dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

12月

「ハッド」

理想と道徳主義、享楽と現実主義の相克。

「いとこ同士」の蛇側を描きつつ、「大いなる西部」的でもあるというか。

いやぁ中々骨太な映画じゃないですか。

ま、やっぱ中庸ですな。

 

トレマーズ2」

1ほどではないにせよ登場人物の掛け合いの楽しさはあるし、結構よかったです。

派手さは減ったけどコメディ的なばかばかしさが増えたので、それを許容できるかどうかで評価が分かれそうではありますが。

 

「若い人」

ちょっと待って、吉永小百合ってこんなゲロマブ(死語)だったっけ?

キューポラのときはそこまで可愛いと思わなかったんだけど、この映画の吉永小百合は異様に可愛い…なんで?

押し入れに隠れて靴履いてるシーンの撮りかたとか、そもそもあのシーン自体が漫画的とも言えるあざときシーンゆえ。

あまつさえそのブカブカの靴を履いてボトボト数歩歩いてやんの!何これ萌える。

 

翻って、というか、石原裕次郎はいつ見てもイケメンには見えないんですよね。だからキャーキャー言われるのが(まあ過剰な演出を意図してるとはいえ)イマイチ腑に落ちないというか。好青年だとは思いますですが。

 

あとエロ戦車が登場してましたね。あれ何なんですか、昔はああいう道具が学校にあったのだろうか。

 

アパートの鍵貸します

面白いですけど、なんかソフトに倫理観がずれているのが絶妙に恐ろしいというかそれもまたおかしいというか。

上司に愛人との情事のために部屋を貸して昇進するわ、部屋を貸した主人公も主人公で人妻と一発やろうとするわ、まあ別にことさら球団するようなことではないにせよさも当然のようにそういう不正が行われているというのが。

 いや、それを最後に覆すという話ではあるんですけど。

 

「おかしなおかしな大追跡」

 これ今年のベスト級ですわ。映画で本気で笑えるのって結構少ないんですけど、これは本当に楽しい。

思うに、三谷幸喜が目指してたのってこれなんでしょうね、多分。あの人の場合は結局のところはテレビのコントでしかないわけですけど、「おかしなおかしな大追跡」はその原題「What's Up Doc ?」が指し示す通り(そしてこの映画のラストシーンが指し示すように)バックス・バニーそのものへのオマージュなわけで、まさにそのドタバタを実写に置き換えた作品であるわけで、あのアニメの過剰さを再現しようとするならあそこまでやらなければならないわけであって。

バーブラというのもなんか笑えるというか、正統派美女ではないもののキュートな感じが絶妙な塩梅。

アントマン&ワスプ」とか「ヴェノム」とか最近の(マーベル映画ばかりなのは私の無知ゆえ)映画でもたびたびロケ地にされるあの坂とか、ああいう場所があるというのも強みですよね~。

 

氷の微笑

今更通しで見る。

さすがバーホーベンというか。

マイケルダグラスは危険な〜の流れで観たせいかまた火遊びして死にかけてる…という笑いが。

それはともかく島本須美吹き替えのシャロンストーンが中々良い。

 

月に囚われた男

宇宙船内部のデザインが妙にクラシックというか過去が夢見た未来的デザインでおセンチになる。

しかし月から落ちてきた男の息子が月を舞台にした映画を撮るというのがいかにも過ぎて。確かにアメリカさん的には低予算だしあの予算でここまでの仕事ができるというのは驚くべきことではありますが、しかし500万ドルが低予算扱いになりインディー映画扱いとなるというあたりが邦画がいかに金のないところでやりくりしているのかというのがわかってしまって辛い。

 

面白いのがクローンであるということに対しての葛藤が非常に弱いこと。

アイデンティティの問題よりも強い孤独が2人(一人ですけど)の間に葛藤や軋轢よりも傷を舐め合うことを優先させている。いや、というよりも、のちの展開を見るに最初から予感としてサムの中にあったのかもしれない。

それが顕著なのは事故ったサムの体調の悪化に関して異様なほど二人が言及しないこと。どう見たっておかしいのに、意地でも(そう、自然に振舞っているからこそかえって不自然に見える)触れないのは、直感的に分かっているからだ。

劇中で(まあテレビで見たのでカットされているのかもしれませんが)3年の労働期間について明確に言及されることはないけれど、あれはどう考えたってクローンの寿命であり、期間終了が迫ったことで事故ったサムの身体が崩壊を始めたことが読み取れる。それを観客は察し、そしてもちろんサムたちも明言はしないけれど気づいているはずなのです。

だから、意地でも二人が体調に触れない。

しょーもない現実逃避ではある。気がついたら歯に穴があいていて虫歯と分かっていながら歯医者に行かないガキと同程度の自己欺瞞でしかない。が、それは途方もない切実さを帯びている。

観客は明らかに欺瞞だと気づいているし、それはすなわち当人たちが誰よりも自己欺瞞でしかないことを分かっているということに他ならないのだから。

分かっていながらもどうすることもできない。

美術は80年代だけど、もっとこうポストインダストリーというか「ガタカ」的な命題というか。

ずっと同じ調子のBGMが流れていたと思えばクローンの眠る部屋のシーンでバックに流れる音楽がオルゴールの子守唄じみているのとか嫌な感じがしていいですね。

んで最後の方にちょっと転調するのとかも。

 

最後の最後に至ってなお部屋の向こう側で背景と化した有象無象の他者しか存在しない「HELLO WORLD」に足りなかった第三者を、この映画は第三者の不在を描くことで逆説的に描けているというのも面白い。

 

ラストのあの音声はまあ、ちょっと蛇足だと思いますけど。

にしてもサム・ロックウェル、この後に「アイアンマン2」て差がすごい。「ギャラクシークエスト」あたりから知った口でライトな空気を纏いやすい(ヒューグラント的な)俳優かと思えばこういうのや「スリービルボード」のあの警官役だったりで幅広いですな。

 

「助太刀屋 助六

真田広之ってこんなにコミカルな動きもできたのだなぁ、と改めてこの人の体技に脱帽。しかも仲代達也までいる。この人だけなんかこの作品の色から外れてヤバい眼力を備えているのですが。出る作品間違えてはいませぬか。

 

 

フレンチ・コネクションフレンチ・コネクション2

かなり久しぶりに見返して改めて感じたことがあったので。

連続で観たのが今回初めてだったんですけど、フレンチ・コネクションはともかく2はなんかがここまで観てられないものだったかと訝しんでしまうくらい見てられない。

びっくりするほどジミーがださい。1であれだけの狂犬ぶりを見せていたのがウソのようにダサい。

撮影も人が変わってなんかのっぺりした感じになってるし、BGMもちょっとダサいし。

一応ラストでケリはつけるんですけども、それまでジミーのあのぐだぐだぐでんぐでんぷりはかなり賛否両論な気が。

 

「史上最大のショウ」

 サーカスをそのまま観たくなるというジレンマ。

 

「愛と死の記録」

俯瞰のショットがかなり多いんですけど、あの結末を見るとかなりブラックに感じる。

曰く、本当の愛情は肉体や物質の上限を超えているものじゃないか。愛のためには人は自殺さえ。 なるほど。しかし担架に乗せるときに両腕を結ぶのはなぜ。

 

「ハートビート」

カマし合い映画。何でもかんでもカマしまくる。

これ今年観た映画の中でワン・オブ・ザ・ベストムービー。

安っぽ〜い取ってつけたような恋愛描写が邪魔していたりコマーシャル観てるような演出だったりマイケル・ベイもあわやといったいまやアベンジャーズの代名詞的に使われるぐるぐるカメラを2人でこなす(マイベスト共感性羞恥である鬼武者2のギャラクシーキッス並みに恥ずかしい)とか、観ていて辛いところは結構あるんですがそれを補って余りある音楽と舞踏のアンサンブルがある。

特にパーティでのバイオリン対決。ラストの発表会も上がる部分はあるんですが、明確に両者が対峙する戦いであるにもかかわらず、お互いの攻撃としての音が奏で合い相乗効果を生み出し個と個の戦いという矮小なものを超越したハーモニーが立ち現れてくるところが最高。というかここがこの映画のすべてと言っていいんじゃないかと思う。

いや、音楽も全体的に良くてサントラを即そぉい!するくらいには好きなんですけど(と思って検索かけたらCDねーでやんの!)、上にあげたシーン以外での音楽の使い方がくどかったりうるんですよね。ただでさえくどいシーンにボーカル曲入れるのとかはさすがにどうなの。

キャラクター周りに関してはクリシェとかそういうレベルではない雑さというか帰って邪魔にしかならないような描き方だったり、まるでそれを象徴するかのように蹴飛ばすために置かれたようなゴミ箱の配置だったり、カット割りすぎてもったいない気がしたりするし(いやもちろんダンスはすごいなぁと思うんだけれども)、いまいち人間に魅力を感じないんだけど、映画は物語をつづるものでも人間を描くものでもないと思いうので無問題。

ともかく超越的なものを観れて満足でござんす。

 

続編はどうなるかわかりませんけどやるなら観ますよ。

 

 

ザ・プレデター

ラストは完全に蛇足だと思いますけどそれ以外は最高。

一番楽しいプレデターなんじゃないかしらこれ。変なところで妙なリアリティを盛り込んでくるバランスの危うさなんかもそれはそれで笑えるしOK。

 

「処刑ライダー」

都市伝説にありそう。

殺伐としすぎていて田舎怖い。

しかしポリスメンも言ってましたが、なうなヤングの倫理観はわからんね。

しかしバンブルビーの裏側ではこんなのが跋扈してたというのだから、やっぱりあれは理想化された一種の懐古主義であることは間違いないのではないかと思いますの。

池田秀一は声合ってなさすぎですが、茶風林がやたら迫真の演技で笑う。

 

「ハッピー・デス・デイ」

ループものとしては割と異色なスタイルというか、あまり重々しくならなずに最後まで駆け抜けるのは好感触。

ループの中で今までの自分の売女っぷりを振り返り真面目に生きようと襟を正す、それ自体が実はループから脱却(まあシステムとしては死なずに翌日に至ればいいというだけですが)の糸口になっているというのは上手いつくり。

ビッチのどこがいかんのか、という異議申し立ても可能ですが彼女の家庭環境を鑑みるにあれは自分が望んでやっているというよりはもっと根深いところに原因がある感じでしたし、ビッチ脱却は少なくともこの映画にとっては必要なものなのでせう。

そもそもあれでいいと本人が思っていたのであれば自省することなく延々とループに囚われ残機使い果たしてあぼーんだったでしょうし。メタレベルの話はさておくとして、少なくとも映画内構造としては十全なロジックがある。

いやまあ、わざわざあんな面倒なことしなくてももっと楽に殺す方法あっただろうとか、自分がやったとばれないようにしたいにしては毒を盛るなんてばれやすそうなことしてたりというのはあるんですが。

 

どうして不倫相手の教授が物理学なのか、と若干ひっかかってはいたのですがこの映画続編があってループの原因についての話ということらしいので何となく納得。

なんかループものというとやたら湿っぽくなりがちな中で、カラッと天日干しにしたような明るさを纏いつつも日常の大切さ、みたいな話を語ってくれるし良い感じ。

同年公開の「ホームカミング」のトレイラーでも使われていたDemi lavotoのConfidentが使われてましたな。

この陽気なレリゴー以後の歌を流しても失敗に終わる、というのがまたいい具合にアイロニカルで好ましいというか。

これ続編も観なきゃですな。

 

「十二人の死にたい子どもたち」

例のごとく原作は未読。

テーマ的にはかなり食指をそそられるものではあるのですが、映画としてはというと・・・ちょっと堤さん、役者におんぶにだっこすぎやしませんか。

いくらなんでも画作りが単調すぎますよ。その役者にしたって演技のトーンが統一されてないし。死にたがりの12人を集めて、その中で個々に違うということを印象付けるという意味で類友でありながら千差万別を描かなきゃならないという意味で、ある程度のカリカチュアを要するというのはわかるんですけどね。

たとえば杉咲さんなんかはキャラクターを考慮しても演技過剰に見える。あと肝心なセリフを噛んでるところとかもあったので(よりによってシリアスな雰囲気のところで)、これは役者というよりもそれを統御する監督が悪いよ監督がー。脚本段階のものをそのままセリフに持ってきているようなのもちらほら見えたりするあたり、もうちょっとブラッシュアップできただろう、と。

役者に関しては他にも言いたいことがある。

橋本環奈をあの役にキャスティングしてどや顔してる制作人には悪いですが、あの人にはそういうものを背負えるほどの知性や暗黒面は感じないです。

それこそAKB系列の平手とかいう人を使った方が良かったんじゃないかと思う。あの人のこともそんなに良く知っているわけじゃないですけど、同じアイドルにしても少なくとも別の人の方が良かったと思う。

そういうチョイスもなんか広告屋さん的なんですよねぇ。

あでも高杉くんとまっけんゆーは単体で見ればよかった。拓海くんも抑えた感じでグッド。あとファザコンポンコツ娘の黒島さんもキャラとの相性が良くてすごい楽しかった。

いやね、全体的に設定に対してクリシェな見た目なの気もしなくもないですが、同世代の役者をあれだけ配置しなきゃいけないわけだし分かりやすくするためにも必要だとは思うのでそこまで文句を言うわけではありませんけど、もうちょっとこう、杉咲さんあたりはもうちょっとこう。

 

 

あとまあ、これは自分がそもそもサスペンスとかミステリーに対して抱く根本的な欺瞞性みたいなものへの拒否反応というものが多分にあるということを自覚したうえで、しかし謎解きがそもそも必要ではないというのが。

あの謎解きを通して12人の結束が固まったという風には見えませぬし。いや、観客はそれぞれのナラティブを見せられているのである程度の共感はできるんですけど、劇中の彼らは果たしてそうだったのか、と。

で、一応ネットでちょっとさらった感じ、原作だとセイゴがそれぞれの死にたい理由を聞いていくという展開らしいのですね。まあこれが誰にどの程度なのかわからないので何とも言えませんが、そっちの方が彼らの間である種の絆を作ることができたのだと思うのです。

んが、もちろんそれを映画で表現するとなるとずっと話っぱなしということになるわけで、すでに出来上がった映画の時点でお話に演出が負けているわけで、そんなこと堤さんができるはずもないんですよ。

そう考えると、あの改変というのは苦肉の策でもあったのだろうな、と。(まあおもそもできないならやるでない、というのは無きにしも非ずなのですが、どうせできないと思うならそれこそ中島哲也ぐらいはっちゃけて実験してくれた方ががが)

 

ただ死にたがりを集めるというのは興味深くある。ただこれは「ウィーアーリトルゾンビーズ」とも同じで見え透いた「生」のジャンプ台として「死」が用意されている時点で萎える。

12人の死ぬ理由を提示した、という点は「死の多様性」に少なからず重みを見出しているはずなのでそこは評価したいのですが、それでもやっぱり12人とは絶対的に異なる他者が介在しない時点で振りでしかなく、結局のところエヴァのまごころに未だ引きずられている気がする。まあ冲方さん世代的にエヴァ直撃だろうしなぁ・・・。

劇中で言われているような「死にたいやつじゃなくて殺したいやつ」がミスリードではなく本当に彼らのグループの中に存在していたのならば、あのナラティブが振りでも単なる傷のなめ合いでも終わらないものになったはずなんだけどなぁ。

 

 

しかしどう見ればいいんですかね。

ヘルペスのくだりとかを見るに、「人間失格(原作)」を読むときのような気持ちで観てほしいのだろうか、とも思うのだけれど、それよりも自分で醸成した空気に耐えきれずに「やってしまった」発作的な茶化しのようにも見えるんですよね。まっけんゆーの対応をどう取るか、にもよると思いますが。

いや、相対化させたいという狙い自体はわかるし、まあ自分もああいう感じのことをとある授業で書いたことがあるわけですけど、その時の教授の対応たるや惨憺さるものでございました。

結局のところ、井の中の蛙でしかないということに思い至らない程度の無知の知すら持たない程度の知性の「考えた」とまっけんゆーの「考えた」を等価にするのは無理でしょう。

あれの立場が逆ならまだ語る余地もあったでしょうけれど。(だからあんなカリカチュアすると余計に馬鹿っぷりに拍車がかかってしまうだろうとry)

 

 

これ映画じゃなくて30分ドラマで1クールにして一人につき1話でナラティブを披露していく方がいい気がする。少なくともこの退屈な演出でいくのなら。

それかアニメーション。少なくともここまで役者に依拠させるようなものにはならないはずだし。

 

あとラストもちょっとこう。山田悠介じゃないんだから。

 

しかし、などと書いておきながら尊厳死を巡る各国の動向などを鑑みるに作り手がここまで生に固執する理由が見えなくもないのである。

たしかに、生きることは永続への隷属であると言えるだろうし、死ぬことはそこからの脱却として瞬間の救済だと解釈できなくもない。

んが、やはり、だからこそヘルペスのようなみせかけの、うちに向かうばかりの考えをまっけんゆーのソレと並列して同一視してしまうことは危険なのだと言わざるをえない。

だって相対化できてないし。

こんな理由で死ぬ人たちがいる。オーケー、よしんばその人たちが自分なりに考えたのだとしよう。

しかし。

紋切り型になってはしまうかもしれませんが、本来ならば身体的には健康である彼らが(自分なりに)考えて選んだという死と終末期にある患者の苦しみの末に見出した徹底的な生の残滓としての自死を等価に語れるのだろうか?

前者の棄却した生こそ後者の望んだものであるならば、そこに「同じ」眼差しを向けることは不誠実でしかない。

これが複雑問題なのは社会と密接に結びついているからだ。たとえば、事故で全身麻痺になった人が安楽死をしたとして、それがメディアによって流布され(それは時に感動ポルノと呼ばれうるだろう)、共感的な意見空間が醸成されるとき、生まれたときか全身麻痺の人はどう思うだろうか?自分他者にとっては自死せねばならぬほどの生命しか持ち合わせていないのだろうか、と猜疑心に苛まれはしないだろうか?

まして情報が一足飛びで伝わる現状にあっては、その伝達速度や増幅量は計り知れない。

貴方は貴方以外の誰かによって生かされている。それはつまり、貴方以外の誰かは貴方によって生かされていることでもある。

「よく考えた」という貴方の死は、本当にそこまで考えただろうか?

そも多様性を謳いながら価値(観)を横並びにしようなんて矛盾してないだろうか。

つまりこの映画、思い切り自家撞着しているのだ。

 

 

 

とはいえ、私のこの感情はメディアによってもたらされる疼痛に苦しむ人々のイメージを植え込まれる反面、前者のような人をメディアではあまり見かけないがゆえに偏りが生じているのかもしれない、

だから一概には言えないけれど、少なくとも個人の死ぬ権利を認めることと、それを括ってしまうことは早計に過ぎるとは言えるだろう。

 

しかし優しさによって死ぬって「ハーモニー」の世界まんまになりつつあるなぁ。