど、その緩慢なダラダラとした時間というのはその一瞬の出来事(悲劇)との構造的な対になっているのだな、と。
どうでもいいけど、本作のカートラッセルと後半の女性グループのまさに白黒な対比というのはタランティーノの心象の具象そのものなんじゃないかと思ったりするんだけれど。しかし後半は笑えるしスカっとするしで、割と本気で好きな映画だったりするかもこれ。
「DUNE/砂の惑星」
コケたという話ばかりが取りざたされていたので身構えてたら思ったより全然楽しめた。いや、まあ、お話のダイジェストな編集は目立つんですけど。
そういうのはどうでもいいくらい映像的スケール(お話ではなく)が楽しい。ダラダラ流しながらBGM的に観ていたい感じ。
あと浮遊という動作において、この作品が今まで観てきた映画というか実写作品の中で一番しっくりきた。
「十三人の刺客」
やっぱり伊福部音楽はいいなぁ。使い回されてるけど。
この間の謀略もそうだけど、こうチームものってやっぱり最低限の面白さがある気がする。
これラストの殺陣、全然美しくないんですよね。場面場面での一進一退に角に隠れて不意打ちとか、切り合いというよりはどっちも鬼の鬼ごっこ(そんなもんないと思いますけど)に近い。まあ、タッチはすなわち斬ることになりますから、必死にもなる。
汚いなさすが侍きたない。
その目的を果たさんとする生き汚さこそがこの映画の楽しいところであり、そうやって非常に徹しようとすればするほどに浮き上がってくる人の情念があのラストに結実する。
いやこれ、全然情緒ありまくりですよ。
十三人側が全員キャラ立ってるか、というとまあどうかと思いますが敵側にもしっかりと半兵衛という美味しいキャラを配置しているし全然楽しい。
「ランペイジ 巨獣大乱闘」
筋肉+怪獣=(゚д゚)ウマー。
もはやシュワの後継者と呼んでなんら差し支えない筋肉理論を大展開するロック様。
シュワちゃんの時代にCGが発達していたら多分同じような映画が作られたのだろうなぁと。
若本ボイスの人があんな登場しといて株爆上げしてくる人だとは。妙にボンクラな映画なのに良い意味で裏切ってくれるしキャラクターを上手く生かして変に湿っぽくせずに締めるあたりもよい。
いや、普通に全然楽しいです。「コマンド―」が好きで怪獣が好きで「AVP」が好きな
/)
///)
/,.=゙''"/
/ i f ,.r='"-‐'つ____ こまけぇこたぁいいんだよ!!
/ / _,.-‐'~/⌒ ⌒\
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/ ノ il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
,イ「ト、 ,!,!| |r┬-| |
/ iトヾヽ_/ィ"\ `ー'´ /
な人には最高のポップコーン映画。
「コマンド―」みたいに変にサイコでもないあたりに間口の広さを感じる。
ていうか「カリフォルニア・ダウン」の監督だったんですね。超納得。
「ブレードランナー2049」
いや「ブレードランナー」の楽しいところってそこではないですか?という感じがしなくもない。
むしろこう、「ブレードランナー」の世界とか言われてもどちらかというとあの寂びれた廃墟の印象などは「トゥモロー・ワールド」的というかデッカードとKの水泳シーンなんかは「ガタカ」オマージュっぽかったり、全体的に別の映画の世界に浸っているというか、ブレランに別の映画の変数を代入したことで奇妙な不一致感が出ているといえばいいのでしょうか。
これがブレランの続編でなければもっとすっと入ってきたのだろうけれど。
いや、ドゥニ・ヴィルヌーヴの作家性というか霞がかったイメージが頻発していて面白かったんですけどね。
Kくんの貴種流離譚かと思ったらそんなことはなかったでござるの巻とか、恋人を踏みつぶされるところとか、哀愁が漂いすぎていて。
思うに「最後のジェダイ」が正当に(しかしバッドエンドの方向で)描けていたらこういう感じになったんじゃないかなぁと思う。
「ウィンター・ウォー 厳寒の攻防戦」
これ、自分が戦争という状況の在り方に対して抱く危機感をそのまま映し出している。
それは戦争という状況の常態化。それに寄与しているのは上映時間の長さと、起承転結のなさ。戦争という状況に置かれた個人の物語も、戦争の状況の進退が描かれるわけでもない。
ただひたすら戦争という状況があり、そこに参加する人間の活動が切り取られるだけ。
戦争が日常化したとき、我々が日頃の全てに鈍感になっているように、戦争という特殊な状況にすら感慨をいだくことがなくなる。
ほかの戦争映画で描かれるのは往々にして日常からかけ離れた戦争の凄惨さやそこに放り込まれた人間のタガが外れていく様などの非日常。
しかし、この映画ではそれすらも日常化してくる。
ひたすら戦争という状況とそこで活動する人間を描く(ときにはドキュメンタリーちっくなカメラワークで)のだけれど、情動を惹起することがない。もちろん、飛び出た内臓を押し戻す兵士の姿や家族に営為が描かれる場面では少なからず思うことはあるのだけれど、戦争が個人に死を迫らせる状況であり、その反動としての生への執着としてのセックス描写の片手間さといい、この映画は個の云々を描こうとはしない。
そういうツカシン的なものではない。
あれだけの銃撃、血液、死体、爆発が描かれながら、しかし戦争を緩慢で弛緩した時間に落とし込もうとするこの映画によってそれらは単に「そういうもの」として、日頃わたしたちがめもくれない道端の石のような他愛ないもの、当然あるからこそ意識を向けることすらないものへと転化される。
とはいえ、それでも生理的な嫌悪を催す場面があるのが救いというべきか。
戦闘、風景、休息。その反復だけが描かれるこの映画は、唐突に終わりを告げる。
だって、個人にとって戦争なんて大きな状況に翻弄される以外にはないのだから。それは劇的に肉体が欠損したり心が変貌したりもせず。
なんだか恐ろしい、この映画。や、この映画というよりは、この映画を通して見せつけられる認識というべきだろうか。
「座頭市二段切り」
勝新太郎はいいなぁ。ご飯の食い方って、やっぱり映画で観るぶんには小奇麗なのよりも貪り食う方が気持ちいいですよね。ブラピとかもそうですけど。
話自体は義理人情の勧善懲悪、やけに長回しだったり90分もないランニングタイムだったりとか、今だからこそっていう感じもある。
やっぱ冒頭のおむすび食べるところが最高だなぁ。
「ガジュラ」
テレビ映画の割に結構なバジェットを感じさせる作り。さすがゴジラへのあてこすり(語弊)だけはある。
モンスターのデザイン、というかアニマトロにクスが何気にすごい奇妙な塩梅で困る。かわいいなぁ、このモンスター。お土産屋さんのパチモン怪獣みたいで。
アフレック兄弟入りしても違和感のない顔のアダム・ボールドウィンが主役だったりするし、その吹き替えが鈴置ボイスだったりと割に楽しめるというのが。
個人的にこの監督のアステロイドが気になる・・・。
「ルーキー」
逆ブルーサンダープラスMIBってとこでしょうか。
相変わらずのイーストウッドというか、元の脚本からなのかどうかわかりませんが、本当に無駄に無駄のない描き方というか。
普通だったらなぜいきなりあのレストラン?を突き止めたりする捜査の過程を描いたりするところを「どうやってあの場所を?」→「それが仕事だから」と切り捨てる。
後々に情報屋から仕入れたものだとわかるんですけど。
「マーニー」
観たことはあったけれど久々に観直すとほとんど記憶から抜けていることに驚く。
しかし 倒錯してるなぁ・・・。
コネリーはコネリーで人でなしな目をしているし、相変わらず。
しかしズームアップ・アウトのあのシーンとか今見ると結構キツイものがあったりする。
いや、全体として面白いことに変わりないんですけど。
「大列車強盗」
クライトンなんですね、これ。
コネリーの頑張りは観ていて萌えるけれども・・・。
「エンジェルウォーズ」
頭空っぽにして観られる映画が観たいな~と思ってザックの映画をチョイスするというのも割かし失礼な気がするのですが、そういえばこれは観てなかった~と思い出して観賞する。案の定というか安心のザックでござい。
これは何というかザックのやりたい部分(JK(正確には違うけど)ドンパチ)を違和感なく(違和感がないかどうかは別として)見せるために設定が用意されているわけで、そういう意味では「マトリックス」の電脳世界だからオールオッケーを妄想(の中の妄想)だからオールオッケーという何ともこうトーキングヘッズの執筆陣が白けそうな設定に置き換えた「キル・ビル」というか。
これが鬱だとか言う輩がいてほんと片腹痛いのですが、ザック・スナイダーなので本質は精神病院の方ではないことは明らかなわけで。
しかしあれですね、ここ数年、特に10年代に隆盛になってきた美少女(JK)に何らかの要素をぶち込んで売り出すコンテンツって、「エンジェルウォーズ」を観ているといかにそれらが良くも悪くもバカバカしく抽象化されたアニメ(絵柄)であるから許容されているかというのがありありとわかる。何とは言いませんが、最近じゃ玩具市場にもそういうのが目立ってきてて、なんだか「それでいいのか」という気もしなくもないのですが。(バン〇イとかグッ〇マとかコトブ〇ヤとかね。そういう意味じゃ海〇堂の変わらないオタク的なスタンスというのは希少ではあるのかもしれない。価値があるかは別として)
でもザックの年代的には「BLOOD THE LAST VAMPIRE」あたりなのかな。制服の感じとかからも。ていうか寺田さん起用してるし。
それはともかく「エンジェルウォーズ」にしたって前述した妄想という設定があればこそ成立しているわけなんですが、JK+αのジャパニメーション作品の類というのは「アニメである」ということ以外に根拠を持たないあたりはやっぱり怠惰だよなぁ、と思うのですが。
にしたって「エンジェルウォーズ」もいくら妄想の中とは言え1950年代って話なのにそういう意匠を用意してこないあたりは、まあ音楽がアレだしそもそも再現しようとかそういう意図はないからなぁ。
幕が上がってスタートとか、しょっぱなからモノローグあったりするし、まあやりたいことはすごくわかるんだけどね。
その辺のことはローカライズ担当者の吹替えキャストのチョイスからも何となく察せられるんですけどね。
おかげで最初はノイズがひどかったんですけど、まあモノローグは甲斐田さんだし、ギリギリ許容できる範囲ではあるんですけど、叫びとかアクションのときの声が吹き替えられてないから俳優のオリジナルの声と吹き替え声優の声質が違いすぎて妙な笑いが。
とまあこんな感じではありますか。他は特に、ザックだなぁという印象。
アーつだけ気になるのはエミリー・ブラウニングはストレートに可愛いタイプじゃないので、あの白金髪はどうかと思います。
あとオスカー・アイザックが出てたことに驚き。この人って良い感じの人を演じるときよりやばい感じの人の方が良い味出してると思うんだけどなぁ。
「アダムス・ファミリー2」
あーいい。こういう軽く観られてほんわかぱっぱする映画っていいですよね。
バートンみたいに胃もたれしないし。
日本だとこういうのってほとんどアニメが担っている気がしますしねー。
結婚式委はヘビメタとかでもよかった気がしますけど、それはそれで露骨ですかね。
でもこんな軽い映画だけど使ってるワードとか赤ん坊を落下させるとか、未だとすごいクレームがつきそうな表現がたくさんあるあたりは流石というか。
子供向けではないエグイネタがあるから日本じゃできないかもですなぁ。
ブロンド信仰というか、カーストの皮肉とかもきいてるし。
変質者と殺人鬼カード欲しいなぁ・・・
「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」
イーストウッド映画。30年前から爺さんだったのに未だに現役で爺さんやってるって改めてそのすごさを感じる。よく考えたら50年代からキャリアスタートしてるわけだし、本当にこの爺さんは存在が強いです。
あと「許されざる者」よりも前の作品なのに「許されざる者」よりも老けたように見えるのはどういうことなんでしょうか。
相変わらずテキパキと進んでいくのはイーストウッド。部下が一人死んだくらいで湿っぽくならないし、リーコン部隊の結束の描き方にしたってどこか他人目線というか距離感があるし。唯一、殴り合うところでのカメラが今までと違う感じはしましたけれど。
そういえば、はねっかえりと継承みたいなものが見え隠れし始めたのってもしかしてこの辺なのかしら。いかんせん追い切れてないから分からないんですけど、それが極に達するのが「グラン・トリノ」というのは多分間違いなくて、その後は何かこう彼岸(を垣間見た人々)みたいなものに魅入られ始めているような気がする。「インビクタス」はよく分からないんだけど。
「か運び屋」を見逃したのは痛いなぁ・・・今度観なきゃ。
クレジットカードのくだりは「トランスフォーマー」にもありましたな。そんな昔からあの手続きってそのままだったんですねぇ。
「テラー・プラネット in グラインドハウス」
「デスプルーフ~」とすごい手法が似ているなーと思ったらニコイチ作品だったのですな。ロバート・ロドリゲスの映画はそれこそ「スパイ・キッズ」しか知らないくらいなんですけど(これ意外とシリーズあるんですね)、なんというかこう、割とグロテスクなものが好きな人ではあるな、と。
どうでもいいですけど「片腕マシンガール」より先だったんですね、これ。
だからこの映画の企画というのはぴったりだったわけで、いわゆるB級ゾンビ映画の発展系といいましょうか。いや、発展系というのもなんか違う気がする。志としては「キャビン」のそれに近いのかもしれないけれど、ああいう集大成のようなオチが待っているというわけではない。
むしろメタな構造を意識した上で大集合、というお祭り映画的なメガ盛りとはまた違って、「テラー~」の方はB級ゾンビ映画のディティールを詰めつつ(トム・サヴィー二による特殊メイク)それ自体を過剰にすることで超絶に楽しい映画に仕上がっている。いやほんと、割と本気で痛々しい場面があったりする(けれどそれはギャグとして機能させている)んだけどね。
ズームのカメラワークとか細かいジャンプカットとかもその一端。
「蟲毒~」のようなただ単に作為的にハチャメチャにしたところで結局はバカバカしいことにおんぶにだっこだったことで「はぁ・・・そうですか」といった萎えた感情しかもたらさなかったのに比べて、こっちの工夫を凝らした過剰さはその細部を再現しそこに過剰さを持たせることで(サヴィー二やタランティーノの扱いなんかを見ると自己言及的ですらある)独自の味わいをもたらしたのに比べるとその格の違いは歴然としている。
ヘリコプターでひき殺しとか、片足マシンガールな展開とかバカバカしい感動をもたらしてくれる。
役者、特に女性陣が素晴らしい。猥雑なエロ押し(バストを強調しておいて「良い尻だ」とかいうのは流石に笑いましたが)な愛嬌はもちろん、そういうのとは別のところに強さがあって。ローズ・マッゴーワンとマーリー・シェルトンが最高。
これかなり好きかも。
イギリス人のフォーサイスがこういう物語を書くというのは当てつけなのか彼なりの救いなのか、どうなのだろう。