dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2019年最後の劇場鑑賞映画

てなわけで久々に劇場に足を運ぶ。

今年の締めくくりに〜とかそういう大層な理由があるわけでもなく、なんとなく気が向いた(あと金ができた)というだけ。

ていうかまあ、自分のことを棚に上げて言うのもあれですが、映画とかゲームとか本とかに救われたとか人生が変わったとか、ああいう言説ばかり目にしていると、いや別にそういう大層な根拠ばかりじゃなくていいでしょ、という思いも最近はあったりして、ゴチャゴチャかんがるうちに映画を観るモチベが維持できなかったのです。

 

その反動なのか、何故今年最後にこれをチョイスしたのかは自分でも分からないのですが「劇場版 シンカリオン」を観てきたんですよ、ええ。どうでもいいけどこれTBS枠だったんですね。テレ朝かテレ東かと思ってました。

 

晦日だからか朝イチだからか、席はまあまあ空いてました。おかげで児童向け映画を劇場で観る際の余計な居心地の悪さを感じずに済みましたが。

大半が親子づれの中、大友の姿がちらほら、というマイノリティレポート。とか思って劇場を後にする人を見送ってたら大友のボッチは私一人でざいました。どう見てもアウェイです本当にありがとうございました。生まれてきてごめんください。

あんまり重いものとか観たくなくて、なんというかこう観た後に風のようにすり抜けていってそれなりの満足感は得ながらもすぐに風化していきそうな映画を観たかったのです。

いやまあ、前述のような理由は別にしてもあんまり重いものとか観たくなくて、なんというかこう観た後に風のようにすり抜けていってそれなりの満足感は得ながらもすぐに風化していきそうな映画を観たかったのです。

 

私はシンカリオンというコンテンツについてはラーンチ前後から存じてはいたもののテレビシリーズも玩具の方もノータッチであり、「この手の児童向けホビーアニメの劇場版ならなんも知らないトーシロが観に行ってもそれなりの戦闘シーンと上がるBGMでそれなりに満足できよう」という失礼にもほどがある態度で臨んでいたわけです、ええ。

それと風のうわさでゴジラが出るというのも聞いていたので、まあ児童向けアニメで奴を使って変なことはしないという安心感(あるいはその真逆にぶっとんだ使い方をしてくれるのでは、という淡い期待)もあった。

 

んが、まさか奴のほかにもう一つぶち込んでくるとは思わなんだ。 
「だってテレビの方でやったじゃん、それ」
・・・ええ。ノータッチといっても一部で話題になったエヴァコラボの回だけ観てたんです、私。そんでもってその回がこの劇場版では割と重要(といっても観てなくとも全く問題ないですが)だったりするので、よく知らないくせに前提は履修済みであったというちぐはぐな鑑賞スタイルの観客であります。

 

しかも奴(ら)とは別に当然のように初音ミクがいるし。黒いアイツと紫のアイツに比べてこいつだけレギュラーキャラのような佇まいなんですけど。いや間違いなくレギュラーか準レギュラー的なキャラであることは間違いない扱い。単発でありながら別の場所で同じ世界で生活しているゲストキャラ的な。その割に劇場版公式サイトのキャラクター欄にはない謎。権利的なアレか。

ネームバリューはあるけどコラボに関して尻軽な連中ばっかなせいであまり特別な感じがしないのは私だけでしょうか。

とまあここまで書いてきたことから察せられるように、事程左様に、この映画はそういったある種のコンテンツの暴力性に満たされております。
ホビーアニメのテンプレ的なお話や設定の整合性などお構いなしに映画という位相から逸脱したコンテンツの暴走・暴力が敷き詰められおり(復唱)、当初の私の怠惰な目算が無事にご破算となりました。

 

本当は「〇〇萌え~」「〇〇燃え~」とかそんな感じで済まそうと思ったのに。

あーでもそう意味じゃ緩く楽しめた部分もありました。

キャラクターは総じて印象に残らないんですけど、唯一「話がまるで見えない」子は、そのクールなライバルっぽい風貌とのギャップがポンコツで良かったと思います。

キャラクターの口癖がそれって(しかも他のキャラに取られてるし)いいのかと思いますけども、まあポンコツカワイイということでいいのか。

あと子どもたちの中に玄武?とかいう黒いオッサンが一緒になって談笑してる絵面がマンソンというかTぞうのようなそこはかとなく怪しくて笑えた。

それと速杉夫妻の名前にくん・ちゃんづけして呼び合うのがそこはかとなくエロいです。
そこにショタ化という要素が加わるので同人ゴロがおば…おねしょたネタとして使いそうではありました。何の話だ。

 

話を戻しましょう。

コンテンツの暴力の全面展開というか暴力装置としてのコンテンツのファンクションをフルバーストしたこの映画に、上記のように緩く楽しんだ部分を認めつつも、それ以上に私は乾いた笑いを自覚しておりました。

 

だって冷静に考えてゴジラエヴァンゲリオンが同一の画面に収まるなんていうのはシン・ゴジラ公開時の売店のグッズぐらいなものでしょう?

そしてそれがあくまでグッズという場外でのみ成立しているのは両者の世界観が全くの別物であり同居不可能であるからであって。
にもかかわらず、この「劇場版 新幹線変形ロボ シンカリオン 未来からきた神速のALFA-X」では当然のように両者が同居している。さしたる理由も根拠も明示されないまま…どころか存在しないままに。

「レディ・プレイヤー・ワン」のような「コンテンツをコンテンツとして扱っている世界」というでもなく。

エヴァはまあ、シンカリオン世界に取り込まれて適応させられているのでそこまでの違和感はないにしても、そこにゴジラをぶち込むという暴挙。
いや、光の量子とか闇の量子とかがあーだーこーだで時空がうんたら、という極めて抽象的な説明はされますが、それ自体は「なぜゴジラなのか」という説明にはなっていません。

 

劇中の登場人物の反応から察するにゴジラという概念を理解しており、そしてその点においてのみ観客と同じ水準の理解力をもっていながら、しかし劇中ではそのゴジラ(雪のゴジラて・・・もっと呼称あったでしょ)について「ゴジラゴジラである」という徹頭徹尾「ゴジラ」という表象の持つ力に依拠しっぱなしで、ゴジラシンカリオン世界に顕現した理由について「だってゴジラだから」という以外の根拠を示してくれない。これ、本当にゴジラを何も知らない小さな子どもが観たらどう思うのだろうか。

コラボぐらいで何をいまさら。そんなもの巷間にありふれてるだろう、という声もありましょう。

 

しかしそのコラボというのは往々にしてグッズやゲーム内のアイテム(そもそもゲームというメディアは映画とは違う)であったり、そうでなかったとしても何か大きな共通認識によるものがあって、少なくともある世界観と異なる世界観の軋轢を薄めるために尽力するはずなのです。

 

たとえば昨今(といってもディケイド以降)の仮面ライダーシリーズにせよ、ディケイドですらリイマジという形でディケイド世界によって客体化されるライダー世界の再構築をしていますし(それでも破綻してると思いますけど)、そもそもそこには観客側と製作側の間に「仮面ライダーだから(それぞれのライダーの世界観が全く違っていても)セーフ」という大きな暗黙の了解となっている根拠(というか甘えでしかないと思うけど)があります。

 

MCUにしたって、あれはむしろ一つの大きな世界観の中にそれぞれのキャラクターが息づいているわけで、その意味において「この世界の(さらにそれぞれの)片隅に」に近いのではないかと私は踏んでいます。

というか、MCUはそもそも全員が同じ会社のキャラクターであり、それ以上にアメコミヒーローという今や巨大な共通認識によって支えられているので問題ないのです。あまり詳しくない人がもしバットマンとアイアンマンが同じ画面上に現出したとしても「アメコミヒーローだし」という認識のもとに違和感を覚えないことが容易に想像できましょう。もっとも、賢明な作り手は何かしらの根拠を提示するはずでしょうが。
それに、それはMCUそれそのものが作り上げてきたものであるので、これ以上の強い根拠はないでしょう。


んが、決定的に異なる世界観を持つフィクション同士が、映画というフィクションの中で違和感なく機能するための拠り所なしに、一つの映画作品内の整合性を完全に無視してその存在を無根拠にここまで大胆不敵に存在させている映画というのは寡聞にして私は知らない。

何故なら映画はゲームと違って物語を必要とする(と思われている)メディアであるからです。そこにゴジラという物語とエヴァンゲリオンという物語が同居するためのものが決定的に欠如している。

エヴァンゲリオンシンカリオン世界に完全に取り込まれているのでゴジラシンカリオンWithエヴァという二元論に落とし込むことは不可能ではないでしょうが、それでもシンカリオンに登場する碇シンジエヴァンゲリオン碇シンジとして観客に認識させようとしている以上は、そこにもノイズが発生する。

 

だって、もう一度書きますけど、ゴジラエヴァですよ奥さん?

この整合性や説明を抜きにするというのは、アニメの中でもさらに抽象度の高いホビーアニメというか児童向けアニメだからこそ許される暴力性のようでもある気がする。

それは子どもが「子どもである」というだけの(しかし確固たる)理由だけで暴力が正当化・・・とまではいかずとも許容されるのと同じ。まあ身もふたもない言い方をすれば幼稚でものを知らない(=それだけの能力がない)と見なされているから、とも言えるわけですが。

だって普通の映画でこんなふわふわした説明してたら小姑みたいな観客から突っ込みが入りますからね。

似たような暴力性でいえばセルアニメ時代のドラゴンボールの映画や仮面ライダーブラックRXなんかまさにその典型で、どれだけ敵に圧倒されてようとランニングタイムの終わりが迫れば「その時不思議なことが起こった!(CV正宗)」で逆転する。あ、あとセガール映画やシュワちゃんの80年代の映画もそうだろう。

そういう、ある種の大雑把さというのは80年代までは許された(というか歓迎されていた?)のだろうけれど、90年代あたりからそれが変わってきていた気がする。90年代のシュワちゃんは死ぬし「マギー」にみられるように老い・涙しさえする。

シュワちゃんで時代を分析するというのもあまりに馬鹿げてはいるけれども、変に納得できるところもありませんでしょうか。え、そんなことない?

 

なぜ80年代まで有効だった大雑把さが90年代以降は通用しなくなったのか。それは世紀末の空気とか、マッチョイムズへの反発とか、そういうもろもろを含めて中心に対する周縁の台頭(「サブ」カルチャーが取りざたされたのもちょうどこの時期のように思えるし、ゼロ年代に入ってからはさらに腐女子の存在感が強まる)とか、そういうもろもろによってリアリティが変容したのかもしれない。

 

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    /   ,i   ,二ニ⊃     |r┬-|
   /    ノ    il゙フ. |      `ー'´}:
      ,イ「ト、  ,!,! .  ヽ        }
     / iトヾヽ_/ィ"   ヽ      ノ

と。今まで気に留めなかったものにも気を配れ、イケイケどんどんじゃイケないのだと、バブル崩壊などによって気づかされたからかもしれない。

まあ、セガールはいまだに(といっても記憶にあるセガール映画はゼロ年代までですが)80年代をやり続けてますし、80年代のその暴力性が楽しいという側面は間違いなくあるということは否定できない。

 

そして、この「劇場版シンカリオン」もそう。いや、もしかすると自分が知らないだけで他のホビー/児童向けアニメも80年代が息づいているのかもしれない。

暴力的なまでの「中心」の力が。

では、観ている間どこか居心地の悪さを感じたこの映画の中で展開するその暴力に、その暴力性をかき消すだけの根拠を提示して太刀打ちできないのだろうか。

ことこの映画に限っていえば、一つだけある気がする。

そのためには、まず、なぜゴジラエヴァだったのかを考える必要がある。
エヴァはわかる。広義にはロボットアニメだし、コラボに尻軽だし「タカラトミーが」という観点からすればすでにトランスフォーマーエヴァンゲリオンのコラボを行っていたからそのツテというか連携のしやすさというのもあるだそうし、何より知名度がある。カラーとしても「シン・エヴァンゲリオン」までの繋ぎの話題を作れるし。
 
が、なぜそこに来てゴジラ

シン・ゴジラの時にカラーとTOHOが交わ利契約がまだ生きていて、タカラトミーがカラー(エヴァ)のついでにTOHO(ゴジラ)の権利を取得しやすかったという大人の事情レベルでの理由かもしれない。

だがそれ以外に、メタはメタでもシンカリオンゴジラエヴァンゲリオンの間に資本主義的・会社主義的なコンテンツとしてのコンテンツ以外の正当性を担保できる何かがあるのではないか。ていうかそうじゃないと責任の所在がシステムそのものに放擲されてしまうのでそれは避けたい。第一、それじゃありきたりすぎてつまらないし。

 
ではそれは何か。いや誰か。
無論、それらを繋ぐことができるミッシングリンク庵野秀明を置いて他にいない。

エヴァンゲリオンの原作者にして監督、シン・ゴジラの総監督にして無類の特撮オタであり、そしてまた鉄道オタでもある。新幹線と鉄道は別区分というかサブカテゴリ―的な違いもありそうですが、まあどうでもいい(爆)。

ここで重要なのはシンカリオンエヴァゴジラを結ぶことができるファクターであるということなので。

何が言いたいのかというと、この80年代的で・説明(細部・周縁・サブetc)を拒む暴力性が全面展開するこの「劇場版シンカリオン」にどうにかして現代的なアップデートを施すためには、劇中に庵野秀明を登場させるしかない、ということである。

逆に言えば、それだけで後は本編をそのままなぞるだけでいい。
 

冒頭から突如として登場するゴジラ。その有無を言わせぬ存在力でもって画面上に顕現した暴力の象徴との対敵によって、速杉親子は時空のねじれに遭遇する。

 その過程でエヴァの世界に飛んだハヤトが目覚めると、横のベッドには9歳の北斗----ではなく庵野秀明が寝ているのである。もちろんCVは釘宮理恵のままで。

そう、これだけでいいのです。ホクト少年をすべて庵野秀明に置き換えるだけですべてのつじつまが合うのです。

90年代後期からゼロ年代前半まで、日本のサブカルチャーシーンにおいて彼の与える影響は大きかった。ゴジラですらエヴァの方向に依っていた(機龍のアレ)くらいだ。

80年代的暴力性を引き連れ、宙ぶらりんにすることで90年代日本を牽引した庵野秀明自身が、この暴力的な「劇場版シンカリオン」の中心となることで自らが生み出した負の遺産(とか書くと怒られそうですが)の清算を行うのです。

 


まあね、こういう悪ふざけはともかく、映画としてのエヴァや映画としてのゴジラという枠を超えて、資本主義経済の枠踏みの中で消費者におもね、企業に利潤をもたらすコンテンツとしての猛威を振るうこの映画の行きつく先というのは、同じ劇場にかかっている別の映画を観ればわかると思うのですよ。

ゴジラはともかくエヴァにその「別の映画」のポテンシャルがあるかというとうーんとなりますが、そういうレベルの話ではなくて、映画存在としてあまりに逸脱して資本主義経済における利益産出の財としてのコンテンツの側面が肥大化してしまうと「別の映画」もといスターウォーズの現状のように自家中毒に陥ってしまうのではないか、と。

 

しかしスターウォーズの後にこの映画を観ることになるとはいやはや。

 
あとはまー親子あるいは祖父母と孫を意識した世代別のパロディが多かったですけど、ああいう古いネタを子どものキャラクターに言わせたりする(それでもって「よくそんな古いネタ知ってるな」という作り手の見え透いたセルフ突っ込み)のってなんかすごい歪な感じがして画面から眼をそむけたくなるんですけど、これって私だけなんですかね。

 

 ※念のため付記しますがこれらはすべて面白半分のこじつけな戯言なのであしからず(こんなこと書いてしまうとボケを説明するような寒々しさがあるのですが、ユニバーサルデザインということで一つ)。