dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

試写会 だよファイティング・ファミリー

最近は内向きな感じの本ばかり読んでいたのもあって、こういう自分の全く知らない界隈でてらいのないサクセスストーリーが描かれた映画を観ると開放感がある。

WWEは名前だけは知ってましたし、ロック様ことドウェイン・ジョンソンの経歴も知ってはいましたが本当にそれだけだったので、業界ネタとか分からないと楽しめなかったりするのかしら~とやや不安だったのですが全然問題ありませんでした。

後述しますが、むしろ何も知らないからこその(まあ一種の倒錯に近いかもですが)感動がより深まるシーンもあると私は思います。

むしろこの映画を観るうえで求められるのは下ネタへの耐性とちょっとしたグロ耐性でしょうか。
終始笑いに包まれていつつも、私の横で見ていた人はグロ耐性がないのかボーリングの球・蓋のあたりのくだりで「うわ」とか画鋲のくだりで「うぇえ」と声に出していたりしましたし。まあおかげでいい感じに映画館のムードに浸れましたが。とはいえ本当にゴアな描写があるわけではないので大丈夫だとは思いますが。 

それよりはディックとかコックとか、妊娠させて、とかヤらせろとか、イギリス訛りいじりとか歯並びとかその辺の定番ネタが随所にあって、それがまー下層家庭というかプロレスラーゆえなのか低俗で下品なんですね。マチズモ的な力学が過分に作用している業界なのでしょうから、当然と言えば当然なのですが。

個人的に一番笑ったのはそういう下ネタではなく、ヴェヴィス一家にドウェイン・ジョンソンがサラヤのデビュー戦についてのことを電話で報告するシーンだったり。
あそこでヴィン・ディーゼルの名前が出たときは流石に吹き出しました。たぶんここが一番劇場で笑いが起こったんじゃないかなーと。
ああいうネタを許してくれるドウェイン・ジョンソンのふところの広さを見せてもらった気がします。
割と本気で嫌ってるような感じに外野からは見えるので、その度量はさすがロック様と言ったところでしょうか。

あとはまあ、ケン・ローチを引き合いに出すまでもないのですが「キングスマン」でも描かれたイギリス下層階級事情や移民についての問題がそこはかとなく描かれているあたりもブリティッシュフィルムなかほりがします。
 

そんな下ネタ満載の映画を撮った監督、スティーブン・マーチャント。
全く存じ上げない人なんですが、一部ではカルト的人気のゲーム「portal」の続編でAIロボの声を演じていたとか。というかそれ以前にコメディアンでアクター(「ホットファズ」に参加してたんですね)だったり、という経歴のお方。2000年代初頭からキャリアを積み始めた方らしいのでそこそこ場数を踏んでいる人なんですね。一応今作が単独監督作品としては処女作らしいですが。

言われてみれば「ファイティング・ファミリー」はまごうことなきコメディ映画ですので納得。今作には一応ヒューという役どころでも出ています。
ヒューって誰だっけ?と思って調べたらザックのお嫁さんのパパさんでした。あの冴えない感じはコメディアンとしては美味しい風貌でありますな。徹底して受け身な役だし大して重要でもなければ出番もないのですが、画面に出ているシーンは大体笑える場面ばかりというのもコメディアンらしい自意識というかなんというか。

そういうわけで(?)役者はみんな良かったです。

主演のサラヤを演じるフローレンス・ピューさんも今作で初めて知ったのですが、「プラック・ウィドウ」への出演が決まっていたりアリ・アスター監督の新作にも出てるらしく、新進気鋭の女優でございます。

個人的にはクロエ・グレース・モレッツの愛嬌とミシェル・ロドリゲスのタフレディ(ガイ)な圧を感じさせるナイスな役者だと思いました。

裏の主人公であるサラヤの兄ザックを演じるジャック・フローデンは「ダンケルク」にも出ていましたな。この人、どことなくサイモン・ペグを思わせる顔つきをしていて、それなのに生気のない目をしていてそのアンバランスさが面白いです。今作においてはややそれが過剰に過ぎた感じもあるのですが。

個人的にびっくりしたのがニック・フロストがしっかりと怖く見えること。サイモン・ペグとのニコイチでじゃない方と呼ばれがち(?)な彼ですが、ちょっと頭のネジが緩んでるプロレスラーの危なさみたいなものが、これまでの作品では単なる肥満体型としてしか見れなかったその巨漢がしっかりと威圧感に繋がっているのはちょっと驚きました。

このニックやピューを筆頭に、「ファイティング・ファミリー」は肉体にコミットした映画であると言えましょう。

特にクライマックス。ピューのペイジとサラヤのペイジ本人とが一体化したのではないかと思えるリアルとフィクションのボーダーレスを役者の身体と実際の映像を交えたカットアップ編集によって表現されるシーンは、プロレス全く知らないからこそのセンス・オブ・ワンダーでしょうし、先述したプロレスというかWWEど素人の方がエモーショナルに感じられるかも、というのはそこに起因している。ここのデュアルペイジは本当によござんす。
 

全体的には無邪気に楽しめたんですけど、言いたいことがないわけではない。
なんというかですね、色々はぐらかさらてる気がするんですよね。

で、劇中で言われているように、プロレスを描く上でそれ=欺瞞を観客に悟られてしまうことはまずいことだとも思うのですよ。この映画にとっては特に。
アクションシーンで露骨にカット割りが増える、というのもまあ要素の一つとしてあげつらうこともできましょうが、それは些事というかいちゃもんにだとも思いますしそこまで気にしてないんです。

問題は他にある。

それは「予定調和の障壁」とそれによってもたらされる隠蔽されてしまう「過程」だと私は考えまする。

この「予定調和の障壁」は「500ページの夢の束」でも感じたものに近い。いや、あの映画は好きだしこの映画も楽しんではいたんですけど。

最近特に思うんですけど、そこまであざとく描かなくても状況に対する人間の反応ーーもっと言えば生理なんて殊更強調するまでもないことなんだから、ああいう見え透いたのはちょっとなぁ…と。

見え透いた障壁の一つとしてある女子グループとの対立。ここ、その対立の原因が実のところサラヤの他者への無理解と侮蔑というところにあった、というのはこの手の映画におけるクリシェの反転要素を持ち込んできていて、この障壁が立ち現れるという部分自体は良かったんです。

そこが良かっただけに、それを乗り越えるプロセスがおざなりにモンタージュで処理されてしまうのがなんとも。案の定、あっという間に背景化されファンファーレ送るモブになりますし三人組。

とはいえここをくどくど描かれてもこの手の映画でランニングタイムを増やされても困るというのはあるんで、あっちを立てればこっちが~ではあるんですが。

でもやっぱり、女子三人組をあそこまで描いておきながら最終的な帰着がモブ化というのは、この映画が掲げた「陰の功労者への賛美」に対する不誠実さと受け取られても仕方ないのではと思いますですよ。
あのね、そういう「持ってる側」がそうでない人を描くのであれば、そういう人たちを錦の御旗にするような形で使っちゃいけないと思うんですよ。

思い返せばこの辺のモヤモヤは「万引き家族」における池松くんの使い方とちょっと重なる所があって、その点で是枝さんがリスペクトするケン・ローチ監督は当事者性を盛り込んでいるあたりが流石なんですけど。
いかんせん是枝さんは優等生過ぎて逆に是枝さん自身のテーマと矛盾しているところがちょいちょいあるので・・・。

ともかく、そういう、この映画のもう一つの、っていうか真のテーマは「溺れるナイフ」の表立った裏テーマとして描かれたものであり、「太秦ライムライト」や「俳優 亀岡拓次」が面と向かって描いたものでもありましょう(それぞれの出来栄えはともかく)。

何が言いたいかというと、それがないがしろにされている、と言いたいわけです。

でもこの辺はそこまで気になったわけじゃないんですよね。というより、この部分だけなら多分そこまで目立たなかったのではと思う。

問題はザックですよ、ザック。ザックの立ち直り、あれが実は割となあなあになっているんですよ。勢いとサラヤのサクセスストーリーに回収されてしまって騙されてますけど。

サラヤがWWE選抜に選ばれ彼女がトレーニングに励む一方、カットバックで選ばれなかったザックの懊悩がこれでもかと描かれる。
この小刻みなカットバックも「しつこい・・・!」と笑ってしまうくらい(このテンポの感覚ってちょっとコマーシャルっぽいんですよね)なんですけど、ともかくサラヤが壁にぶつかって休暇で家に戻ってきた際にザックと衝突するわけです。

ここまではよござんす。んが、そこまでザックの苦悩を執拗に描いて、その後チョンボですよ!

 よく考えてみてほしいんですけど、サラヤへの家族からのサポートはあったけど、ザックへは何かありましたか?
まさかガレージの前みたいなところでのサラヤとの応酬がそれですか?

いやね、ヴィンス・ボーン演じるハッチ・モーガンこそが持たざるザックの理想形であるわけですけどね、確かに彼の言葉はサラヤを通じてザックに投げかけられるわけですけどね、それはハッチが本人に直接言わなきゃ伝わらないっちゅーの!

スターであるサラヤを経由しちゃうと意味合いが変わるんだよ! 何を言うかじゃなくて誰が言うかが大事なんだよ鈍ちん!
ハッチとドウェイン・ジョンソンのあのやりとりは観客に見せるだけじゃなくてザックにも見せないとダメなんだよ馬鹿ちん!

実際、ザックとハッチの関係性は劇中で描かれる限りではかなりギスギスしたままなんですよ、劇中のやり取りだけ観ると。ザックにとってのハッチは自分を落とした上に直接の(電話だけど)打診を断った相手だし、ハッチからしてみればその力量を認めつつもザックは脱落者の一人でしかない(現に週に数千人の希望者がいると劇中で明言される)。だからこそサラヤを選んだのだから。

結果としてはサラヤの成功のおかげで間接的に認められたような感じになる、そしてザック本人もそう感じている(だからこそ煙に巻かれているように見える)。

だからこそ気味が悪いんですよね。ザックの主体性が、あそこまでの怨嗟がいともたやすくサラヤの中に取り込まれてしまうデウス・エクス・マキナが。

存命中の人を事実ベースで扱ってる以上は大幅に脚色するのも躊躇われはだろうし、そもそもそれをやっちゃうとここまで軽くならないだろうし…といつものように無い物ねだりする自分に嫌気ががが。
 でもウィキさん見るとかなり脚色したり事実を省いているあたり、やはり物語に貢献させるための座組としてザックがああなるようにしているし。

そういうモヤモヤを除けば、描き方の古臭さというかコテコテな感じはバカっぽくてこの映画には合ってると思いますし楽しい映画です。
 

それとこれは映画の問題じゃなくて極めて個人的な倫理観の問題なんだけど、オリバー・ストーンの「エニィ・ギブン・サンデー」を見て以降(実際はもっと色んな要素の積み重ねの末のきっかけですが)マチスモ的業界の内幕が描かれたものを見るとああいうのを見てバランス取りたくなる衝動に駆られる。

ダークナイトを見たあとにバートンバッツを観るのに後ろめたく感じるようなアレなのかも。