dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

嘘つきはジョーカーの始まり。笑いで世界を吹き飛ばせ

やっぱり、どう足掻いてもバットマンとジョーカーは切り離せないんだなぁ。バットマン出てこないけど。

何気にこのままDCユニバースに食い込んでも実はそこまで問題はなさそうでもあるというバランスの(時系列はよくわからないけど)「ジョーカー」。

 

このタイミングでジョーカーというヴィランが単独でスクリーンに現れたのは、もちろん偶然などではない。

本来ならヒーロー(善)の対置としてのみ存在を許されるヴィラン(悪)が、ここまで堂々とした佇まいで、ヒーローという拠り所を持たずにステージを独占しているのは「ジョーカー」においてジョーカーはある種の善性()を付与されているからだろう。

その点で、純粋な悪(意)そのものだった「ダークナイト」のジョーカーとは明確に異なる。そもそもヒースのジョーカーは最初からジョーカーだったわけで。

そうはいってもジョーカーはジョーカーで、その表象が担ってきた行動を起こす。つまり世界を覆う欺瞞を暴き出そうとすることだ。

「常識的に考えて」などという正気を抑圧した楔を引きちぎる存在として、ジョーカーはある。

ただなんというか、ホアキンジョーカーというのは彼自身がジョーカーそのものというよりも、ジョーカーの意思に操られている個人としてあるように見える。

それはアーサーという、ジョーカーとは異なる側面を与えられているからかもしれない。

 

ヒースのジョーカーが人間の善悪を超越した人間の本意本質を抉り出そうとしたのに対し、ホアキンのジョーカーは徹底して世界から疎外された者としてのフリークに肩入れし(そういう意味ではバートンのバットマンに眼差しは近い)、彼らの存在する下層世界で煮詰まった負の感情を起爆させる。

善悪それ自体を問いかける起爆装置をその手に握っていた、世界に対してメタな存在であったヒースジョーカーに対し、ホアキンジョーカーは自身を世界の外から見下ろすメタ存在ではなくその世界の中でもがく演者の一人として置かれ、自分自身を起爆装置としている。まあ「タクシードライバー」オマージュなんてささげてる時点で彼が世界を超越した視線を持っているはずもないわけで。

 

だからジョーカーに超越性を見出す人が「ジョーカー」を認めたくないという理由も分かるし、正直に言えば自分にもその気持ちはある。いや、認めたくないとまでは言いませんが、観るまではそっちに行くのかぁという気はしてた。

しかしこの映画のタイトルは「ジョーカー」だ。たぶん、劇中でジョーカーを語るアーサーとこの映画のタイトルがさしているジョーカーは異なる。

タイトルとしての「ジョーカー」はジョーカーというヴィランそのものを指し、その中の一つとしてホアキンジョーカーはあるのではないか。ベン図的、とでも言えばいいのだろうか。

「ジョーカー」に置いてホアキンジョーカーは映画世界の中の人物でしかなく、世界そのものを外側から揺さぶるヒースジョーカーとは異なる。

しかし、アーサーがテレビ局に向かう場面、電車での騒動のシーンを思い返してみると、そこにはいかにもジョーカー的な悪意の表出がある。

ウェインに対し暴動を起こさんと、貧者たちがピエロのマスクを着け一致団結しているかのように見えるあのシーンは、しかし大量生産の産物であろうそのマスク以外にこれっぽっちの結束などは見えない。そして、それを証明するかのように流れ弾ならぬ流れ拳が飛んできたことでいともたやすくピエロたちはお互いを殴りつけ合い、その中でポリスを巻き込んでいく。

ホアキンジョーカーは結果的にせよ彼らを煽り彼らに煽り返され、同質化し(そしてまさに電車のぎゅうぎゅう詰めが示すように押し込められていた)ていたはずなのに、その様子を睥睨するホアキンジョーカーの視線は極めて怜悧だった。

「何やってんのお前ら?バカじゃねぇの?」とでも言いたげに。それまで散々一緒になって煽っていたのに、急に手の平を返し、その手の平に乗っていた大衆を奈落の底に叩き落す。まるで釈迦の掌の上の語空の逸話のように。

あのシーンのジョーカーだけは、「ジョーカー」のジョーカーが憑依していたと思う。ホアキンジョーカーではなく。むしろ、ホアキンジョーカーすらも笑い飛ばしてしまう巨大な概念としてのジョーカーが顕現した瞬間だっただろう。

その一点だけで、この映画がホアキンジョーカーを弱者の一人として描きつつも、映画それ自体の視線はやはりジョーカー的なものだったというのは分かるから、溜飲が下がった思いではありました。

「こんな(ホアキン)ジョーカーに感化されて、バカじゃないのか?」というささやきが聞こえるようですらある。

 

とはいえ、ホアキンジョーカーに作り手が「寄り添っている」というのは否定できないところだろうし、いま述べたような巨大なジョーカーの視線というのはホアキンジョーカーの行動を無限定に肯定してはいけないという自戒みたいなものなのだろうな、というのも理解できる。

 

 

 

 

なんとなく、この映画には三つのレイヤーが存在する気がする。

一つはまったき現実で、

一つは悲しい空想。

一つはカメラ越しの世界。

 

そして三つのレイヤーが折り重なるとき、オーディエンスはテレビの前の傍観者ではなく同じホアキンジョーカーと同じ空間にいる当事者に引きずり降ろされる。

遂に人々の前に現出したジョーカーは、閾値を超えた瞬間に構造を逆転させる。逆転というより、大衆が祭り上げた道化に大衆が呑み込まれてしまうという反復による増幅が双方を肥大させ合う。その極限がパトカーの上での一連のシーンなわけで。 

 

そういう風に、この映画におけるホアキンジョーカーは大衆――愚衆の理想の体現としてある。

だからこの映画はちょっと危険かもしれない。ホアキンジョーカーにばかり目が行ってしまうから。

もっと大きな悪意=もっと大きなジョーカーの視線に気づかなければ、世界がアーカムアサイラムからゴッサムになる日はそう遠くないのではなかろうか。