dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

アクチャブリー

外人部隊フォスター少佐の栄光」

これブラッカイマーってマジですか。

何か今のブラッカイマーの仕事からだとあまり結びつかないタイプですな。最後の戦闘シーンはそれっぽい気もしますけど。

 

「Ainu | 人」

このドキュメンタリーで出てくる差別を受けてきたアイヌの民の人たちの顔を見て思ったのは、その発言の内容を聞いていて思ったのは、「客死」だった。

 

差別は過去の出来事として、記録として残しておくべきことではあっても、恨みはない、と言う。その言葉に嘘はないのだろう。

けれど、アイヌの人たちはかつての習俗を「同和」という略奪行為によって一度はすでに奪われてしまっている。たとえ北海道に住んでいたといたとしても、その奪取された事実は不可逆なものであり、その誇りを汚されてしまったことに変わりない。

彼の土地は、すでにアイヌの人々にとってはよその土地になってしまっているのではないか。

この映画ではむしろ自然の一つとしてその土地を敬いアイヌの伝統儀礼としてその土地に根を下ろしているし、積極的な文化啓蒙活動の営み(だけ)が写し出される。

けれど、少なくとも私には彼らの発言から日本人とアイヌ人との断絶を意識せざるを得なかった。

なぜなら、彼らは(全員ではないにしろ)本土の人間を和人と呼んでいた。

差別の当事者であった彼らにとって、当時の問題の渦中にあった人としてその名称が流通していたからであって、そこに本土人アイヌ人を分断するような他意はないのかもしれない。

それでもこの居心地の悪さは、忘れてはならないものなのだと思う。

 

 

「おっぱいとお月さま」

タイトルが意味の重畳している気がしますが。

 もっとこう、子どもの視点でおっぱいを科学するのかと思ったら結局のところは兄弟と母性を巡る可愛らしい葛藤ではあった。

まあでも、科学しているといえばしているのだけれど。

国柄なのか監督の趣味なのかはわかりませんが、弟を全く描かなかったりおっぱいをてらいなく描くあたりなんかは面白いと思えるんだけど。

ただ、この手の作品にありがちな弟に対する嫉妬とか、そういうものを描くのではなく奪われた母性の象徴としてのおっぱいにひたすらフォーカスし、そこにアダルトやアダルトに向かうヤングを絡めてきたりするバランス感覚はちょっと他になくて楽しかった。

まあおっさんの趣味趣向みたいなものが見え隠れして気持ち悪い、という感覚も無きにしも非ずなのですが、まったくと言っていいほどおっぱいがエロくない(セクシャルなものではなく授乳だし)あたり、やっぱり純粋に少年の視座に立とうとしているのではあるのでしょう。

 

 

「英雄の条件」

 フリードキンなんですねぇ、これ。何気にガイ・ピアース出ているんですが、このころから嫌な役やってますな。嫌な、ってわけじゃないけど。

死に瀕した男たちの見る、彼らに死か見えない極地を法廷劇()で描く。

面白い。

 

 

「6歳のボクが、大人になるまで。」

今さら観賞。リンクレイターはやっぱいいなぁ。

邦題は若干失敗していると思いますが。これ大人になるまでっていうより、ようやく大人への一歩を踏み出したところで終わっているわけだし。句点まで打っちゃってるし。う~ん。

役者の肉体の変化は言わずもがな、画面の質感の変化や取り巻く環境・テクノロジーの変化などなど、その変遷を観るのが楽しい。

ラストカット(あの気まずい空気の中に和みがある感じがたまらない)の「この瞬間」の語りは、ハイティーンにありがちな自我の肥大と他者との表層的な係わり(シーナ周りとか)を通して、分かったようなことを散々うそぶいていたメイソンが、自然の中で二コルという他者に素地を曝した(まさに彼自身の繕わない自然さ)が故であり、その言霊には「重み」こそなくとも「切実さ」がある。

メイソンに、ひいてはエラー・コルトレーンくんに「重さ」を背負わせるには12年では多分足りない。でも、だからこそあの心地よい気まずさというのはあれくらいの「軽さ」がなければ出せるものじゃあない。

 

その軽さの代償と言わんばかりにオリヴィア(パトリシア・アークエット)にしわ寄せが行っていて、彼女に関してはちょっと不憫なまま終わるんですけど。

あとあれはメイクなのかどうか分かりませんけど、体型が結構変わるんですよね。その辺も生々しい。

 

あとエロスね。「ミスターノーバディ」とか、他の映画の感想でも書いた気がするけど、成長可能性を秘めた身体のエロさというのはやっぱり確実にある。

特にローティーンの女性というのはそれが顕著に表れる。だから、中盤あたりはぶっちゃけサマンサ(ローレライ・リンクレイター)にばかり目が行っていた。

決して際立って美人とか可愛いというわけではない。しいて言えばブサカワ系ではありますでしょうが、それが返って生々しかったりする。

リンクレイター、こういうところに自分の娘を配役するのってやっぱり親馬鹿なのだろうか。

とはいえあくまで主役はメイソンくんであることは貫いているので、サマンサの行事は悉くカットしていますね。それでも尺が長いのですけど。その辺はウィル・スミスみたいにならないあたりちゃんとわかっている気もしますけど、線引きを。

 

でもまあ、よく考えたら役者の肉体の年輪をそのままスクリーンに投射するという意味であれば、「ハリーポッター」シリーズって「6歳の~」の先駆け的な映画ではありますね。

まさに劇中でも謎のプリンスの発売シーンが盛り込まれてたりしますが、リンクレイターはやっぱり意識してたんだろうか。

 

マイライフ・アズ・ア・ドッグ

 まさかのおっぱい映画。

しかし北欧とかあっちの映画って何でこうも空気がじめじめしてるのだろうか。

この映画に関していえば最終的な着地も含めてそれほど暗いわけではないのですけれど、前半から中盤までの画面の風景が放つあの鬱屈とした感じはやはりロケーションのなせるものなのだろうか。

ややもすれば「ハート・ストーン」とかあっちの方向に行ってもおかしくはない空気を序盤はかなり孕んでいたような気がするのですけど、それはさすがハリウッドで活躍できるハルストレムといったところだろうか。

うーんやっぱりソフトフォーカスってもしかしてそれをぼかすためにつかってたりするのかしら?

 

しっかし折笠さんと川上さんの吹替えだからかやたらと二人のボーイズ&ガールズがかわいい。だからこそ序盤のあの空気が恐ろしくもあったんですけど。

 

レイジングブル

スコセッシに限らないけど少し古い映画はあまり観なかったり、以前にちょろっと観たけども…というのが多く、ので長らく本作も名前だけは知ってたけど観たことがなかった。

 

あれですね、「道」。

 

 

「ダンス・ウィズ・ウルヴズ」

「レヴェナント」だこれ。

あとリリコがいた。

境界を越境していく人物としての南北戦争の冒頭のあれを白人とネイティブアメリカンとの越境というのはわかりやすいのだけれど。

コスナーって真面目というかなんというか。

 

「フューリー」

戦争映画は数多くあると思いますが、戦車の戦闘をここまでフィーチャーするのはあまりないように思える。

いや、面白いっちゃ面白いし好きな映画ではあるんですけど、いかんせんノリが軽いというか、どことなくブラッカイマー臭がするというか。

音楽の使い方とか、戦争映画にあるまじきアーバンなbgmを多用するし、ブラピのズーム(カメラ本体を近づける)の中途半端さといい、なんか戦争映画を観ているというよりもいわゆるエンタメ大作を観ているような感覚に。

その適度な軽さとスクリーン上で起こるグロテスクな惨状の歯車がかみ合わないとまでは言わずとも妙に軋みを上げているような具合が奇妙な笑いを誘う。

それはドイツ人の女性とマシンがメイクラブした直後のあのブラピたちのニヤニヤした顔つきからも分かるように、ひたすらにシリアスを貫こうとしているわけではないことからも分かる。

 

吹替えで観たんですけど、全体としてはいいけれどいかんせんこの映画のブラピにけんゆーさんを当てるのはちょっと声が優しすぎるかな、と。特に叫ぶところとかは、もっとドスがきいているほうがいいかな、と。

シャイアの小松さんはぴったり。この人、個人的にはシュワちゃんと玄田さん並みのシンクロ率がある気がする。シャイアの咆哮とか同じ言葉を連呼するところとかも、ちゃんと声が低くなるし。

でもシャイアに髭は似合わないかなぁ。

 

「キューブ」

そういえば観てなかったと思い立つ。

そっか、グロというかゴアな趣味は「スプライス」とかを観てると意外と納得するところではある。

あの幾何学模様のデザインの部屋とかは割と好き。

ニコール・デ・ボアがアリータに見えた。

カメラワークとか編集のテンポ優先な感じとかB級(まあ製作費安いし)なテイストが。

この手の映画では実質的なリーダー役がむしろ悪役的な立ち回りを演じるというのも結構以外だったり。

 

モリーズゲーム」

アーロン・ソーキンってこれが初監督作品だったんですな。ちょいちょい名前を耳にするからてっきりベテラン監督かと思っていましたが。

何となく、編集のテンポがアダム・マッケイに通ずるものがある気がする。ただあちらのようにユーモアやアイロニーに彩られた笑いを含むような誘引はなくて、至って真面目なのだけれども。

キャプテン・マーベル」と同じような題材ではありますけど、自叙伝がベースになっているだけあってかなーりリアリティがある。

どれだけ脚色されているのか分からないけど、アーロン・ソーキン的にはやっぱり父親の存在を主軸に据えたかったのだろう、というのはコスナーを配置しているあたりからもわかる。

ジェシカ・チャスティンって「ゼロ・ダーク・サーティ」といい、理不尽な状況とか非日常に適応せざるを得なくなった女性という役柄を当て込まれることが多いですな。

生命の危険と隣り合わせの「ゼロ~」に比べれば危険度で言えばまだ安全圏での話ですが、男性優位社会における彼女の振る舞いは、しかし徹底的に自分に責任を負う自立心を確立しなければならなかった悲哀がある。それを彼女自身は気づいていないのかもしれないところがまた。

まあ、そうやって自分を貫いたからこそのあの判決だったわけだけれど。

もう一つ、すでに触れたような父親の問題もここにはある。その視座は、「大いなる西部」の逆パターンと言えるでしょう。

 

親は子がいて初めて親になる。最低で不義理で不器用な糞親父ではあったけれど、確かに娘への愛情はあった。そして、彼女を追い込んだのは彼であっても、彼女が立ち上がるときにいたのもまた彼「ら」だった。

それは、ともすればDV的なマッチポンプにも見えるかもしれないけれど、果たしてスケート場での二人の無料セラピーを観てそこまで言い切れるのかどうかというと、他人の私には言い切れない。

ただ、アーロン・ソーキンはそこに親子の情を見出した。そこに賛否両論があってしかるべきだとは思うけれど、単純化されていない分、少なくとも誠実だとは思う。

 

ラストカットをどう解釈するか、という部分に関していえば、私はまあ「女性はスタート地点からして足を引っかけられるような軛がある」という、むしろラストに至って問題提起しているのではないかと思いまする。

そういうところも含めてアーロン・ソーキンはやっぱり誠実なのだと思います。

 

「ボーダー」

 やっぱりニコルソンなのだ。

そして「プレデター」のエルピディア・キャリロ出てますな。あの人の顔好きなんですよね~。

ニコルソンのビンタとかBBQ器具をプールに投げ込むところとか、ああいうのを見るにつけ笑いが漏れる。

監督が60年代からの人だからか、あまりカットを割らなかったりそこまでバストサイズを使わなかったりするところがまたニコルソンを客観視させるようで。

本筋とは直接かかわるわけではない、あくまでマリア(というかメキシカンたち)との対置に留まるニコルソンの家庭の風景が、しかしその場面で語られる日常の言葉にやたら重みを感じてしまったりするのであった。大仰に人生をテーマにかかげるようなものより、ああいうサラっと描かれる方が胸に来ることが多い気がする。

それはそれとして悪辣な状況にあるメキシカンたちの行く末が、マリアのラストが、決してハッピーエンドではなく何一つ前進していないあの有様が、まさか40年近く経った今も続いているのをメディア越しに確認しなければならないというのが世知辛いところである。