dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

復讐するは彼にあり

てか公開遅すぎ、日本だけ。そのくせ「ジョーカー」に被せてくるとか大丈夫か配給は。

通例、世界同時公開や本国同時公開が行われるのはワーナー、ディズニー、ソニー、フォックス、ユニバーサル(東宝東和)、パラマウント東和ピクチャーズ)など日本にも直属の配給会社があるメジャー作品のみ。『ジョン・ウィック:パラベラム』のライオンズゲートはアメリカではハリウッドメジャーの一つだが、日本ではポニーキャニオンKADOKAWAなど作品ごとに配給をおこなう会社が異なる。その際、配給業務のスタート時点で既に日本国内の邦画メジャーと洋画メジャーの自社作品に劇場が押さえられていて、作品の規模にふさわしいスクリーン数を確保しようとすると、公開日が先送りになってしまうことが多々あるのだ。

ということらしいので、まあ仕方ないっちゃ仕方ないんですけど。今回はユナイテッドシネマで公開してくれたので良かったと言えばよかったのですが、どうにかこの構造はなぁ。

 

それはともかく「二人はジョン・ウィック」と記事タイトル迷った。それくらいハル・ベリージョン・ウィックしてた。犬のこととか、聖印を押し付けられるあたりとか。

 

ジョン・ウィック:パラベラム」、今回はもう「マトリックスVer20.19」みたいな感じでござんす。

グリーンの色使いとかそういう色彩設計や美術などが明らかに変化し、露骨にアジアンテイストを盛り込んできていたりするし。それを言ってしまえばローレンス・フィッシュバーンが加わった「チャプター2」からすでにそうなってはいたけんども、しかし一番マトリックスに近づいている部分というのはシステムそのものと対立しなければならない点でしょう。

たしか池田さんは主席連合(今回で気づいたんですけど「High table」を主席連合って訳してたんですな)を「コンチネンタル(=大陸的)」を統御しようとする無国籍=多国籍資本主義連合とみていたけれど、私はもっと拡大解釈的に主席連合をシステムそのものだと解釈したかなぁ。

まあマトリックスアーキテクチャーほど無機質で抗いようのないも無慈悲なシステムではなく、交渉の余地があるという点やルールは絶対であっても絶対的なルールはないといったバランスは人肌を感じさせるのですけどね。

そう考えると主席連合の首領との対話なんかまさにアーキテクチャーとの対話のオマージュにも見えてくる。どっちを選んでも・・・という二者択一も。
ネオ・・・もといジョン・・・もといキアヌはその聖人性から背徳的な行動は取れないので、あれは必然なのですけど。


でもね、これ結局のところ終わりはないのではないかしら。コンテンツというメタな視点からも。
たしか「チャプター2」のときはあのラストを煉獄と書いた気がするのだけど、その意味では「宮本から君へ」とも通底しているテーマがある。

ただ「宮本~」のような比喩としてではなく、主席連合のトップとの会話の中であるように妻の思い出を抱き続けながら「生きる」かここで「死ぬ」かという、比喩でもなんでもなく敗北・即死を意味するあたりは取り付く島もないのです。

この世を生きること、それ自体が煉獄であるということ。
その悪辣な人の営みを戯画化して描いたのが「ジョン・ウィック」の世界なのだろう。
その世界におけるジョン・ウィックとは何者なのか。

たとえばラストの下剋上(ていうか都落ちしたキングなので下剋上ではないかもですが)の下層階級の復讐の代理人としのジョンは、やはりというか神的存在としてあるように見えて仕方ない。

結局のところ、ジョンの行動原理は多くの殺し屋連中が怜悧な資本システム=拝金主義や権力を希求して行動するのとは真逆に、人の情によってのみ帰結させられる。それはもちろん、自分自身の情も含む(というかそれが「ジョン・ウィック」という煉獄シリーズの口火だった)。

一作目が己の情、二作目が権力を志向する他者の情念、三作目においてはシステムそのものを引き受けたように、段々と有機的なものから無機的なものへとシフトしている。

面白いのが、そうやって無機的でありながらもそこに通底しているのは血の通った人間であるというのがマトリックスの機械とは違うところで、それがSFオタク的なウォシャウスキー姉妹とアクションスタントという肉体を引き受けたチャドとの違いなのではないかと思う。


そして、二人(というか三人)の監督の情念を引き受けたのがほかならぬキアヌだった。ジョンのように。というか順番は逆か。
思えば、キアヌ・リーブス(の人生も含め)はそういう代理・代償の人だった。
人はそれを救世主と呼ぶ。そう、彼はネオのときから救世主だった。
人々のキリストが人々の罪を背負ったように。神が「復讐するは我にあり」と言ったように。

もちろんそれは半ば冗談なのだけど、ここに来てネットミームのジョークが(といってもそのジョーク自体がキアヌの聖人性から導出されたものなので、演繹的で循環的なんだけど)「ジョン・ウィック」にまで顔を出してきているような気がするのはしかし気のせいではなさそう。
ジョン・ウィック」シリーズはキアヌもかなりアイデア出しをしているようだし、その辺のミームも引き受けているというのはあながち間違いではなさそうな。


あとはゼロ役のマーク・ダカスコスさんのバックグラウンドが凄まじく壮大だったり「ザ・レイド」の最強ハゲことヤヤン・ルヒアンと「ザ・レイド GOKUDO」のセセプ・アリフ・ラーマンの殺陣とか、ステージごとにその場その場の道具を使って人殺すあたりは相変わらず楽しい(っちゃ楽しいですけどゲームチック)んだけど、馬はどうしても「トゥルーライズ」が脳裏を掠めてしまいまする。ええ、午後ロー脳なので。